乙7期 安達梅男さん ― 2026年05月16日 00時06分13秒
9期生の飛行機隊戦闘行動調書は、10年以上前にその時点で公開されていた分はわたしはほぼ見ているのではないかと思います。
当時はみんなの操偵、機種すらわからず、悪戦苦闘していました。
どこの航空隊に勤務していたのか、操縦員なのか偵察員なのか、行動調書を見て判断していました。
ただ、「見ている」と言っても9期生の名前を探していただけで、ペアまで気が行っていませんでした。
最近、わけあって藤谷周覚さんの行動調書を全部見返していたのですが、初陣から、
「あっ!」
と声をあげてしまいました。
1空
昭和16年12月8日 クラークフィールド攻撃
操縦:安達梅男1飛曹(乙7)
藤谷周覚3飛曹(乙9)
偵察:関谷関吾2飛曹( )
小山一男2飛曹(乙8)
古閑靖人1飛(丙3)
電信:藤井初男1飛( )
搭整:小山義助(介?)( )

安達梅男さん

小山一男さん
安達さんはこのあともずっと藤谷さんのペアの主操です。
昭和17年4月、1空から4空に転勤になったときも一緒に異動しているようです。
小山さんは同じ分隊は同じ分隊だったようで、おそらく転勤も一緒にしているのでは? たまに一緒に飛ぶことも。その後、4空時代にあるできごとがあり、それ以降は藤谷さんのペアの主偵になります。途中で転勤されたのか、行動調書からお名前がなくなりました。
中攻隊は大所帯なので乙飛の先輩は当然いるでしょうが、いつもだれかかれか先輩と一緒に飛ぶっていうのは心強いんじゃないかなと思います。いや、わからんですよ。世の中にはいろんな”先輩”がいるんで(笑)
そういうわけで、わたしは勝手に安達さんを藤谷さんの操縦の師匠認定しました。
安達さんは支那事変から出撃しているベテラン搭乗員です。
藤谷さんは初陣からずっと、安達さんの操縦を見ながら成長していったんだろうな、と。
以前、知人Мさんから見せてもらった7期中攻操縦員のアルバムに安達さんが何枚か写っていたので、今日は安達さんの話を。
山口県出身。
中攻操縦員。
予科練時代(横須賀)



失礼な話なんですが、見つけたときは「めっちゃかわいいやん」って口に出てしまいました💦
誰でも雛鷲、いや、それ以前のたまご時代もあるわけで。
冒頭の写真は7期の卒業アルバムの写真です。
さすがに「かわいい」ではなくなっています。
でも、やさしそうな感じに見えますけどね。※個人の感想です
飛練時代(霞ヶ浦)

大型機講習時代(木更津)

すでに下士官任官しています。
7期生は飛練を卒業した時点ではまだ兵階級なんですよね。
中練で飛練を卒業して特技章を付与され、延長教育として実用機訓練をしています。
安達さんもどこかで攻撃機の訓練をしてから木更津で大型機講習を受けたのだろうと推測。
同じ呉の山口良一さん(愛知県出身)が大分で攻撃機をやっていたようなので、安達さんもその可能性大かななんて思っているのですが。わかりません。
実施部隊時代


