加賀飛行甲板 風向き標識周辺の復元 ― 2024年02月13日 09時52分48秒
先日書いた、加賀飛行甲板の中央部風向き標識の続きです。
元記事はこちらをご覧ください。
かいつまんで説明すると、真珠湾攻撃直前の加賀飛行甲板で撮影された3枚の艦攻隊集合写真(艦攻隊総員集合写真、北島分隊集合写真、鈴木分隊集合写真、いずれも同じ日に撮影されたと思われる。16年12月5日か7日)に写っている白線の様子から、加賀飛行甲板中央部の2つ目の風向き標識の存在に関して書いたものです。
【総員集合写真】
いろいろと知人にも考察してもらった結果、飛行甲板中ほどにX状の風向き標識が描かれていてるようだという結論に達しました。
※知人提供加賀飛行甲板図
知人によるとこの加賀の数字、中央破線の右舷側に描いてあるらしいです。
※飛行機は縮尺を合わせてわたしが合成しました。
このような状態で、搭乗員たちは飛行機の前に艦首方向を向いて居並び写真撮影をしたのだろうと思います。
今回の本題。
「風向き標識周辺の復元」
前回、「長すぎるわ(;´Д`)」と割愛した部分です。
鈴木分隊集合写真にはほかにも貴重情報がありまして。
飛行甲板中軸線に対してほぼ垂直方向から撮影されているので、
「もしかしてこの画像から甲板の板の幅がわかるんじゃないか?」
と考えました。
中央付近に座っている搭乗員の階級章を利用しました。
知人Hちゃんに所有している実際の丸形階級章の直径を測ってもらったところ6.8~6.9センチぐらい、とのことだったので、6.9センチということでイラレ上で計測し、計算しました(黄色い数字はイラレ上の寸法)。
階級章がある位置(搭乗員がおしりを接地しているぐらいの場所かな)で板の幅を測りました。誤差があると思うので正確ではないですが、15.6センチとでました。
板と板の間に溝があるので、それも考慮に入れないといけないですが、そんなに正確に出なくてもいいので、板幅は約15センチということにしておきます。
「こんな数値出してどうするんだよ!?」
って話ですが。
ちょっとやりたいことがあったんです。
飛行甲板中央部の風向き標識(とその周辺)の復元。
板1枚の幅がわかれば中央部の白い太い破線の太さもわかりますね(おおよそ)。
板4枚分に描かれているので。
さらに、知人によると加賀の風向き標識の角度は60°とのことだったので、それにのっとって風向き標識を描き込んでみると、見えている範囲でどれほどの長さがあるのかもおおよそわかるのではないか?と考えました。
集合写真を撮影した周辺の飛行甲板の様子を溝入りで描いてみました(上の飛行甲板全体図とは上下逆になっています)。
風向き標識で一番長い部分、交点から赤丸のところまで8.6とか8.7メートルぐらいありそうです。そこで写真が切れているのでもっと伸びているんでしょう。
これはあくまでも「板の幅が約15センチ」「風向き標識の開き角度60°」という前提で出した数字なので、例えば板幅がバラバラだったり、14センチだったり、あるいは開き角度が若干違っていたりしたら話が違ってきます。
あくまで上の条件での話。
板幅はたぶん正確には出ていないので(溝もあるし)、おおよその数字としてとらえてもらえればと思います。
形も、上3枚の写真からはわかりません。
端部がきっちり一直線に切りそろえられて正三角形状になっているのか、それとも端部は弧を描いて扇状になっているのか。
端部を切りそろえていた場合。
端部が扇状に広がっていた場合。
プラモデルの作例などを見たら切りそろえられた正三角形状に作ってあるみたいですけど。
三段甲板時代の風向き標識は・・・・切りそろえられているように見えるんですが・・・・よくわかりません。
あと、中軸ラインの白い破線の間隔も写真からはわかりません。
自分なりに写真から数値を出していますが(風向き標識の開き角度が60°、板幅が15センチと仮定して)、これはまだちょっと保留です。
言い切っていいのは、
・幅15センチ程度の板4枚分に白い中軸ライン(破線)が描かれている(約60センチほどか)。
・白い中軸ラインの中心ではなく、やや右舷寄りにX状の風向き標識の交点がある。
・風向き標識の線は7本あり、板の約5分の2ほどの幅ではないかと思われる(板幅が約15センチとすると線幅は約6センチ)。
・風向き標識の一番左舷側、艦尾側の線は白い中軸ライン(破線)端から板25枚分のところまでは確実に描かれている。
他にも眼環位置の復元も試みてみました。
眼環というのは飛行甲板に埋め込まれている飛行機を係止するための装置です。
総員集合写真に写っている眼環。
中央の黒っぽい丸い穴です。
半球状で、ワイヤーを引っ掛けるためのブリッジがかかった装置を飛行甲板に埋め込んでいるそうです。
こうやって係止します。
これ、フェリーの客室にあったイスの係止装置ですけど(笑)
たぶん、こんな感じでフックを引っ掛けていたんじゃないかな。
加賀飛行甲板中央部の風向き標識周辺の見えている範囲で調べてみた結果、横方向には約1.5メートル間隔で設置されているのではないか?(板幅15センチ前提で)
縦方向はもっと間隔が短いように思います。
自分なりに数値を出していますが、ここでは保留ということで。
眼環はほかの空母に関してもずいぶん調べました。
板との関係とか、形状とか。
なかなか興味深いです。
わたしが見たほとんどの空母の眼環は掛かっているブリッジは直線状でした。
イメージとしては上図のような感じ。
正確な話をしだすと、こんな単純ではないんですが💦
ところが、加賀の眼環はほかの空母と形状が違うのです。
写真で見た感じでも「変わった形をしているなあ」と思っていました。
たとえばこれ、12年の加賀の眼環です(乙2浅川三雄さん写真)。
知人に尋ねてみたところ、これ、十字状のブリッジが掛かっているそうなんです。
この2枚は鈴木分隊写真に写っている眼環。
こんなイメージですかね。
眼環の位置がわかりやすいように、周囲を白く縁取りしているように見えます。
板の幅から推定すると直径は10センチ強かなという感じがします。
手元にある空母飛行甲板写真をすべて、あとネット上で閲覧できる空母飛行甲板写真、それらをくまなく探してみましたが、いまのところ加賀のような十字状ブリッジの眼環は見つけられていません。
フックを引っ掛けやすいと言えば引っ掛けやすい形状ですよね。
一度引っ掛けたら動きにくいでしょうしね。
どうして加賀だけ?って気はしますが。
割と正確に復元した(つもり)風向き標識の場所に97艦攻と搭乗員たちを配置してみました。
何度も言いますが、3枚の写真からは風向き標識の線がどこまで伸びているかはわかりません。
総員集合写真。
北島分隊集合写真。
