太田敏夫さん(操46)と飛練10期生 ― 2025年03月20日 19時14分53秒
前にもこのテーマで同じことを書いているのですが。
知人情報によると今日は太田さんの誕生日らしいので。
太田さん、飛練10期(9期生主体)の中練谷田部時代の教員です。

操縦専修生の約半数が谷田部で教育を受けました(残りの操縦専修生たちは筑波空)。

太田教員。
2空曹時代です。
やさしそうですね。
※イメージです

飛練谷田部の修業記念写真。

太田教員。

飛練10期の太田さん担当練習生と思われます。
太田さんの左が西山昇さん(中攻)。
太田さんの右が新井正美さん(戦闘機)。
古列左から池田和義さん(艦爆)、田中茂雄さん(艦爆)、鹿島長重郎さん(中攻)。
谷田部の飛練10期生の中に、のちに太田さんと同じ台南空に配属される人たちが何人かいます。

羽藤一志さん

遠藤桝秋さん

久米武男さん

熊谷賢一さん

佐藤昇さん

新井正美さん
たぶん太田さん直の教え子。

大西要四三さん ※正確には千歳空所属

木村裕さん
戦地で再会したときはうれしかったんじゃないかなーと想像したりしています。
太田さんも、9期生たちも。
ただ、遠藤さんと久米さんを除いて、みな太田さんより先に戦死してしまいました(久米さんは病気で内地送還)。
帰ってこない教え子を待つ気持ちはどんなものか・・・・。
特に17年9月13日のガ島偵察任務の折の戦闘機隊の編制は、
稲野菊一大尉
奥村武雄1飛曹
茂木義男3飛曹
高塚寅一飛曹長(行方不明)
松木進2飛曹(行方不明)
佐藤昇3飛曹(行方不明)
大木芳男1飛曹
太田敏夫1飛曹
羽藤一志3飛曹(行方不明)
で、羽藤さんは太田さんと同じ小隊で任務に当たっていました。
※画像は9期生ご遺族ご提供
今日のシフォンケーキ ― 2025年03月18日 21時34分00秒
焼いたのは昨日です。
一度ほうじ茶シフォンケーキを焼いてみたかったんですよ。
ダイソー紙型15センチ
卵黄2
卵白3
米粉60グラム
ほうじ茶粉末5グラム
砂糖50グラム
お湯20㏄
太白ごま油20㏄
レモン汁少々
170℃33分
結論から言うと失敗しました。
水分を減らしたからか、卵白3つ分の割に膨らみませんでした。



目詰まりはしていなそう。
ただ、生地がちょっとかたかったです。

やわらかめの生クリームをサンドして今日の午後のおやつに食べました。
次は水分は元に戻してみようと思います。

ほうじ茶の粉はパパに買ってもらいました。
大和園のほうじ茶。
春海、23歳になる ― 2025年03月17日 23時39分33秒
先日、春海に好きなお菓子を聞いてみたところ「マカロン」というので、誕生日のデコレーションケーキはあきらめてマカロンに挑戦してみました。

めっちゃ失敗したんですよ(笑)
見た感じ、ふつうにできているように見えるでしょ?
中は空洞だし、生地はなんかねちゃねちゃして歯にくっつくし、甘すぎるし。
失敗ですよね。
春海に食べさせたら、
「そもそもそんなにマカロン食べたことないから何が成功かわからん。食べられるで」
っておいしそうに食べてくれました(笑)
これ、作るのを失敗しただけではなく、昨日夜、作って、中身をサンドして、冷蔵庫に入れようとしたときに、上からジャワカレーの箱が降ってきて見事直撃弾を浴び粉砕。

この状態のマカロンを今日春海に「誕生日」って言って渡したんですけどね(;´・ω・)
ほんで、今日は春海は仕事帰りにケーキ屋に寄ったみたいで、自分でケーキを3つ買って帰ってきました。
なぜか自分で自分の誕生日ケーキを用意する我が家。
1つ600円もしたそうですよ!(;゚Д゚)
操練21期 鞘野宗夫さん ― 2025年03月14日 22時41分32秒
去年の3月に宇佐でお世話になったのは操練21期の鞘野宗夫(さやのむねお)さんのお孫さん姉妹でした。
→宇佐に行ってきましたシリーズ
鞘野さんは操練出身のベテラン操縦員です。
お孫さんから「ブログ見ました」と連絡をいただいてご縁ができました。
鞘野宗夫さんは、乙9期の萩谷幾久男さんが19年7月24日に占守島で陸軍戦闘機・隼に誤撃墜されたとき、同じ飛行機に乗っていて戦死された方です。
お孫さん、鞘野さんのお名前で検索されて、萩谷さんの記事(今回の記事後半にも転載)をご覧になられたようです。
わたしは操練のことは自分で調べていないので、鞘野さんの経歴もお顔も知りませんでした。
なのでお孫さんにそのあたりのこと(霞ヶ浦と築城と鹿屋にはいたようだ)をうかがいつつ、写真があれば見せてもらえませんかとお願いしてみたところ快く送ってくださいました。
それがこの写真です。

