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加賀飛行甲板 風向き標識周辺の復元2024年02月13日 09時52分48秒

先日書いた、加賀飛行甲板の中央部風向き標識の続きです。
元記事はこちらをご覧ください。

かいつまんで説明すると、真珠湾攻撃直前の加賀飛行甲板で撮影された3枚の艦攻隊集合写真(艦攻隊総員集合写真、北島分隊集合写真、鈴木分隊集合写真、いずれも同じ日に撮影されたと思われる。16年12月5日か7日)に写っている白線の様子から、加賀飛行甲板中央部の2つ目の風向き標識の存在に関して書いたものです。




【総員集合写真】






【北島分隊集合写真】





【鈴木分隊集合写真】






いろいろと知人にも考察してもらった結果、飛行甲板中ほどにX状の風向き標識が描かれていてるようだという結論に達しました。

※知人提供加賀飛行甲板図



知人によるとこの加賀の数字、中央破線の右舷側に描いてあるらしいです。


※飛行機は縮尺を合わせてわたしが合成しました。


このような状態で、搭乗員たちは飛行機の前に艦首方向を向いて居並び写真撮影をしたのだろうと思います。








今回の本題。
「風向き標識周辺の復元」
前回、「長すぎるわ(;´Д`)」と割愛した部分です。




鈴木分隊集合写真にはほかにも貴重情報がありまして。

飛行甲板中軸線に対してほぼ垂直方向から撮影されているので、
「もしかしてこの画像から甲板の板の幅がわかるんじゃないか?」
と考えました。

中央付近に座っている搭乗員の階級章を利用しました。
知人Hちゃんに所有している実際の丸形階級章の直径を測ってもらったところ6.8~6.9センチぐらい、とのことだったので、6.9センチということでイラレ上で計測し、計算しました(黄色い数字はイラレ上の寸法)。
階級章がある位置(搭乗員がおしりを接地しているぐらいの場所かな)で板の幅を測りました。誤差があると思うので正確ではないですが、15.6センチとでました。
板と板の間に溝があるので、それも考慮に入れないといけないですが、そんなに正確に出なくてもいいので、板幅は約15センチということにしておきます。



「こんな数値出してどうするんだよ!?」
って話ですが。

ちょっとやりたいことがあったんです。

飛行甲板中央部の風向き標識(とその周辺)の復元。

板1枚の幅がわかれば中央部の白い太い破線の太さもわかりますね(おおよそ)。
板4枚分に描かれているので。

さらに、知人によると加賀の風向き標識の角度は60°とのことだったので、それにのっとって風向き標識を描き込んでみると、見えている範囲でどれほどの長さがあるのかもおおよそわかるのではないか?と考えました。











集合写真を撮影した周辺の飛行甲板の様子を溝入りで描いてみました(上の飛行甲板全体図とは上下逆になっています)。

風向き標識で一番長い部分、交点から赤丸のところまで8.6とか8.7メートルぐらいありそうです。そこで写真が切れているのでもっと伸びているんでしょう。

これはあくまでも「板の幅が約15センチ」「風向き標識の開き角度60°」という前提で出した数字なので、例えば板幅がバラバラだったり、14センチだったり、あるいは開き角度が若干違っていたりしたら話が違ってきます。
あくまで上の条件での話。
板幅はたぶん正確には出ていないので(溝もあるし)、おおよその数字としてとらえてもらえればと思います。





形も、上3枚の写真からはわかりません。
端部がきっちり一直線に切りそろえられて正三角形状になっているのか、それとも端部は弧を描いて扇状になっているのか。
端部を切りそろえていた場合。

端部が扇状に広がっていた場合。

プラモデルの作例などを見たら切りそろえられた正三角形状に作ってあるみたいですけど。
三段甲板時代の風向き標識は・・・・切りそろえられているように見えるんですが・・・・よくわかりません。



あと、中軸ラインの白い破線の間隔も写真からはわかりません。
自分なりに写真から数値を出していますが(風向き標識の開き角度が60°、板幅が15センチと仮定して)、これはまだちょっと保留です。