鈴木分隊集合写真。
じつはほかにも検討していたことがあります。
飛行甲板の板の組み方。
結論から言うと、真珠湾時の上の3枚からは板の組み方はわかりませんでした。
ただ、大和ミュージアムが公開している加賀の昭和3年の建造時の写真(3段甲板時代)で見ると、板の組み方がよくわかります。
こんな感じで、5枚一単位で繰り返して敷いているように見えます。
先日、近所の木工店で売っていたスギとヒノキの端材で作った20分の1飛行甲板は加賀の昭和3年写真をもとに組んだものです。
テキトーに組んだんじゃないんですよ(^_^;)
さらにそこにマステで中央破線と風向き標識を貼りこんだもの。
(何度も言いますが、中央破線も風向き標識も長さは把握できていません)
同じ長さのマステを貼ったので風向き標識が扇状になっていますが、ホントは三角形状だったかも。
昭和3年の木甲板を参考に組んで、そこに真珠湾直前の風向き標識を貼りこんだので、たぶん実在しない飛行甲板です。
20分の1海軍搭乗員さん。
板は両面テープで貼り付けているので、ところどころ浮いちゃっています。
白線はマステじゃなくて”塗る”が正解なんですが、失敗したらと思うと怖くて塗れません(;´Д`)
板と板の間はわざと隙間が空けてあります。ホントはここに実際のように何物かを充填したかったんですが、細すぎてやめました。
不細工でスイマセン💦
ホントは2つ目の風向き標識の復元は加賀プラモデルでやりたいんだけどねー。
※画像は島田直さん、町元善春さんご遺族、浅川三雄さんご家族、大澤昇次さんご提供
加賀飛行甲板図は知人ご提供
知人にはほかにも飛行甲板全般に関する様々なご教示をいただきました。
Hちゃんはじめ、みなさまいつもありがとうございます。
加賀飛行甲板風向き標識 真珠湾攻撃時 ― 2024年01月30日 08時37分06秒
もう1年以上この問題にとりついているんですが(^_^;)
いまだに日々新たな疑問などが沸いて出てなかなかまとまりませんでした。
そろそろまとめにしようかな。
自分的には、
「みなさん、これ、ご存じないのでは?」
と思っているんですが、何せわたしは空母に関してはまったくの無知なので、もしかしたら空母好きな人からしたら、
「そんなん、前から知ってたわ!」
てことかもしれません。
しかし、ネット検索しても、空母の本などを見てもどこにも書いていないし、これで加賀プラモデルを作っている人も皆無のようなので、
「やっぱ、みなさん知らないのでは?」
と思って書いてみようというところです。
タイトル通り、真珠湾時の加賀の飛行甲板に関することです。
2015年に乙9期、熊本の島田直さんの墓参に行った折に見せていただいた真珠湾直前の加賀艦攻隊総員集合写真。
わたしは「初めて見た!」と思って興奮したのですが、じつはそれまでにも書籍などに掲載されていたものでした(吉良敢・吉野泰貴『真珠湾攻撃隊 隊員列伝』、神立尚紀『戦士の肖像』)。
それに気づかず、「これ、すごい!」ってSNSで友人に公開しちゃったと(^_^;)
そのとき、お一人から、
「(飛行甲板に放射状に広がっている白線の様子から)艦首に飛行機置いて撮ったの? その後ろにも飛行機が並んでいるし・・・・」
と、「へんだなあ?」みたいな感想をいただきました。
わたしとしては、友人たちに公開したのはもちろん写っている「搭乗員たち」のつもりで、それ以外の被写体に関してはまったく目が行っていませんでした。
そんな中で指摘された「風向き標識」。
そのときのわたしは艦首の風向き標識のことすら知らず、
「へえー、この矢印状の白線ってそういう機能のものなんだ~」
と、知人が感じた違和感についてはまったく気にもせず、その後、その”違和感”に関しては調べようともしませんでした。
風向き標識というのは空母の艦首に描かれた矢印状のもので、矢印の先端から蒸気を出し、空母かきちんと風に正対して走っているかどうかを確認するものです。
飛行機の発着艦の際は空母は風に正対して走ります。
わたしの記憶が正しければ、映画『永遠の0』でCG赤城が艦首の矢印から白煙を上げながら走っているシーンがありましたよね。
加賀艦攻隊集合写真の飛行甲板に描かれた放射状の線(矢印)はそういう機能のものらしいです。ふむふむ。
ちなみにこの加賀艦攻隊総員集合写真、書籍には12月7日、真珠湾攻撃の前日に撮影されたもの、という説明があるものがありますが、2021年12月に放送された「真珠湾80年 生きて 愛して、そして」という番組の中で紹介された加賀艦攻操縦員の北原收三さん(操50)の日記に12月5日に「記念写真を撮る」の記載が(ご遺族ご提供、Оさんご協力)。
北原さんは真珠湾攻撃で戦死されているので、日記は当日か遅くとも7日までには書かれていたもので、そういう意味では大変資料的価値が高い記述ではないかと思います。
北原日記の12月5日にはもう一つ注目の記述があって、
「一昨日来の暴風雨静まれども終日曇天小雨模様なり」
これなんですけどね。
総員集合写真を見ると飛行甲板のところどころに水たまりがあるように見えます。前日まで荒れていたらしいので波をかぶった可能性も無きにしも非ずですが、写真の様子からも晴天には見えません。天気の面からも「5日」で矛盾ないように思います。
ちょっと余談ですが、乙9期の島田清守さん(蒼龍艦攻隊)の日記によると12月5日は、
「次第ニ南下スル。昨日迄ノ荒天モ静マリト平常通リ「総員体操用意」ノ號令モカカル。飛行甲板ニ出ルト部隊ハ厳然ト進ム。各艦飛行甲板ニペラノ(不明。部員?)ガ有ル様ダ。攻撃ヲ前ニシテ、昨日、一昨日ト飛行甲板ノ作業モ出来ズ今日カラ一斉ニ初(始)マル。 飛行機ノ試運転ダ。」※( )はわたし注記
蒼龍ではこんな具合です。
蒼龍から見たら他艦も飛行甲板に飛行機を上げて試運転をしていたらしいので、きっと加賀も飛行機を飛行甲板に上げていたのでしょう。そのときに記念撮影もやった、ということだろうと思います。
というわけで、今回の話に直接関係はないですが、わたしはこの写真に関しては「12月5日撮影」説をとろうと思います。
余談の余談ですが、7日も加賀も蒼龍も飛行機を飛行甲板に上げています(北原日記、島田日記)。
お天気情報は北原日記「今日は暫く振りの晴天」。島田日記にはお天気情報なし。
と、ここまで書いてからの追記。
2023年9月に町元善春さんの遺品を見せていただいたのですが、同じ総員集合写真がありました。
どなたが書かれたのかわかりませんが裏に手書きで「昭和十六年十二月七日撮 布哇攻撃前日 加賀艦攻隊総員」と書かれていました。
「やはり7日なのか?」
正直、揺れています。
北原さんが日記に書いている5日に撮影した「記念写真」はこの集合写真のことではないのか?
