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島田直さん(乙9)と長井泉さん(甲4) ― 2026年06月07日 23時27分07秒

乙飛と甲飛が犬猿の仲であったことは、海軍航空隊に関心がある人であれば一度は小耳にはさんだことがある話ではないでしょうか。

かくいうわたしも搭乗員さんご本人から直接軋轢についてうかがったこともありますし、当然、活字ではいくらでも読んでいます。

さらに、島田清守さんの予科練時代の日記(昭和14年・15年)には、うんざりするほどその件に関して上から注意を受けていることがリアルタイムで記されています。
ということは、こっそり仲違いしてたというわけでなく、公然と、指導層の眼にとまる形で諍いがあったということです。

乙飛と甲飛の諍いというのは、相手かまわず対抗心を燃やしていたわけではなく、同じ時期に訓練を受けていたクラスに対しての対抗心だったように思います。
例えば乙9期であれば、あとから入ってきて新幹線、いやリニア並みのスピードで階級を抜かしていった甲3期と甲4期に対して、メラメラと燃えるものがあったようです。

ちなみに乙飛と甲飛の進級速度の違いが分かるように以前作った表を貼っておきますね。




『九期生名簿』のおもいで、森浦東洋男さんのところには、
ラグビー部でしかも暴れん坊の異名があったと思う。霞空に移転してすぐバットを持って甲飛に殴り込みをかけたのでみな覚えていると思う
と書かれています。

この話、「霞空に移転してすぐ」と書かれているだけで、正確にいつの話かわからないのですが、3月だとしたらまだ甲4期生は入隊していないので、甲3期生に対して殴り込みをかけたのではないかと思います。
もし甲4期が相手だったとしたら、4月に入隊して右も左もわからないときに森浦さんがバットを持って殴りこんできたということで、「たいへんなところに来てしまった(゚Д゚;)」と震えあがったことでしょう。

この対立問題は海軍が悪いんだと思います。
制度からして対立を煽るような制度だし、指導層も甲乙を比較して競争心を煽るような指導をしています(島田日記より)。そりゃ、感情的に大嫌いになって当たり前です。
そのくせ、上は「仲良くせよ」と何度も注意をしているのです。ちょっと矛盾しています。仲良くしろと言う方がムリです。
乙飛生にも甲飛生にも責任があることではありません。



乙飛と甲飛は仲が悪かった――これはまあ事実なんですが、かといって個人間で見るとそうでもなくて、乙9期の藤原国雄さんが甲3期の木下広吉さんと一緒に撮った写真が存在していたりします(おふたりは同郷)。
集団としては仲が悪くても、個人間は意外と仲良くやっていたということですね。


わたしは乙9と甲4は予科練中はずっと仲が悪いままだったと思い込んでいたのですが、実はそうでなかったことが島田清守さんの日記に書かれていました。

昭和15年9月30日(甲4卒業式)

『精神教育「禍転為福(わざわいてんじてふくとなす)」について。終って卒業も近くなった(甲飛)四期の茶話会に出席したらどうも元気がある。九期生には此の元気があるかと心配になる。もう少し卒業迠元気を出せ。
甲種四期卒業・・・・〇時半退隊。総員見送り。元気で「飛練で待っている」と九期九期と言って行った。「九期もすぐに行くから」と元気をつけてやった・・・・。』

これを読んだときは「え? マジ!?」って声が出ましたよね(^_^;)
お互い激励し合って甲4を飛練に送り出したシーンが描かれていて。
ちょっとビックリしました。あんなに仲が悪かったのに。


スイマセン、ここまで前置きです。
今日書きたいのは、乙9の島田直(すなお)さんと甲4の長井泉さんのことです。

島田直さん

長井泉さん(卒アルから)


お二人に関してはどこから書いていいか・・・・。
わたしも長くこのお二人には関わってきた(つもり)のですが、お二人の関係については深く考えたことがなく、最近、いろいろ気づいてあらためて涙を誘われた――というようなことがありました。



お二人とも真珠湾攻撃時、加賀の艦攻隊です。

昭和16年12月5日撮影と思われる加賀艦攻隊総員集合写真。
そもそもこの写真、直さんの遺品です。
2015年に熊本に墓参に行った折にご遺族の方から見せていただいたものです。