「なんか見たことある人だなあ」
と思いました。
腕に腕章を巻いていることから、教員経験のある人なんだろうなと思いました。
飛行眼鏡が新型だったのでそんなに古い時代の教員さんではなさそうだと思いました。
お孫さんが「二人乗りの戦闘機に乗っていたらしい」と言われていたので、艦爆の操縦員のようだとも思いました(この件は、戦死時の攻撃102飛行隊が艦爆隊だとYさんからご教示、あるいは飛鷹艦爆隊にいたというTさんからのご教示などで裏付け)。
わたしが見たことがある練習航空隊で艦爆・・・・もしかして宇佐かな?
とあたりをつけて探してみたら、操練16期氏木平槌さんと乙10期久保伊勢市さんの宇佐空時代の集合写真に写っていました!
お孫さんに見ていただいたところ、「祖父です!」とのことで。

氏木平槌さんのご遺族が大切に保管されていた遺品の中の1枚(Оさんご提供)。
添え書きはなかったみたいなんですが、中央の二種軍装の士官が高橋赫一さん、その他の顔ぶれから宇佐空の艦爆教員たちのようだと見当をつけていた写真です。
(最後列には兵の人もいる、練習生か?)

前列の左端、鞘野さんです。
鞘野さんは宇佐空時代の昭和16年5月1日時点で総飛行時間が2000時間に迫ろうかという超ベテラン操縦員です(Kさん情報)。
高橋赫一さんの班の班長みたいです。

久保さんの飛練16期艦爆・艦攻専修生たちの修業記念写真。17年3月。

前から2列目、左から2人目。
これらの宇佐空写真から、お孫さんたちが、
「そういえばお父さん(宗夫さんご長男)がお母さんに駅館川で魚を獲った話をしていたらしい!」
と思い出され。
わたしがこの写真を送った数日後にはもう宇佐訪問をされていました!(;゚Д゚)
判断が早いです!
わたしはわたしで宇佐市在住の知人・織田祐輔さんにこの話をしていて、織田さんも「もしお孫さんたちが宇佐に来られるならご案内しましょうか」と言ってくださったので、「それは羨ましい!(どちらも)」と思っていたところ、すでにおふたりで行かれたということで(^_^;)
しかし、お孫さんに織田さんの話をしたところ、
「来週もまた宇佐に行きます! そのときは織田さんにぜひ!」
とのことで。
なんかホントに羨ましいわ~と思っていたら、
「ママさんもどう?」
と言われ、すっかりその気になっちゃって、急遽わたしも宇佐まで行っちゃったというわけです(2024年3月)。
宇佐でのいろいろは過去ブログのとおりです。→『宇佐に行ってきました』1~6
その後、お孫さんが履歴請求してくださって鞘野さんの海軍での履歴も判明しました。
福岡県出身、明治44年(1911)生まれ
昭和6年6月1日 佐世保海兵団入団
8年2月に操練21期生に採用(霞ヶ浦海軍航空隊)
9月に海軍航空術章(特技章)、大村空へ。
その後、第一航空隊、龍驤、加賀、佐伯空、大村空、十三空、鹿屋空を経て霞ヶ浦航空隊(教員)。


ご家族と鞘野さん
霞空時代の鞘野さん、なかなか見つけることができなかったのですが、最近になってようやく1クラス分、見つけることができました。
甲飛1期!!
豊田一義さんの飛練時代の東京行軍の集合写真に鞘野さんらしき人が写っていました。
甲1が霞空で飛練をやったのは昭和14年1月中頃から6月中頃までなので(Kさんご教示)、鞘野さんが霞空で教員をされていた時期と一致しています。

東京行軍二重橋前


東京行軍楠公銅像前


これ、ちょっとどこかわかりません。
左奥に倉庫か格納庫か、そんな雰囲気の建物が写っていますが・・・・。
他クラス写真でも見たことがない場所です。
※2503141848コメントにてこの場所が中島飛行機荻窪工場であるというご教示をいただきました。検索したら出てきました。ありがとうございました!
(申し訳ありません「中島飛行機荻久保製作所本館」と書かれていました💦)

この3枚の集合写真、全部甲1期生が下士官任官後のものです。
甲1は飛練の途中で下士官に任官しています。14年5月1日。
なので、上の鞘野さんは14年5月1日~6月中頃までのひと月半ほどの間の鞘野さんということになります。
15年7月に宇佐空へ。
宇佐時代の写真は冒頭の2枚。
宇佐空時代、艦攻の大澤昇次さん(操43)と時期がかぶっているのですが、機種が違いますからどうでしょうね。
兵舎が同じだったら接点があったかもしれないです。
のちに553空でもご一緒になっているので、もしかしたらご存じだった可能性もあるかもですが・・・・。
17年12月、飛鷹。これはTさんからのご教示で行動調書を確認しました。
そのころのペアの偵察員は乙7期の井上泰雄さん。

