台南空時代の大野竹好中尉 ― 2010年04月29日 15時51分19秒
どうやら、坂井さんによって、鴛渕さんの記憶と散り違えられたっぽい大野竹好中尉。
金沢出身の海兵68期出身。
笹井中尉の戦死が自分に責任のあるような発言をしたかもしれない大野中尉ですが、大野中尉にはまったく責任のないことであります。
事実、大野中尉は笹井中尉の戦死された攻撃には出撃されていないし、それ以前も、笹井中尉にかかる負担軽減につとめ、自らも連日の出撃を繰り返しています。
台南空時代は21歳の初々しい若葉マーク搭乗員ですが、仕事ぶりはベテランをもしのぐハードさです。
ちょっと見てみましょう。
すべて昭和17年。
(「空戦」は、隊として空戦しているけれど、大野さんが空戦したかどうかは不明。機銃弾使用などから空戦している可能性大。黒太字は大野さん自身の戦果・被害。指は大野さんが指揮官)
7月29日 ラバウル基地上空哨戒
7月30日 ラバウル基地上空哨戒
7月31日 ラバウル基地上空哨戒
8月 1日 ラバウル基地上空哨戒
8月 2日 ラバウル基地上空哨戒
8月 3日 ラバウル基地上空哨戒
8月 4日 ラバウル基地上空哨戒
8月 6日 ラバウル基地上空哨戒
8月 7日 進撃・追撃・交戦 零戦11機でB17撃墜
8月 8日 ラバウル基地上空哨戒
8月11日 ラビ飛行場攻撃 陸攻隊直掩
8月12日 進撃哨戒
船団上空哨戒
8月14日 船団上空哨戒 B17×1交戦、協同撃墜 大野機、右翼大破
8月18日 船団上空哨戒
8月22日 船団上空哨戒
8月23日 ラビ攻撃 P40×1交戦、撃墜に至らず
8月24日 ラビ攻撃 B17×1、ロッキード1、地上銃撃により撃破
8月25日 船団上空哨戒 指
8月27日 ブナ基地上空哨戒 指 P39×1撃墜 被弾大破
9月 2日 ラビ攻撃
9月 3日 船団上空哨戒
9月 4日 船団上空哨戒
9月 5日 ガダルカナル攻撃陸攻隊掩護 空戦
9月 7日 モレスビー攻撃
9月10日 ガダルカナル攻撃陸攻隊掩護 空戦
9月13日 ガダルカナル攻撃陸攻隊掩護 空戦
9月21日 船団哨戒 指
9月27日 ラバウル基地上空哨戒
9月28日 ガダルカナル攻撃陸攻隊掩護 空戦
10月 1日 グットイナフ島偵察陸攻隊掩護 指
10月 2日 ガダルカナル攻撃陸攻隊掩護 グラマン×1撃墜
10月 4日 船団上空哨戒 指
10月 5日 船団上空哨戒 指 B25×3、P39×4と交戦B25×1協同撃墜 被弾
10月 8日 船団上空哨戒 空戦、1機撃墜
10月11日 ガダルカナル攻撃 空戦
10月14日 ガダルカナル攻撃陸攻隊掩護 空戦
10月15日 ガダルカナル揚陸船団上空哨戒 指 グラマン×1撃墜、P39×1不確実
10月18日 ガダルカナル攻撃陸攻隊掩護 指 引き返す
10月20日 ラバウル基地上空哨戒
10月21日 ガダルカナル攻撃陸攻隊掩護 空戦
10月23日 ガダルカナル攻撃陸攻隊掩護
10月25日 ガダルカナル上空制圧 空戦 グラマン×1撃墜、被弾1
この中で(ママ的に)特記すべきは・・・・。
まず7月29日の台南空での初ミッション・基地上空哨戒。一緒に哨戒に上がったのは明慶幡五郎2飛です。
8月7日がどうやら「初空戦」のような。
こちらから出向いての「出撃」ということでは8月11日が最初でしょうか。
8月14日は初被弾、しかも右翼大破(゜_゜) ご無事で何より・・・・。
敵機に対して明らかな打撃を与えているのは8月24日の地上銃撃が最初でしょうか。
8月25日は、初めて指揮官欄に「大野竹好中尉」と書かれています。今後、さらにハードな任務に・・・・。
8月27日。『日本海軍戦闘機隊』のエース列伝・大野中尉の欄に「初陣」と書かれているのはこの時のことだと思われます。
2番機松田武雄兵曹、3番機上原定夫兵曹と3機で哨戒中に、B26×7、P39×十数機を発見。敵の大群に零戦3機で果敢に挑んでいき、大野中尉は被弾大破しながらもP39を1機撃墜。