ご本人は自分に〇印をつけています。
最前列、風向標識の交点のあたりに座っています。

これ、長井さんだと思うのですが、この人を長井さんだと判断した過程については記事1本分ぐらいゆうに書けるぐらいあります。なんか卒アルの写真と印象が違うでしょう?
今日はそれが本題ではないので、「わたしはこの人が長井さんだと思っている」ということで勘弁してください。
最後列、プロペラの右下の小柄な人です。



お二人の予科練卒業後の足跡を書いておくと、昭和15年9月30日に予科練をひと足先に卒業した長井さん(操縦)は飛練9期生として初練・中練をやり(航空隊は把握していません)、16年4月から艦上攻撃機実用機訓練を大村空にて。

16年9月12日、大村空の卒業記念集合写真より。
そのまま加賀に配属されたものと思います。


一方直さんは、15年11月30日に予科練を卒業、同日、飛練10期、偵察員訓練のため鈴鹿空へ。
ここで16年7月30日まで基礎訓練をしてから博多空へ。

16年10月31日 博多空卒業集合写真より。
そのまま加賀へ着任。

甲4が予科練を卒業で去ってから、1年2ヶ月ぶりの再会になったのではないでしょうか。



お二人とも熊本県出身、同郷で親友だったみたいなんですよ。
そのことにずっと気づいていませんでした。
少し前に『若鷲のふる里』という真珠湾攻撃戦死者の甲4期生を取り上げた戦時中の書籍を読み、長井さんのところにそのことが書かれてあり気づきました。

じつはその数年前に読んだ『空母飛龍の追憶』の直さんの項にも、お二人が親友である旨が書かれていたんですよね。たぶん読んだときはまだ甲4の長井さんと結びついていなかったんだと思います。

『若鷲のふる里』から引用
泉君が最後の手紙を寄越したのは祖母あてのものでした、島田という自分によく似た友人に託して届けるから、島田を自分と思ってよく見てくれと書いてあって、中に六十円の金が同封してありました。
そしてそのあとに長井さんの遺書が転載されています。
直さんが届けた遺書なのでしょう。わたしは現物は見ていないのですが、可能なら見てみたいですけどね・・・・。
『若鷲のふる里』転載分、それは最後に。



『空母飛龍の追憶』の関連箇所引用
昭和十六年九月一日、博多海軍航空隊配属
同年十月一日、加賀乗組。同郷出身の長井泉君と雷撃機に同乗して猛訓練、互いに遺言状を取交して居る、との便りあり。
同年十二月三十一日、休暇で帰郷。私は病気のため帰郷療養中であったが、直は「只今」の挨拶もそこそこに、靴も脱がず長井君宅へ。長井君は真珠湾で雷撃機に搭乗、名誉の戦死を遂げたので、約束の遺言状を持って遺族に弔問し、戦功報告をした。
直は長井君と雷撃機同乗を懇願したが叶わず、爆撃隊に編入され、真珠湾在泊中の戦艦八隻中のカリフォルニヤ型(前より二番目のフォード島側)を爆撃し、同艦火薬庫に命中轟沈せしめた、と語る。
昭和十七年一月八日、帰還(七日出郷)

これは川越さんという方が寄せられたものです。
川越さんは血縁上は直さんのいとこ。さらに、直さんのお姉さんと結婚されたそうで、義理の兄という関係でもあります。

この年譜はわたしの知識と多少の齟齬がありますのでその部分を説明しておきます。
博多空配属は昭和16年7月30日です。
加賀配属は昭和16年10月31日です。
あと直さんが真珠湾後に帰郷して語ったという箇所ですが、直さんは長井さん(雷撃隊)と一緒に出撃出来ず、爆撃隊(おそらく水平爆撃隊を指すと思われる)に編制されてそちらで活躍したというくだりがありますが、これは誤認です。直さんは真珠湾攻撃では出撃していません。
なので、この下りは直さんが親族に対して”盛った”のか、川越さんが興奮のあまり何か勘違いしたのか、(『飛龍の追憶』寄稿時点において)年数が経ってからの記憶の混濁だったのか、そのあたりはわたしにはわかりません。

正しいのか正しくないのわからない部分もあります。
「同郷出身の長井泉君と雷撃機に同乗して猛訓練」
この部分ですね。けっこう重要なことが語られていると思うんですよ、これ。

