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582空戦闘機隊搭乗員たち2019年11月07日 12時50分24秒

ホリブンの582空時代の写真です!




丙3期・大澤芳夫さんのご家族が所有されているアルバムの中にありました。
大澤さんは18年7月11日、ムンダ攻撃の際ベララベラ島に不時着・行方不明になるも捕虜生還されています。



写っている人や場所・時期に関して、何も注記はありませんでした。
タイトルに「582空戦闘機搭乗員たち」と書いていますが、これはわたしが勝手につけたタイトルです。
じつはおひとりわからない人がいるんですよね。そのおひとりを除いて他の人たちの共通点が「582空戦闘機隊」。わからないおひとりもおそらく582空戦闘機隊の人なんじゃないかな。
もし、この人が誰かわかったとき、他隊の人だったり艦爆隊の人だったりしたらスイマセン。先に謝っておきます。



前列左から
山本留蔵さん(丙2)
だと思うんです。斜めで、笑顔なので「間違いない」と断言まではしません。

19年6月24日  203空  占守島  哨戒中事故



長野喜一さん(操56)
これもわたしの苦手な分野(笑顔)なのですが、んー、でも、長野さんですよね。

ちなみに↓これは松本勝正さん(9期 左)の遺品の中にあった長野さんとのツーショット。
19年初め頃じゃないかと思っています。

19年11月6日  203空戦闘304  比島




明慶幡五郎さん(丙3)
これは目をつぶっちゃっているけど明慶さんでしょう。

19年7月4日  横須賀空  硫黄島




森岡辰男さん(乙10)
森岡さんの写真もずいぶん見たので間違いないと思います。

18年2月1日  582空  イサベル島沖海戦




後列一番左の人は一部(顔半分ぐらい)しか写っておらずわたしの能力では判別不能です。




平林真一さん(丙3)
台南空時代から見ているのでお顔はわかっているつもりです。平林さんだと思います。

戦後生存



福森大三さん(乙10)
福森さんもわたしにとっては台南空から、いや、予科練からなじみの方なので間違いないと。

18年6月16日  582空  ルンガ沖航空戦




大澤芳夫さん(丙3)
今回、ご本人の写真を何枚も見たので間違いないかな、と。

捕虜生還




後列中央の人、この方どなたですかね?
この人がわからないんです。
コスプレでなければ下士官です。
写真に時期は書かれていなかったですが、ホリブンが写っていることから17年11月~18年1月初に限定されます。その時期に「下士官」であること、さらに下士官でお顔がわかっている人(八並信孝さんとか楢原憲政さんとか)を外すとけっこう限られるんですが・・・・。決め手がない状態です。




堀光雄さん(乙10)
この写真、現物はとても小さいんです。肉眼で見てもだれが写っているかわかりません(老眼のせいもある)。
スキャンして拡大してホリブンを見つけたときの驚き! 
初めて見る写真だったのでうれしかったですよー。しかも笑顔だし。

戦後生存




本田秀正さん(丙3)
だと思うんですよね。台南空、251空の集合写真にも写っています。無帽なので印象がちょっと違うんですが。

18年4月7日  582空  ガダルカナル




伊藤重彦さん(丙3)
伊藤さんも台南空、251空集合写真に写っています。

18年6月5日  582空  ブイン




こうしてみると乙10が3人、丙3が5人で、そこに操練56の長野さんと丙2の山本さんが混じっているという感じです。
一人前の搭乗員になったのは長野さんが16年7月、山本さんが16年11月。乙10(飛練16期)と丙3(ここに写っているの人たちは飛練17期)が17年3月。そんな感じのグループです。
階級で言うと、飛長、二飛曹、ぐらいです。

後列真ん中の人は誰かな~?