これ、同じ7期の中攻操縦員の方のアルバムにあった写真なのですが、15年2月10日の注記がありました。
この写真は注記はこれだけですが、同じ場所で撮られたと思われる写真に「上海集会所」という注記があるものがありました。
15年2月分は見つけられなかったのですが、15空の戦闘詳報、5月の百色鎮庵攻撃隊編制表に安達さんのお名前があるので、大陸の方に行っていたのは行っていたようです。が、2月にどこにいたのかはわかりませんでした。
安達さんに似ているような気がするんですが・・・・。
残念ながら藤谷さんと一緒になった1空時代(16年11月~17年3月)、4空時代(17年4月~)の安達さんの画像は手元にありません。
なので、搭乗機を作ってみました。
4空 17年7月12日 リ号作戦ニ於ケル「ブナ」「ココダ」間クムン河附近写真撮影 ブナカナウ
操縦:安達梅男1飛曹(乙7)
藤谷周覚3飛曹(乙9)
偵察:入常雄飛曹長( )
古閑靖人1飛(丙3)
小林正次2飛(丙4)
電信:藤井初男1飛( )
石丸正博1飛(丙)
搭整:小玉長三郎1整曹( )
安達さん、藤谷さん、古閑さん、藤井さん、小玉さんはこの頃の固定のペアだと思います。
ふだんは偵察員は関谷関吾2飛曹と富田一郎2飛(丙3)が入っていることが多いのですが、このときはなぜか入常雄飛曹長と小林正次2飛が入っています。任務が写真撮影だったことと関係があるのかないのか。
そして、なぜか、このときの任務だけ安達機の機番号が書いてあったのです。見つけたときは歓喜しました。
以前にYさんが9期生で機番号がわかる人がいれば塗装図を描くよと言ってくれていて、実際に坂田清一さんの彗星とか平山繁樹さんの銀河とか描いてもらいました。
「Yさんに頼もー!(*´▽`*)」
と一瞬思ったのちすぐに、
「Yさん、たぶんいま忙しい(;´Д`)」
ということに気づきました。某イベントで。
なので自分で描いてみました。
スイマセン、クオリティ低いですorz
ただ、出来上がったものはYさんに見てもらい「大丈夫」のお墨付きをいただきました💦
※ベース・参考は文林堂『世界の傑作機 1式陸上攻撃機』の塗装図や写真
安達さんは16年12月8日の台南からのクラークフィールド攻撃に参加後、比島各地の攻撃や蘭印進出後はダーウィン攻撃などに従事。2月下旬にラバウルに移動後、4月1日に1空から4空に転勤になった藤谷さんと一緒に転勤したのではないかと思われます。
そのタイミングで木更津に帰って来たようです。※いずれも行動調書からの推測です
5月初めにラバウル(ブナカナウ)に再進出、モレスビー攻撃や哨戒が主な任務でした。
そして運命の17年8月7日。
この日は坂井三郎さんの『大空のサムライ』でも大混乱が描かれている日なのですが、米軍がガダルカナル・ツラギに進攻開始した日です。
4空(中攻隊)・台南空(戦闘機隊)ではニューギニアのラビ飛行場の攻撃に向かう予定でしたが、米軍の動きを知り急遽攻撃目標をガダルカナルに変更。
この日、どういう事情があったのかわからないですが、藤谷さんは佐々木孝文予備少尉の副操として、別ペアと一緒に出撃します。
一方の安達さんは、
操縦:安達梅男1飛曹(乙7)
太田繁雄3飛曹(操47)
偵察:関谷関吾2飛曹( )
西崎恒一2飛(丙3)
電信:藤井初男1飛( )
搭整:大貫岩雄1整曹( )
小玉長三郎1整曹( )
この攻撃で4空は爆装で27機出撃、4機の自爆機と、2機の不時着大破機を出しました。戦死者29名。
自爆した4機の中に安達機が含まれていました。搭乗員は全員戦死。
藤谷さんは同じ中隊で出撃していました。目の前でふだんの自分のペアの最期を目撃してしまったのか、それともラバウルまで帰ってきてから知り、戻らぬペアを待ち続けたのか、それはわかりません。
藤谷さんは何も書き残していなのでそのときの心境などは想像するしかないのですが、同じことを経験された方にとっては相当衝撃的な出来事だったように思うので、藤谷さんもショックを受けたのではないかと想像します。
多座機のペアは常に「生きるも死ぬも一緒」の仲間なんですよね。そういう意味では家族以上の存在ではないかと。
このときの藤谷さんの気持ちを想像すると、しんどいです。
※画像は7期生ご遺族、8期東富士喜さんご家族、Мさん、武田信行氏ご提供。
無断転載禁止でお願いします
マリアナ沖海戦の652空戦爆隊 飛鷹・龍鳳組 ― 2026年01月14日 20時38分08秒
乙8期の東富士喜さんの写真の中に、マリアナ沖海戦時の652空の戦爆隊と思しき集合写真がありました。