他の部分に間違いが多いから、これも間違いだろう、ということにはなりません。
というか、わたしからしたら「え!? ホントに!?」な情報です。

可能性としては大いにあると思うんです。



真珠湾攻撃前の鈴木三守大尉の分隊集合写真。※所有者の方のご意向でお顔をぼかしています

おそらく艦攻隊総員集合写真と同じ時に撮られています。
直さんも長井さんもここに写っています。
艦攻隊のペアは基本同じ分隊で編制されていると思っているのですが、鈴木分隊の中でなぜか長井さんだけが牧分隊の偵察員(植田米太郎1飛曹)と電信員(武田友治1飛)と組んで出撃しているんですよね。


これ、ずっと謎でした。
もしかして、わたしが鈴木中隊写真で「長井さん」と思っている人が長井さんではないのではないかと疑ったこともありました。

その後、いろんな情報を得るにしたがって、長井さんが一人だけ同分隊員とペアを組んでいないのは、
「三上大尉が内地出発時に着艦事故を起こして艦攻を1機壊したことと関係があるのではないか」
と思うようになりました。
三上大尉の着艦事故の件に関してはここの最後の方に書いています。





そして、ここで川越さんの『空母飛龍の追憶』への寄稿です。
話がつながりませんか?
もともと訓練時は長井さんは直さん(おそらく電信配置)とペアを組んで雷撃訓練をしていた可能性が(と言っても半月ほどか)。
ところが内地を離れるときの飛行機隊収容時の三上大尉着艦事故が原因で長井さんは訓練時に乗っていた愛機を手放すことになり、ペアもいじられ、牧分隊の植田さんと武田友治さんと組んで出撃することになった――と想像できないですかね。
想像の域を出ないんですが。




お互い遺書を交換していたというエピソードが長井さん側からも直さん側からも語られているわけですが。
もし、訓練時に長井さんと直さんがペアで、真珠湾に出撃予定だったとしたら、ペアの二人が遺書を交換したところで「ペアは生きるも死ぬも一緒」――なのだから、遺書を遺族に届けることは不可能です。長井さんにもしものことがあるときは直さんにも同じことが起こっているのです。
なので遺書を交換したとしたら、内地出港後、着艦事故のためにペアを解かれてしまった後でなら遺書を交換した可能性があるな、と思います。



鈴木分隊集合写真の直さん(左)と長井さん(右)
※所有者の方に特別にお許しをいただいて出しています
今回はトリミングしてしまいましたが、長井さんの右には乙8期の田中一則さんが座っていて、この三人は同郷、実家は結構近いように思います(わたしの感覚)。
三人ともクラスは違いますが、出身地で結ばれ、隊内で親しくしていたのかもしれないなと想像したりしています。