総員集合写真の撮影日に関しては、機会をあらためてゆっくり考えてみようと思っています。
さて、加賀の風向き標識の話に戻ります。
加賀の艦攻隊は総員集合写真以外に分隊ごとの集合写真も撮っています。
ここでいう「分隊」というのは艦内分隊のことで、攻撃時の中隊とは異なります。
加賀艦攻隊は飛行隊長の橋口喬少佐(兵56)のもと、北島一良大尉(兵61)、牧秀雄大尉(兵61)、鈴木三守大尉(兵64)の3人の分隊長が3つの分隊を率いていました(Yさんご教示)。
艦内分隊と攻撃時中隊の話をしだすとここでは足りないので今日はやめておきます。
これら3分隊のうち、わたしが現時点で見ることができたのは北島分隊集合写真と鈴木分隊集合写真です。
総員、北島分隊、鈴木分隊のこの3枚の集合写真は、搭乗員の装備の様子から、同じ日に時間をそうおかずに前後して撮影されたものと捉えています。
総員集合写真に写っているこの白線、分隊集合写真にも写っていました。
北島一良大尉分隊集合写真。
ちょっとわかりにくいですが、最前列、甲板に座る搭乗員たちの足元(右端のほう)に線が写っているの、わかりますかね?
太い白線とそれに対して斜めに入る細い白線が描かれているようにあります。
じつはこれを見た時点でもわたしは「あること」にまったく気づいていなかったんですけどね(^_^;)
ふだんはどうしても搭乗員のほうに気が行ってしまって、飛行甲板上のその他のものに目が行きにくいのです。
「あれ?」
と思ったのは、この写真です。
さすがにわたしでも、ね(^_^;)
鈴木三守大尉分隊集合写真。
乙8期の町元善春さんの遺品です。
後ろに置かれている97艦攻は鈴木大尉(操)、森田常起飛曹長(偵)、町元2飛曹(電)の真珠湾攻撃時の搭乗機・AⅡ‐356号機です(カウリング下部に「56」あり)。
ビックリしました。
飛行甲板の白線がかなりがっつり写っているでしょう?
しかも、総員集合写真では矢印だと思っていた白線がX状に描いてあるではないですか。
ここまで見て初めて「はっ!(;゚Д゚)」としてこの線に関心を持ちました。
「他のもちゃんと見てみよう」
白線が引いてあると思われる部分をイラストレータでトレースして強調してみました。
【総員集合写真】
加賀の場合、飛行甲板中央軸あたりに太い白い破線が引いてあるんですが、その破線に重なって矢印のとんがり部分があり、そこから手前に向かって放射状に広がっているのがわかります。7本。
しかし、よく見ると、搭乗員たちの左後方にも延長した白い線が見えていたんですよ。
放射状の線はこちら側だけでなく、向こう側にも描かれているということがわかります。
【北島分隊集合写真】
やはり甲板中軸線の太い破線上に風向き標識のとんがり部分があるようです。
画像が切れていてこちら側に広がっている線はわかりませんが、搭乗員の左後方に延長の線が見えています。
【鈴木分隊集合写真】
説明はいらないでしょう。見たまま。
太い破線の上で交差した風向き標識はこちら側にも向こう側にも伸びています。
※北島分隊・鈴木分隊集合写真は白線を見やすくするため色調調整してからイラレで白線を描きました。
それぞれの撮影位置関係。
これ、想像の概略図なんですが。
総員集合写真はこんな感じで、飛行甲板中軸ライン(太い破線)上に沿って置かれた97艦攻に対して、すこし斜め状態に居並んだ総員を斜めから撮影。
北島分隊も同じく、少し斜めに居並んで斜めから撮影。
鈴木分隊は中軸破線ラインに対してほぼ垂直に並んで撮影。97艦攻も真正面からとらえています。
ここまで書いてきたらみなさんおわかりと思うのですが、これ、
「どう見ても艦首じゃない!(;゚Д゚)」
搭乗員たち、ワイヤーの上に座っているし、AⅡ‐356号機の後ろにも数機の97艦攻が並べられています。
艦首の風向き標識の向こうにそんなスペースありません。
それよりなにより、加賀の艦首部分は板張りではなく鉄張りだっていう話です(知人ご教示)。
知人作成の加賀の飛行甲板図を提供していただきました↓。
艦首の風向き標識で集合写真を撮ると、
こんな状態になっちゃうんですよ(上が艦首、下が艦尾)。
飛行機、落ちそう(;´Д`)
いや、複数機置くスペースないって(;´Д`)
ということはです。
上の3枚の集合写真、どこで撮ったんや?
って話です。
これはわたしが気づいたんじゃなくて知人が気づいた話なんですが。
町元さんの写真の風向き標識交点の左側に重要なヒントが隠されていました。
写真に数字が書いてあるような気がしていたんですが、知人によると「140」と書いてあり、飛行甲板上の位置を示しているということでした。
大事なことなので何度でも言います、知人が気づきました。
「140」から推測される風向き標識の位置を知人にイラストにしてもらいました。
知人によるとこの加賀の数字、中央破線の右舷側に描いてあるらしいです。
ということは、こんな風に飛行機を艦首に向けて並べ、その前に搭乗員たちが居並んで写真撮影をした、ということになるのでしょう。
この加賀飛行甲板平面図、ベースは知人作成です。
放射状の風向き標識も位置も知人が作ってくれた図をそのまま利用させてもらいました(知人と風向き標識に関して検討済み)。
縮尺を合わせた飛行機を置いたのはわたしです。
あくまでイメージ図ということで。
ここでちょっと考えてみたいのですが、鈴木分隊集合写真の97艦攻の胴体の向こうに四角く白塗りしてある部分があるのわかりますか?