言い切っていいのは、
・幅15センチ程度の板4枚分に白い中軸ライン(破線)が描かれている(約60センチほどか)。
・白い中軸ラインの中心ではなく、やや右舷寄りにX状の風向き標識の交点がある。
・風向き標識の線は7本あり、板の約5分の2ほどの幅ではないかと思われる(板幅が約15センチとすると線幅は約6センチ)。
・風向き標識の一番左舷側、艦尾側の線は白い中軸ライン(破線)端から板25枚分のところまでは確実に描かれている。





他にも眼環位置の復元も試みてみました。
眼環というのは飛行甲板に埋め込まれている飛行機を係止するための装置です。

総員集合写真に写っている眼環。
中央の黒っぽい丸い穴です。

半球状で、ワイヤーを引っ掛けるためのブリッジがかかった装置を飛行甲板に埋め込んでいるそうです。

こうやって係止します。


これ、フェリーの客室にあったイスの係止装置ですけど(笑)
たぶん、こんな感じでフックを引っ掛けていたんじゃないかな。




加賀飛行甲板中央部の風向き標識周辺の見えている範囲で調べてみた結果、横方向には約1.5メートル間隔で設置されているのではないか?(板幅15センチ前提で)
縦方向はもっと間隔が短いように思います。
自分なりに数値を出していますが、ここでは保留ということで。


眼環はほかの空母に関してもずいぶん調べました。
板との関係とか、形状とか。
なかなか興味深いです。

わたしが見たほとんどの空母の眼環は掛かっているブリッジは直線状でした。
イメージとしては上図のような感じ。
正確な話をしだすと、こんな単純ではないんですが💦




ところが、加賀の眼環はほかの空母と形状が違うのです。
写真で見た感じでも「変わった形をしているなあ」と思っていました。
たとえばこれ、12年の加賀の眼環です(乙2浅川三雄さん写真)。
知人に尋ねてみたところ、これ、十字状のブリッジが掛かっているそうなんです。


この2枚は鈴木分隊写真に写っている眼環。

こんなイメージですかね。

眼環の位置がわかりやすいように、周囲を白く縁取りしているように見えます。

板の幅から推定すると直径は10センチ強かなという感じがします。




手元にある空母飛行甲板写真をすべて、あとネット上で閲覧できる空母飛行甲板写真、それらをくまなく探してみましたが、いまのところ加賀のような十字状ブリッジの眼環は見つけられていません。

フックを引っ掛けやすいと言えば引っ掛けやすい形状ですよね。
一度引っ掛けたら動きにくいでしょうしね。

どうして加賀だけ?って気はしますが。



割と正確に復元した(つもり)風向き標識の場所に97艦攻と搭乗員たちを配置してみました。
何度も言いますが、3枚の写真からは風向き標識の線がどこまで伸びているかはわかりません。

総員集合写真。




北島分隊集合写真。





鈴木分隊集合写真。










じつはほかにも検討していたことがあります。
飛行甲板の板の組み方。
結論から言うと、真珠湾時の上の3枚からは板の組み方はわかりませんでした。
ただ、大和ミュージアムが公開している加賀の昭和3年の建造時の写真(3段甲板時代)で見ると、板の組み方がよくわかります。


こんな感じで、5枚一単位で繰り返して敷いているように見えます。




先日、近所の木工店で売っていたスギとヒノキの端材で作った20分の1飛行甲板は加賀の昭和3年写真をもとに組んだものです。
テキトーに組んだんじゃないんですよ(^_^;)
さらにそこにマステで中央破線と風向き標識を貼りこんだもの。
(何度も言いますが、中央破線も風向き標識も長さは把握できていません)

同じ長さのマステを貼ったので風向き標識が扇状になっていますが、ホントは三角形状だったかも。


昭和3年の木甲板を参考に組んで、そこに真珠湾直前の風向き標識を貼りこんだので、たぶん実在しない飛行甲板です。



20分の1海軍搭乗員さん。
板は両面テープで貼り付けているので、ところどころ浮いちゃっています。

白線はマステじゃなくて”塗る”が正解なんですが、失敗したらと思うと怖くて塗れません(;´Д`)

板と板の間はわざと隙間が空けてあります。ホントはここに実際のように何物かを充填したかったんですが、細すぎてやめました。
不細工でスイマセン💦






ホントは2つ目の風向き標識の復元は加賀プラモデルでやりたいんだけどねー。





※画像は島田直さん、町元善春さんご遺族、浅川三雄さんご家族、大澤昇次さんご提供
加賀飛行甲板図は知人ご提供
知人にはほかにも飛行甲板全般に関する様々なご教示をいただきました。
Hちゃんはじめ、みなさまいつもありがとうございます。