偶然この並びになったのかもしれませんが、遺書を交換していたぐらいの二人が隣り合って座っているのを見て、悲しみを新たにしました。


『若鷲のふる里』より

布哇作戦の首途に当り一筆書遺し候
我れ国家の為に死す。
男子と生れ皇国に生を承け然も軍人として屍を戦場に曝す此れに勝る名誉あらん。
希くは我なき後は弟■(※)を以て立派な帝国軍人となし国家の守りに立たせ給はらん事を。此の度の戦一挙にして終るべくにあらずして東洋平和確立迄には幾星霜かかるや測り知れず、この覚悟決してお忘れあるまじく、此の世に生を受けしより二十幾年慈愛の胸に抱かれ何一つとして不自由な思ひをした事とてなく我儘ばかりを申し今日まで心配をかけまいり今日まで一度の親孝行のまね事さえ出来ず、老後の面倒さえも見る事あはわずして先立つ事は何よりも心残に存じ居りま
す。然れども国家存亡の秋に当り私情を云々する事あたわず。
皇国君恩の万一に報ぜん時かねて父上よりの教訓国の為に死す事こそ最大の親孝行なりと之を明記し、必ずや之という勲功は立てずとも決して他人におくれとらぬ様最後の御奉公を致す覚悟です。されば何卒先立つ罪はお赦し下され度。
御両親様におかれても既に私なき時の覚悟は充分あられる事と信じますけれど、決してお嘆きあるまじく、もし報入りなば先づ伜よくやったとおほめ下され度、特に母上には身体も御病弱故お嘆きのあまり寿命を短められる様な事あらば尚一層の事私重ねて親不孝の罪をなす事になり世間の人に物笑いの種ともなりますれば、決してお嘆きあるまじく重ねてお願い致します。
私長男の事故家督の件も色々ありましょうが弟は国家の為に出れば結局は妹に養子を迎えられし方がよいかと存じます。然し御両親様にて考えられし方がよいかと存じます。然し御両親にて考えられし事あらばその様になされ度何事によらず独断にて決行さるるは如何と思いますれば親類初め天草の兄ともよくよく御相談の上御取はからい下され度。
弟は我が最愛にして最後迄面倒見てやれぬ事残念に思いますが、彼頭脳よく身体健全にて申分なけれど内気にて柔弱の風あり。これにては立派な軍人となる事六ケ敷く思われますけれど、彼の心底に流るる一脈の気概は之をのばせば必ずや立派な提督司令官となる素質と信じています。大いに鍛錬して長所を延ばして下さい。我旅立てば何物をものこさず、神体としてはこの遺書のみと思い申しますればこれにて我慢致され度。
身はたとへ太平洋に水漬くとも
  留めおかまし大和魂
今更に驚くべくもあらぬなり
  かねて待ちゐしこの度の旗
我死すと聞き村人一同航空兵にはなさるまじき等と噂せし時は何卒この戦果を例して将来航空兵力の如何に重大なるかをとき続々と後輩の出でん事を草葉の蔭より祈って居ります。
祖母様へは幼き時より非常に可愛がって戴き随分困らせた事もあり腕白小僧をよく今日まで可愛がり中学時代は特に御世話になりました。海軍に入籍してもより一層の御慈愛の心を垂れ休暇帰省を誰よりも喜んで下さいました。全く我身の果報が身にしみてうれしく思って居ります。逼迫した今日の時局存分の孝行も出来ませんでした。あの世とやらでは幾倍も御恩返し致す事も出来ようと思います。
今後十年内には皇威宇内に輝く世紀の曙が来るものと信じます。この時こそ私の一片の力が加っているものと思召されます様、そして天寿を完うされます様御祈り致します。
親思ふ心に勝る親心
  今日の訪れ何と聞くらむ
金銭貸借無し
婦女子関係無し
  十二月五日                長井 泉
 父上様 母上様 祖母様



※弟さんの実名が書かれてあるためわたしの判断で伏字にしました
その他、遺書本文の仮名遣いや旧字体漢字は現代のものに直しています。遺詠のみそのまま記載。


遺書に記されている12月5日は、わたしが上の加賀艦攻隊総員集合写真と鈴木分隊集合写真が撮られたと考えている日でもあります。
5日の時点でペアをいじられることが確定していて、書いた遺書を交換したのかもしれないな・・・・などと想像したりもしています。





長井泉さん
昭和16年12月8日 加賀 真珠湾攻撃 

島田直さん
昭和17年6月5日 飛龍 ミッドウェー海戦



長井さんが遺書の中で「身体も御病弱故お嘆きのあまり寿命を短められる様な事あらば尚一層の事私重ねて親不孝の罪をなす事になり世間の人に物笑いの種ともなりますれば、決してお嘆きあるまじく」と書いていたお母様が詠まれた一首


 遺品のシャツを抱きしめて
うつり香の消えざるやうと心する
     はだ身につけし吾子のかたみを



※画像は8期生ご遺族、9期生ご遺族・ご家族、操練出身艦攻操縦員ご遺族、Оさんご提供
大戸喜一郎1944『若鷲のふる里』輝文堂書房、『空母飛龍の追憶』より引用

真珠湾攻撃に参加した甲4期生 ― 2025年12月08日 19時02分44秒

というタイトルで何か書こうと思って取り掛かりはじめたら、思った以上に人数が多くてとてもわたしの能力で手に負えないと観念して、「加賀艦攻隊の甲4期生」という内容になりました。
※202512102242母艦上空警戒任務に就いていた蒼龍・野村栄良さん、翔鶴・佐々木原正夫さんと一瀬寿さんを予備員に入れてしまっていたので表を作り直しました。申し訳ないです。






