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南昌飛行場の件2025年07月17日 15時38分53秒

昭和13年7月18日のできごとです。

15空の艦爆隊が南昌飛行場に着陸して、在地機を炎上させるというできごと(戦闘行為)がありました。


2009年7月16日『敵中着陸』というタイトルで、このときは小野了さんのことを書いています。
再掲。


――――――――――

ママは以前から、
「誰か、艦爆の本、書いてくれんかなー(^。^)」
と思っていたのですが、気がついたら、文春文庫で渡辺洋二『必中への急降下 海軍爆撃機系譜』という本が出ていました。

黎明期の艦爆から、銀河、東海まで。短編集です。

戦闘機搭乗員にもいろいろとおもしろエピソード(?)があるように、艦爆搭乗員にだってそれはあります。

13年7月18日、敵の南昌飛行場に数機の艦爆が強行着陸し、残存飛行機を焼き討ちした、という話は知ってはいたのですが、この本で初めて詳細を知りました。

南昌飛行場攻撃に向かった十五空の96艦爆(複葉)のうちの1機が小野了2空曹(この頃は1飛曹、2飛曹・・・・「飛行兵曹」ではなく、1空曹、2空曹・・・・「航空兵曹」)操縦の艦爆でした。
ペアは偵察員・山地徳良1空。

小野兵曹は飛行場に並べられた飛行機に6番を落としました。
ところが、その飛行機は囮のハリボテ飛行機。爆風でふわりとひっくり返ったそうです。
せっかくここまで運んできた数少ない爆弾を囮機にお見舞いしてしまった小野兵曹は、渡辺さんの言葉を借りると「気分を害した」らしく、他の残存機の銃撃を始めます。ところが一撃では燃えません。反転しての2撃目で機銃故障。弾が出なくなりました\(・_・) オイオイ。
後席の山地1空にも撃たせてみたけれど効果なし。ますます気分を害する小野兵曹(-.-#)。

普通はここで、「ちっ!」と舌打ちし、「覚えてろよ!」とまで言うかどうかはわかりませんが、とにかく引き揚げるのでしょう。
しかし小野兵曹、それでは気が収まりません。敵飛行場に強行着陸。

小野兵曹、豪胆にも飛行機を止めて、降りてしまいました。偵察の山地1空に「何かあったら大声を出せ」と言い残し、手近に止めてあった敵機を銃撃に行ったのです。機関銃とか、機関砲のような武器ではなく、「拳銃」って書いてあります。えええーーー????

ところが、燃料が抜いてあったのか、撃っても燃えません。

小野兵曹、いったん、乗機に戻ってきました。
(-。-)y-゜゜

渡辺さんによると、
『飛行機から降りると一服するのが小野二空曹の癖だった』
らしいですが。いくら癖でも、敵兵のいる飛行場でのんびり煙草なんか吸いますかあ!?

小野兵曹が煙草休憩をしていると、僚機の徳永有2空曹・別宮利光1空機が着陸してきて、小野機の横に止まりました。
小野機が故障か破損で不時着したのではと心配し、「こっちに乗れ!」と助けに来てくれたのです! 自分の身の危険も顧みず、すばらしい戦友愛だ!!

煙草休憩していた小野兵曹を見た徳永兵曹は、さぞかしびっくりしたことでしょう。

さあて、気を取り直して・・・・。
小野兵曹、いったんそこから離陸して、飛行場の別の場所に着陸(まだやるのか!?)。
今度は増槽付きの飛行機を見つけて、そこを拳銃で狙い撃ちました。燃料は漏れ出してきたけど、火がつかない・・・・。
そうだ、さっき、煙草吸っていたんだ。
マッチを擦って漏れ出た燃料に(・_・ )ノ"" ゜ ポイッ
それでも引火しない。
そうだ、ズボンのポケットに航空地図が入っている。これ、いらねーか!
それに火をつけて(・_・ )ノ"" ゜ ポイッ

ゴウッ!! ドカーーン!!!

小野兵曹、爆風で2、3メートル吹き飛ばされちゃったそうです(>_<)

これでやっと気が済んだ小野兵曹。
さあ、長居は無用。
(いや、もう、十分長居だと・・・・(^_^;))

小野機が離陸して飛行場を見下ろすと、いつの間に降りたのか、ふだんは物静かな小川正一中尉までが飛行場に着陸して、後席(桑島勝2空)の旋回機銃でバリバリやっていたんだとか。

海軍は指揮官先頭!
小野兵曹や徳永兵曹に遅れてなるものか!