その後、龍鳳。
龍鳳は一時的に派遣されていたようです。龍鳳時代の鞘野さんのペアの偵察員は桜山晧一中尉です。
桜山中尉は乙6期・宮武義彰さんの戦死時のペアの偵察員です。
海軍って、ホントに狭いです。
その後、飛鷹復帰を経て、鹿屋空、そして19年築城空。
築城空時代に次男さんが誕生。
553空攻撃102飛行隊へ。
築城空から553空という流れは艦攻の大澤さんや萩谷幾久男さんと同じです(おふたりは攻撃252飛行隊)。
その後、どこかの時点で北海道(美幌)に移動して、19年7月24日に北千島へ、という流れになるのでしょう。
鞘野さんの名前は攻撃102の行動調書では見つけられていません。
大澤昇次さんのアルバムに「美幌上空の九九爆」という注記のある写真が貼ってありました。
Yさんに見てもらったところ、「美幌上空の九九爆」は攻撃102飛行隊と攻撃103飛行隊の可能性があるんじゃないかということでした。


わかりにくいですが、赤枠の部分に写っている飛行機がそうなのでしょうね。

こちらはわかりやすいです。
どちらの飛行隊のものかも、どなたが搭乗しているのかもわからないですが、お孫さんが艦爆操縦員だった宗夫さんを偲ぶ一助になればと思って送りました。
鞘野さんのお孫さんが連絡をくださったきっかけは,、冒頭でリンクを貼った乙9期・萩谷幾久男さんのブログ記事です。
以下、転載します。