わたしがイラレで加工したんじゃないですよ。
町元さんの写真がこの状態でした。
これは海軍がよくやる「写ってはいけないものが写っていたので隠しました」ってやつだと思うのです。
何が写っていたの?
知人によると「エレベーターが写りこむかもしれません」ということでした。
上の飛行甲板平面図を見てください。
飛行機をずらずら並べた奥(艦尾側)に後部エレベーターがありますね。鉄張り色で四角枠で囲まれた部分です。
あれが上昇したままの状態で写ってしまったのでは?
「おい、エレベーター写っちゃうよ。ヤバいよ」
って気づいたので、総員集合写真と北島分隊集合写真はエレベーターが写らないよう、搭乗員たちが斜めに座り、斜めに撮った――――んじゃないですかね?
それなら鈴木分隊も撮り直せばいいんですが、めんどうくさかったのか、別の理由があったのか、撮り直しせず「エレベーターを消して処理」――になっちゃったんじゃないか。
「別の理由」の候補ですが。
もしかしたら、後ろの97艦攻はそれぞれの分隊の分隊長機を置いて撮影したのかな?
鈴木分隊長機を背景に鈴木分隊集合写真を撮った後、
「しまった、エレベーターが」
となったけど、すでにほかの分隊長機に据えかえたあとだったので、
「もういいか」
と撮り直ししなかったのではないかな、とかとか。
想像ですよ。
撮影した順番もわからないのでね。
ちなみに背後の97艦攻が同じ機体か違う機体かは、まったくわかりません。プロベラの角度は同じように見えますが・・・・。
鈴木分隊集合写真の機体が鈴木大尉搭乗機である、ということがたしかなだけです。
ここで別の問題もあって。
「エレベーター上昇画像は機密なのかどうか」問題。
ネットで検索すると、加賀を真正面からとらえた画像でがっつり上昇状態のエレベーターが写っているものが出てきます(もとは動画みたい)。
うーん・・・・わからん。写っていいのか悪いのか。
でも、この画像を見る限り、写りこんで消されているのは上昇状態のエレベーターが一番可能性が高いと思うんですよね。
まさか整備員が翼の上からひょっこり顔を出していて、「おまえ、搭乗員の記念写真に写りこんじゃったぞ」と白塗りされたわけでもないでしょう。
そういうわけで、わたしは撮影場所は飛行甲板中央部あたり。
飛行機を艦首方向に向け、その前に搭乗員たちが居並んだ、と理解しています。
なぜ飛行甲板中ほどに風向き標識を描いているのか。
なぜ矢印状ではなくX状に両方向に開いているのか。
他に2つの風向き標識を描いている空母はあるのか?
現時点でわたしが飛行甲板中央部の風向き標識を確認できたのは加賀以外では、「赤城」と「瑞鶴」です。
赤城は真珠湾時の複数の写真に写っているのを確認しました。
赤城の飛行甲板中央部の風向き標識に関してはすでに周知の事実のようで、プラモデルや週刊赤城ダイキャストモデル、それに加えて様々なキャラクターや商品でも表現されています。
たとえば艦これの赤城さんが持っている飛行甲板形の盾みたいなものにも描かれているし、飛行甲板タオルや飛行甲板スマホケースでも描かれているものがあります(ないものもある)。
形は一方向のみに開く矢印状。
ただ、わたしが確認した写真では全体+周辺が写ったものがなくて、加賀のように反対側に伸びていないのかどうか、確認はまだとれていません。
艦尾方向に開いている風向き標識があるのは確実。
↓赤城飛行甲板はこんな感じ。大和ミュージアムで撮影してきた赤城の模型↓。
瑞鶴のほうは、世界の傑作機(文林堂)の零戦11-21型に掲載されている17年1月のラバウル攻撃時と説明のある甲板上に並べられた零戦写真、に写っていました。
こんな写真。
ホント、雑でスイマセン💦
ちょっと高いところからの視点なので艦橋の発着艦指揮所ぐらいのところから撮影しているのかな?
画像の真ん中あたり、中央の白い太ライン上を起点に艦尾方向に開いている風向き標識がしっかり写っています。
全部ちゃんと写っていないみたいですが、見えている線の間隔などから想像すると加賀と同じで7本あるのでは?
この画像で見る限りは艦尾に向かって一方向のみに開く矢印状で、加賀のように双方向には開いていないようです。
こんな感じでしょうか。
開き角度や大きさは適当です。イメージ図、みたいな感じで。
「翔鶴にはなかったん?」
って疑問がすぐに沸いていろいろと写真を探してみたのですが、現時点では翔鶴の飛行甲板中央部の風向き標識は見つけられていません。
もっというと、蒼龍と飛龍は?
となるんですが、これらも現時点で見つけられていません。
蒼龍は昭和14年撮影の、飛行甲板中央部でスモークを焚いて発艦している写真を大和ミュージアムで見ましたが、その写真ではその部分に風向き標識があるかどうかまでは確認できませんでした。ぱっと見、ないように見えます。
どうして風向き標識が飛行甲板中央部にも描かれているのか?
風向き標識が艦首だけだと正確に艦周辺の風向きを把握できなかったのか?
大きいですからね、赤城も加賀も瑞鶴も。
艦首の風向き標識の先端には蒸気吹き出し口があるらしいのですが、少なくとも加賀の飛行甲板中央部の風向き標識のXの交点に穴が開いている様子は見受けられません。何らかの仮設の蒸気発生装置でも置いたのでしょうか。赤城も同じでしょうかね。
(前述した14年蒼龍の写真では見た感じ仮設の装置は確認できず)
とりあえず2つあれば、万が一艦首が大きく損傷を受けたとしても、飛行甲板中央部の風向き標識が使える、ってのはありそうですよね。
ここで赤城・瑞鶴と加賀の違い。
飛行甲板中央部の風向き標識、赤城・瑞鶴は一方向だけれど、加賀は二方向に開いています。
なんで?