さらにもう1機、浜之上勝男3空曹・宮里光矢1空機が、機首の機銃が故障したため、「直接燃やしてやる!」と強行着陸したんだとか。

海軍艦爆隊、恐るべし。

この戦闘に対してのちに感状が送られたらしいです。
『一部爆撃機を以て敵飛行場に着陸を敢行、沈着豪胆、飛行場を隈なく偵察し、残存敵機五機を焼却して所在敵機を壊滅したるは、武勇抜群なり』

へえ~。

あの・・・・機銃の故障は・・・・?
そんなこたあ、まあ、いいか!

のちラバウルで夜間戦闘機月光で活躍した小野飛曹長はとーってもやさしい飛曹長で、このときのことを、
「あれは若気の至りです」
とはにかんでいたそうです(by吉田一報道班員)。


参考文献:渡辺洋二『必中への急降下』文春文庫、吉田一『サムライ零戦記者』光人社NF文庫、その他ママの脚色加わっています、あしからず。

――――――――――
※「桑島勝2空」と書いていますが「2空曹」の間違いです。





2021年7月18日にも『乙3期 徳永有さん』というタイトルで南昌飛行場の件に触れています。
このときは当時の新聞記事を図書館で見つけて、それを引用しています。


――――――――――

昭和13年7月19日大阪朝日新聞一面  
※なるべく旧字体・仮名遣いそのままに努めましたが、そのままになっていない部分もあります
【豪膽・南昌飛行場へ敵中着陸】
敵機廿を撃墜、焼拂ひ
格納庫内まで虱潰し
の大見出し。

【南京特電十八日發】艦隊報道部発表(十八日午後八時)
一、十八日黎明海軍航空隊は南昌敵軍根拠地を攻撃せり、わが飛行機隊の緊迫せるを知るや敵機約十五機は倉皇として離陸遁走せんとせしも南郷大尉指揮の〇〇機〇機は機を失せずこれを急追忽ちその八機を撃墜す、敵重爆機三機、戦闘機九機逃げ遅れて南昌新飛行場にあるを認めるや松本少佐指揮の〇〇機〇〇機は急降下爆撃に引続き猛烈果敢なる低空飛行により反復銃撃を加へ内七機を炎上せしめたり、しかるに機銃弾尽きたるも炎上せざるなほ若干残存せるを認むるや豪膽極まりなき〇〇機〇機は敢然敵飛行場に着陸を決行し、飛行機より躍り出して敵機に迫りマッチなどをもって放火一機残さず炎上せしむ、この間敵重爆機に装備しありたる機銃弾装二箇を戦利品として分捕り、更に敵格納庫内部飛行場の周辺を悠々隈なく偵察し敵機の潰滅したるを確認しかつ燃料補給車を追ひかけ田の中に顚覆せしめたるのち離陸、全機無事帰還せり、地上の敵は全く膽を奪はれ唖然として何らなすところなく徒らに遠距離より我が行動を見守るのみなり、その間渡辺大尉指揮の〇〇機〇機は旧飛行場を攻撃せるもをとり機数機あるほか敵機を見ず、飛行場施設に大打撃を與へたるのち全機帰還せり



【〇〇にて岡美千雄特派員十八日發】
十八日朝南昌大空襲で海軍航空隊松本眞実少佐の指揮爆撃隊のうち小野二空曹、小川正一中尉らの〇機は相次いで敵空軍の心臓南昌飛行場に着陸、大膽にも地上に降りてマッチや木片で敵機を焼拂ったが、この日南昌一帯は絶好の空襲日和で、最初これら爆撃隊は猛然飛行場へ急降下爆撃を加へ、さらに地上〇〇メートルの低空飛行で地上掃射を加へたが地上の敵機は全然燃えなかったので、まづ小野二空曹機がわが爆撃でアバタのようになった飛行場の眞中にたった一本残った滑走路に着陸、ころげまろびつ逃げる敵に機関銃弾を浴せ、さらに小川正一中尉ら相次いで〇機が翼を揃へて着陸、機関銃では手ぬるいと敵機のそばにかけよりマッチや飛行場に散らばった木片で地上のソ聯製S・B重爆機二機をはじめ蒋介石が虎の子のやうにしてゐる戦闘機E十六型をはじめイギリス製グラヂエーターなどに片っ端から火を放ち、さらに勇敢にも手分けして十棟に餘る格納庫の中に次々と入り込みいづれも格納庫は蜂の巣のやうに穴があき格納庫中には無残にも壊れた飛行機だけで物の役に立つものはないのを見とどけ、小川機を最後に全機悠々帰還したものである、なほ戦ひの眞最中白昼堂々敵の心臓へ着陸火を放ったといふことは世界戦史空前のことで敵兵も全く度膽を抜かれてゐた