それから9月7日のモレスビー攻撃。
この日の写真が残っています。
『日本海軍戦闘機隊』の台南空の項に「17年8月、出撃を前にした搭乗員」ということで紹介されている搭乗員整列写真はメンバーの顔ぶれから、たぶん9月7日のこのモレスビー攻撃時だと思います。
金沢出身の海兵68期出身。
笹井中尉の戦死が自分に責任のあるような発言をしたかもしれない大野中尉ですが、大野中尉にはまったく責任のないことであります。
事実、大野中尉は笹井中尉の戦死された攻撃には出撃されていないし、それ以前も、笹井中尉にかかる負担軽減につとめ、自らも連日の出撃を繰り返しています。
台南空時代は21歳の初々しい若葉マーク搭乗員ですが、仕事ぶりはベテランをもしのぐハードさです。
ちょっと見てみましょう。
すべて昭和17年。
(「空戦」は、隊として空戦しているけれど、大野さんが空戦したかどうかは不明。機銃弾使用などから空戦している可能性大。黒太字は大野さん自身の戦果・被害。指は大野さんが指揮官)
7月29日 ラバウル基地上空哨戒
7月30日 ラバウル基地上空哨戒
7月31日 ラバウル基地上空哨戒
8月 1日 ラバウル基地上空哨戒
8月 2日 ラバウル基地上空哨戒
8月 3日 ラバウル基地上空哨戒
8月 4日 ラバウル基地上空哨戒
8月 6日 ラバウル基地上空哨戒
8月 7日 進撃・追撃・交戦 零戦11機でB17撃墜
8月 8日 ラバウル基地上空哨戒
8月11日 ラビ飛行場攻撃 陸攻隊直掩
8月12日 進撃哨戒
船団上空哨戒
8月14日 船団上空哨戒 B17×1交戦、協同撃墜 大野機、右翼大破
8月18日 船団上空哨戒
8月22日 船団上空哨戒
8月23日 ラビ攻撃 P40×1交戦、撃墜に至らず
8月24日 ラビ攻撃 B17×1、ロッキード1、地上銃撃により撃破
8月25日 船団上空哨戒 指
8月27日 ブナ基地上空哨戒 指 P39×1撃墜 被弾大破
9月 2日 ラビ攻撃
9月 3日 船団上空哨戒
9月 4日 船団上空哨戒
9月 5日 ガダルカナル攻撃陸攻隊掩護 空戦
9月 7日 モレスビー攻撃
9月10日 ガダルカナル攻撃陸攻隊掩護 空戦
9月13日 ガダルカナル攻撃陸攻隊掩護 空戦
9月21日 船団哨戒 指
9月27日 ラバウル基地上空哨戒
9月28日 ガダルカナル攻撃陸攻隊掩護 空戦
10月 1日 グットイナフ島偵察陸攻隊掩護 指
10月 2日 ガダルカナル攻撃陸攻隊掩護 グラマン×1撃墜
10月 4日 船団上空哨戒 指
10月 5日 船団上空哨戒 指 B25×3、P39×4と交戦B25×1協同撃墜 被弾
10月 8日 船団上空哨戒 空戦、1機撃墜
10月11日 ガダルカナル攻撃 空戦
10月14日 ガダルカナル攻撃陸攻隊掩護 空戦
10月15日 ガダルカナル揚陸船団上空哨戒 指 グラマン×1撃墜、P39×1不確実
10月18日 ガダルカナル攻撃陸攻隊掩護 指 引き返す
10月20日 ラバウル基地上空哨戒
10月21日 ガダルカナル攻撃陸攻隊掩護 空戦
10月23日 ガダルカナル攻撃陸攻隊掩護
10月25日 ガダルカナル上空制圧 空戦 グラマン×1撃墜、被弾1
この中で(ママ的に)特記すべきは・・・・。
まず7月29日の台南空での初ミッション・基地上空哨戒。一緒に哨戒に上がったのは明慶幡五郎2飛です。
8月7日がどうやら「初空戦」のような。
こちらから出向いての「出撃」ということでは8月11日が最初でしょうか。
8月14日は初被弾、しかも右翼大破(゜_゜) ご無事で何より・・・・。
敵機に対して明らかな打撃を与えているのは8月24日の地上銃撃が最初でしょうか。
8月25日は、初めて指揮官欄に「大野竹好中尉」と書かれています。今後、さらにハードな任務に・・・・。