加賀飛行甲板中央部の風向き標識の件2024年02月01日 19時15分39秒

加賀の飛行甲板中央部のX状の風向き標識に関して。
ブログをご覧になった方からご意見いただきました。



「風向き標識にしては細くない?」




たしかに、(他艦の)艦首の風向き標識に比べると細いような気がします。

じつは前回の記事では割愛しましたが(←あまりにも文章量が多くなったため)、わたしなりに風向き標識の線の太さを割り出しています。
6センチほどではないか、と。

この風向き標識周辺の復元もしています。
見た感じ、細いような気はします。




瑞鶴の飛行甲板中央部の風向き標識も加賀と同じように細いように見えますね(世界の傑作機(文林堂)の零戦11-21型)。




空母を知らないなりに、細くていい理由をいろいろ考えてみました。


「艦首と違って、発着艦指揮所から近いからそんなに太くなくてもよく見えたのでは?」


ではダメでしょうかね?



赤城はどうなのかな?
ちょっといろいろ見て考えてみます。

加賀飛行甲板風向き標識 真珠湾攻撃時2024年01月30日 08時37分06秒

もう1年以上この問題にとりついているんですが(^_^;)
いまだに日々新たな疑問などが沸いて出てなかなかまとまりませんでした。

そろそろまとめにしようかな。


自分的には、
「みなさん、これ、ご存じないのでは?」
と思っているんですが、何せわたしは空母に関してはまったくの無知なので、もしかしたら空母好きな人からしたら、
「そんなん、前から知ってたわ!」
てことかもしれません。

しかし、ネット検索しても、空母の本などを見てもどこにも書いていないし、これで加賀プラモデルを作っている人も皆無のようなので、
「やっぱ、みなさん知らないのでは?」
と思って書いてみようというところです。




タイトル通り、真珠湾時の加賀の飛行甲板に関することです。





2015年に乙9期、熊本の島田直さんの墓参に行った折に見せていただいた真珠湾直前の加賀艦攻隊総員集合写真。

わたしは「初めて見た!」と思って興奮したのですが、じつはそれまでにも書籍などに掲載されていたものでした(吉良敢・吉野泰貴『真珠湾攻撃隊 隊員列伝』、神立尚紀『戦士の肖像』)。
それに気づかず、「これ、すごい!」ってSNSで友人に公開しちゃったと(^_^;)
そのとき、お一人から、
「(飛行甲板に放射状に広がっている白線の様子から)艦首に飛行機置いて撮ったの? その後ろにも飛行機が並んでいるし・・・・」
と、「へんだなあ?」みたいな感想をいただきました。


わたしとしては、友人たちに公開したのはもちろん写っている「搭乗員たち」のつもりで、それ以外の被写体に関してはまったく目が行っていませんでした。
そんな中で指摘された「風向き標識」。
そのときのわたしは艦首の風向き標識のことすら知らず、
「へえー、この矢印状の白線ってそういう機能のものなんだ~」
と、知人が感じた違和感についてはまったく気にもせず、その後、その”違和感”に関しては調べようともしませんでした。

風向き標識というのは空母の艦首に描かれた矢印状のもので、矢印の先端から蒸気を出し、空母かきちんと風に正対して走っているかどうかを確認するものです。
飛行機の発着艦の際は空母は風に正対して走ります。
わたしの記憶が正しければ、映画『永遠の0』でCG赤城が艦首の矢印から白煙を上げながら走っているシーンがありましたよね。



加賀艦攻隊集合写真の飛行甲板に描かれた放射状の線(矢印)はそういう機能のものらしいです。ふむふむ。


ちなみにこの加賀艦攻隊総員集合写真、書籍には12月7日、真珠湾攻撃の前日に撮影されたもの、という説明があるものがありますが、2021年12月に放送された「真珠湾80年 生きて 愛して、そして」という番組の中で紹介された加賀艦攻操縦員の北原收三さん(操50)の日記に12月5日に「記念写真を撮る」の記載が(ご遺族ご提供、Оさんご協力)。
北原さんは真珠湾攻撃で戦死されているので、日記は当日か遅くとも7日までには書かれていたもので、そういう意味では大変資料的価値が高い記述ではないかと思います。