知人何人かに聞いてまわったところ、同じ写真(東富士喜さんのもので、提供は奥さま名)が川崎まなぶさんの『マリアナ沖海戦』(大日本絵画)に掲載されていて、しかもどれが誰さんか特定済みとのことで。
『マリアナ沖海戦』によると652空の戦爆隊で、飛鷹発艦組と龍鳳発艦組の集合写真で、飛鷹艦上で撮られたものだとのこと。
写っているのは、
後列左から、
占部正道2飛曹(丙13)、不明、不明、佐藤孝治上飛曹(操47)、不明、不明、不明、金高菊雄2飛曹(丙12)
中列左から、
不明、東富士喜飛曹長(乙8)、村上武大尉(兵70)、矢田義治1飛曹(乙16)、富田勝夫飛長(丙15)
前列左から、
不明、木須奨2飛曹(丙12)、野口八郎上飛曹(乙12)、小泉繁造上飛曹(操55)、岡澤清忠上飛曹(甲7)、植竹巧上飛曹(甲9)
だそうです。※出身期は『マリアナ沖海戦』巻末編制表より
わたしは東さん以外は確認できていません。
これが巻末編制表から抜き出した652空戦爆隊の昭和19年6月19日・20日の編制です。
写真に写っているとして氏名が書かれているのはオレンジベタの人です。
ふつうに考えたら、「『不明』と書かれている人はベタなしの人では?」と考えます。
写真に氏名を入れてみました。
赤が『マリアナ沖海戦』参照、緑がわたしが書き加えた人です。
※氏名が間違っていたので差し替えました。202601150011
富永勝馬さん(乙16)なんですけどね。後列左から2人目。
いや、富永さんのお顔、知らんですよ。
名札がね、「富永」に見えるんですよ。

※色調調整しました
隊に富永が二人いない限り、乙16の富永勝馬さんでいいかなと。本当は富永さんであると確かな別写真で確認したいんですが、あいにくわたしは富永さんのお写真を持っておりません。名札からの推測です。
そういう意味では後列左から6人目の人も名札の文字が見えているんですよね。

※色調調整しました
編制表に名前があるのに写真に写っているとされていない人はほかに、長谷川達さん(甲10)、高木清一さん(丙11)、上岡啓男さん(丙7か8)、奥田鼎さん(甲9)ですかね。
「髙木?」とも思ったんですが、これはちょっと保留で。
あと一人、
お名前は書き込んでいないのですが、○○さんかな?という人がいます。
東さん、この写真のお顔のところに3人だけ○囲みしているんですよ。
後列左端の占部さんと、東さん本人、前列左端の人。
占部さんと東さんの共通点は同じ小隊ということ。
ということは、もうおひとりは20日の列機の一人、奥田鼎さんかな?と想像しているんですが。
奥田さんもお顔がわかる別写真がないので、あくまで想像です。
奥田さん、検索してみたらヒットしました。653空S166(昭和19年9月)の奥田さん搭乗機の塗装が出てきました、日の丸の中に「奥」と描かれた機体です。プラモデル化されているようです。
奥田さん、10月24日の比島沖海戦では9期の武田清さんと同じ小隊で出撃されているようですが、「エンジン不調で引き返す」になっています。
編制表にお名前がある人を入れてもまだ不明者がいるので、予備員みたいな人もいるのかなと思います。
もし、編制表にお名前があるのに写真に記名されていない人、「顔知っているで」って方がいらしたらご一報いただけるとうれしいです。
この写真、裏書がありました。
※画像は乙8期東富士喜さんお孫さんご提供
熊本県出身者 6~8期 ― 2026年01月12日 18時18分33秒
この話、書きましたかね?
数年前に神野正美さんから、
「8期の東富士喜さんの住所知らない?」
って聞かれました。
9期ならまだしも、8期生は知らんです――
みたいな返事をしたような気がするんですが、戦後の同期生会誌を見たら県と市まではわかりました。なので、それをお伝えしたらそこまでは神野さんもご存じでした。
話はいったんそれで終わったんですが、それから少しして(数日後? 数週間後だったような?)、予科練慰霊祭に参列していたYさんから、
「いま8期の東さんのお孫さんと一緒にいるよ~」
とメールか。
「なんですとー!?(;゚Д゚)」
そりゃもうビックリしました。
「神野さんが連絡取りたがっているから東さんのお孫さんとつないでほしい!」
そうお願いして連絡先をお聞きしました。
そのご無事に神野さんと東お孫さんは連絡が取れ(面会もされたらしい)、ひとまずホッ。
こういうのをご縁というのだろうなと思います。
必然というのかな。
わたしもしばらくはメールでのお付き合いだったのですが、今年の予科練慰霊祭で面会を果たし、10月の瑞鶴慰霊祭には東お孫さんが奈良に来られ参列されたりってことがありました。
去年の終わりごろに、富士喜さんの残した写真類をお借りすることができ、せっせとスキャンさせていただいていたのですが、ようやく一段落しました。
撮れる分は撮れたと。
予科練時代や実施部隊時代の写真に興味深いものが何枚もありました。

熊本県出身者6~8期生。
東さんの写真の中にもう1枚熊本県出身者集合写真がありましたが、それは8~11期生のもので、以前に9期生関係でここで紹介しているものと同じものでした。なので割愛。
今日は初めて見た6~8期生分を紹介します。
残念ながら裏書はなかったので、写っている練習生や状況はわたしが調べました(推測込み)。
教員列(椅子列)は省略(スイマセン💦)。
2列目左から