同じ紙面の記事です。
まるで記者もそこに立ち会ったかの如く、ものすごい臨場感です。
・隊名は伏されていますが、十五空です。
・南郷大尉はこの攻撃で戦死されています。
・徳永さんのお名前は出ていませんが、相次いで着陸した〇機の中に徳永さんも入っています。
・上の記事の最後に「渡辺大尉指揮の・・・・」と触れられているのが我らが浅川一空曹の所属する艦攻隊です。浅川さんは指揮官機の操縦員。


奇しくも83年前の今日の出来事です。
9期生にとっては予科練入隊後ひと月半ほど。
新聞にこれだけ大々的に載ったのですから、練習生たちにも伝えらえたことでしょう。
「お前たちの先輩も含まれているぞ」
と。
※桑島勝2空曹(乙2)、徳永有2空曹(乙3)


同じ大阪朝日新聞の7月23日の紙面には、
南昌飛行場敵中着陸の猛者=右より【前列】地徳一空曹、小川正一中尉、桑島二空曹、【後列】濵上三空曹、小野二空曹。宮里一空曹=二十一日〇〇基地にて林田特派員撮影(福岡より電送)
として、6人の写真が紹介されています。
残念ながら徳永さんペア(偵・別宮利光一空)のお顔は見えませんが、すごいフィーバーぶりです。
※戦闘詳報では宮里さんは一空、「濵上三空曹」は「浜ノ上」。「地徳一空曹」は「山地徳良一空」のこととと思われる
※戦闘詳報には各機の行動がさらに詳細に記載されています。新聞には書かれていませんが小野機ペアは拳銃を使用しています。十五空時代の浅川さんが拳銃を携帯している写真が残っていて「敵中に不時着したときに身を処すためだろう」と思っていましたが、まさかこんな使いかたがあるとは・・・・。


引用が長くなりましたが、徳永さんの15空時代のエピソードです。



――――――――――





と、ここまでが以前書いていた分です。

ここから先が書き下ろしというか、今回新しく書こうとしている分です。

いままで肝心の戦闘詳報の記載を紹介していませんでした。

今回は敵中着陸を敢行した艦爆隊のことを書こうとているのでその関連だけ。
(アジア歴史資料センターHPより 判読不能な文字は● 原文はカタカナ旧字体まじり 一部わたしが理解できない箇所があります)

13年7月18日の艦爆隊編制表
当時の15空の搭乗員って、加賀から転勤してきた人たちが多いです。艦爆隊に限らず。
上の編制表の太字の人たちは加賀から転勤してきた人たちです。
オレンジのベタ塗りが着陸して焼き討ちしたペアです。




経過
攻撃機隊
〇五四五 指揮官松本少佐 艦爆一四(亀大尉、井上大尉) 艦攻五(渡辺大尉)i基地発進
〇六三〇 湖口上空にて戦闘機隊を待合したれど合同せず 一機のみ集り其のまま南昌に向ふ 高度三〇〇〇米
〇七二〇 攻撃機隊は旧飛行場爆撃、戦闘機一機と共に戦場を離脱 〇八二五全機i基地着
〇七一五 爆撃機隊 新飛行場爆撃
 〇七三五より飛行場にある敵重爆及戦闘機に対し殆んど全機を以て銃撃を行ふと共に四機は飛行場に着陸を決行し銃撃及「マッチ」にて地上飛行機焼却 敵機装備の旋回機銃弾倉を鹵獲し〇八〇五迄に戦場を離脱 ●●●(〇九一 〇、一二)機i基地着
銃撃前若干時間機銃射撃を受けたるも其の後射撃を受けず 銃撃中N16型戦一機我に挑戦し来り之を追撃せしも及ばず33Dは爆撃直前逃走中のG型戦闘機六―七機を発見 之に進撃交戦 一番機行方不明となる 二番機はG線四機と交戦 その一機を撃墜し戦場離脱時地上砲火により燃料系統毀損 〇八二〇金宝嶺南方劉氏橋湖北部に不時着水 一〇三〇隼に救助され人員無事機体沈没
※行方不明になったのは福永松夫1空曹(操)と高野辰蔵3空曹(偵)、不時着水したのは中原義剛2空曹(操)と芥川竧1空(偵)  



銃撃経過
指揮官機を除き艦爆全機(33D二機欠
 ※福永機と中原機)爆撃を終へたる機より地上の敵機に対し銃撃を行ふ
指揮官機(二四六号 松本少佐 吉田空曹長)は爆撃時浮泛装置開きたる為直に帰途に就き銃撃を行はず