北原日記の12月5日にはもう一つ注目の記述があって、
「一昨日来の暴風雨静まれども終日曇天小雨模様なり」
これなんですけどね。
総員集合写真を見ると飛行甲板のところどころに水たまりがあるように見えます。前日まで荒れていたらしいので波をかぶった可能性も無きにしも非ずですが、写真の様子からも晴天には見えません。天気の面からも「5日」で矛盾ないように思います。


ちょっと余談ですが、乙9期の島田清守さん(蒼龍艦攻隊)の日記によると12月5日は、
「次第ニ南下スル。昨日迄ノ荒天モ静マリト平常通リ「総員体操用意」ノ號令モカカル。飛行甲板ニ出ルト部隊ハ厳然ト進ム。各艦飛行甲板ニペラノ(不明。部員?)ガ有ル様ダ。攻撃ヲ前ニシテ、昨日、一昨日ト飛行甲板ノ作業モ出来ズ今日カラ一斉ニ初(始)マル。 飛行機ノ試運転ダ。」※( )はわたし注記
蒼龍ではこんな具合です。
蒼龍から見たら他艦も飛行甲板に飛行機を上げて試運転をしていたらしいので、きっと加賀も飛行機を飛行甲板に上げていたのでしょう。そのときに記念撮影もやった、ということだろうと思います。

というわけで、今回の話に直接関係はないですが、わたしはこの写真に関しては「12月5日撮影」説をとろうと思います。

余談の余談ですが、7日も加賀も蒼龍も飛行機を飛行甲板に上げています(北原日記、島田日記)。
お天気情報は北原日記「今日は暫く振りの晴天」。島田日記にはお天気情報なし。


と、ここまで書いてからの追記。
2023年9月に町元善春さんの遺品を見せていただいたのですが、同じ総員集合写真がありました。
どなたが書かれたのかわかりませんが裏に手書きで「昭和十六年十二月七日撮 布哇攻撃前日 加賀艦攻隊総員」と書かれていました。
「やはり7日なのか?」
正直、揺れています。
北原さんが日記に書いている5日に撮影した「記念写真」はこの集合写真のことではないのか?

総員集合写真の撮影日に関しては、機会をあらためてゆっくり考えてみようと思っています。




さて、加賀の風向き標識の話に戻ります。

加賀の艦攻隊は総員集合写真以外に分隊ごとの集合写真も撮っています。
ここでいう「分隊」というのは艦内分隊のことで、攻撃時の中隊とは異なります。
加賀艦攻隊は飛行隊長の橋口喬少佐(兵56)のもと、北島一良大尉(兵61)、牧秀雄大尉(兵61)、鈴木三守大尉(兵64)の3人の分隊長が3つの分隊を率いていました(Yさんご教示)。

艦内分隊と攻撃時中隊の話をしだすとここでは足りないので今日はやめておきます。



これら3分隊のうち、わたしが現時点で見ることができたのは北島分隊集合写真と鈴木分隊集合写真です。

総員、北島分隊、鈴木分隊のこの3枚の集合写真は、搭乗員の装備の様子から、同じ日に時間をそうおかずに前後して撮影されたものと捉えています。




総員集合写真に写っているこの白線、分隊集合写真にも写っていました。

北島一良大尉分隊集合写真。
ちょっとわかりにくいですが、最前列、甲板に座る搭乗員たちの足元(右端のほう)に線が写っているの、わかりますかね?
太い白線とそれに対して斜めに入る細い白線が描かれているようにあります。

じつはこれを見た時点でもわたしは「あること」にまったく気づいていなかったんですけどね(^_^;)

ふだんはどうしても搭乗員のほうに気が行ってしまって、飛行甲板上のその他のものに目が行きにくいのです。





「あれ?」
と思ったのは、この写真です。
さすがにわたしでも、ね(^_^;)
鈴木三守大尉分隊集合写真。
乙8期の町元善春さんの遺品です。
後ろに置かれている97艦攻は鈴木大尉(操)、森田常起飛曹長(偵)、町元2飛曹(電)の真珠湾攻撃時の搭乗機・AⅡ‐356号機です(カウリング下部に「56」あり)。