真珠湾攻撃前(たぶん12月5日)に加賀飛行甲板で撮影された艦攻隊総員集合写真(正確にいうと総員ではなさそう)。

ここに写っている甲4期生。
黄色い〇がついているところにいます。

前列から、左から。 ※予備員は操偵の別しか記載していません
西村武さん(福岡)
予備員、偵察



大場八千代さん(佐賀)
第1次攻撃隊 水平爆撃隊 電信員



坂田恵介さん(熊本)
予備員 偵察



田村三郎さん(新潟)
第1次攻撃隊 水平爆撃隊 電信員




梅津宣夫さん(山形)
第1次攻撃隊 雷撃隊 電信員
行方不明
※熊本さんとペア



熊本研一さん(宮崎)
第1次攻撃隊 雷撃隊 操縦員
行方不明
※梅津さんとペア

飛練卒業時(大村)の集合写真から



大西俊夫さん(香川)
第1次攻撃隊 雷撃隊 電信員
行方不明



倉嶋三郎さん(新潟)
予備員 偵察



長井泉さん(熊本)
第1次攻撃隊 雷撃隊 操縦員
行方不明

飛練卒業時(大村)の集合写真から



武田英美さん(高知)
第1次攻撃隊 雷撃隊 電信員
行方不明



平田義幸さん(広島)
第1次攻撃隊 雷撃隊 操縦員



武信太助さん(大分)
予備員 操縦

飛練卒業時(大村)の集合写真から


基本、甲4の卒業アルバムの写真をもとに探しています。
真珠湾戦没者に関しては、『若鷲のふる里』にも遺影が掲載されています。
加賀の集合写真と大村の集合写真には氏名は入っていません。
加賀の写真に関していえば、一部氏名が入っている写真もあるようですが、間違いがあるのではないかと思っています。
その検討過程はまた時間があればここで紹介します。

とにかく現時点ではわたしは上のように理解しています。

加賀の甲4期生がこれで全員かどうかはわかりません。
出撃搭乗員は編制表から全員わかっていますが、出撃しなかったいわゆる予備員と言われている人たちに関してはこれで全員なのかどうかわかりません。”総員”集合写真もたぶん写っていない人がいると思われますので。



真珠湾の編制表を見たら一目瞭然ですが、加賀の被害は艦攻隊雷撃隊の第2中隊に集中しているんですよね。
攻撃隊全体(赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴)で見ても、艦攻隊の被害としては水平爆撃隊の未帰還機は0、雷撃隊の未帰還機は5。すべて加賀の雷撃隊です。








真珠湾攻撃に参加した甲4期生。
出撃搭乗員は吉良敢・吉野泰貴『真珠湾攻撃隊 隊員列伝』巻末付表から。
予備員はKさんご教示、行動調書や集合写真、大島隆之『真珠湾攻撃隊 隊員と家族の八〇年』の巻末付表などから。予備員はもしかしたらもっと増えるかもしれません。

水色ベタ・太字は真珠湾戦没者。オレンジベタは操縦員です。

※202512102242母艦上空警戒任務に就いていた蒼龍・野村栄良さん、翔鶴・佐々木原正夫さんと一瀬寿さんを予備員に入れてしまっていたので表を作り直しました。申し訳ないです。





ちなみにですが、同じフォーマットで乙9期の真珠湾参加者の表を作ってみました。
出撃したのは全員艦攻の電信員です。
予備員もおそらく、もし出撃していたら艦攻の電信員だったのでは、とわたしは思っています。

9期は「真珠湾に間に合った最後のクラス」と言われることがありますが、形式上はそれで正しいです。飛練(飛練10期)卒業は16年10月末。
が、実際は真珠湾攻撃時点で飛練を卒業した内の約半分程はいまだ実施部隊に着任しておらず、転科教育や大型機講習を受けていました。

艦隊に着任した組も、移動もあるので着任したのが11月に入ってから。その時点ですでに訓練はもうほぼ仕上がっている状態だったでしょう。

ちなみに蒼龍の島田清守さんは、着任後、11月5、6、10日は飛んだようですが、それ以外の日に「飛行作業」と書いているのは隊が「飛行作業」をしたのであって、島田さん本人は地上にいたような様子です。
「スペア配置では全く飛行も出来ない。毎日地上の勤務員と云ふ調子である」
とぼやいています。
結局、蒼龍が内地を離れるまでの搭乗機会はこの3回しかなかったのではないか。他の艦隊の9期生も似たり寄ったりだった可能性が。
といっても実際に真珠湾攻撃に水平爆撃隊の電信員として出撃した9期生もいるので、隊によって、11月の9期生の扱いが違っていた可能性はありますが。それでも訓練に参加できたのは二十日間ほど。さらに天気や整備などで飛べない日もあったでしょうからね。




甲4期(飛練9期)は9月中頃に飛練の実用機訓練を終えています。
機種によって日付に差があるようで、わたしは全機種の終了の日付を把握できていません。大村の艦攻操縦専修生は9月12日。大分の戦闘機専修生は9月22日ののようです。