銃撃状況
【第三十一小隊一番機 (操)大尉亀義行 (偵)一空曹迫義彦】
敵重爆に対し銃撃を行ひしも囮機なるを発見 引起したる時飛行中の敵戦闘機N16×1を発見 追撃せしも及ばず総飛行機に「引揚げ」を令し帰途に就く

【第三十一小隊二番機 (操)三空曹今村実雄 (偵)三空曹本村昌富】
CB×2 N16×1に対し銃撃せしも一機も炎上せず CBの一機は破壊機なることを発見せり、爆撃前E15×2(第三十三小隊の突入せしもの)及銃撃中E16×1を認めたるも追撃せず

【第三十二小隊一番機 (操)二空曹島田一之 (偵)中尉江川廉平】
N16×1 N15×2 CB×1に対し銃撃を行ひN15×1 N16×1を炎上せしむ
銃撃中後上方に襲撃中のE16×1を発見追撃せしも及ばず着陸機を監視し全機の引上ぐるを認め帰途に就く

【第三十二小隊二番機 (操)三空曹浜ノ上勝男 (偵)一空宮里光夫】
CB×2を銃撃せしも炎上せず 固定銃故障せし為止むを得ず飛行場に着陸を決行 ●→CB→N15の順に地上滑走にて近づき「マッチ」にて点火す 三機共僚機の銃撃に依り「ガソリン」の漏洩甚しく点火容易なりき CB点火前座席内に入り●囲銃弾倉二を奪取し四十二小隊一番機
(※小川中尉機)と共に最後に飛行場を引揚げ敵機全滅を確めたる後帰途に就く

【第四十小隊二番機 (操)二空曹小野了 (偵)一空山地徳良】
CB×3 N15×4を銃撃せしも一機も燃えず 固定銃故障す 旋回銃にて射撃せしも燃えず 止むなく着陸を決行しCBに近づき操縦者座席より出でCBの翼下に入り拳銃にて射撃したるに直に炎上す 此の時N16高度二〇米を黒煙を吐きつつ通過するを認めたるも攻撃せず 離陸後更に残りしN15を発見 再び着陸 拳銃を発射せしも燃えず 旋回銃を発射せしも点火せず 操縦者は偵察者より「マッチ」を●り航空図に火をつけ之を以て漏洩中の「ガソリン」に点火す 再び座席に帰り離陸後帰途に就く

【第四十一小隊一番機 (操)大尉井上文刀 (偵)一空曹野口克己】
G×1 CB×1 ホーカーハート×1に対し銃撃 G×1 ホーカーハート×1を炎上せしむ 更にN15×1に対し旋回銃銃撃を行ひしも炎上するに至らず 銃撃中N16を発見 追撃せしも及ばず 着陸機を監視後帰途に就く

【第四十一小隊二番機 (操)二空曹徳永有 (偵)一空別宮利光】
N16×2 N15×4 CB×2 G×1に対し銃撃をなし固定銃を打尽くしたるもN16×1を炎上せしめたるのみ 旋回銃を打つも燃えず 止むなく着陸を決行 CB×1を旋回銃にて炎上せしめたる後離陸 帰途に就く

【第四十一小隊三番機 (操)一空前田富雄 (偵)一空吉田高】
N15×1 CB×1に対し銃撃を行ひしも炎上せず 途中南昌に向け逃走中の燃料車四台を発見 之に銃撃を加へ内二台を転覆炎上せしむ 着陸機の監視に当り四十二小隊一番機
(※小川中尉機)と共に敵機の全滅を確認し帰途に就く

【第四十二小隊一番機 (操)中尉小川正一 (偵)二空曹桑島勝】
旧飛行場に敵機十二機を認め之に銃撃を加へつつよく見れば全部囮機なり
新飛行場を偵察しCB×2に対し銃撃せしも燃えず 後に至り此の二機は破壊機なること判明せり 残弾約三十発をN16×1に発射 更に旋回銃を撃つも燃えず 止むを得ず着陸敢行 N16×1を旋回銃にて炎上せしめ地上にある敵機の全滅を確め尚味方着陸飛行機全部離陸したるを確認したる後残りの飛行機を率ひ帰途に就く

【第四十二小隊二番機 (操)三空曹井上辰吉 (偵)一空真崎一義】
N15×1 CB×1に対し銃撃を行ひしも炎上するに至らず 着陸を決意 敵飛行場に着陸せしも「オーバー」の為やり直しを行ひ高度五〇米に達せん頃E16×1同高度左側を追越すを発見 之を約三分間追撃せしも及ばず同機の帰り来るを待つ為高度二〇〇〇米にて飛行場上空を二旋回せしも敵を見ず 僚機の引揚ぐるを見て帰途に就く