ビックリしました。
飛行甲板の白線がかなりがっつり写っているでしょう?
しかも、総員集合写真では矢印だと思っていた白線がX状に描いてあるではないですか。




ここまで見て初めて「はっ!(;゚Д゚)」としてこの線に関心を持ちました。

「他のもちゃんと見てみよう」


白線が引いてあると思われる部分をイラストレータでトレースして強調してみました。

【総員集合写真】
加賀の場合、飛行甲板中央軸あたりに太い白い破線が引いてあるんですが、その破線に重なって矢印のとんがり部分があり、そこから手前に向かって放射状に広がっているのがわかります。7本。
しかし、よく見ると、搭乗員たちの左後方にも延長した白い線が見えていたんですよ。
放射状の線はこちら側だけでなく、向こう側にも描かれているということがわかります。



【北島分隊集合写真】
やはり甲板中軸線の太い破線上に風向き標識のとんがり部分があるようです。
画像が切れていてこちら側に広がっている線はわかりませんが、搭乗員の左後方に延長の線が見えています。


【鈴木分隊集合写真】
説明はいらないでしょう。見たまま。
太い破線の上で交差した風向き標識はこちら側にも向こう側にも伸びています。

※北島分隊・鈴木分隊集合写真は白線を見やすくするため色調調整してからイラレで白線を描きました。




それぞれの撮影位置関係。
これ、想像の概略図なんですが。
総員集合写真はこんな感じで、飛行甲板中軸ライン(太い破線)上に沿って置かれた97艦攻に対して、すこし斜め状態に居並んだ総員を斜めから撮影。



北島分隊も同じく、少し斜めに居並んで斜めから撮影。



鈴木分隊は中軸破線ラインに対してほぼ垂直に並んで撮影。97艦攻も真正面からとらえています。


ここまで書いてきたらみなさんおわかりと思うのですが、これ、

「どう見ても艦首じゃない!(;゚Д゚)」

搭乗員たち、ワイヤーの上に座っているし、AⅡ‐356号機の後ろにも数機の97艦攻が並べられています。
艦首の風向き標識の向こうにそんなスペースありません。


それよりなにより、加賀の艦首部分は板張りではなく鉄張りだっていう話です(知人ご教示)。
知人作成の加賀の飛行甲板図を提供していただきました↓。

艦首の風向き標識で集合写真を撮ると、
こんな状態になっちゃうんですよ(上が艦首、下が艦尾)。
飛行機、落ちそう(;´Д`)
いや、複数機置くスペースないって(;´Д`)

ということはです。
上の3枚の集合写真、どこで撮ったんや?
って話です。










これはわたしが気づいたんじゃなくて知人が気づいた話なんですが。

町元さんの写真の風向き標識交点の左側に重要なヒントが隠されていました。
写真に数字が書いてあるような気がしていたんですが、知人によると「140」と書いてあり、飛行甲板上の位置を示しているということでした。
大事なことなので何度でも言います、知人が気づきました



「140」から推測される風向き標識の位置を知人にイラストにしてもらいました。




知人によるとこの加賀の数字、中央破線の右舷側に描いてあるらしいです。


ということは、こんな風に飛行機を艦首に向けて並べ、その前に搭乗員たちが居並んで写真撮影をした、ということになるのでしょう。


この加賀飛行甲板平面図、ベースは知人作成です。
放射状の風向き標識も位置も知人が作ってくれた図をそのまま利用させてもらいました(知人と風向き標識に関して検討済み)。
縮尺を合わせた飛行機を置いたのはわたしです。
あくまでイメージ図ということで。






ここでちょっと考えてみたいのですが、鈴木分隊集合写真の97艦攻の胴体の向こうに四角く白塗りしてある部分があるのわかりますか?
わたしがイラレで加工したんじゃないですよ。
町元さんの写真がこの状態でした。
これは海軍がよくやる「写ってはいけないものが写っていたので隠しました」ってやつだと思うのです。
何が写っていたの?

知人によると「エレベーターが写りこむかもしれません」ということでした。

上の飛行甲板平面図を見てください。
飛行機をずらずら並べた奥(艦尾側)に後部エレベーターがありますね。鉄張り色で四角枠で囲まれた部分です。
あれが上昇したままの状態で写ってしまったのでは?