萩谷幾久男さん
9期生の中には、海軍の大きな事件に関わって戦死した人が何人かいます。
谷村博明さん・・・・18年4月18日、山本長官が空中視察・戦死した際の2番機(宇垣さん搭乗機・一式陸攻)の機長で偵察員。助かった人もいますが谷村さんは戦死です。
西谷芳数さん・・・・19年3月31日、パラオからダバオに向っていて行方不明になった古賀長官搭乗機(二式飛行艇)の電信員。
遠藤秋章さん・・・・20年8月15日。玉音放送のあとで大分から沖縄に出撃した宇垣長官搭乗機(彗星)の偵察員。
そして、これも海軍にとっては悲劇的な事件だったと思うのですが、北千島における陸軍戦闘機・隼による海軍96陸攻撃墜事件。
19年7月24日。
北千島に飛来した五十一航戦首席参謀・板谷茂少佐搭乗の96陸攻を、隼が米軍機と見誤り撃墜した事件です。陸攻の搭乗員は全員戦死。
この事件を初めて知ったのは渡辺洋二さんの『重い飛行機雲』「さいはて邀撃戦」(文春文庫)でした。
96陸攻の搭乗員は板谷少佐以外記載されていません。
なので、まさかここに9期生が関わっているとは思っていませんでした。
ヒトから聞いたんですよね。
このとき撃墜された96陸攻に萩谷さんが乗っていて戦死されていることを。
たしかに萩谷さんの戦死日は19年7月24日、場所は占守島です。
ただ、聞いて知った、というだけで、資料や活字で確かめる機会がありませんでした。
それに、萩谷さんは艦攻の偵察員のはず。
どうして96陸攻に?
というのがあり半信半疑でした。
去年、艦攻操縦員の大澤昇次さんと文通していて、ハッと、
「もしかして、大澤さんは萩谷さんと同じ飛行隊(553空攻撃252)だったのでは? 何かご存じなのでは?」
と気づき、尋ねてお返事をいただいていました。
お返事というのは、隊誌の記録と萩谷さんのこと少々。
隊誌にはそのとき同乗していて戦死した搭乗員名が書かれていました。
板谷茂主席参謀
山本茂大尉(指揮官)
鞘野宗夫飛曹長(主操)
萩谷幾久男上飛曹
松浦吾郎上飛曹
鍋田昌男1飛曹(偵察員)
鶴田忠正2飛曹
東岡房太郎2飛曹(電信員)
三浦昌保飛長(副操)
丸下勝太郎整曹長(機上整備)
あとお一人いるらしいのですが、お名前不明だそうです。
配置を書いていない人が攻撃252の便乗者のようです。萩谷さんも。
この事件のとき、大澤さんは交替して北海道美幌基地に戻って来ていたらしく、「萩谷さんの戦死事件は知りませんでした」とのことでした。
『萩谷さんは背は私よりちょっと低く、少し背ボンコ(猫背、新潟の方言のようです)、ズングリ格好だったように記憶しているのですが・・・・』
大澤さんが送ってくださった『記録攻撃二五二飛行隊』にも、「さいはて邀撃戦」にも96陸攻が撃墜されたときの生々しい様子が描かれています。
あの中に萩谷さんがいたかと思うと胸が痛いです。
谷村博明さん・・・・18年4月18日、山本長官が空中視察・戦死した際の2番機(宇垣さん搭乗機・一式陸攻)の機長で偵察員。助かった人もいますが谷村さんは戦死です。
西谷芳数さん・・・・19年3月31日、パラオからダバオに向っていて行方不明になった古賀長官搭乗機(二式飛行艇)の電信員。
遠藤秋章さん・・・・20年8月15日。玉音放送のあとで大分から沖縄に出撃した宇垣長官搭乗機(彗星)の偵察員。
そして、これも海軍にとっては悲劇的な事件だったと思うのですが、北千島における陸軍戦闘機・隼による海軍96陸攻撃墜事件。
19年7月24日。
北千島に飛来した五十一航戦首席参謀・板谷茂少佐搭乗の96陸攻を、隼が米軍機と見誤り撃墜した事件です。陸攻の搭乗員は全員戦死。
この事件を初めて知ったのは渡辺洋二さんの『重い飛行機雲』「さいはて邀撃戦」(文春文庫)でした。
96陸攻の搭乗員は板谷少佐以外記載されていません。
なので、まさかここに9期生が関わっているとは思っていませんでした。
ヒトから聞いたんですよね。
このとき撃墜された96陸攻に萩谷さんが乗っていて戦死されていることを。
たしかに萩谷さんの戦死日は19年7月24日、場所は占守島です。
ただ、聞いて知った、というだけで、資料や活字で確かめる機会がありませんでした。
それに、萩谷さんは艦攻の偵察員のはず。
どうして96陸攻に?
というのがあり半信半疑でした。
去年、艦攻操縦員の大澤昇次さんと文通していて、ハッと、
「もしかして、大澤さんは萩谷さんと同じ飛行隊(553空攻撃252)だったのでは? 何かご存じなのでは?」
と気づき、尋ねてお返事をいただいていました。
お返事というのは、隊誌の記録と萩谷さんのこと少々。
隊誌にはそのとき同乗していて戦死した搭乗員名が書かれていました。
板谷茂主席参謀
山本茂大尉(指揮官)
鞘野宗夫飛曹長(主操)
萩谷幾久男上飛曹
松浦吾郎上飛曹
鍋田昌男1飛曹(偵察員)
鶴田忠正2飛曹
東岡房太郎2飛曹(電信員)
三浦昌保飛長(副操)
丸下勝太郎整曹長(機上整備)
あとお一人いるらしいのですが、お名前不明だそうです。
配置を書いていない人が攻撃252の便乗者のようです。萩谷さんも。
この事件のとき、大澤さんは交替して北海道美幌基地に戻って来ていたらしく、「萩谷さんの戦死事件は知りませんでした」とのことでした。
『萩谷さんは背は私よりちょっと低く、少し背ボンコ(猫背、新潟の方言のようです)、ズングリ格好だったように記憶しているのですが・・・・』
大澤さんが送ってくださった『記録攻撃二五二飛行隊』にも、「さいはて邀撃戦」にも96陸攻が撃墜されたときの生々しい様子が描かれています。
あの中に萩谷さんがいたかと思うと胸が痛いです。
2015年7月10日に書いた記事です。
今回はちょっと長いですが、『記録攻撃二五二飛行隊』の当該事件の記述を引用させていただこうと思います。
関係地図。
占守島拡大図。
『記録攻撃二五二飛行隊』に記載されていた地図を再トレースして改変。陸軍北ノ台飛行場の位置がよくわかりません。片岡基地とは海峡を挟んですぐだったようですが・・・・。