【第四十二小隊三番機 (操)三空曹赤星正幸 (偵)一空西原章】
CB×2 G×1に対し銃撃を行ひG×1を炎上せしめたる後更に他のN15×1に対し固定銃旋回銃を以て銃撃を行ひしも炎上せず引揚ぐ




所見
(一) 奇襲を以て敵戦闘機の過半数を撃墜 間髪を入れざる果敢なる爆撃銃撃により何等施す術なく啞然たる間隙に乗じ僚機の掩護下に豪胆なる敵中着陸を敢行 所在飛行機を全部焼却し偉大なる成果を得たるもの一に各員の以心伝心の連繋と旺盛なる攻撃精神の発露にして不断訓練の賜なり
(二) 今回の空襲に鑑み飛行場各要所には高角機銃を備ふるの要あり
(三) 現用六番陸用爆弾は飛行機に対しては数米を距て落下せる至近弾と雖も効果殆どなきが如し
(四) 戦闘機六機を発進せしも夜間の出発の為一機は合同し得ず一機は空戦の初頭に於て衝突墜落し僅に四機にて敵十数機と交戦し約七~八機は無傷にて遁走せしめたる実状に鑑み味方戦闘機は差支なき限り成る可く多数を参加せしめ会敵の場合打漏すことなき様計画するの要ありと認む


功績
本攻撃は戦闘機、爆撃機、攻撃機の各機種(十五空の大部)を挙げて実施せる第一回空襲なりしも、戦闘機、爆撃機、攻撃機の攻撃の連繋実に見事に実施せられ全く敵の虚を衝き戦機を察知せる各員は戦果の拡大に努め遂に敵飛行場に着陸して敵機、装備の弾倉を鹵獲し豪胆果敢なる徹底的攻撃を実施し所在全敵を撃滅したる効果は抜群にして我武威を中外に宣揚したるものと認む




感状     第十五航空隊
昭和十三年七月十八日未明其の主力を以て南昌敵空軍根拠地を攻撃し猛烈なる空中戦闘に依り敵機九機を撃墜したる後地上の敵機に対し果敢なる銃爆撃を加え其の七機を炎上せしめ遺憾なく敵を制圧したる機に乗じ一部爆撃機を以て敵飛行場に着陸を敢行 沈着剛胆 飛行場を隈なく偵察し残存敵機五機を焼却して所在敵機を潰滅したるは武勇抜群なり
仍て茲に感状を授与す
  昭和十三年七月二十日
     支那方面艦隊司令長官 及川古志郎



各機の銃撃経過おもしろいですよね。
上層部からは敵中着陸に関してはめちゃめちゃ褒められまくって感状まで出ているのに、各機の報告では全部「止むを得ず」って書かれていて、本当は着陸したくなかったんだけどしかたなく降りた――みたいな感じで書かれています。一人ぐらい積極果敢に降りましたって報告する人おらんかったのかな?(^_^;)



せっかく作ったので、戦闘詳報についていた「弾着図」と「銃撃及焼却炎上図」をわたしがイラレで図化したものを乗せておきます。もちろん原図はモノクロです。わたしが勝手にカラー化しました。
「弾着図」の方はわたしは見方がわかりません。●と×マークがあるんですが、この違いがよくわからないです。艦攻隊の弾着図は×のみです。●は何の印だろう?
「弾着図」の各機の表現は「33D(小隊)の1番機」みたいな感じの書き方をしてあるので、わたしが「○○機」と機長あるいは判断できないペアは操縦員の名前で表現しなおしています。


「銃撃及焼却炎上図」は「弾着図」を下敷きにして、それにちょっと手を加えました(戦闘詳報の「銃撃及・・・・」はベースが「弾着図」と細部が違っていたので、コピペで同じベースにしました)。
戦闘詳報の「銃撃及・・・・」に書かれているものをそのまま書き加えたものもあるし、わたしが勝手に変更させたものもあります。
変更させたのは炎上の様子ですね。元々もわもわの線2本で表現されていたのですが(←煙みたいな)、わたしの図ではせっかくなので炎状にしました。
囮機や破壊機を除き、徹底的に燃やしていますな🔥
転載禁止ですよ(^_^;)