「おい、エレベーター写っちゃうよ。ヤバいよ」
って気づいたので、総員集合写真と北島分隊集合写真はエレベーターが写らないよう、搭乗員たちが斜めに座り、斜めに撮った――――んじゃないですかね?
それなら鈴木分隊も撮り直せばいいんですが、めんどうくさかったのか、別の理由があったのか、撮り直しせず「エレベーターを消して処理」――になっちゃったんじゃないか。

「別の理由」の候補ですが。
もしかしたら、後ろの97艦攻はそれぞれの分隊の分隊長機を置いて撮影したのかな?
鈴木分隊長機を背景に鈴木分隊集合写真を撮った後、
「しまった、エレベーターが」
となったけど、すでにほかの分隊長機に据えかえたあとだったので、
「もういいか」
と撮り直ししなかったのではないかな、とかとか。
想像ですよ。
撮影した順番もわからないのでね。
ちなみに背後の97艦攻が同じ機体か違う機体かは、まったくわかりません。プロベラの角度は同じように見えますが・・・・。
鈴木分隊集合写真の機体が鈴木大尉搭乗機である、ということがたしかなだけです。

ここで別の問題もあって。
「エレベーター上昇画像は機密なのかどうか」問題。
ネットで検索すると、加賀を真正面からとらえた画像でがっつり上昇状態のエレベーターが写っているものが出てきます(もとは動画みたい)。
うーん・・・・わからん。写っていいのか悪いのか。
でも、この画像を見る限り、写りこんで消されているのは上昇状態のエレベーターが一番可能性が高いと思うんですよね。
まさか整備員が翼の上からひょっこり顔を出していて、「おまえ、搭乗員の記念写真に写りこんじゃったぞ」と白塗りされたわけでもないでしょう。




そういうわけで、わたしは撮影場所は飛行甲板中央部あたり。
飛行機を艦首方向に向け、その前に搭乗員たちが居並んだ、と理解しています。








なぜ飛行甲板中ほどに風向き標識を描いているのか。
なぜ矢印状ではなくX状に両方向に開いているのか。


他に2つの風向き標識を描いている空母はあるのか?

現時点でわたしが飛行甲板中央部の風向き標識を確認できたのは加賀以外では、「赤城」と「瑞鶴」です。

赤城は真珠湾時の複数の写真に写っているのを確認しました。

赤城の飛行甲板中央部の風向き標識に関してはすでに周知の事実のようで、プラモデルや週刊赤城ダイキャストモデル、それに加えて様々なキャラクターや商品でも表現されています。
たとえば艦これの赤城さんが持っている飛行甲板形の盾みたいなものにも描かれているし、飛行甲板タオルや飛行甲板スマホケースでも描かれているものがあります(ないものもある)。

形は一方向のみに開く矢印状。
ただ、わたしが確認した写真では全体+周辺が写ったものがなくて、加賀のように反対側に伸びていないのかどうか、確認はまだとれていません。
艦尾方向に開いている風向き標識があるのは確実。

↓赤城飛行甲板はこんな感じ。大和ミュージアムで撮影してきた赤城の模型↓。







瑞鶴のほうは、世界の傑作機(文林堂)の零戦11-21型に掲載されている17年1月のラバウル攻撃時と説明のある甲板上に並べられた零戦写真、に写っていました。
こんな写真。
ホント、雑でスイマセン💦

ちょっと高いところからの視点なので艦橋の発着艦指揮所ぐらいのところから撮影しているのかな?
画像の真ん中あたり、中央の白い太ライン上を起点に艦尾方向に開いている風向き標識がしっかり写っています。
全部ちゃんと写っていないみたいですが、見えている線の間隔などから想像すると加賀と同じで7本あるのでは?
この画像で見る限りは艦尾に向かって一方向のみに開く矢印状で、加賀のように双方向には開いていないようです。



こんな感じでしょうか。
開き角度や大きさは適当です。イメージ図、みたいな感じで。





「翔鶴にはなかったん?」
って疑問がすぐに沸いていろいろと写真を探してみたのですが、現時点では翔鶴の飛行甲板中央部の風向き標識は見つけられていません。

もっというと、蒼龍と飛龍は?
となるんですが、これらも現時点で見つけられていません。
蒼龍は昭和14年撮影の、飛行甲板中央部でスモークを焚いて発艦している写真を大和ミュージアムで見ましたが、その写真ではその部分に風向き標識があるかどうかまでは確認できませんでした。ぱっと見、ないように見えます。




どうして風向き標識が飛行甲板中央部にも描かれているのか?