『記録攻撃二五二飛行隊』より
[陸軍機の海軍機誤射事件]
七月二十四日、北千島は早くから警戒警報が出て来襲機邀撃体勢が整っていた。
HTB電令作第一一八号 機密第二四〇八〇二番電
一、 通信諜報に依れば「アリューシャン」西部方面敵策動を開始セル兆候シアリ敵ノ奇襲ニ対シ警戒ヲ厳ニスベシ
一二二三、零戦が幌筵島畳山上空に敵PV11(PV-1と思われる)を補足攻撃したが、敵機は燃料を吐きつつ一四〇度方向雲霧中に遁走した。
丁度その頃、山本茂大尉は基地上空哨戒任務をもって単機片岡基地を発進、直後に敵機と遭遇し交戦、惜しくも被弾戦死した。実はこの戦死状況は一応の表向きのものである。
海軍が、やるかたない無念の思いをした事件の真実を記すことにする。
五十一航戦の記録によると、確かに此の日この時刻に零戦が敵機を撃退し、ついで「首席参謀板谷少佐兼務庁赴任の途次占守島上空にて敵と交戦自爆戦死す」とある。
五五三空は「九六式輸送機片岡進出の途次片岡上空敵機と交戦自爆、板谷少佐山本大尉鞘野飛曹長丸下整曹長外下士官七名戦死」と記録している。また搭乗員戦死者名簿では、山本大尉は「上空哨戒任務を以て発進、敵機と交戦し被弾戦死」とある。
実はこの「敵機」とは残念ながら陸軍の隼戦闘機であった。
山本大尉は板谷首席参謀と、九六式陸攻(輸送機に代用して、胴体左に扉を設け、後部には補助椅子席がある)で此の朝美幌基地を出発、占守島片岡基地に向かった。首席参謀は「兼務庁赴任の為」とされているが、山本大尉は片岡基地要務の為か目的は明らかでない。乗務員(定数七名)が攻一〇二・攻二五二から選定されているところから察すれば、山本大尉は設定機の指揮官として搭乗したのではないか。
この日、占守島は朝から敵機の来襲があり、つづいて空襲警報が出ていた。天候は雲量七~八であった。当時片岡基地の車庫長で事件の目撃者の一人真家昌氏が喜多和平氏と野口行孝氏に語った真実は次の通りである。
敵機が逃げて空襲警報が解除になり、また空襲警報が出て、幌筵島北ノ台から陸軍の「隼」戦闘機が飛び上がった。三機であったと思う。見ると、九六陸攻機が一機、アライト島(占守島のすぐ西、2,334メートルの山が聳立する小島)方向から味方識別のバンクを振りながら片岡基地に向かって入って来た。雲高五~六〇〇メートルの雲の下に出たところである。
たちまち隼三機がこれに襲いかかり、九六陸攻機は見る間に火を吐き、高度を下げつつ片岡飛行場の上にきた。胴体左側の扉が開いて、沢山の書類を投下。書類は砕け散って、空いっぱいに吹雪のように飛んだ。陸攻は滑走路の西南端をかすめ、この間に左翼が上方に折れ、エプロン南東七〇メートル位の通称水源地(谷間になって小川が流れている)に墜落。瞬間、機体は爆発炎上し夥しい破片が舞い上がった。
搭乗員は全員戦死した。人数ははっきり記憶しない。首席参謀・山本大尉・天山整備員が搭乗していたと聞いた。投下、散乱した書類は、通称「赤本」といわれる、軍の機密書類で、誰かが是れを救うために投下したのであろう。
山本大尉が関孫六の軍刀を握りしめて、必死の着地指揮をとり、全員が機体と軍機書類の最善の処置に渾身の勇をふるって苦闘した機内の状況が想像される。
身を焼く火炎の中に苦闘しながら、滑走路を塞がないために、場所を選んで接地した苦心も窺知できる。事故のあと直ぐ、現地に白木の墓標が建てられた。
墓標には、「故海軍中佐板谷茂外十名戦死之地」と誌された。(野口行孝氏証言)
外十名というのは、全員十一名であるが、戦没者名簿には板谷首席参謀・山本大尉以下飛曹長鞘野宗夫(攻一〇二)、上飛曹萩谷幾久男(攻二五二)、同松浦吾郎(攻二五二)、一飛曹鍋田昌男(攻一〇二)、二飛曹鶴田忠正(攻一〇二)、同東岡房太郎(攻二五二)、飛兵長三浦昌保(攻一〇二)、整曹長丸下勝太郎(攻二五二)の以上十名が同時戦没者とされて残る一人の名は発見出来ない。
上飛曹萩谷は萩原が正しい(萩谷が正しい)。記録によっては、鶴田二飛曹・東岡二飛曹の所轄が異なるが、鶴田二飛曹の攻二五二・東岡二飛曹の攻一〇二が正しい。鶴田二飛曹(攻二五二)と東岡二飛曹(攻一〇二)とは戦没者名簿に「殊勲乙」と特記されている。攻一〇二飛行隊(飛行隊長松井清大尉)は艦爆隊で、攻二五二と同様に美幌・北千島に展開していた。
この日、九六陸攻搭乗員配置は、指揮官山本大尉・正操縦員鞘野飛曹長・副操縦員三浦飛兵長・偵察員鍋田一飛曹・電信員東岡二飛曹・機上整備員丸下整曹長外一名(氏名階級不詳)であろうと推察される。
水兵帽一個が散乱した器物の間から発見されたという。三浦飛兵長の物であろう。
此の事件は、勿論不問に付されたと思えない。海軍と陸軍にはそれぞれに、やりようの無い無念さが残った筈である。
当時片岡には五五三空藤野司令のもの零戦・銀河・艦攻・陸攻がひしめき、武蔵、擂鉢には零戦・艦爆、陸軍の北ノ台には九一師団司令部があり隼・百司偵が集結し、米軍の進攻に備えていた。北千島の凍てついた雪の岩肌に似て、ぴりぴりとした緊張が将士の間に張り詰め、敵襲には針先以上に神経が尖鋭化していた。としても、バンクを振る味方機の識別がつかないとは、これが戦場であろうか。真相は戦後になって明らかにされた。
戦死(機上配置に関係なし)
大尉 山本茂 整曹長 丸下勝太郎 上飛曹 萩原幾久男 上飛曹 松浦吾郎 二飛曹 鶴田忠正
七月二十四日、北千島は早くから警戒警報が出て来襲機邀撃体勢が整っていた。
HTB電令作第一一八号 機密第二四〇八〇二番電
一、 通信諜報に依れば「アリューシャン」西部方面敵策動を開始セル兆候シアリ敵ノ奇襲ニ対シ警戒ヲ厳ニスベシ
一二二三、零戦が幌筵島畳山上空に敵PV11(PV-1と思われる)を補足攻撃したが、敵機は燃料を吐きつつ一四〇度方向雲霧中に遁走した。
丁度その頃、山本茂大尉は基地上空哨戒任務をもって単機片岡基地を発進、直後に敵機と遭遇し交戦、惜しくも被弾戦死した。実はこの戦死状況は一応の表向きのものである。
海軍が、やるかたない無念の思いをした事件の真実を記すことにする。