竹下勝典さん(8期)
偵察
19年2月6日 802空 トラック(雄飛会戦没者名簿)

碩一夫さん(7期)
操縦 艦戦
17年10月26日 瑞鳳 南太平洋海戦

三島輝夫さん(7期)
操縦 艦攻
真珠湾時加賀艦攻隊。
19年6月19日 601空(翔鶴発艦) マリアナ沖

高田満さん(6期)
偵察 偵察機
20年3月19日 343空偵察第4飛行隊 四国上空の空戦

塚本一正さん(6期)
偵察 水上機
戦後生存

高藤幸一さん(6期)
操縦
19年12月7日 病気加療入室中に病死(雄飛会戦没者名簿)

米満孝人さん(6期)
偵察 飛行艇

谷元勝さん(6期)
偵察 中攻

磨田甚造さん(7期)
偵察

牛島静人さん(7期)
真珠湾時瑞鶴艦攻隊(電)。
戦後生存。

米本義人さん(8期)
偵察 飛行艇
17年10月15日 東港空 ソロモン ヒ連送のち行方不明
3列目左から

八幡一喜さん(7期)
偵察 戦死時百式司偵
18年7月1日 151空 ソロモン写真偵察消息不明

高橋幸人さん(7期)
偵察 中攻
17年8月24日 三沢空 ソロモン索敵哨戒
※戦死時のペアの主操は8期根津弘史さん

浦田健治さん(7期)
偵察 中攻
17年9月11日 木更津空 ガダルカナル

中島政時さん(7期)
偵察 艦攻
真珠湾攻撃時飛龍艦攻隊
19年8月2日 761空 テニアン(雄飛会戦没者名簿)
※横手正明さん(甲1)がご遺族に伝えたところによると19年5月20日、テニアン基地より索敵に向かい1010「ワレ敵機ト交戦中」と打電後消息を絶ったとのこと。

雲野武明さん(7期)
偵察 中攻
17年2月2日 705空 ソロモン(敵空母攻撃 雷撃)
※戦死時のペアの主操は9期の島子栄二さん

角田金次郎さん(8期)
操縦
20年6月8日 801空 沖縄(雄飛会戦没者名簿)

西義武さん(7期)
操縦→偵察 中攻
18年2月2日 705空 ソロモン(索敵)
※戦死時、雲野さんとは別の戦闘行動。ペアの主電は9期川原与三郎さん。

東富士喜さん(8期)
操縦 艦攻→戦爆
戦後生存

島田豊さん(7期)
偵察
19年2月17日 11航戦司 トラック(雄飛会戦没者名簿)
※七期雄飛会『予科練のつばさ』では「十一航艦」。

松村美龍さん(7期)
偵察(電) 飛行艇
19年6月4日 東港空 南洋群島哨戒中天候不良により行方不明(雄飛会戦没者名簿)

田中一則さん(8期)
操縦 艦攻
真珠湾攻撃時加賀艦攻隊
19年10月24日 攻撃256飛行隊 比島沖海戦
調べてみたのですが、消息がわからない人がいます。
雄飛会戦没者名簿や同期生会誌なども見てみたのですが、日付か航空隊が間違っているのでは?という方も。行動調書を探してみたけど見つからず、わからないまま書いています。
並び順はこんな感じです。
白が6期生、青が7期生、黄色が8期生です。
6期生を中列中央に集めた以外はわりとフリーダムな並びです。
以前も書いたかもしれませんが、7期の碩一雄さん。
『予科練外史』では福岡になっていますが、『予科練のつばさ』、『雄飛会戦没者名簿』では熊本になっています。
あと、『予科練のつばさ』『雄飛会戦没者名簿』では戦死時「瑞鶴」になっていて、さらに橿原神宮の瑞鶴の戦没者名録にもお名前が刻まれていますが、Kさんご教示で戦死時「瑞鳳」のようです。アジ歴の行動調書や瑞鳳戦闘機隊写真で確認とれています。
一人熊本出身で探したところ、お名前が入らなかった人がいました、
6期生だろうと思ったので(7期・8期は以前氏名を入れたので)、6期生の近隣県出身者を重点的に探したところ、『予科練外史』で鹿児島出身となっている谷元勝さんが写っているのでは?と思いました。

