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乙6期 井上進一さん2026年04月13日 15時13分10秒

わたし、乙6期ってわりとご縁があるクラスです。

6期戦没者のご遺族の方、複数の方にふだんからお世話になっていますし、生存者のご家族の方にもお世話になっています。

なので、自分としては親近感のあるクラスというか。



今回の井上進一さんのことに関しては、ほんっとに意外な方面からの情報提供です。
6期のご遺族の方やご家族の方、関係ないところからの。



1年ほど前の話なんですが、9期の池田和義さんの姪御さんから、
「父(和義さんの弟さん)のアルバムにこんな写真が貼ってありました」
と、2枚の写真が送られてきました。




2枚には裏書があって「井上四空 予科練入隊当時」「井上進一兄」と書かれてあります。
文字はどなたの筆跡かわかりません。和義さんの筆跡なのかな?

弟さんのアルバムに貼ってあったらしいですが、弟さんと井上さんの接点、見当たらないですからねえ。弟さんは海軍関係者ではないですし。
かといって、和義さんと井上さんの接点も見当たらないんですよね。

井上さんは6期生なので9期の和義さんとまったく予科練は重なっていません。
井上さんは神奈川県出身、和義さんは静岡県出身。同郷というわけでもない。
井上さんは中攻偵察員、和義さんは艦爆操縦員。実施部隊で一緒になった可能性も低い。
飛練の教員だったのだろうか?と思って、集合写真を探しましたがそういうわけでもなさそう。


結局、いまもお二人の接点は不明のままです。
何かわかったら書こうと思っていたのですが、わからないのでもう書いてしまっているというわけです。




卒アルの井上さん

乙6期の写真を探したら、他にも井上さんが写っている写真、ありました。







以下の2枚は同じ行事の写真です。




さらに、②の写真、写っている飛行機が、池田和義さんの弟さんがアルバムに貼っていた2枚のうちの1枚↓ 
③としましょう。
この背後に写っている飛行機と同じ飛行機です。九〇機練でしょうかね。ヨ-511号機。
井上さんの装備の様子からも、①②と同じ時に撮られた写真でしょう。


9期の頃にはなくなっていたイベントなのですが、予科練入隊後わりと早い時期に「同乗飛行」という行事があったようなんですよ。
詳しくわからなくてスイマセン💦
わたしが想像するに、機練に乗せて空を飛ぶことを体験させるという行事だったのではないかと思っています。自分で操縦桿を握らせて飛行させる、というのではなくて、あくまでも飛行を体験するだけの行事、じゃないかな?
操偵検査とは別の行事ですよ。
操偵検査は自分で初練を操縦して(教員同乗)、操縦・偵察の適性を検査してもらう行事です。
同乗飛行はあくまで飛行体験の行事だったのでは?


1期生がやったかどうかは定かではないです。
2期生はやったのだろうと思います。浅川さんのアルバムの中に横空所属機らしき機練をみなで押している?写真が貼ってありました。たぶん、これが同乗飛行時の写真じゃないのかな。


松永喜三男さんのところにも、飛行帽に飛行眼鏡で背後に横空所属機が写っている写真があったのですが、これも同乗飛行時の写真ではないでしょうか。階級章が見えればよかったですが、見えないですね。
浅川さんのアルバムにも添え書きがなかったので、時期などまったく不明です。


確実に時期がわかるのは乙3期と乙7期。乙3期は『予科練外史』に年中行事表が書かれていて、そこに同乗飛行が昭和7年10月20日から始まったと書かれています。4等航空兵の時代です。
乙7は卒アルに年中行事表があり、そこに昭和11年12月15日(3等航空兵時代)と書かれています。
オレンジのベタは4等航空兵の時期です。

井上さん写真の裏書の「四空」が正しければ、6期生も昭和10年6月1日に入隊して、3等航空兵に進級する11月1日までの間に同乗飛行をやったのだろうと思います。

乙8が同乗飛行をやったかどうかはわたしは把握していません。

乙9はやっていないと思います。
卒アルにも個人のアルバムにもそれらしき写真はないし、操偵検査時(1学年時の終わりごろ)が初めての飛行体験と書いている人がいるので、たぶん同乗飛行はやっていないと思います。


ちょっと話がそれました。
井上さんの同乗飛行時の写真に戻ります。


これらの写真、めっちゃおもしろいんですよ。
いや、みなさんが見ておもしろいかどうかはわかりません。わたしはおもしろいです。
これらの写真、救命胴衣の名札が読める人が複数いるんですよ。

井上さんも読めます。

わたし、これ、先入観なく見て、「井上」と書いてるのだと思っていました。

「井上」さんだから「井上」でいいんじゃないの?