気やすい感じですよね。ホリブンたちと同じぐらいの海軍歴・搭乗歴の人かな?
肩を組んでいるので、先任者だったとしても”雲の上”の先任者ではなく、”ちょっと先輩”程度の先任者かな?と想像しています。






と、10月の下旬に書いて管理画面に置いていました、この記事。

先日も書いたように、古墳バスツアーに向かっている電車の中でメールの着信に気づき、開いてみたところ、この写真に写っている丙3期の本田秀正さんのご遺族の方からでした。
驚いたのなんのって!

いままで集合写真ばかりで本田さんの鮮明な写真をみたことがなかったのですが、今回、本田さんがお一人で写っている鮮明な写真を送っていただきました。

わたしの方もパソコンの中を探したら、他にも本田さんが写っている写真がありました。
また今度ご紹介できたらと思います。

しかし、本当に不思議なものです。
わたしの知人の戦闘機搭乗員のご遺族の方が地域的なつながりで大澤さんのご家族とご縁があり、さらに大澤さんのアルバムを見せてもらった数日後に大澤さんの同期生で同隊の戦友である本田さんのご遺族の方から連絡が来るとか・・・・。



※画像は大澤さんご家族ご提供

今日の雲2019年11月07日 21時59分49秒

パパがヘンな雲が出ている、って写メを送ってきました。



毛布みたい(^^;)





バスツアー【2日目】12019年11月08日 10時03分46秒

いよいよ雪野山に登ります!


その前に腹ごしらえだ(笑)
ホテルのレストランで和洋バイキング。
朝から食べ過ぎました。



1日目はライオンズのキャラクターが描かれたバスだったのですが、2日目はこんなバスにチェンジしていました。運転手さんも交代。
添乗員さんと埋文センターのおふたりは2日目も同じ人が同行してくださいました。
席替えもありました。1日目は前方の一人席でのんびりしていたのに、2日目は後方の二人席(窓側)になってしまいました。
隣の人も「デブの隣はイヤだ」と思ったのか、自主的に空いている席を見つけて席を移っていかれました(笑)
なので、結局一人(^^;)


出発前に地元のお茶ペットボトルをいただきました。







さあ、着きましたぞ、雪野山の麓駐車場(わたしの背後)。
ここにトイレがありました。
遊歩道並びに山頂にはトイレがないということで、ここで済ませておくようにと。
登って下りてくるだけだけなら1時間ぐらいでしょうか。


登山道?の入り口には柵&扉がありました。
別にカギはかかっていません。


雪野山の麓にも古墳(群)がありまして。八幡社古墳群。


山に登る前にまずここを見学。
みなさん、熱心に見てまわっておられます(他人事)。


横穴式石室がいくつかありました。入れます。


この麓の古墳群、動物が徘徊しているみたいで。

イノシシが土を掘り返しているらしいです。

こわ!こわ!こわっ!(゚Д゚;)

駐車場と古墳の間に柵と扉があったのは、↑これのせいみたいです。
イノシシが集落に出てこないように、ですかね。



古墳群のすぐ横に神社があります。八幡神社。
さすがに今回は勝手行動は慎まねば、と思って、これ以上は離れませんでした。
イノシシもいるしね(^^;)
ちょっと行ってみたかったんですけど・・・・またの機会にします。



さあ、いよいよ山に登ります。

石段です!( ;∀;)


石段です!


石段です!

このブログ、一日100枚まで画像使えますからね(笑)


下を振り返ってみました。
しんがりかよっ!( ;∀;)

いやーなんかね、前日も天気が良かったのに山からの湧き水が石段を流れているんですよ。
んで、苔むしています。
ということは、つまり、「滑る」ということです。

登りでさっそく(わたしより)お姉さんが一人、この石段で転びました。



登っていくと、門みたいな石が石段の両側に立っていました。


この少し上に、もともとの八幡神社があったみたいです。



この石垣のところがもとの八幡神社みたいです。

石段の方にまで木の根が張り出しています。自然の力VS人工物という感じです。


ここが平坦になっていたので、しばし休憩。
石段はここまでで、ここから先は「遊歩道」という名のブロックの階段。


高さも幅も一定ではないのでけっこう登りにくいです。


少し上がったら休憩所がありました。

景色が楽しめます。
あ、階段はまだ上へ続きます(笑)