卒アルの谷元さんはこの方です。

上の写真で熊本出身者としてお名前が入らなかったのはこの方なんですがいかがでしょうかね?
わたしは谷元さんかなと思って上ではそのように紹介したのですが。
『予科練外史』の出身県と違う県の集合写真に写っているのはたまにあると言えばあるので、鹿児島出身となっている谷元さんが写っていても特別おかしいということもないかな、と。
事情は分かりません。
場所は横須賀の予科練の庁舎前ですが、問題はいつ撮影されたのものかな、という点です。
写真を見ると、6期生の階級章は2空(海軍2等航空兵)。7期生も2空。8期生が3空の階級章をつけています。
6期入隊(昭和10年6月1日)から6期が卒業した昭和13年(1月10日ですが)いっぱいに関して、進級状況を表にしてみました。
6期2空、7期2空、8期3空という状況は、
薄いピンクベタの部分です。
昭和12年9月1日~6期が卒業する13年1月10日まで。
さらに、みんなの軍服が1種なので10月1日?からに限定されるでしょうか(海軍の衣替えの時期を正確に知らないのです💦)
この間に、日の丸を出して写真を撮る機会と言ってすぐに思い浮かぶのは明治節でしょうかね。
卒業式の県別集合写真で日の丸を出してとっているのは見たことがないので、明治節の可能性が高いような気がします。
昭和12年11月3日。
※画像は6期生、8期生ご家族ご提供
蒼龍艦攻隊 佐藤・金井・花田ペア ― 2025年12月22日 10時40分22秒
昭和16年12月22日、真珠湾攻撃を終えた2航戦の空母(蒼龍、飛龍)は、日本への帰途、ウェーク島攻撃へ。
蒼龍艦攻隊水平爆撃隊の嚮導機ペアを敵戦闘機の奇襲で失いました。

操縦・佐藤治尾飛曹長(操18)
偵察・金井昇1飛曹(偵35)
電信・花田芳一2飛曹(乙8)
※画像は真珠湾出撃前の鹿屋での蒼龍艦攻隊12分隊の壮行会にて
22日のウェーク島攻撃の様子は、攻撃に参加していた乙9期の島田清守さんの日記にも記されています。
島田さんの昭和16年11月・12月の日記原本の画像はブログ右側のリンク先にありますので、興味のある方はぜひご覧になってください。
金井さんは海軍航空隊に関心がある人ならどなたでも知っているのではというぐらい有名な方で、爆撃の神様、海軍の至宝のような存在の方です。
『航空母艦蒼龍の記録』には金井さんの日記が手記ということで掲載されていて、それを読んで、
「人格技量ともに申し分ない完璧な人」
のように思いただただ尊敬していました。
ところが2021年にNHKで放送された『真珠湾80年 生きて 愛して、そして』、さらにその後、番組のディレクター大島隆之氏著の『真珠湾攻撃隊 隊員と家族の八〇年』が出版され、そこで紹介された金井さんの日記内容を知り、かなり衝撃を受けました。
『航空母艦蒼龍の記録』では完璧人間のような日記が紹介されていたのですが、こちらの金井さんは恋愛に悩み苦しむふつうの青年。それ以外の日常もかなりふつう描写が多く、人間金井昇をますます好きになってしまいました。
あまり書くとアレなのでこれぐらいでやめておきますが、ウェーク島で戦死されず無事に内地に戻って来られていたら、金井さんとお相手のお嬢さんの未来はどのような未来が開けていたのだろうか。思っても詮無いことをいろいろ考えてしまいます。
とにかく爆撃に関しては別格であることにかわりはありません。
金井さん、真珠湾時のメンタルはどん底だったと思います。
そんな状態で結果を出す金井さんはやはり爆撃の神様、海軍の至宝であることにかわりはありません。
最近、乙8期生のご家族の方からアルバムをお借りしました。

予科練時代のアルバムのページをめくったところに、

こんな添え書きが。
残念ながらこの写真は剥がされていて、どんな写真が貼られていたのかわかりませんが、添え書きから想像するに、田中一則さん(真珠湾時加賀艦攻隊、752空19年10月24日比島方面、操縦 熊本出身)、矢津田竣夫さん(三沢空17年8月8日ソロモン、中攻操縦、宮崎出身)と花田さんがどこかで撮った3ショットが貼られていたのだろうな思います。
添え書きの書き方から、屋外で横に3人が並んでいるものというより、写真館で撮られたもので、前に椅子に座る矢津田さん、花田さんがいて、後ろ、間に田中さんが立っている写真かな、なんて想像したりしていますが。
わからないですけど。
見たかったですけどね。
卒業アルバムもお借りしたので、卒アルの花田さん。