ところがどっこーい!(;゚Д゚)

右上に「一水」って書いてあるでしょ?
井上さんに「一水」時代はありません。
一水は海軍一等水兵の略です。
井上さんは航空兵として予科練に入隊しているので、海軍四等航空兵、海軍三等航空兵、海軍二等航空兵、海軍一等航空兵・・・・と進級していくのです。
略して四空、三空、二空、一空です。

「裏書が四空なのに、なんで名札が一水なんや?」
ずーっと考えていました。

考えてもわからんので、他の人たちの名札も見てみました。

他の人たちも「○空」とは書いてあるようには見えないんですよね。

しかもお名前!
読めそうな方が複数人いたのでわたしがそう思うという読みで検索してみたところ、いずれも6期生にはいないお名前でした。
階級も違う、お名前も違う。

どういうこと?

ここからは想像なんですが、これ、予科練時に横空で同乗飛行したときの記念写真じゃないかと思うんですよね。

一瞬搭乗体験するだけなので、救命胴衣に名札を縫い付ける作業がめんどうだ。借りちゃえ!
になったと想像。
当時、横空で訓練していた偵練の人たちの救命胴衣でも借りたんじゃないか?


で、しつこく何度も名札を見ていたら、井上さんの救命胴衣の名札がふっと「畔上」に見えました(心眼)。
で、ダメもとで畔上さんを検索してみたら、中攻の偵察員に畔上久三さんって方がいらっしゃるということがわかりました。
昭和16年12月の第一航空隊の飛行機隊行動調書で見つけたんですが。
当時1飛曹です。昭和19年1月30日に飛曹長から少尉に進級している辞令公報も見つけました。昭和19年1月の752空の行動調書にお名前があるのを見つけたのですが、1月22日までしか見つけられず、30日に何があったのかわかりません。
なぜ、ピンポイントでここを見たかというと、9期の石井雄さんが19年1月30日に752空でルオットで戦死されているので、関係があるのではと思って行動調書を見てみた、というわけです。

畔上飛曹長のことはわたしはよくわからないですが、偵察員だし、昭和10年頃に1水だとしたら、16年に1飛曹、19年に飛曹長でも矛盾はないのかなあなど思って。

井上さんが装着している救命胴衣はこの方の救命胴衣なのでは?と想像力をたくましくしながらこれを書いています。

さらにさらに、お二人とも中攻の偵察員なので、もしかしたらどこかの航空隊で邂逅し、
「予科練の体験飛行の時に畔上さんの救命胴衣を借りましたよ!」
「なんと! そうですか!」
なんて会話が交わされたとか・・・・ないかな?(^_^;)

書く前にいちおういろいろとあたりをつけて中攻隊の行動調書を探したのですが、お二人の名前が一緒に並んでいるものはありませんでした。

ちなみに井上さん、18年秋ごろ、ラバウルの702空にいたようで、『予科練外史』の倉町先生がラバウルの卒業生たちを訪ねたとき、雄飛会?宴会を催してくれた話が出ています。そこに乙飛卒業生たちと一緒に撮った集合写真が掲載されているのですが、その中に井上さんも写っています。





救命胴衣の名札なんですけどね、
こんな風に書いてあるのでは?
右上が階級、左上に「31」という数字。中央に姓。
数字は、他のクラスを見る限りは分隊ではないかと思います。31分隊。
でも、もしかしたら偵練の31期という可能性もあるのだろうか?
そこがちょっとわかりません。
名札が読める人は全員「31」と書いてあるような気がするんですよね。



というわけで、よくわからないまま書きました。
結局、池田さんと井上さんの関係もわかりません。なぜ井上さんの写真が池田弟さんのアルバムに貼ってあったのかも。
救命胴衣も本当に偵練訓練中だった畔上さんのものかどうかもわかりません。


写真を見ながらいろいろと想像をたくましくした結果をつらつらと書いただけの記事でスイマセン。





※画像は9期生ご遺族、2期生ご家族ご提供。
井上さんや畔上さんに関する情報を求めています。
無断転載禁止。

操偵検査 20262026年04月09日 12時38分13秒

検索しても出てこなくなってしまったので、新たに画像や記事を追加して再投稿することにしました。
基本、以前投稿したものをそのまま転載しています。今回追加した分は赤字で示しています。
下の方には、別記事を追加しています(追加分はわかるようにしています)。




この話題だけで本でも書けそうな勢いです。
この1記事に、4、5記事分ぐらい書いてしまいました。
いつものようにさらっと読めない分量なので、覚悟して読んでください。




「予科練」というと、飛行機の操縦訓練をする過程だと勘違いしている方もおられると思いますが、じつは、予科練時代はほとんど飛行機に乗ることはありません。
9期の場合、予科練時代で飛行機に乗ったのは、入隊後ほぼ1年目に10日間ほど行われたこの「操偵適性検査」のときのみです。

ここで操縦と偵察の適性を見極められ、2学年からはそれぞれの過程にわかれて専門の勉強をし始めるのです。

そして、予科練を卒業して初めて「飛行練習生」課程に進み、本格的に飛行機に乗る訓練を始めます。




かれらにとってはただごとではない運命の操偵適性検査。

ほとんどの練習生が操縦に進むことを夢見て予科練に入っているんだとか。

が、現実には希望するコースに全員を進ませるわけにはいかず。

どうしても不本意なコースに進まざるをえない練習生も出てきます。

この検査でその後の搭乗員人生が決まってしまうのです。
かれらは異様なほどの緊張感と張り切りで操偵検査に臨みます。





以前、9期の適性検査は筑波空と百里原空(島田清守さん、石川茂さんは「百里ヶ原」と記述)の2ヶ所で行われたものと誤解していました。

どうもそうではなく、当時まだ筑波空の分遣隊だった百里原に於いて、23分隊(前の分隊:1~8班)と24分隊(後ろの分隊:9~16班)で日程をずらして行われたようだと。