五十一航戦の記録によると、確かに此の日この時刻に零戦が敵機を撃退し、ついで「首席参謀板谷少佐兼務庁赴任の途次占守島上空にて敵と交戦自爆戦死す」とある。
五五三空は「九六式輸送機片岡進出の途次片岡上空敵機と交戦自爆、板谷少佐山本大尉鞘野飛曹長丸下整曹長外下士官七名戦死」と記録している。また搭乗員戦死者名簿では、山本大尉は「上空哨戒任務を以て発進、敵機と交戦し被弾戦死」とある。
実はこの「敵機」とは残念ながら陸軍の隼戦闘機であった。
山本大尉は板谷首席参謀と、九六式陸攻(輸送機に代用して、胴体左に扉を設け、後部には補助椅子席がある)で此の朝美幌基地を出発、占守島片岡基地に向かった。首席参謀は「兼務庁赴任の為」とされているが、山本大尉は片岡基地要務の為か目的は明らかでない。乗務員(定数七名)が攻一〇二・攻二五二から選定されているところから察すれば、山本大尉は設定機の指揮官として搭乗したのではないか。
この日、占守島は朝から敵機の来襲があり、つづいて空襲警報が出ていた。天候は雲量七~八であった。当時片岡基地の車庫長で事件の目撃者の一人真家昌氏が喜多和平氏と野口行孝氏に語った真実は次の通りである。
敵機が逃げて空襲警報が解除になり、また空襲警報が出て、幌筵島北ノ台から陸軍の「隼」戦闘機が飛び上がった。三機であったと思う。見ると、九六陸攻機が一機、アライト島(占守島のすぐ西、2,334メートルの山が聳立する小島)方向から味方識別のバンクを振りながら片岡基地に向かって入って来た。雲高五~六〇〇メートルの雲の下に出たところである。
たちまち隼三機がこれに襲いかかり、九六陸攻機は見る間に火を吐き、高度を下げつつ片岡飛行場の上にきた。胴体左側の扉が開いて、沢山の書類を投下。書類は砕け散って、空いっぱいに吹雪のように飛んだ。陸攻は滑走路の西南端をかすめ、この間に左翼が上方に折れ、エプロン南東七〇メートル位の通称水源地(谷間になって小川が流れている)に墜落。瞬間、機体は爆発炎上し夥しい破片が舞い上がった。
搭乗員は全員戦死した。人数ははっきり記憶しない。首席参謀・山本大尉・天山整備員が搭乗していたと聞いた。投下、散乱した書類は、通称「赤本」といわれる、軍の機密書類で、誰かが是れを救うために投下したのであろう。
山本大尉が関孫六の軍刀を握りしめて、必死の着地指揮をとり、全員が機体と軍機書類の最善の処置に渾身の勇をふるって苦闘した機内の状況が想像される。
身を焼く火炎の中に苦闘しながら、滑走路を塞がないために、場所を選んで接地した苦心も窺知できる。事故のあと直ぐ、現地に白木の墓標が建てられた。
墓標には、「故海軍中佐板谷茂外十名戦死之地」と誌された。(野口行孝氏証言)
外十名というのは、全員十一名であるが、戦没者名簿には板谷首席参謀・山本大尉以下飛曹長鞘野宗夫(攻一〇二)、上飛曹萩谷幾久男(攻二五二)、同松浦吾郎(攻二五二)、一飛曹鍋田昌男(攻一〇二)、二飛曹鶴田忠正(攻一〇二)、同東岡房太郎(攻二五二)、飛兵長三浦昌保(攻一〇二)、整曹長丸下勝太郎(攻二五二)の以上十名が同時戦没者とされて残る一人の名は発見出来ない。
上飛曹萩谷は萩原が正しい(萩谷が正しい)。記録によっては、鶴田二飛曹・東岡二飛曹の所轄が異なるが、鶴田二飛曹の攻二五二・東岡二飛曹の攻一〇二が正しい。鶴田二飛曹(攻二五二)と東岡二飛曹(攻一〇二)とは戦没者名簿に「殊勲乙」と特記されている。攻一〇二飛行隊(飛行隊長松井清大尉)は艦爆隊で、攻二五二と同様に美幌・北千島に展開していた。
この日、九六陸攻搭乗員配置は、指揮官山本大尉・正操縦員鞘野飛曹長・副操縦員三浦飛兵長・偵察員鍋田一飛曹・電信員東岡二飛曹・機上整備員丸下整曹長外一名(氏名階級不詳)であろうと推察される。
水兵帽一個が散乱した器物の間から発見されたという。三浦飛兵長の物であろう。
此の事件は、勿論不問に付されたと思えない。海軍と陸軍にはそれぞれに、やりようの無い無念さが残った筈である。
当時片岡には五五三空藤野司令のもの零戦・銀河・艦攻・陸攻がひしめき、武蔵、擂鉢には零戦・艦爆、陸軍の北ノ台には九一師団司令部があり隼・百司偵が集結し、米軍の進攻に備えていた。北千島の凍てついた雪の岩肌に似て、ぴりぴりとした緊張が将士の間に張り詰め、敵襲には針先以上に神経が尖鋭化していた。としても、バンクを振る味方機の識別がつかないとは、これが戦場であろうか。真相は戦後になって明らかにされた。
戦死(機上配置に関係なし)
大尉 山本茂 整曹長 丸下勝太郎 上飛曹 萩原幾久男 上飛曹 松浦吾郎 二飛曹 鶴田忠正
※青字はわたし註
今回、織田さんが海軍の関係資料を持っていて、搭乗員に関してご教示いただきました。
そこにわたしが出身期等一部加筆しました。
板谷少佐以外です。
山本茂大尉 兵68 攻撃252
鞘野宗夫飛曹長(操) 操21 攻撃102
丸下勝太郎整曹長 攻撃252
萩谷幾久男上飛曹(偵) 乙9 攻撃252
松浦吾郎上飛曹 不明 攻撃252
櫻田義雄上整曹 攻撃252
鍋田昌男1飛曹(偵) 乙16 攻撃102
鶴田忠正整長
東風房次郎整長
三浦昌保飛長(操) 丙15 攻撃102
隊誌のほうで氏名不詳になっていたのは櫻田義雄上整曹のようです。
海軍の資料と『記録攻撃二五二飛行隊』の違いを表にしたものが以下のものです。
※表中では『記録攻撃二五二飛行隊』が『攻撃252の記録』になってしまっています。以下、「隊誌」と記述します。
海軍資料、隊誌で記述が一致している人が太字の人。
整備員は水色のベタ塗り。
どちらが正しいのか、わたしには判断できません。
ただ、萩谷さんに限っては隊誌のほうが間違っています。萩原ではなく萩谷です。
松浦さんは氏名は問題ないですが、出身期がわかりませんでした。呉の14年兵、偵察員の方のようです。予科練名簿にお名前がないので偵練出身の方なのでしょうかね。
櫻田さんは隊誌では氏名不詳なのですが、海軍の資料にはお名前が出ていました。
鶴田さんは海軍資料と隊誌で、科と階級が違っていました。上の表では整備ということで水色にしましたが・・・・。