※画像は9期生ご遺族ご提供、8期生ご家族ご提供
昭和16年12月5日「甲板上にて撮影をなす」真珠湾攻撃時加賀艦攻隊集合写真 ― 2025年12月05日 22時43分08秒
真珠湾攻撃を目前に加賀飛行甲板で撮られた艦攻隊搭乗員の集合写真。

艦攻隊総員集合写真。

北島一良大尉分隊集合写真。

鈴木三守大尉分隊集合写真。
もう一枚、牧秀雄大尉分隊の集合写真があるはずなのですが、わたしはお目にかかったことがありません。
以前からこれらの集合写真に関してはブログでたびたび話題にしており、特に飛行甲板中央部の風向標識に関する投稿はぜひぜひ読んでいただきたい記事です。
そこでもちょっと触れているのですが、今日はこれらの写真の撮影日に関して。
風向標識の記事には以下のように書いています(青字)。
『ちなみにこの加賀艦攻隊総員集合写真、書籍には12月7日、真珠湾攻撃の前日に撮影されたもの、という説明があるものがありますが、2021年12月に放送された「真珠湾80年 生きて 愛して、そして」という番組の中で紹介された加賀艦攻操縦員の北原收三さん(操50)の日記に12月5日に「記念写真を撮る」の記載が(ご遺族ご提供、Оさんご協力)。
北原さんは真珠湾攻撃で戦死されているので、日記は当日か遅くとも7日までには書かれていたもので、そういう意味では大変資料的価値が高い記述ではないかと思います。
北原日記の12月5日にはもう一つ注目の記述があって、
「一昨日来の暴風雨静まれども終日曇天小雨模様なり」
これなんですけどね。
総員集合写真を見ると飛行甲板のところどころに水たまりがあるように見えます。前日まで荒れていたらしいので波をかぶった可能性も無きにしも非ずですが、写真の様子からも晴天には見えません。天気の面からも「5日」で矛盾ないように思います。
ちょっと余談ですが、乙9期の島田清守さん(蒼龍艦攻隊)の日記によると12月5日は、
「次第ニ南下スル。昨日迄ノ荒天モ静マリト平常通リ「総員体操用意」ノ號令モカカル。飛行甲板ニ出ルト部隊ハ厳然ト進ム。各艦飛行甲板ニペラノ(不明。部員?)ガ有ル様ダ。攻撃ヲ前ニシテ、昨日、一昨日ト飛行甲板ノ作業モ出来ズ今日カラ一斉ニ初(始)マル。 飛行機ノ試運転ダ。」※( )はわたし注記
蒼龍ではこんな具合です。
蒼龍から見たら他艦も飛行甲板に飛行機を上げて試運転をしていたらしいので、きっと加賀も飛行機を飛行甲板に上げていたのでしょう。そのときに記念撮影もやった、ということだろうと思います。
というわけで、今回の話に直接関係はないですが、わたしはこの写真に関しては「12月5日撮影」説をとろうと思います。
余談の余談ですが、7日も加賀も蒼龍も飛行機を飛行甲板に上げています(北原日記、島田日記)。
お天気情報は北原日記「今日は暫く振りの晴天」。島田日記にはお天気情報なし。
と、ここまで書いてからの追記。
2023年9月に町元善春さんの遺品を見せていただいたのですが、同じ総員集合写真がありました。
どなたが書かれたのかわかりませんが裏に手書きで「昭和十六年十二月七日撮 布哇攻撃前日 加賀艦攻隊総員」と書かれていました。
「やはり7日なのか?」
正直、揺れています。
北原さんが日記に書いている5日に撮影した「記念写真」はこの集合写真のことではないのか?
総員集合写真の撮影日に関しては、機会をあらためてゆっくり考えてみようと思っています。』
北原さんは真珠湾攻撃で戦死されているので、日記は当日か遅くとも7日までには書かれていたもので、そういう意味では大変資料的価値が高い記述ではないかと思います。
北原日記の12月5日にはもう一つ注目の記述があって、
「一昨日来の暴風雨静まれども終日曇天小雨模様なり」
これなんですけどね。
総員集合写真を見ると飛行甲板のところどころに水たまりがあるように見えます。前日まで荒れていたらしいので波をかぶった可能性も無きにしも非ずですが、写真の様子からも晴天には見えません。天気の面からも「5日」で矛盾ないように思います。
ちょっと余談ですが、乙9期の島田清守さん(蒼龍艦攻隊)の日記によると12月5日は、
「次第ニ南下スル。昨日迄ノ荒天モ静マリト平常通リ「総員体操用意」ノ號令モカカル。飛行甲板ニ出ルト部隊ハ厳然ト進ム。各艦飛行甲板ニペラノ(不明。部員?)ガ有ル様ダ。攻撃ヲ前ニシテ、昨日、一昨日ト飛行甲板ノ作業モ出来ズ今日カラ一斉ニ初(始)マル。 飛行機ノ試運転ダ。」※( )はわたし注記
蒼龍ではこんな具合です。
蒼龍から見たら他艦も飛行甲板に飛行機を上げて試運転をしていたらしいので、きっと加賀も飛行機を飛行甲板に上げていたのでしょう。そのときに記念撮影もやった、ということだろうと思います。
というわけで、今回の話に直接関係はないですが、わたしはこの写真に関しては「12月5日撮影」説をとろうと思います。
余談の余談ですが、7日も加賀も蒼龍も飛行機を飛行甲板に上げています(北原日記、島田日記)。
お天気情報は北原日記「今日は暫く振りの晴天」。島田日記にはお天気情報なし。
と、ここまで書いてからの追記。
2023年9月に町元善春さんの遺品を見せていただいたのですが、同じ総員集合写真がありました。
どなたが書かれたのかわかりませんが裏に手書きで「昭和十六年十二月七日撮 布哇攻撃前日 加賀艦攻隊総員」と書かれていました。
「やはり7日なのか?」
正直、揺れています。
北原さんが日記に書いている5日に撮影した「記念写真」はこの集合写真のことではないのか?
総員集合写真の撮影日に関しては、機会をあらためてゆっくり考えてみようと思っています。』
この件は、何か新しいものが出てこないと決着がつかないと思っています。
これ以上いくら写真を眺めても進展しないだろうな、と。
ちょっとだけ進展がありました。
進展というか、援軍というか。
先日知人から本をお借りしたんですよ。
大戸喜一郎という人が書いた『若鷲のふる里』という本です。
甲飛4期の真珠湾戦没者のふる里を訪ねたときのことを随想風に著した本です。
それぞれが育った土地の様子や、両親との面会の様子、本人の幼少期の話など、貴重な内容がたくさん。
著者が訪ねたのは、記載順に書くと、
武田英美さん
外山維良さん
桑原秀安さん
大西俊夫さん
熊本研一さん
坂本清さん
梅津宣夫さん
長井泉さん
の8名です。
かれらのことは別途書きたいと思います。
この大戸喜一郎という人、本の奥付の横にあった著者紹介によると、
早大英文科中退、少年作家として著書あり。海軍省年兵に就いて研究すること既に七年におよぶ。
とあります。
これだけじゃ、なんのこっちゃ全然わかりません。
ネットで検索してみました。1897年生まれ、1961年没らしいです。
著書の画像がいくつか出てきました。『日本海大海戦』『前世界探検』『炭焼キ爺サン』
奥付によると発行は昭和19年9月20日、発行所は輝文堂書房。
ちなみに価格は2円70銭。
今日は長井泉さん。