知人とこの件に関して話をしていて、「逆着艦」というワードが出てきました。
「逆着艦とはなんぞ!?(;゚Д゚)」
わたしには想像すらできんのですが、空母をバックさせて艦首側から飛行機を着艦させる――そうなんです。
「えー!? そんなことできるんですか!?」
↓ふつうの着艦 ※イメージです
↓逆着艦 ※イメージです
「ふぁあああっ!?(;゚Д゚)」
そもそも空母がバックするって、わたし、知りませんでした!
ちょっと手持ちの手記など探してみました。
そしたらですね、光人社NF文庫『母艦航空隊』高橋定ほか に掲載されている阿部平次郎さん(兵61、真珠湾時蒼龍艦攻隊)の手記(「日本海軍式”発着艦”指揮マニュアル」)にさらっと書いてありました。
「なお、大型航空母艦では異状な事態にそなえて、逆着艦(艦首の方から着艦すること)用の着艦指導灯が、前部飛行甲板の右舷に設置されていた」
うわああああ!!!! マジですかっ!?(;゚Д゚)
そりゃ大変だ!
となって、ネットで甲板前部が写っている画像を探し、拡大して目を皿のようにして着艦指導灯(着艦誘導灯)を探したのですが(加賀も加賀以外も)、残念ながらわたしには「これだ!!」ってのは見つけられませんでしたorz
ふつうは着艦してくる艦尾側から見えるように段違いの色違いライト(赤と緑)を艦外に張り出し状態で設置。
大和ミュージアムに展示してあった翔鶴模型の艦尾の着艦指導灯(着艦誘導灯)。黄色丸の部分。
その段違いが重なって見える状態が着艦に適した角度で降下している状態、ってことらしいです。
半信半疑でいろいろあさっていたら、『艦船模型スペシャル』2022年春号の大鳳特集に「あっ!(;゚Д゚)」と驚く作例があることに気づきました。
いくつか大鳳の作例があるうちの一つ、フジミ700分の1で作った「改大鳳」って作例です。
この改大鳳、艦首側にも着艦指導灯がバッチリついているんですよ!
「まじか!(;゚Д゚)」
またまた驚いたのでネットで検索してみたら、大鳳は艦首側からの着艦を想定して艦首側に着艦指導灯がついているって書かれた記事がいくつかありました。
知人の話だと大鳳の飛行甲板前部の着艦指導灯は図面に描いてあるそうです。
加賀にも艦首側に着艦指導灯がついていれば、「飛行甲板中央部の双方向風向き標識は逆着艦にそなえるため」説の強力な援軍になるのですが、現時点では何とも・・・・です。
去年9月に潜水艇がミッドウェー海底の加賀探索をしたときにずっとライブ映像を見ていたのは、
「艦首の着艦指導灯が映らないかな」
という期待?があったのです。
しかし、損傷がひどい&わたしの無知がひどい、で映しだされているのがどのあたりの部位なのか、どういう構造物なのか、さっぱりわかりませんでした。
ちなみに18年に翔鶴に乗っていた艦攻操縦員の方に逆着艦にそなえた装置(艦首の着艦指導灯、双方向の風向き標識)があったか尋ねてみましたが、記憶にないということでした。
よくわからないです。
赤城や瑞鶴だって不測の事態が起こって逆着艦せざるを得ない状況に追い込まれる可能性もあるわけで。
なぜ加賀だけ双方向の風向き標識を描いているのかな?
艦首オンリーだったり、2つあったり(艦首と飛行甲板中央部)、あるいはそのうち一つがX状だったり。
あるいはまったくなかったり?というのもあるんでしょうか?
どこにどう描くか、どういう決め方をしているんでしょうね?
時期によってあったり、なかったり?
艦長の裁量?
何度も言いますが、わたしは飛行甲板のことに関してはまったくの無知なので、ここで解決しなかった疑問やその他これらの加賀写真からわかることに関しては知人にあとを託したいと思います。
※画像は島田直さん、町元善春さんご遺族、大澤昇次さんご提供
風向き標識の位置を示す140メートルの情報と飛行甲板図は知人ご提供です。
知人にはほかにも飛行甲板全般に関する様々なご教示をいただきました。
本文にも書いたYさん、Оさん、みなさまいつもありがとうございます。
島田清守さんの蒼龍時代(昭和16年11月12月分)の日記はブログ本文右欄にリンクがあります。
偵27 藤波貫二さん ― 2023年08月04日 17時27分17秒
東京都出身。
海軍に入る前は学校の先生を目ざされていたのだとか。
昭和11年5月10日に発生した龍驤の艦爆の事故調書。
上の調書の藤波さんの前歴欄に「館空艦攻偵察員」と書かれています。
で、「昭和十年十月十八日以降仝(龍驤九四式艦爆第四小隊三番機)右偵察員」と。
なので、藤波さんは昭和10年10月に館空から龍驤に転勤したのだろう、と。
推測込みですが、残っている写真を年代順にならべてみました。
昭和7年 横須賀海兵団入団。
藤波さんの袖は見えないのですが、写っている兵の人たち全員が「横須賀海兵団」のペンネント、さらに袖が見えている人は階級章ナシ(4等兵)なので、たぶん海兵団入団からそう遠くない日の撮影と思われます。入団直後ぐらい?
「横須賀海兵団」。
藤波さんの袖に3等機関兵の階級章がついているので、上の集合写真よりは新しいです。
上の写真にも写っている人もいるし、見当たらない人もいるし・・・・。
「海軍工機学校」。
階級章は見えません。
「海軍工機学校」。
こちらでは藤波さんは3等機関兵の階級章をつけているように見えます。でも判然としません。
工機学校の2枚の写真はどちらが先か後か、これだけではわかりません。
長門。
2等機関兵。左袖には特技章も。
このあと偵練に進まれたようです。
写真がないけれど、偵練27期(横須賀海軍航空隊)。
昭和9年ごろ。
卒業後、延長教育が館山海軍航空隊。艦攻偵察員。
袖の階級章は1等航空兵。左袖には操(偵)練出身者の特技章。
善行章はないように見えるので、~10年前半ぐらいの撮影でしょうか。
こちらは善行章がついているので10年夏ごろでしょうか。
そして昭和10年10月から龍驤、艦爆偵察員。
次なのか、次の次なのかわかりませんが、12~13年ごろ多摩で水偵偵察員。
斉藤さんと。
ヒゲの藤波さん。
すでにベテランの風格を漂わせていますが、よく見ると善行章が1線しかついていないので昭和10年頃から13年ごろの写真のようです。
龍驤か多摩か。
後ろの壁から「龍驤だ」「多摩だ」ってわかる方がいらしたらご一報ください。
先日紹介した家族写真。
お孫さんのお話だと16年撮影ということでした。
奥様が抱っこしている次女さんの生年月日を教えていただいたので、そこから16年のいつごろかわかるとよいのですが、戦前戦中の子どもさんはいまの子どもと発育が違っていたりして、見た目で「何ヶ月ぐらい」とか「何歳ぐらい」って難しいですよね。
わたしは別方面から撮影時期が絞れないか検討中です。
真珠湾攻撃時は蒼龍。水平爆撃隊嚮導機偵察員。(鹿熊粂吉さんご遺族所有)
16年後半。
9月18日~11月の撮影だと思います。
前列右端の田中敬介さん(甲2、17年6月5日 ミッドウェー)は9月17日まで佐藤治尾飛曹長―金井昇1飛曹機(1中隊嚮導機)の電信員でした。18日に「待望の偵察員」になれたとかでペアを離れた旨、金井さんの日記(金井昇さんご遺族所有、Oさんご教示)に記されています。
田中さんが偵察配置集合写真に写っているということはその日以降の撮影ということ。
家族写真。
藤波さんの階級章がよく見えないんですよね。飛曹長かな。
袖に桜がついているので17年の春か秋ぐらいかなあ?