東風さんはお名前も違うし(しかも姓・名どちらも!)、科も違うし、階級も違います。隊誌によるとK252所属の方だっていうじゃないですか。自隊の隊員の名前・科・階級、間違える!?って思うんですが、現に萩谷さんは「萩原」って間違えられてしまっていますし、K252所属らしい櫻田さんもお名前を書き洩らされています。どうなっているんですかね? 戦後に編まれたものなので、記憶違いや錯誤などがあったのでしょうね。
というわけで、どちらが正しいかという判断はわたしには困難なので、差異の表を出しました。
もし、織田さんにいただいた資料が正しいとすれば、事故現場に落ちていた水兵帽は、持ち主の候補としては三浦飛長、鶴田整長、東風整長の3人の可能性があるということになります。
山本大尉の操偵が不明なのですが、こうしてみるとそのことを除けば、隊誌の記載に「正操縦員鞘野飛曹長・副操縦員三浦飛兵長」とあるとおり、飛行機の操縦ができるのは99艦爆の操縦員である鞘野さんと三浦さんだけなんですよね。
※板谷参謀(元零戦搭乗員)が自ら96陸攻の操縦桿を握っていた可能性も0ではないんですが・・・・。
渡辺洋二さんが陸軍・隼側からこの事件を扱った「さいはて邀撃戦」(文春文庫『重い飛行機雲』)にも、「もし」話として、「もし板谷参謀の便乗機が九六陸攻ではなく、B-25やPV-1なみの機材だったなら、ホ一〇三機関砲二挺ばかりの短い連射で落ちはしなかったのではなかろうか。被弾だけにとどまって、特務の少尉の老練な操縦により、無事に降着できたに違いない」と書いているのですが、この「特務の少尉」は鞘野さんのことをさすと思われます(実際は飛曹長。他に該当者がいないのでおそらく鞘野さんのこと)。
操縦は鞘野さんがされていたということで、みなさん、見解一致なのでしょう。
鞘野さんは艦爆操縦員ですが、古い人はけっこうなんでも操縦できたようなんですよね。
古い人って言っていいかどうかわかりませんが、谷水竹雄さん(昭和15年入団、戦闘機)が搭乗員時代に操縦した飛行機をご自分でずらずら列記されたものを見たことがありますが、96陸攻も操縦されていました。
なので、鞘野さんが96陸攻(輸送機)を操縦していたとしても何も不思議はないです。ただ、攻撃を受けたときに、ふだん操縦している艦爆とはまったく勝手が違ったろうな、というのは素人ながら思います。
あと、隊誌では偵察は乙16の鍋田さんが、と書かれているのですが。先任順でいえば萩谷さんが主偵察員の役割を担っていたのではと思います。
萩谷さんはこのときが初北千島ではありません。行動調書を見ると19年3月14日の攻撃252の幌筵島武蔵基地派遣第一陣の哨戒任務から萩谷さんは参加しています。7月24日はおそらく休養か要務かで一時的に美幌に退いていたのが、再び北千島に戻って来て巻き込まれた可能性が高いです(4月末まで幌筵にいたようです。しばらく行動調書にお名前が見えず、次に出てくるのが6月19日の美幌第一基地での船団直衛任務。二日後、美幌第一からの船団直衛任務にK102の三浦・鍋田ペアのお名前もあり)。
萩谷さんにとって知らぬ空ではないので、わたし的にはこのメンバーだったら萩谷さんが主偵察配置で何の不思議もないかなと思っています。
萩谷さんの航法で鞘野飛曹長が操縦して北千島に向かう――。
ちなみにこのとき萩谷さんは21歳。33歳の鞘野さんとはひとまわり違うわけです。
板谷さんが乗っているので和気あいあいというわけにはいかなかったかもしれませんが、北千島に向かう機内はどういう状態だったのかなあ。本人たちは移動のつもりなので、見張りは厳重にしつつもちょっとおしゃべりでもしながら・・・・だったかもしれません。
渡辺洋二さんの「さいはて邀撃戦」は陸軍・隼側からの視点で書かれたものです。
この事件の責任の所在というか、だれがどう責任を取ったのか、そこまでは書かれていません。
隼が所属していた54戦隊に責任なしということで片付いたように書かれています。
搭乗員(陸軍は「空中勤務者」)にとって悪い偶然が重なった上での誤射だったように書かれています。
実際、そうなのかもしれませんが、海軍側は11人も亡くなっています。
だれも責任を取らない、で済んだ問題なのでしょうかね・・・・。
鞘野さんのご遺族の方が厚労省から取り寄せられた資料、びっくりするぐらいたくさんあったのですが、そのどこにも陸軍の「り」も隼の「は」もでてきません。
「敵機と交戦自爆戦死」です。
「敵機と交戦自爆戦死」です。
お孫さんは、わたしのブログを見つけるまでおじいさんが陸軍機の誤射で撃墜されて戦死されたことをご存じなかったそうです。
戦後に、鞘野さんのペアの偵察員で生き残られた方が鞘野家を訪ねてこられ、戦死状況を語って行かれた?ような話は伝わっているそうです。
おそらくこの偵察員の方は攻撃102以前にペアを組んでいた方か、あるいは攻撃102でペアだったけれど、たまたま7月24日は別行動をしていて難を逃れた偵察員の方か――?
ただ、攻撃102の偵察員だった場合は、おそらく正しい戦死状況が伝わっていたはずなので、訪ねてこられたのは以前ペアを組んでいた方で、そのころの戦闘の様子などを語って行かれたのかな、とわたしは想像しています。
鞘野さんのお墓には日付と「北太平洋戦争ニ於テ戦死」とだけ刻まれているそうです。
宇佐行きのあと、萩谷さんのご遺族の方に鞘野さん姉妹のお話をしたところ、ご縁をたいへん喜んでくださって、占守島の現在の写真を送ってくださいました。姉妹さんたちはおじいさんが亡くなった場所には「行けない」と言われいていたのでこれには大変喜んでくださいました。
80年前、同じ飛行機に乗っていて同じ悲劇に見舞われた搭乗員のご遺族の方たちにご縁ができて、わたしもうれしく思っています。
そして――
去年の7月24日、まさに80年前のその日、96陸攻誤撃墜事件が起こった日、姉妹さんたち、北海道に行かれていたそうです。
行動力に感服です。