風向き標識が艦首だけだと正確に艦周辺の風向きを把握できなかったのか?
大きいですからね、赤城も加賀も瑞鶴も。
艦首の風向き標識の先端には蒸気吹き出し口があるらしいのですが、少なくとも加賀の飛行甲板中央部の風向き標識のXの交点に穴が開いている様子は見受けられません。何らかの仮設の蒸気発生装置でも置いたのでしょうか。赤城も同じでしょうかね。
(前述した14年蒼龍の写真では見た感じ仮設の装置は確認できず)


とりあえず2つあれば、万が一艦首が大きく損傷を受けたとしても、飛行甲板中央部の風向き標識が使える、ってのはありそうですよね。


ここで赤城・瑞鶴と加賀の違い。
飛行甲板中央部の風向き標識、赤城・瑞鶴は一方向だけれど、加賀は二方向に開いています。
なんで?

知人とこの件に関して話をしていて、「逆着艦」というワードが出てきました。
「逆着艦とはなんぞ!?(;゚Д゚)」
わたしには想像すらできんのですが、空母をバックさせて艦首側から飛行機を着艦させる――そうなんです。
「えー!? そんなことできるんですか!?」


↓ふつうの着艦  ※イメージです



↓逆着艦 ※イメージです

「ふぁあああっ!?(;゚Д゚)」

そもそも空母がバックするって、わたし、知りませんでした!





ちょっと手持ちの手記など探してみました。
そしたらですね、光人社NF文庫『母艦航空隊』高橋定ほか に掲載されている阿部平次郎さん(兵61、真珠湾時蒼龍艦攻隊)の手記(「日本海軍式”発着艦”指揮マニュアル」)にさらっと書いてありました。
「なお、大型航空母艦では異状な事態にそなえて、逆着艦(艦首の方から着艦すること)用の着艦指導灯が、前部飛行甲板の右舷に設置されていた」
うわああああ!!!! マジですかっ!?(;゚Д゚)

そりゃ大変だ!
となって、ネットで甲板前部が写っている画像を探し、拡大して目を皿のようにして着艦指導灯(着艦誘導灯)を探したのですが(加賀も加賀以外も)、残念ながらわたしには「これだ!!」ってのは見つけられませんでしたorz

ふつうは着艦してくる艦尾側から見えるように段違いの色違いライト(赤と緑)を艦外に張り出し状態で設置。
大和ミュージアムに展示してあった翔鶴模型の艦尾の着艦指導灯(着艦誘導灯)。黄色丸の部分。

その段違いが重なって見える状態が着艦に適した角度で降下している状態、ってことらしいです。




半信半疑でいろいろあさっていたら、『艦船模型スペシャル』2022年春号の大鳳特集に「あっ!(;゚Д゚)」と驚く作例があることに気づきました。
いくつか大鳳の作例があるうちの一つ、フジミ700分の1で作った「改大鳳」って作例です。

この改大鳳、艦首側にも着艦指導灯がバッチリついているんですよ!
「まじか!(;゚Д゚)」
またまた驚いたのでネットで検索してみたら、大鳳は艦首側からの着艦を想定して艦首側に着艦指導灯がついているって書かれた記事がいくつかありました。
知人の話だと大鳳の飛行甲板前部の着艦指導灯は図面に描いてあるそうです。




加賀にも艦首側に着艦指導灯がついていれば、「飛行甲板中央部の双方向風向き標識は逆着艦にそなえるため」説の強力な援軍になるのですが、現時点では何とも・・・・です。

去年9月に潜水艇がミッドウェー海底の加賀探索をしたときにずっとライブ映像を見ていたのは、
「艦首の着艦指導灯が映らないかな」
という期待?があったのです。
しかし、損傷がひどい&わたしの無知がひどい、で映しだされているのがどのあたりの部位なのか、どういう構造物なのか、さっぱりわかりませんでした。

ちなみに18年に翔鶴に乗っていた艦攻操縦員の方に逆着艦にそなえた装置(艦首の着艦指導灯、双方向の風向き標識)があったか尋ねてみましたが、記憶にないということでした。





よくわからないです。
赤城や瑞鶴だって不測の事態が起こって逆着艦せざるを得ない状況に追い込まれる可能性もあるわけで。
なぜ加賀だけ双方向の風向き標識を描いているのかな?