お嬢さんたちが半袖なので、海軍的には1種だけど気候的には半袖で過ごせる時期、ってことでしょうか。
階級章がはっきり見えないですが、飛曹長か少尉でしょう。
詳しい人に見てもらったところ、
「トラックの竹島かなあ?」
と言われたので竹島飛行場の写真を探してみたのですが、こんな風景が見える場所じゃないような気もしました(後ろの山)。
どこでしょうね? 山からわかりそうな気もしますが。
「この山、見たことがある」って方はぜひご一報ください。
ネットで楓島というのも見たのですが、飛行場と山が写っている写真を見つけられませんでした。
後ろに写っている飛行機ははっきり見えないけれど全体の感じから天山っぽいとのこと。
この三種軍装の藤波さんは少尉の階級章をつけていますので、見せていただいた中ではこれが一番新しい写真なのかなと思います。
19年6月29日 攻撃251飛行隊 サイパン
※以前書いたときは「マリアナ」にしていましたが、ご遺族の方と戦史研究家の方の話を聞いて「サイパン」にしました。
※画像は( )以外は藤波さんご遺族ご提供。
金井さん・鹿熊さん遺品に関してはOさんご協力。
偵27 藤波貫二さんの写真 龍驤艦爆隊 ― 2023年07月18日 17時58分37秒
今回送っていただいた藤波さんの写真の中にただ1枚だけあった飛行機隊の集合写真。
ひとめ見て「古いな(^^;)」って写真です。
書き込みもないので、いつの、何の集合写真かわからなかったのですが、ヒント見つけました。
一緒に写っている兵のペンネント、「大日本軍艦龍驤」!!
「そーか、藤波さんは龍驤にもいたのか!」
装備や写っている飛行機がなんか古そうだったので、多摩の前の勤務先かなと思ってとりあえずあてずっぽうで「龍驤 昭和11年」でアジ歴検索したら出てきましたー。
あまりよろしくない。
事故調書。
ひとつひとつ開いていったら、昭和11年5月21日、笠ノ原基地で作成された94式艦上爆撃機の事故調書に藤波さんのお名前が(゚Д゚;)
事故発生年月日及場所 昭和十一年五月十日午前十時四十七分九州東方海上足摺岬一四〇度八〇浬
航空作業種別 聯合艦隊第二回応用教練 敵空母第二次空中攻撃
搭乗員
操縦員 官(職)階氏名 海軍一等航空兵 玉置次郎 総飛行時数四ニ八時間五分 事故発生機飛行時数 一三四時間二五分
経歴(操縦ニ関スルモノ) 第二十四期操練 大村海軍航空隊 艦攻操縦員 昭和十年十月二十六日以降龍驤九四式艦爆第四小隊三番機操縦員 既往ニ事故ナシ
同乗者 官(職)階氏名 海軍一等航空兵 藤波貫二 第二十七期偵練
経歴概要 館空 艦攻偵察員 昭和十年十月十八日以降仝右偵察員既往ニ事故ナシ
(機体、発動機に関する記述、略)
損傷程度 搭乗員 操縦者肺ニ海水ヲ吸込ミタルモ経過良好 偵察者異状ナシ
器材 大破沈没
事故概要 別紙
一、天候気象其ノ他四囲ノ状況
二、搭乗者・任務又ハ指揮者ノ与ヘタル命令注意事項等(事故ト関係アルモノ)
三、経過
四、事故発生時及其ノ直後ノ処置
五、其ノ他必要ト認ムル事項
事故原因
原因二以上ノ場合ニハ第一第二原因等又ハ直接間接原因等ノ如ク併記ス
原因明確ナラザル場合ニ推定原因ヲ記ス
推定原因
(一)、急降下侵入時機首ノ下ゲ方急激ニシテ発動機ヲ停止セシメ燃料過多又ハ過■ト発動機過冷ニヨリ再起動セザリシカ
(二)、着水迄燃圧0ナリシコト確実ナル所ヨリ見レバ「エアロック」ヲ生ジタルカ調圧弁又ハ燃料ポンプ不作動ニ依ルモノト認メラル
責任ニ関スル事項
責任ニ関スル所見処置ナドヲ記ス
(一)、技倆未熟或ハ機構上ノ故障ニシテ事情ヤムヲ得ザル事故ト認ム
(二)、発動機ノ取扱ヒ法及浮泛装置ノ取扱法ニツキ教示ス
所見
本事故ニ鑑ミ必要ト認ムル対■其ノ他意見等ヲ記ス
急降下引起し時発動機停止原因ヲ探究シ対策ヲ講ズルヲ要ス
記事 ナシ
別紙
事故概要
一、半晴 風八〇度六乃至八米 海上波浪アリ
二、敵空母急降下爆撃(擬襲)
急降下爆撃注意事項
(イ)敵を発見セバ主槽ヲ使用シ接敵開始時高々度把柄ヲ全閉トナセ
(ロ)接敵ハ前続機ノ通跡ヲ進ミ急降下進入前燃料加減柄ハ全閉トシ高度一五〇〇米ヨリ次第ニ七〇度トナセ
(ハ)引起シハ機首ノ水平線ニ達スルマデ全力ヲ用ヒ且直進 然ル後燃料加減柄ヲ静ニ出セ
(ニ)再起動セザル時ハ加減柄ヲ一杯絞リタル後更ニ静ニ出セ
(ホ)不時着ノ処置ヲ早目ニナスコト 即チ海上ニテハ浮泛装置ノ嘴ハ開トナシ置クコト 故障復旧ニトラワレズ浮泛装置ヲ直ニ作動シ風ニ向ヒ良好ナル着水トナスコト