『若鷲のふる里』の中に、長井さんの真珠湾攻撃時の日記の記述があったのです。
その中に、「甲板上にて撮影をなす」と書いている日がありました。
「こ、これはっ!(;゚Д゚)」
大戸さんが取材し活字化されたもので、日記現物の画像が掲載されているわけではありません。しかも伏字が多いです。日付も伏字、地名も伏字。
長井さんが「甲板上にて撮影をなす」と書いている日も「○○月○日」になっています。
なので、北原さん日記と照合して日付を入れてみました。共通して特定の行事を書いてくれていると日付が特定しやすいです。
その結果、日付的には『若鷲のふる里』に引用されている長井さんの日記は、11月19日~12月5日までと判断しました。
途中、11月23日と24日は抜けています。11月23日・24日というのは単冠湾に停泊している期間です。長井さんが書いていなかったのか、大戸さんが敢えて本に転載しなかったのか、そこはわかりません。
長井さんの日記現物を見てみたいですけどね。
が、現時点で見ることはできないので、『若鷲のふる里』に転記されているものを信じて、ちょっと考えてみたいと思います。
まず、長井さんの日記の伏字の件。
例えば、
○○月○○日 段々と暖かくなったような気がする。四日も島も見えず寂しさ一人身に沁む。(以下略)
○○月○日 遂に○○となる。思ひを故国の上に走らす。(以下略)
こんな感じです。
日付と、何か軍の機密めいたことが伏せられています。
これ、たぶん日付は伏せてあるけれど、内容から察するに、日付順にきちんと並べられているだろうと思いました。
そこで、同じ加賀艦攻隊だった北原修三さんの日記の記述と見比べながら日付を検討してみました。北原さんの日記は日付がきちんと入っていますし、ほぼ伏字なしです。下表で●になっているところはわたしが読めなかった字です。