陸上自衛隊美幌駐屯地を見学されたとか。
鞘野さんが最後に飛び立った地ですので感慨深かったことと思います。
※202503182124
ここに能取岬からオホーツク海を望む画像を掲載していたのですが、お孫さんによるとポスターを撮影したものだったらしいです。そういう連絡をいただいたので削除しました。よく確かめもせずに申し訳ありませんでした。
ここに能取岬からオホーツク海を望む画像を掲載していたのですが、お孫さんによるとポスターを撮影したものだったらしいです。そういう連絡をいただいたので削除しました。よく確かめもせずに申し訳ありませんでした。
オホーツク海を望む能取岬で、萩谷さんに送ってもらった占守島の写真を手に、1230(海軍資料による戦死時刻)、11名の戦死者を想い黙とうをされたそうです。
この慰霊の旅を終え、お姉さんは宗夫さんの足跡探しは一区切りついた気がすると言われていました。
妹さんは宗夫さんをリュックに入れて連れて帰ってきた気がすると言われていたそうです。
※画像は鞘野さんご遺族、7期生ご遺族、9期生ご遺族、大澤昇次さんご家族、愛媛搭乗員会、Оさん(氏木平槌さんご遺族所有)、久保伊勢市さんご提供
その他、Мさん、Tさんから情報提供をいただいています
今日のスポンジケーキ ― 2025年03月14日 19時04分15秒
昨日、盛大に失敗したので今日は「リベンジだ!」と元のレシピ(米粉を小麦粉にした)で再チャレンジしてみました。

焼き上がりはいい感じに見えたのですが・・・・。
型を外そうとしたら紙が型に残って、うまく剝がれなかった細かい生地がパッと飛散しました。
生地がボロボロ。

昨日と一緒ですね。
昨日は太白ごま油30というのが多すぎたのでは?と思ったのですが、どうやら油の量が問題ではないようです。今日はバター10だから。
共立てのやり方がよくないのかな。
それか粉を混ぜたりする過程がよくないのかな。
ネットで検索して研究します。
前はきれいにできたのになー。

レモンカードを挟んで午後のおやつに試食しました。
食感は悪すぎですが、味は悪くないです。
レモンカード、おいしい♪