三、昭和十一年五月十日午前八時四十分笠ノ原出発 午前十時ヨリ主槽使用燃圧計〇、一八ニテ振ナシ 午前十時四十分敵加賀ニ接敵開始 高度二〇〇〇 高々度把柄全閉 高度一五〇〇ヨリ加減柄全閉 急降下ニ入リ十時四十分爆撃(加賀ヨリ望見セル者ノ言ニ依レバ急降下中機尾ヨリ白キ尾ヲ引キタルモノ九機中二機アリタリ 其ノ中ノ一機ハ本機ナルガ如シ)機首ヲ水平ニ起シタル後加減柄ヲ出シタルモ爆音聞エズ 高度四〇〇米 気速一一〇節 回転八〇〇 燃圧〇 直ニ加減柄ヲ絞リ更ニ静ニ出スモ起動セズ 燃圧ハ手動ポンプヲ作動シタル時ノミ瞬間的ニ上ルモ常ニ〇ヲ示シ回転又八〇〇付近 遂ニ冷静ヲ失シ起動発電機ヲ廻シ注射ポンプヲ衝ク等不要ノ応急操作ヲナシ浮泛装置ヲ作動スルヲ忘レ又追風着水ノ已ムナキニ至レルハ遺憾ナリ
四、十時四十七分不時着水転覆 機体ハ約三十秒後沈没 十時五十七分波間ニ漂フ搭乗員ハ追風ニ救助セラル 其ノ救助振ハ誠ニ機敏ナリ
航空作業種別 聯合艦隊第二回応用教練 敵空母第二次空中攻撃
搭乗員
操縦員 官(職)階氏名 海軍一等航空兵 玉置次郎 総飛行時数四ニ八時間五分 事故発生機飛行時数 一三四時間二五分
経歴(操縦ニ関スルモノ) 第二十四期操練 大村海軍航空隊 艦攻操縦員 昭和十年十月二十六日以降龍驤九四式艦爆第四小隊三番機操縦員 既往ニ事故ナシ
同乗者 官(職)階氏名 海軍一等航空兵 藤波貫二 第二十七期偵練
経歴概要 館空 艦攻偵察員 昭和十年十月十八日以降仝右偵察員既往ニ事故ナシ
(機体、発動機に関する記述、略)
損傷程度 搭乗員 操縦者肺ニ海水ヲ吸込ミタルモ経過良好 偵察者異状ナシ
器材 大破沈没
事故概要 別紙
一、天候気象其ノ他四囲ノ状況
二、搭乗者・任務又ハ指揮者ノ与ヘタル命令注意事項等(事故ト関係アルモノ)
三、経過
四、事故発生時及其ノ直後ノ処置
五、其ノ他必要ト認ムル事項
事故原因
原因二以上ノ場合ニハ第一第二原因等又ハ直接間接原因等ノ如ク併記ス
原因明確ナラザル場合ニ推定原因ヲ記ス
推定原因
(一)、急降下侵入時機首ノ下ゲ方急激ニシテ発動機ヲ停止セシメ燃料過多又ハ過■ト発動機過冷ニヨリ再起動セザリシカ
(二)、着水迄燃圧0ナリシコト確実ナル所ヨリ見レバ「エアロック」ヲ生ジタルカ調圧弁又ハ燃料ポンプ不作動ニ依ルモノト認メラル
責任ニ関スル事項
責任ニ関スル所見処置ナドヲ記ス
(一)、技倆未熟或ハ機構上ノ故障ニシテ事情ヤムヲ得ザル事故ト認ム
(二)、発動機ノ取扱ヒ法及浮泛装置ノ取扱法ニツキ教示ス
所見
本事故ニ鑑ミ必要ト認ムル対■其ノ他意見等ヲ記ス
急降下引起し時発動機停止原因ヲ探究シ対策ヲ講ズルヲ要ス
記事 ナシ
別紙
事故概要
一、半晴 風八〇度六乃至八米 海上波浪アリ
二、敵空母急降下爆撃(擬襲)
急降下爆撃注意事項
(イ)敵を発見セバ主槽ヲ使用シ接敵開始時高々度把柄ヲ全閉トナセ
(ロ)接敵ハ前続機ノ通跡ヲ進ミ急降下進入前燃料加減柄ハ全閉トシ高度一五〇〇米ヨリ次第ニ七〇度トナセ
(ハ)引起シハ機首ノ水平線ニ達スルマデ全力ヲ用ヒ且直進 然ル後燃料加減柄ヲ静ニ出セ
(ニ)再起動セザル時ハ加減柄ヲ一杯絞リタル後更ニ静ニ出セ
(ホ)不時着ノ処置ヲ早目ニナスコト 即チ海上ニテハ浮泛装置ノ嘴ハ開トナシ置クコト 故障復旧ニトラワレズ浮泛装置ヲ直ニ作動シ風ニ向ヒ良好ナル着水トナスコト
三、昭和十一年五月十日午前八時四十分笠ノ原出発 午前十時ヨリ主槽使用燃圧計〇、一八ニテ振ナシ 午前十時四十分敵加賀ニ接敵開始 高度二〇〇〇 高々度把柄全閉 高度一五〇〇ヨリ加減柄全閉 急降下ニ入リ十時四十分爆撃(加賀ヨリ望見セル者ノ言ニ依レバ急降下中機尾ヨリ白キ尾ヲ引キタルモノ九機中二機アリタリ 其ノ中ノ一機ハ本機ナルガ如シ)機首ヲ水平ニ起シタル後加減柄ヲ出シタルモ爆音聞エズ 高度四〇〇米 気速一一〇節 回転八〇〇 燃圧〇 直ニ加減柄ヲ絞リ更ニ静ニ出スモ起動セズ 燃圧ハ手動ポンプヲ作動シタル時ノミ瞬間的ニ上ルモ常ニ〇ヲ示シ回転又八〇〇付近 遂ニ冷静ヲ失シ起動発電機ヲ廻シ注射ポンプヲ衝ク等不要ノ応急操作ヲナシ浮泛装置ヲ作動スルヲ忘レ又追風着水ノ已ムナキニ至レルハ遺憾ナリ
四、十時四十七分不時着水転覆 機体ハ約三十秒後沈没 十時五十七分波間ニ漂フ搭乗員ハ追風ニ救助セラル 其ノ救助振ハ誠ニ機敏ナリ
浮泛装置(ふへんそうち)・・・・艦上機の後部胴体内および主翼付根付近に装備されるゴム布製の装置であり、不時着水した際に機体がすぐに沈没しないよう、浮の役目を果たすものである。エンジンの火災消火用に装備されている炭酸ガスボンベと繋がっており、不時着水の直前にガスを注入して浮嚢を膨らませる構造のものが多用された(柴田武彦2007「日本海軍における搭乗員の安全対策について-救命用装備品の変遷を中心として-」より)。
追風・・・・追風着水は向い風に対する「追い風」。
追風に救助せらるは「駆逐艦 追風(おいて)」のことと思われる
表形式・縦書きのものをずらずらと横書きで書いたので読みにくいかと思います。
表形式のまま手書きを活字に直したものを貼っておきます。
※アジア歴史資料センターHPより活字化
おふたりとも大事に至らず何よりでした。