休憩所の少し上にでっかい鉄塔が立っています。


イメージとしてはこんな感じですかね。山の北側から登っていきました。
ミドリの丸が登りはじめの神社として、白いルートが登山ルートです。
鉄塔のところで急な登りは終わりです。
ここから先は尾根筋をだらだら登っていきます。



鉄塔イエーイ!(*´▽`*)

ここまできたらもう8割ぐらいきた気分になります。


南側から鉄塔のところに登ってくるルート。
あまり使われていないのかな?

鉄塔のところの案内板。

途中、岩?に塞がれていて、脇を通り抜けなければならない箇所もあります。別に横は崖ってわけでもありません。
しかしワイルドだ―。


あとはこんな感じ。

みなさん、平均年齢高めだったのになかなか健脚でですね(汗)
わたしはほぼ最後尾、(わたしより)お兄さんと、添乗員の人とだらだら登りました。


じゃーん!! 雪野山古墳(山頂)到着でーす!!
前方部端(北)から後円部(南)を見通しているところ。
向こう、人がいるところが後円部の墳頂です。あそこらへんに竪穴式石室があります。



後円部墳頂に立つ、雪野山頂上の看板。308メートル!
職場の階段で鍛えた甲斐あって、脱落せずにたどり着きました。
ちなみに一緒に登ってきたお兄さんの登頂後の感想、
「85までは平気だったんだけど、さすがに90になるときついね~」
はあっ!?(゚Д゚;)



墳頂には埋め戻しに使った土嚢が・・・・。
この下には石室がそのまま残っています(もちろん遺物は取り上げ済み)。
前日にコミュニティセンターで見た石室↓は、
石室現物を型どりして作った実物大模型です。



後円部から前方部を望む。



後円部脇に案内板が設置されていました。

前方部の形がいびつでしょう?
地形に沿って作ったらこうなった、のでしょう、たぶん。
おみやげにもらった袋に入っていた雪野山くんのスカート?の裾がゆがんでいるのは、このいびつさを表現しているのです。
この子の目つきが悪いのは、おそらく来るものを拒まんとするようなあの石段・・・・を表現しているのでしょうか。知らんけど。
登りでお一人、下りでもお一人、石段で滑りました。危険な石段です。みなさん、気をつけて登り下りましょう。


しかし、頂上からの眺望はサイコーですよ。これは南側。
手前の山の向こうに近江冨士(三上山)のてっぺんが見えていました。
※この画像には写っていません。もっと右のほうにありました。

もともとこの山頂に展望台を作ろうとしていて、事前調査中に古墳が発見された、といういきさつがあります。
眺めはいいのです。



さーて、帰りまーす。
鉄塔のところまで戻ってきました。





危険極まりなかったので、下りはあまり写真を撮っていません。
自分が無事に下ることで精一杯(^^;)

途中の旧神社のところぐらいで膝がガクガク。
そこから先は苔むした石段なのでより慎重に、ゆっくり。


発掘当時はいまより悪路で、さらに発掘の機材(貴重な機械など)を担いで毎日登り下りしていたわけですから、たった一日、軽装で登るぐらい、ヘーキ、ヘーキ、と言いたいところですが。
さすがに50超えているとしんどいですわ(;^ω^)
二日ぐらいふくらはぎが痛かったです。



こうして今回のツアーの最大のお楽しみイベントを無事終えたのでした。


バスツアー【2日目】22019年11月08日 21時05分37秒

雪野山のあとはバスで千僧供資料館の見学に行きました。




正面のこんもりは千僧供古墳群の一つです。
住蓮坊古墳。墳頂には住蓮坊と安楽坊という二人のモテモテお坊さんのお墓があるそうです。
お二人にまつわる伝説?を説明してもらったのですが、かなりとばっちりのような・・・・。