8月27日。『日本海軍戦闘機隊』のエース列伝・大野中尉の欄に「初陣」と書かれているのはこの時のことだと思われます。
2番機松田武雄兵曹、3番機上原定夫兵曹と3機で哨戒中に、B26×7、P39×十数機を発見。敵の大群に零戦3機で果敢に挑んでいき、大野中尉は被弾大破しながらもP39を1機撃墜。
それから9月7日のモレスビー攻撃。
この日の写真が残っています。
『日本海軍戦闘機隊』の台南空の項に「17年8月、出撃を前にした搭乗員」ということで紹介されている搭乗員整列写真はメンバーの顔ぶれから、たぶん9月7日のこのモレスビー攻撃時だと思います。
大野中尉、最前列でばっちし顔も写っています(最前列以外の氏名は編制表から推定、階級略)。
10月21日のガダルカナルへの陸攻隊掩護任務。
この時の中尉の2番機は太田敏夫1飛曹。・・・・行方不明・・・・です。
以上の大野中尉の戦いっぷりを見ると、指揮官は安全なところで全体把握に努め・・・・というタイプではなく、まさに「指揮官先頭」、隊員の先頭に立って戦うタイプの人だったことがわかります。
笹井中尉と大野中尉は指揮官としてタイプが似ているかも!?ですね。
坂井さんが空戦指導した人は、偶然かどうか、笹井中尉にしろ、大野中尉にしろ、このタイプが多いのでしょうか。
大野中尉が鴛渕さんの横空発令と同じ6月30日で台南空だとすると、その時点で士官搭乗員は(助っ人?含む)、
中島正少佐
河合四郎大尉
山下丈二大尉
笹井醇一中尉
栗原克美中尉
(林谷忠中尉)
大野竹好中尉
結城国輔中尉
村田功中尉
がいたわけですが、栗原中尉(7月20日)、林谷中尉(8月8日)、村田中尉(8月13日)、笹井中尉(8月26日)、結城中尉(8月26日)、山下大尉(8月27日)・・・・と戦死されてしまい、これ以降、河合大尉と、飛行学生を終えて2ヶ月しか経っていない大野中尉に過重な負担がのしかかっていった様子がうかがえます
(飛行隊長の中島少佐はかれらに比べると出撃回数は少ないです。あとから合流した稲野菊一大尉は、8月8日から9月21日までお名前があるもののそれ以降、不明・・・・)
10月21日のガダルカナルへの陸攻隊掩護任務。
この時の中尉の2番機は太田敏夫1飛曹。・・・・行方不明・・・・です。
以上の大野中尉の戦いっぷりを見ると、指揮官は安全なところで全体把握に努め・・・・というタイプではなく、まさに「指揮官先頭」、隊員の先頭に立って戦うタイプの人だったことがわかります。
笹井中尉と大野中尉は指揮官としてタイプが似ているかも!?ですね。
坂井さんが空戦指導した人は、偶然かどうか、笹井中尉にしろ、大野中尉にしろ、このタイプが多いのでしょうか。
大野中尉が鴛渕さんの横空発令と同じ6月30日で台南空だとすると、その時点で士官搭乗員は(助っ人?含む)、
中島正少佐
河合四郎大尉
山下丈二大尉
笹井醇一中尉
栗原克美中尉
(林谷忠中尉)
大野竹好中尉
結城国輔中尉
村田功中尉
がいたわけですが、栗原中尉(7月20日)、林谷中尉(8月8日)、村田中尉(8月13日)、笹井中尉(8月26日)、結城中尉(8月26日)、山下大尉(8月27日)・・・・と戦死されてしまい、これ以降、河合大尉と、飛行学生を終えて2ヶ月しか経っていない大野中尉に過重な負担がのしかかっていった様子がうかがえます
(飛行隊長の中島少佐はかれらに比べると出撃回数は少ないです。あとから合流した稲野菊一大尉は、8月8日から9月21日までお名前があるもののそれ以降、不明・・・・)
この過酷なラバウルの戦場を生き抜き、内地に戻ってきて豊橋で坂井さんと再会・・・・
そして、
「わたしの至らぬことで笹井中尉を・・・・」
と詫びたものと思われます。
大野中尉は何にも至らないことはありませんっ!!
十分すぎる以上に働かれたと思います!
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