艦首オンリーだったり、2つあったり(艦首と飛行甲板中央部)、あるいはそのうち一つがX状だったり。
あるいはまったくなかったり?というのもあるんでしょうか?
どこにどう描くか、どういう決め方をしているんでしょうね? 
時期によってあったり、なかったり?
艦長の裁量?





何度も言いますが、わたしは飛行甲板のことに関してはまったくの無知なので、ここで解決しなかった疑問やその他これらの加賀写真からわかることに関しては知人にあとを託したいと思います。




※画像は島田直さん、町元善春さんご遺族、大澤昇次さんご提供
風向き標識の位置を示す140メートルの情報と飛行甲板図は知人ご提供です。
知人にはほかにも飛行甲板全般に関する様々なご教示をいただきました。
本文にも書いたYさん、Оさん、みなさまいつもありがとうございます。
島田清守さんの蒼龍時代(昭和16年11月12月分)の日記はブログ本文右欄にリンクがあります。

乙12 堂本吉春さんの写真2024年01月23日 20時23分18秒

今日、搭乗員さんとやり取りした手紙類を整理していて、久しぶりに堂本さんのお手紙集(手紙現物と活字化したものをファイルに入れている)を開いてみました。




この写真、ブログで紹介したことありましたかね?


検索しても出てきません。
最近、というか結構前から検索をかけても全然目的のものが出てこないんですよね。書きすぎなんかなー💦



上の写真、裏書に「台湾沖航空戦直後 二〇年十月二十四日」と鉛筆書きで書き込んであります。
アルバムから剥がして送ってきてくださったのか、剥がし跡があります。

手紙と一緒に送ってきてくださったもので、返さなくていいということだったのでいただいてしまいました。

手紙のほうに写真の装備の説明が書いてあって、
1.左側の耳当てのところに入れているのが受信器。首に巻いているのがそのコード。
2.首から提げているのが時計。
3.ジャケットのバンド下に挟んでいるのが燃料コック(T形)。
4.腰のバンドの右側につけているのが送信器。これを犬のように首につける。
5.右腕の日の丸は落下傘降下したとき”日本人”という印。
6.胴体に巻き付けバンドで締めているのがジャケット、水中に約4~5時間は浮く。
だそうです。


※202401242226追記
昨日はぼんやりしていました。申し訳ありません。
裏書の「二〇年十月二十四日」は台湾沖航空戦の直後ではなく終戦後ですね。「十九年」と書こうとしたのかな?
だとしても、写真の堂本さんは袖に日の丸をつけているので、撮影日は台湾沖航空戦直後ではなく、20年2月の横空の山崎上飛曹落下傘降下事件の後かもしれないですね。

番組のお知らせ2023年12月07日 16時34分21秒

本日12月7日、午後10時40分からNHKBSスペシャル「特攻4000人 生と死 そして記憶」という番組が放送されます。

「真珠湾80年 生きて 愛して、そして」(2021年放送)、「真珠湾攻撃隊 隊員と家族の八〇年」(講談社現代新書)の大島隆之さんの番組です。

上のリンク先に出ている予告動画の右端は乙7期の中川紀雄さんですね。
手元に予科練時代の中川さんの写真がありますが、こどもこどもしたかわいらしい感じの写真です。
卒アルより

飛練時代

リンク先の予告動画の中川さんは卒アルから約7年後ぐらいでしょうか。その間、どんな思いで海軍生活を送っていたのか。
ずっと気になっていましたが、本人の心中に近づけるような何か、見つかったでしょうか。






そのあと続けて、「空の証言者 ~ガンカメラが見た太平洋戦争の真実」(2021年放送)が再放送されます。
この番組は知人の織田祐輔さんが協力されている番組です。→わたしも織田さんに助けてもらったことがあります。

織田さんの活動には大変なご苦労がおありだと思いますが、唯一無二の人です、応援しています。


※画像は7期生ご遺族、武田信行氏ご提供