二人のお坊さんは鎌倉初期の人で、古墳の被葬者とは関係ありません。






次はお楽しみ、お昼ごはんでーす♪


お昼ごはん会場は太郎坊阿賀神社です!
わーい(*´▽`*)


山の中腹みたいなところにあります。
健脚の人は一番下から階段であがれますが、我々バスツアーは午前中にひと仕事終えたところだったので上の駐車場までバスで行きました。
楽ちんだ~

一番下の階段の登り口。
バスで通過~


バス旅行はいいですね。
駐車場の心配(有無、あったとしても空きがあるかどうか)をしなくていいし、道の心配(細くないか、対向車が来ないか)もしなくていいからいいですね~


駐車場につきました。
ここは勝負ごとの神様らしく、一流アスリートの方々も参拝に来られるそうです。

天狗の願い札。かわいい天狗さんでした。

お昼ごはん予定の参集殿。




さざれ石。



お昼ごはんの会場。
見晴らしよいです。



この湯飲みは信楽の特注品だそうです。

お昼ごはんをいただきながら神社の人のお話を聞きました。


食べ終わるころにちょうどお話も終わり・・・・。

御朱印帳持参の人、何人かいました(^^;)









この鳥居の向こうに、岩の裂けめみたいな通路があります。
ここに来る前に添乗員さんからも脅かされ、ここに来てから神社の人にも脅かされました。
「心が清らかでない人は岩に引っかかって通れない」
と。

「デブは通れない」
じゃないんです。
「心が汚い人」「悪いことをした人」
が通れないらしいです。

めっちゃドキドキしながら通りました。


なんとか引っかからずに通れました!!( ;∀;)






本殿。
いちおう、春海がベスト出せますように、ぐらいお願いしておきました。







弥生文化博物館 北陸の弥生世界 ―わざとこころ―2019年11月10日 08時05分19秒

昨日は大阪の弥生文化博物館に行ってきました。



いま特別展開催中です。
今年度の弥生博は「日本海」ブームきていますね(笑)
前回の特展も鳥取県の青谷上寺地遺跡中心でした。
今回は石川県小松市の八日市地方遺跡(ようかいちじかたいせき)中心の展示で。
木製品がたくさん出土したことで知られています。

中でも柄付きやりがんなの完形品。

これは復元品ではありません。
このまま出てきたんです。ネットで検索してもらったら出土時の状況も画像が出ているのでぜひ見てください。
木製柄に装着された状態のやりがんなって他にあるのかな?
これはレアですよ~

木製品だけでなく、土器も、鉄器も、玉も並んでいました。


装飾壺

絵画土器(シカ)
奈良っぽい(笑)
「シカ=奈良(公園)」という現代的イメージで言っているのではなく、弥生時代の絵画土器って奈良の唐古・鍵、清水風遺跡からの出土品が多いので、絵画土器を見ると「奈良っぽい」と思ってしまうのです。


展示見学のあとは館長の講演会を拝聴しました。
だいたいこういう講演会って講演後に聴講者からの質問を受け付けるんですが、今回もありました、質問コーナー。

2人目の人が、
「どうして八日市地方遺跡に他地域のモノが集まっているのか? 何が魅力だったのか?」
みたいなことを質問されました。

館長、自分で答えず会場のある聴講者にそのまま振りました。

なんと!
わたしの前に座っている白袖の男性(画像右端)、石川県の方で、あのやりがんなを発掘された当人だったのです!
ビックリしました。

石川県の人のところにマイクが回ってきて、懇切丁寧に説明してくださいました。聴講者なのに(笑)

八日市地方遺跡は玉の一大生産地だったらしく、おそらくそれが交易の中心になっていただろうということをお話ししてくださいました。

館長の話もおもしろかったけど(!)、発掘された当事者の方のお話をなまで聞けるとは!!
たいへん貴重なお話を聞けました。






結局5時までいたので、帰りはこんな状態に(笑)↓
弥生博に隣接する池上曽根遺跡の夕景。
復元された大型独立棟持柱建物。