飛練卒業時期のひと月半の違いがこの差になったのだろうな、と以前は思っていたのですが、最近はちょっと違う感慨も持っています。
それ以前に甲4期は、どの時点かわかりませんが、早い時期に真珠湾の戦力として想定されていたのではないかと思えるような機種配分です。艦攻操縦がめっちゃ多いです。50名ほどいそうな? まだちゃんと把握できていないので、「○名」と断言はできませんが。ちなみに乙9期の艦攻操縦は8名です。この艦攻操縦の8名も、一人も艦隊に配属されていません。
乙9期はあまり真珠湾の戦力として想定されていなかったのではないかな、という機種配分です。
飛練卒業がひと月半早かった遅かったという問題ではなく、もっと早くから甲4は真珠湾の戦力の一部として育成されていたのではないのかな。
わたしの想像ですよ。甲4期の全員の機種を把握できていないので、わかった人だけの印象で言っています。



一度ちゃんと甲4期が全員で何名いたのか。飛練に進んだのは何人か。操縦何名、偵察何名、あるいは機種ごとに、全部ちゃんと数字を出して検討してみたいです。
希望しているだけで全然実現しそうにありませんが💦


※画像は9期生ご遺族ご提供、操32期中島義喜さん写真より

昭和16年12月5日「甲板上にて撮影をなす」真珠湾攻撃時加賀艦攻隊集合写真 ― 2025年12月05日 22時43分08秒

真珠湾攻撃を目前に加賀飛行甲板で撮られた艦攻隊搭乗員の集合写真。


艦攻隊総員集合写真。


北島一良大尉分隊集合写真。




鈴木三守大尉分隊集合写真。


もう一枚、牧秀雄大尉分隊の集合写真があるはずなのですが、わたしはお目にかかったことがありません。



以前からこれらの集合写真に関してはブログでたびたび話題にしており、特に飛行甲板中央部の風向標識に関する投稿はぜひぜひ読んでいただきたい記事です。

そこでもちょっと触れているのですが、今日はこれらの写真の撮影日に関して。
風向標識の記事には以下のように書いています(青字)。


『ちなみにこの加賀艦攻隊総員集合写真、書籍には12月7日、真珠湾攻撃の前日に撮影されたもの、という説明があるものがありますが、2021年12月に放送された「真珠湾80年 生きて 愛して、そして」という番組の中で紹介された加賀艦攻操縦員の北原收三さん(操50)の日記に12月5日に「記念写真を撮る」の記載が(ご遺族ご提供、Оさんご協力)。
北原さんは真珠湾攻撃で戦死されているので、日記は当日か遅くとも7日までには書かれていたもので、そういう意味では大変資料的価値が高い記述ではないかと思います。

北原日記の12月5日にはもう一つ注目の記述があって、
「一昨日来の暴風雨静まれども終日曇天小雨模様なり」
これなんですけどね。
総員集合写真を見ると飛行甲板のところどころに水たまりがあるように見えます。前日まで荒れていたらしいので波をかぶった可能性も無きにしも非ずですが、写真の様子からも晴天には見えません。天気の面からも「5日」で矛盾ないように思います。


ちょっと余談ですが、乙9期の島田清守さん(蒼龍艦攻隊)の日記によると12月5日は、
「次第ニ南下スル。昨日迄ノ荒天モ静マリト平常通リ「総員体操用意」ノ號令モカカル。飛行甲板ニ出ルト部隊ハ厳然ト進ム。各艦飛行甲板ニペラノ(不明。部員?)ガ有ル様ダ。攻撃ヲ前ニシテ、昨日、一昨日ト飛行甲板ノ作業モ出来ズ今日カラ一斉ニ初(始)マル。 飛行機ノ試運転ダ。」※( )はわたし注記
蒼龍ではこんな具合です。
蒼龍から見たら他艦も飛行甲板に飛行機を上げて試運転をしていたらしいので、きっと加賀も飛行機を飛行甲板に上げていたのでしょう。そのときに記念撮影もやった、ということだろうと思います。

というわけで、今回の話に直接関係はないですが、わたしはこの写真に関しては「12月5日撮影」説をとろうと思います。

余談の余談ですが、7日も加賀も蒼龍も飛行機を飛行甲板に上げています(北原日記、島田日記)。
お天気情報は北原日記「今日は暫く振りの晴天」。島田日記にはお天気情報なし。


と、ここまで書いてからの追記。
2023年9月に町元善春さんの遺品を見せていただいたのですが、同じ総員集合写真がありました。
どなたが書かれたのかわかりませんが裏に手書きで「昭和十六年十二月七日撮 布哇攻撃前日 加賀艦攻隊総員」と書かれていました。
「やはり7日なのか?」
正直、揺れています。
北原さんが日記に書いている5日に撮影した「記念写真」はこの集合写真のことではないのか?