北原收三さん(操50)
日記に書いている日課を比較検討したら、長井さんの日記はこんな感じで日付が入りました(単冠湾を出港した11月26日~12月7日分)。
日記に書いている日課を中心に抜き出したものです。
よく見たら、大戸さんは日付を伏せているけれど、「十一月三十日」は「○○月○○日」、「十二月一日」は「○○月○日」と伏せた文字数と○の数を合わせていました。ありがとうございます。
※上に引用した太字部分は11月30日と12月1日分です。
とまあ、こんなわけで、長井さんが「甲板上にて撮影をなす」と書いている日は12月5日で間違いないです。
北原さんが書いている12月5日の日記の内容とかなり一致しています。
風向標識の記事で触れた天気についても比較しました。
加賀艦攻隊の長井さんと北原さん、蒼龍艦攻隊の島田清守さんの日記に書かれていた天候に関する記述です。
さらに参考までに、戦史叢書に掲載されていた第8戦隊司令部首席参謀藤田菊一中佐(機動部隊に同伴)の日誌とやらからのお天気情報も併記しました。
これらを見ると12月2日夜ぐらいから荒れ始め、3日、4日は猛烈に荒れていたことがわかります。
3日には加賀で作業中の下士官が海に転落する事故が起きています。長井さんは落ちたのは「下士官一名兵一名」「助けられしとか聞く」と書いていますが、北原さんは「四分隊先任下士官山本一曹」が波に飲まれたとしか書いていません。実際、何人落ちたのか、その後どうなったのか、これに関して調べようとしたのですが、詳細が書かれたものが見つかりませんでした。
とにかくようやくこの荒天が一段落したのが5日。
ただし晴天には戻らず、「風次第に弱くなり、海上平穏となる。雨尚降る」(長井日記)、「一昨日来の暴風雨静まれども終日曇天小雨模様なり」(北原日記)。
この状態で各艦飛行機を甲板に上げ作業をしたようです。それは島田さんの日記にも描かれています。
「次第ニ南下スル。昨日迄ノ荒天モ静マリト平常通リ「総員体操用意」ノ號令モカカル。飛行甲板ニ出ルト部隊ハ厳然ト進ム。各艦飛行甲板ニペラノ(不明。部員?)ガ有ル様ダ。攻撃ヲ前ニシテ、昨日、一昨日ト飛行甲板ノ作業モ出来ズ今日カラ一斉ニ初(始)マル。 飛行機ノ試運転ダ。」※( )はわたし注記
見ていただきたいのは写真の影と飛行甲板の様子です。

どう見ても晴天下の撮影ではないし、飛行甲板には水たまりが残っているように見えます。
分隊集合写真も装備などから同じ日ほぼ時間をおかずに撮られたものと判断しています。いずれの写真も同じ状態です。
藤田参謀がこの日「視界不良」と書いているんですが、加賀艦攻隊の総員集合写真も最前列の人たち(北原さんとか)と最後列の人たち(長井さんとか)の明瞭度を比べると、後列になるほど明らかにもやっている感じがあります。
搭乗員たちの背後の97艦攻もちょっとぼやけています。
5日の天候状態と矛盾ないと思われます。
お天気的な意味では6日も可能性は残っているかと思います。
では巷間言われている「7日撮影」、この可能性はないのか?
北原さんは「晴天」と書いています。
藤田参謀も「天気は益々良」。
戦後に書かれた手記なんですが、金沢秀利さん(乙8、飛龍)は7日の天気を「快晴、視界良好」と書いています(『空母雷撃隊』光人社NF文庫)。
一日中天気がよかったのか、それとも基本晴天で時々曇ってその隙に写真撮影されたのか、いやー、そこがわからないんですよね💦
一日中晴天だったらあの写真は撮れないと思うんですよ。
リアルタイムで書かれた日記の記述的にも、お天気的にも、5日の可能性が高いんじゃないかとわたしは思います。
※画像は8期生・9期生ご遺族ご提供。
北原收三さん日記はご遺族所有、Оさんご協力。