以前書いた当時の新聞記事に掲載されている搭乗員たちの写真ですが、
「残念ながら徳永さんペア(偵・別宮利光一空)のお顔は見えませんが」
と書いていますが、この「見えません」の意味は、「この場にいない」という意味で書きました。
新聞掲載の写真には6名写っています。艦爆なので3ペアですね。徳永ペアを除く6名の写真です。
後列の3名(浜之上、小野、宮里)は粗いですがまあお顔が写っています。残念なのは前列(山地、小川、桑島)で、帽子の庇の陰になって真っ黒でまったくお顔がわかりません。せっかく撮ってもらったのにね。


元加賀の人たちはお顔がわかっています。浅川さんの加賀飛行機隊総員集合写真からお顔を引っ張ってきました。これは昭和13年5月の撮影なので約2ヶ月前ということになります。


小野了2空曹


徳永有2空曹


浜ノ上勝男3空曹


宮里光夫1空


山地徳良1空


別宮利光1空




こうなると、小川中尉と桑島2空曹のお顔も見たくなります。
小川さんは当時の新聞記事の別の紙面に一種軍装のお姿でお顔が出ていました(7月19日の一面トップ)。粗いですが。

15空の記念アルバムにも裏に記名ありの集合写真がありました。これまた印刷物なので粗いんですが。
この方です。

上の写真をもとに探したら、ワンちゃんと一緒に写っている集合写真もありました。

さらに――。
ヒゲを蓄えておられるので、『陣中髭比べ』集合写真にも写っていました。

たぶん、これ、11月ごろの写真なんですよね。焼き討ち当時にヒゲがあったかどうかはわかりません。



桑島さんの方は乙2期出身なので卒アル写真がありました。
しかし、これ1枚しかなくてお顔がつかめていませんでした。卒アルの写真って、光の当たり具合か、お顔の認識がしづらいです。
最近、乙2期生を一生懸命見ていて、ようやく桑島さんがどの人かわかったので、ここに書きたいなと思っていたところでした。

卒アルの桑島勝さん。

予科練時代の集合写真。

偵察員なので、浅川さんのアルバムにはあまり写真がありませんでした。







ホンマやったら今回の南昌飛行場焼き討ちの件はここで終わっているはずでした。
が、まだ続きがあります。





じつはですね・・・・。
少し前に、小川正一さんのお孫さんからコメントをいただいたんですよ。
「ふぁっ!?(;゚Д゚)」
ってなりましたよ。
なぜにこのタイミングっ!?

そりゃあビックリしました。

小川さんの写真は上に出した15空時代のヒゲの写真と、『真珠湾攻撃隊 隊員列伝』(大日本絵画 吉良敢/吉野泰貴)に出ている飛行機をバックに写った飛行服姿のものしか知らなかったので、
「お顔がはっきりわかる写真を見せていただけないでしょうか」
とおねだりしてみたところ、




「おおおおおおおっ!」

大尉時代の小川さん。
15空時代とずいぶん雰囲気違うぞー!

よく見ると同じ人とわかるのですが。

「ふだんは物静かな小川中尉」っての、わかる気がします。


今回のことがあるまで知らなかったのですが、小川さん、宮崎県出身らしいですよ!
同郷人だ!


小川さん、のちの真珠湾攻撃時は加賀艦爆隊の分隊長です。
『真珠湾攻撃隊 隊員列伝』に小川さんのページがありますので転載させていただきます(了解いただいています)。


加賀2中隊長

小川正一大尉
海兵61期/中佐
第27期飛行学生 艦爆
加賀艦爆分隊長

日中戦争中の昭和13年7月18日、南昌攻撃時に「九六艦爆」4機でもって敵飛行場に強行着陸し、爆撃後に残存していた在地の5機に火を放ったいわゆる“焼き討ち”を実施して生還したことで一躍有名となったのが小川正一大尉。
15空附で前記作戦に従事したのちは練習航空隊の教官配置を長く勤めていたが、昭和16年5月に「加賀」艦爆隊に分隊長として発令、ハワイ作戦へは第2次攻撃隊急降下爆撃隊に加賀2中隊を率いて参加している。
本作戦後、一時内地へ帰還した第1航空戦隊は翌17年1月にラバウル攻略に出動、同月21日には加賀艦爆隊16機を率いてカビエン攻撃を実施、ついで2月19日のポートダーウィン攻撃では九九艦爆18機の指揮官として攻撃に参加した。
その後、加賀はひと足先に内地に帰還し、艦底の修理を実施したのちミッドウェー作戦に出動、小川大尉は6月5日の海戦当日、ミッドウェー第1次攻撃隊に赤城・加賀の両艦爆隊を率いて参加、攻撃を実施したのち無事加賀へ帰着したが、その後、敵艦爆の奇襲により加賀が被弾炎上した際に行方不明となり(艦橋附近全滅)、戦死と認定された。
その戦死は2階級進級の対象となり、海軍中佐に任ぜられた。