総員集合写真の撮影日に関しては、機会をあらためてゆっくり考えてみようと思っています。』


この件は、何か新しいものが出てこないと決着がつかないと思っています。
これ以上いくら写真を眺めても進展しないだろうな、と。


ちょっとだけ進展がありました。
進展というか、援軍というか。

先日知人から本をお借りしたんですよ。
大戸喜一郎という人が書いた『若鷲のふる里』という本です。
甲飛4期の真珠湾戦没者のふる里を訪ねたときのことを随想風に著した本です。
それぞれが育った土地の様子や、両親との面会の様子、本人の幼少期の話など、貴重な内容がたくさん。
著者が訪ねたのは、記載順に書くと、
武田英美さん
外山維良さん
桑原秀安さん
大西俊夫さん
熊本研一さん
坂本清さん
梅津宣夫さん
長井泉さん
の8名です。


かれらのことは別途書きたいと思います。


この大戸喜一郎という人、本の奥付の横にあった著者紹介によると、
早大英文科中退、少年作家として著書あり。海軍省年兵に就いて研究すること既に七年におよぶ。
とあります。
これだけじゃ、なんのこっちゃ全然わかりません。
ネットで検索してみました。1897年生まれ、1961年没らしいです。
著書の画像がいくつか出てきました。『日本海大海戦』『前世界探検』『炭焼キ爺サン』

奥付によると発行は昭和19年9月20日、発行所は輝文堂書房。
ちなみに価格は2円70銭。




今日は長井泉さん。

『若鷲のふる里』の中に、長井さんの真珠湾攻撃時の日記の記述があったのです。

その中に、「甲板上にて撮影をなす」と書いている日がありました。

「こ、これはっ!(;゚Д゚)」

大戸さんが取材し活字化されたもので、日記現物の画像が掲載されているわけではありません。しかも伏字が多いです。日付も伏字、地名も伏字。
長井さんが「甲板上にて撮影をなす」と書いている日も「○○月○日」になっています。
なので、北原さん日記と照合して日付を入れてみました。共通して特定の行事を書いてくれていると日付が特定しやすいです。
その結果、日付的には『若鷲のふる里』に引用されている長井さんの日記は、11月19日~12月5日までと判断しました。
途中、11月23日と24日は抜けています。11月23日・24日というのは単冠湾に停泊している期間です。長井さんが書いていなかったのか、大戸さんが敢えて本に転載しなかったのか、そこはわかりません。
長井さんの日記現物を見てみたいですけどね。

が、現時点で見ることはできないので、『若鷲のふる里』に転記されているものを信じて、ちょっと考えてみたいと思います。


まず、長井さんの日記の伏字の件。
例えば、
○○月○○日 段々と暖かくなったような気がする。四日も島も見えず寂しさ一人身に沁む。(以下略)
○○月○日 遂に○○となる。思ひを故国の上に走らす。(以下略)
こんな感じです。

日付と、何か軍の機密めいたことが伏せられています。
これ、たぶん日付は伏せてあるけれど、内容から察するに、日付順にきちんと並べられているだろうと思いました。
そこで、同じ加賀艦攻隊だった北原修三さんの日記の記述と見比べながら日付を検討してみました。北原さんの日記は日付がきちんと入っていますし、ほぼ伏字なしです。下表で●になっているところはわたしが読めなかった字です。

北原收三さん(操50)


日記に書いている日課を比較検討したら、長井さんの日記はこんな感じで日付が入りました(単冠湾を出港した11月26日~12月7日分)。
日記に書いている日課を中心に抜き出したものです。

よく見たら、大戸さんは日付を伏せているけれど、「十一月三十日」は「○○月○○日」、「十二月一日」は「○○月○日」と伏せた文字数と○の数を合わせていました。ありがとうございます。
※上に引用した太字部分は11月30日と12月1日分です。


とまあ、こんなわけで、長井さんが「甲板上にて撮影をなす」と書いている日は12月5日で間違いないです。
北原さんが書いている12月5日の日記の内容とかなり一致しています。




