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林喜重大尉2008年12月09日 09時05分04秒

林喜重大尉(のつもり)
↑ママが気になってしかたがない搭乗員の1人・林喜重大尉。

神奈川県鎌倉出身。
海兵69期出身。
戦闘機。

17年11月、ラバウルで消耗した台南空は251空と改称し、隊員も大幅に入れ替え、豊橋で練成に入ります。

林中尉(当時)がいつ251空に着任したか詳しくは知りませんが、おそらく18年に入ってすぐ、飛行学生を終えて最初に着任したのが豊橋の251空だったのではと思われます。
5月、再びラバウルに戻った251空。
林中尉はさっそく小隊長として出撃を繰り返すようになります。

先日、251空のUI-105号機は林中尉では、とここに書きましたが、あれが撮影された5月14日が林中尉の初陣であったようです。
初陣でいきなり2番機に抜けられ、心細かったでしょうが、無事帰投し、以後、(ママ調べによると)251空一のタフな指揮官になっていきます。

諸先輩、同期生が次々と未帰還になる中、林中尉は武運強く生き残り、253空を経て内地に帰還、19年には221空戦闘407の飛行隊長に。

その後、泥沼のような比島戦でも生き残り、19年末には紫電改による内地防空部隊343空の3飛行隊のうちのひとつ、戦闘407の飛行隊長。

死神に縁のなかった林大尉も、4月、B29攻撃で戦死されてしまいました。

上官、部下、戦史研究家、どなたが書いたものを読んでも、林大尉は部下思いのすばらしい人だった、と。
343空時代の司令は3飛行隊長のことを、
『一番兄貴の鴛淵大尉は比較的おとなしい性格で、末弟の菅野大尉は、やんちゃ坊主であった。中の林大尉はその中間の性格であったが、どちらかと言えば無口で地味な方であった。部下を愛し、部下には肉親の親のごとく敬愛されていた』
と回想しています。

写真を見ると、どちらかというと気の強そうな、いかにも戦闘機乗りっぽいやんちゃな感じがしますが、実際は「無口で地味」な人だったそうです。
見かけはやんちゃそうですが、菅野大尉のように破天荒な人でないことはたしかです。

そんな林大尉が、どうして、最後、あんな死に方をしてしまったのか・・・・。
B29の撃墜法に関して後輩の菅野大尉と言い合いをしてしまった挙句、
「明日落とせなかったら、おれはもう帰らない」
そう言い放ったとか。
昨日今日戦闘機に乗り始めた新米でもない人です。無責任なことを言ったりしたりできる立場でもない人です。現にそれまでそんな激情に駆られたような発言や行動の見られなかった人です。

翌日、林大尉はB29、一機撃墜を報じた後、自らも傷つき、海に不時着(墜落?)戦死してしまいました。

最後は戦闘機乗りとしての意地を通したということなのでしょうか・・・・。

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