略歴
明治45年3月10日 生まれ
昭和8年11月18日 海軍兵学校(第61期)
昭和10年4月1日 海軍少尉
昭和10年11月15日 練空飛行学生(第27期)
昭和11年11月20日 大村空附
唱和11年12月1日 海軍中尉
昭和12年4月20日 佐伯空附
昭和12年7月11日 12空附
昭和12年12月1日 龍驤乗組
昭和13年3月22日 霞ヶ浦空附兼教官
昭和13年6月25日 15空附
昭和13年11月15日 海軍大尉
昭和13年12月1日 霞ヶ浦空附兼教官
昭和13年12月15日 筑波空教官兼分隊長
昭和14年12月1日 岩国空分隊長兼分隊長
昭和15年1月15日 兼兵学校教官
昭和15年12月10日 臨時横須賀空附(~昭和15年12月28日)
昭和16年5月22日 加賀分隊長
昭和17年6月5日 海軍中佐/戦死(2階級特進)


「練習航空隊の教官配置を長く勤め」ってところに引っかかりました。
前も読んでいるはずなのに、いま、あらためて。


しかも13年12月から1年間、筑波空の教官兼分隊長ですよ。

「どこかに写っているんじゃないか?」


写っていましたー!
筑波空の乙8期飛練初練の分隊長だったー!(;゚Д゚)
これは修業記念集合写真。


みな角力の格好をしています。
8期飛練生だけでなく教員も教官もまわし姿。
小川さん、よく見たらまわしに「小」という文字が見えています。隠れているけど「小川」って書いてあるんだろうな。いままでまったく気づいていませんでした。


以前一度出したことがある大洗の磯前神社の行軍時の集合写真。
ちょっとぼんやりしているけれど、これ、小川大尉だと思います。
ここまで操32期中島義喜教員の写真。


これも小川さんかな。
乙2松永喜三男教員の写真の中にあった、大洗の明治記念館前の8期飛練集合写真。



いやー、びっくりしました。
8期生(操縦)たちの飛練時代の分隊長だったのですか。
あの”南昌飛行場・・・・”の小川さんが、8期生たちの分隊長。

おもしろいな、と思ったのは、これは初練で、次、中練に進むわけですが、百里原の中練に進んだ8期生操縦の一部は今度はそこで徳永有先輩(乙3)が待ち構えていたというね(^_^;)



筑波空のあと、岩国空に転勤されたようですが、そこの操練51期の集合写真に写っているこの方も小川さんではないかなと思います。

乙6期中西義男教員の遺品の中にあったもので、わたしが弟さんから写真をお借りしてスキャンしたのですが、なんかピントがちゃんと合っていないんですよね。申し訳ないです。
下の飛行服の方はちょっと自信がありません。



7月18日を前に、桑島さんのお顔がはっきりわかったような気がしたので「お写真紹介しよう」と思っていたところに小川さんのお孫さんから連絡をいただき本当に驚きました。
これも何かのご縁でしょうか。
(桑島さんのお写真はもう少し探してみます、まだありそうな気がする・・・・)



※画像は小川さんご遺族、中西さんご遺族、操練出身艦攻操縦員のご遺族、浅川さんご家族、松永さんご家族ご提供

訳アリクッキー2025年07月17日 15時32分15秒

今日は雨が降っていていつもより涼しいから大丈夫やろ

と舐めてかかったら大失敗しました。



クッキーサンド用のクッキーを焼こうとして・・・・。




冷蔵庫内で生地を1時間寝かせ、カチカチの板みたいになったので冷蔵庫から出して型抜きしようとしたら、ご覧の通りの大惨事。
生地はすぐにふにゃふにゃになってしまい、型抜きどころではなくなりました。

もう、これ単独で食べますわ・・・・。

味は悪くないけど、これじゃあチーズバタークリーム挟めないのでね。

クッキーサンドは寒くなってからリベンジします。


※クッキー生地に卵黄を使ったので、卵白1個分余っています。たぶんこれからシフォンケーキ焼きます。

ケロ子、服を買ってもらう2025年07月14日 22時47分05秒

先日、春海が梅田のキディランドに行くと言って出ていきました。


何を買いに行ったのかと思えば。
ケロ子の服を買いに行っていたようです。

ケロ子は春海が車通勤になって以降、同乗して一緒に通勤しています。



ずっとこのモフモフのつなぎを着ていたのですが、暑いから、と春海が衣替えさせようとしました。

イト●ンみたいな水着を持っているのでそれを着せようと脱がせてみたところ・・・・。

なんか腕とか脚とか肩の肉?がすっかり削げ落ちていて、めっちゃ貧相な体になっていました。

「わーん! ケロ子が瘦せちゃってる(ノД`)・゜・。」

春海はショックを受けてすぐにネットでぬいぐるみ病院を探しました。ふだんはひとりで何もできないくせにこういうときは自分でサクサクやるんですよ。
問い合わせて見積もり出してもらったら12000円だったそうです。
もともとはこれ、春海が小学生のときにびっくりドンキーのお土産コーナーに置いてあった子で、パパが買ってくれたんです。たしか1000円してしなかった。