風向標識の記事で触れた天気についても比較しました。


加賀艦攻隊の長井さんと北原さん、蒼龍艦攻隊の島田清守さんの日記に書かれていた天候に関する記述です。
さらに参考までに、戦史叢書に掲載されていた第8戦隊司令部首席参謀藤田菊一中佐(機動部隊に同伴)の日誌とやらからのお天気情報も併記しました。

これらを見ると12月2日夜ぐらいから荒れ始め、3日、4日は猛烈に荒れていたことがわかります。
3日には加賀で作業中の下士官が海に転落する事故が起きています。長井さんは落ちたのは「下士官一名兵一名」「助けられしとか聞く」と書いていますが、北原さんは「四分隊先任下士官山本一曹」が波に飲まれたとしか書いていません。実際、何人落ちたのか、その後どうなったのか、これに関して調べようとしたのですが、詳細が書かれたものが見つかりませんでした。


とにかくようやくこの荒天が一段落したのが5日。
ただし晴天には戻らず、「風次第に弱くなり、海上平穏となる。雨尚降る」(長井日記)、「一昨日来の暴風雨静まれども終日曇天小雨模様なり」(北原日記)。
この状態で各艦飛行機を甲板に上げ作業をしたようです。それは島田さんの日記にも描かれています。
「次第ニ南下スル。昨日迄ノ荒天モ静マリト平常通リ「総員体操用意」ノ號令モカカル。飛行甲板ニ出ルト部隊ハ厳然ト進ム。各艦飛行甲板ニペラノ(不明。部員?)ガ有ル様ダ。攻撃ヲ前ニシテ、昨日、一昨日ト飛行甲板ノ作業モ出来ズ今日カラ一斉ニ初(始)マル。 飛行機ノ試運転ダ。」※( )はわたし注記


見ていただきたいのは写真の影と飛行甲板の様子です。
どう見ても晴天下の撮影ではないし、飛行甲板には水たまりが残っているように見えます。
分隊集合写真も装備などから同じ日ほぼ時間をおかずに撮られたものと判断しています。いずれの写真も同じ状態です。

藤田参謀がこの日「視界不良」と書いているんですが、加賀艦攻隊の総員集合写真も最前列の人たち(北原さんとか)と最後列の人たち(長井さんとか)の明瞭度を比べると、後列になるほど明らかにもやっている感じがあります。
搭乗員たちの背後の97艦攻もちょっとぼやけています。

5日の天候状態と矛盾ないと思われます。



お天気的な意味では6日も可能性は残っているかと思います。



では巷間言われている「7日撮影」、この可能性はないのか?

北原さんは「晴天」と書いています。

藤田参謀も「天気は益々良」。

戦後に書かれた手記なんですが、金沢秀利さん(乙8、飛龍)は7日の天気を「快晴、視界良好」と書いています(『空母雷撃隊』光人社NF文庫)。


一日中天気がよかったのか、それとも基本晴天で時々曇ってその隙に写真撮影されたのか、いやー、そこがわからないんですよね💦

一日中晴天だったらあの写真は撮れないと思うんですよ。

リアルタイムで書かれた日記の記述的にも、お天気的にも、5日の可能性が高いんじゃないかとわたしは思います。



※画像は8期生・9期生ご遺族ご提供。
北原收三さん日記はご遺族所有、Оさんご協力。

進級表 改訂版2 ― 2025年08月26日 10時01分11秒

昨日出した進級表改訂版、丙飛の方の4等兵時代が1ヶ月多くなっていたので、訂正しました。



丙3の予科練・飛練期間も追加してみました。

進級表 改訂版 ― 2025年08月25日 20時39分19秒

進級期間の表、改訂しました。

改訂点

・操練・偵練・丙飛の方を加えてみました。時期差あります。

・乙6と乙7で、月のなかばに進級していることがあったのですが、わたしの(Excel&llustratorの)技量未熟の為、「ひと月」単位以外で処理ができずに適当につじつまを合わせてひと月単位で表示していました。
甲飛の進級表を作る際、どうしても3等兵期間と2等兵期間が「半月」であるということを表示する必要に迫られ、研究した結果、半月単位で期間を表示することが可能になったので、乙6と乙7も正確な期間に近づけた表示に直しました。
いままで出した3つのうち、これが一番正確です。

・もし、自分のご先祖様の進級期間も可視化してみたい、という方のために、最下段に空白行を設けました。一枠ひと月ですのでご自由にどうぞ。