他の事故例などを見ると不時着水時の衝撃で大怪我、あるいは死亡、また機と一緒に沈んでしまった人などもいるようで、一歩間違えたら・・・・というところだったのではないでしょうか。
事故原因に関しては搭乗員お二人に責任はなさそうですが、機体変調後の対処のしかたにやや問題があったようで「遺憾なり」と書かれてしまっています。
冷静を失し不要の応急操作をなし浮泛装置を作動させるのを忘れてしまい追い風で着水してしまったとか何とか。
浮泛装置の件は操縦員、偵察員、どちらの仕事なのかなと思って調べてみたところ、単座だったら操縦員の仕事になるのですが、複座の場合、上の柴田氏の文献で挙がっている例「昭和 9(1934)年 3 月 6 日に大村海軍航空隊の八九式艦上攻撃機がエンジントラブルで海上に不時着した際には、浮泛装置を作動させようとして偵察員が瓦斯壜の「トグル」を引っ張ったが堅くて動かず、更に力を入れると「トグル」がワイヤーから離脱したため浮泛装置を膨張させることができなかった。」とのことで、この場合は偵察員が作動を担当したようです。
後には改良されて操縦席での簡単な操作で作動させることが可能になったとのこと(のちの97艦攻)。
94式艦爆の場合はどんな機構なのか、わたしにはわかりませんでした。
しかし、こういうことを経験して、いずれどんな修羅場にも冷静に対応できる搭乗員ができ上っていくのだろうなと思いました。
龍驤艦爆隊集合写真に写っている飛行機ですが、Yさんに確認してもらったところ、
「94式艦上爆撃機で間違いないでしょう」
とのことでした。
ちなみに藤波さんのペアの操縦員・玉置1空がどの人なのかはわかりません。
※画像はご遺族ご提供
偵27 藤波貫二さんの写真 大日本軍艦長門 ― 2023年07月17日 13時36分36秒
今回送っていただいた写真の中にこんな写真がありました。
どこかの艦上?
藤波さんをよく見たら、ペンネントに「大日本軍艦長門」!
藤波さんが袖につけているのは、
階級章。
特技章。
島田清守さん(9期)のところにあった海軍々人官職区別章及各章之図より
先日、Kさんから貴重情報をいただいたのですが、何かというと藤波さんの偵練時・偵練前のことがわかる資料。※偵練27期は昭和9年にやっているそうです
藤波さん、偵練卒業時の成績が全体の3番目、成績優秀でした。偵察員としての技量だけでなく人物評価も含めた成績で好成績でした。
さらにその資料には偵練に入る前のことも書かれていて、偵練直前は「長門」にいたそうです。
偵練時の階級は「一等機関兵」。※卒業して「一等航空兵」になったものと思われます
この写真の藤波さんは階級章は2等機関兵、善行章ナシ。
善行章は入団(隊)年がわかっていれば、何線つけているかで写真の撮影期間が絞れたりします。
これ、下士官・兵は海軍にお勤めして3年に1線付与されるものです(何もやらかさなければ)。
藤波さんの善行章に関してですが。
先日ここに出した藤波さんの家族写真。お孫さんによると昭和16年撮影とのことでした。
藤波さん、善行章を2線つけているんですよね。
善行章に関してはもひとつヒントがあって。
以前に、長井分隊長が所持していた蒼龍11分隊の名簿(昭和16年11月1日付)があるって話をここに書いているんですが、その名簿、下士官のお名前の下に善行章の数が併記されていて、藤波さんは山形が3本書かれています(ちなみに11分隊下士官兵で善行章3線は藤波さんだけ)。
藤波さん、16年になって、11月までの間に2線から3線に増えたってことです。
金井昇さんの16年の日記を読んだって話も書きましたかね?
藤波さんと金井さんはともに蒼龍艦攻隊水平爆撃隊の嚮導機偵察員で金井さんの行動(私的除く)はつまり藤波さんの行動とかぶっているだろうと思って読みかえしています。
上の家族写真もおおよそいつ撮影されたものか推定はできそう。金井さんが公務で関東近郊にいる時期とか(藤波さんは東京出身)、内地にいない時期などから。
それらのことからさらに推定すると、藤波さんは昭和7年に海軍に入ったのではないか。
成績優秀、人物評価も高い藤波さんが何かやらかして善行章付与に影響が出ていることは考えにくいので、順調にもらっていると仮定して逆算すると、3線目16年なら、2線目は13年、1線目は10年ってことかな。
長門写真は「善行章がない」&「2等機関兵」などから推定して昭和8年か9年の初めごろの撮影なんじゃないかなと思っています。
※入団年に関してはこれを書いた後でKさんに確認したところやはり「昭和7年」とのことでした。
この写真もYさんに見てもらったのですが、「後ろの短艇に『トガナ』って書いてある」とのご指摘が!
ホントだ!(・∀・)
なので撮影場所もほぼ長門で間違いないのでしょう。
後ろの大きな筒は主砲か。
※画像は藤波さんご遺族、島田清守さんご遺族ご提供
金井さん日記・長井さん名簿はOさん(『真珠湾攻撃隊 隊員と家族の80年』)ご提供