ケロ子の入院にはもちろん保険はきかんので、断念しました。

「自分でやったら」
と言ってみたのですが、手術失敗したら悲惨なことになるので、長袖の新しい服を買ってあげたみたいです。

しかも、自分のジャージとおそろいのやつ(笑)
妹やからな(^_^;)


いまはこれを着て、春海の横に座って通勤に付き合っています。

操練36期集合写真2025年07月12日 22時23分03秒

今日7月12日は操練36期の艦攻操縦員(のち中攻)の西継男さんのご命日です(昭和18年)。


以前、西さんのご遺族の方に操練36期のいい写真を送っていただいて、調べかけていたのですが行き詰ってしまい、まだ出せる状態になっていません。

が、いい写真なので、ご紹介します(これが誰々さんというのはまだ出せません)。

飛行場にて。
後ろは九三中練ですかね。
昭和11年の終わりごろから12年前半ですか、霞ヶ浦海軍航空隊。
練習生の中には後に百里原空で教員仲間になる貝磯巧さんも写っています。
貝磯さんは前から気づいていたのですが、今日、見返していて、
「はいっ!?(;゚Д゚)」
ってなりました。教員の中に知っているお顔が。最近集中的に見ている乙2の方が(浅川さんじゃありません)。




こちらは少人数集合写真。
Yさんに見てもらったら後ろの飛行機は九二艦攻じゃないかとのこと。
写っているメンバーも「この人艦攻の人」って方がいるので、操練36期の攻撃機メンバーなのでしょうかね。全員どなたかわかっているわけではないので、現時点での推定です。
こちらの教員の中にも、
「はいっ!?(;゚Д゚)」
って方がいるのですよ。こちらは乙2の方ではありません。加賀関係。
「ええっ!? この方、西さんと師弟関係だったの!?」
ってビックリしました。加賀で再会したとき、どんな会話があったのかなあ?




こちらは練習生だけのオフショットかな? オフにしてはきれいに整列していますが。
後ろは桜のようです。
どなたが写っているのか調べかけていたのですが、めっちゃ笑顔で難易度が高すぎて、西さんと貝磯さんしかわかりませんorz


また進んだら出すかと思います。



※西さんご遺族ご提供

新発田麩2025年07月11日 18時10分24秒

みなさん、新発田麩ってご存じでした?
わたしは知りませんでした。
最近、生協で出ていたので、
「何っ!? 新発田だと!?」
と買ってみました。

ビックリ仰天のデカさです。
一つが回転焼ぐらいの大きさです。


今日のお昼は新発田麩の卵丼、いや新発田麩卵とじ丼にして食べました。
つるんとしていておもしろい食感なんですよ。
お出汁を目いっぱい吸っていておいしかったです。
わたしは鶏肉が食べられないのでいつも卵丼か、木の葉丼か、天かす丼なのですが、天かすは油がアレですからね。新発田麩はヘルシーでいいですよ。




どうして、
「新発田だと!? 買いだ!」
になったかというとですね。

大澤昇次さん(操43)と坂田清一さん(乙9)が新発田のご出身だからです。
なんかゆかりのものってうれしいじゃないですか。
おふたりが食べたかどうかはわからないですが。


大澤さんのアルバムにあった「厳島神社で坂田君と」
左が大澤さん、右が坂田さん。


坂田さんの遺品の中にあった同じ写真。


18年7月、大澤さんが武運長久を祈るために厳島神社に参拝したところ、偶然坂田さんに出会って記念写真を撮ったそうです。
大澤さんはこれから翔鶴でソロモンへ。
おそらく坂田さんの方は瑞鶴を降りて横空での特練のため帰ってきたところだったのでは。


お二人は新発田でご近所だったようで、一緒に遊ぶような仲ではなかったようですが、坂田さんは大澤さんが海軍に入ったことも知っていて憧れがあったようです。


そんなお二人の記念写真。
お二人とも大事に残されていました。
2枚とも残っているって、感無量です。


※画像は9期生ご遺族ご提供