ただ、正確な日程がわかっていませんでした。


9期生存者の藤代護さんの手記に、
『昭和十四年五月、二年生になる前に、われわれ同期は操縦と偵察に分けられるため、百里原海軍航空隊で、適性を検査すべく初等練習機に乗ることになった』
と書かれています。

羽藤さんがアルバムに貼っていた操偵検査の写真の1枚に、「昭和十四年六月八日木曜」と書かれた黒板が写っていました。

これらのことから、「14年の5月6月頃」ぐらいの感じで思っていました。




島田清守さんの日記で、操偵検査の正確な日程がわかりました。

以下、先日、操偵検査写真の水たまりについて書いた記事から転載。

5月29日 曇  地練(地上練習機)  @霞ヶ浦海軍航空隊
5月30日 曇  地練・心理検査
5月31日 晴  心理検査
6月1日  雨  移動 初めて飛行服を着る  @筑波海軍航空隊百里ヶ原分遣隊
6月2日  晴  (飛行場で?)初めて飛行服を着る
6月3日  曇  飛行作業中止 口頭試問
6月4日  曇  行軍
6月5日  晴  初めて飛行機に乗る
6月6日  晴  飛行作業
6月7日  曇  午後飛行作業(検定1日目)
6月8日     飛行作業(検定2日目) 終って写真を撮った 午後口頭試問、相学
6月9日  曇  (記述ナシ)
6月10日 晴  飛行作業 適性検査終了 霞空に帰隊

これは島田さんが所属していた23分隊の操偵検査の日程です。


さらに島田さんは24分隊の操偵検査のこともちょっとだけ書いてくれていました。

6月10日 2時半頃24分隊が(百里ヶ原に)入隊
6月20日 24分隊適性検査より(霞空に)帰る

24分隊の方が1日百里ヶ原在隊が多いですね。
23分隊が百里にいる期間の日曜日は6月4日だけです。
休業にはならず、行軍をやっています。
24分隊が在隊していた期間は11日と18日、2回日曜日が入っているので、それで一日多いのかもしれません。
まあ、でもたぶん休業ではなく何かやらされていますよね(^^;)


日程的にはおそらく24分隊も霞空の本隊で地練や心理検査を済ませてから百里に行った可能性が大だろうと思っています。
7、8、9日が霞空本隊で地練と心理検査で10日から百里ヶ原――ではないかな?
どこにも記載がないので、23分隊の日程からの想像です。
藤代さんは百里ヶ原で地練をやったと書いていますけどね。



今日は家にある操偵検査時の画像を全部出します。

【23分隊集合写真】
坂田清一さん(1班)所有

藤原国雄さん(5班)所有

※23分隊の2枚の集合写真に関しては、同じように見えてじつは微妙に違っていました。→ここ



【24分隊集合写真】
池田和義さん(10班)所有

島田直さん(11班)所有

羽藤一志さん(12班)所有

石川茂さん(15班)所有

※24分隊の4枚の集合写真に関しては、以前、同じ写真に見えるけど2種類の写真だということを書いた記憶があるのですが、じつは3種類だったとわかりました。→ここ




【班写真】
1班 隅倉慧さん所有

1班 坂田清一さん所有

5班 藤原国雄さん所有

11班 島田直さん所有

12班 羽藤一志さん所有

13班 わたし所有 今回追加
※前列中央の13班練習生ではない人物はたぶんどなたかわかりましたここ

15班 石川茂さん所有





【少人数グループ写真】
前列左から萩谷幾久男さん、教員(萩原末二さん)、野村茂さん
後列左から筒井富雄さん、永田慶士さん、繁富悦行さん、川原与三郎さん

島田清守さん、高島巌さん

前列前から松本勝正さん、原田要教員、米盛朴さん
後列左から今村文三郎さん、山口浜茂さん、志村実さん、中門清司さん

前列左から松本勝正さん、国本力さん
後列左から上原定夫さん、前川重美さん

前列左から柳川健さん、小林正教員、亀山一郎さん
後列左から熊谷賢一さん、島田清守さん、轟木サトルさん、山田一作さん
※小林君と書いているけれど違う教員のよう。15班集合写真の人と同じ人かな?

前列左から藤原国雄さん、森健次さん、原精二さん
後列左から谷口十七夫さん、前川重美さん、教員、関口一男さん

このタイプの少人数グループ写真はいまのところ23分隊のものしか見たことがありません。



【個人写真】
加藤哲夫さん(1班)

隅倉慧さん(1班)

坂田清一さん(1班)

本城秋生さん(1班)

大西要四三さん(2班)

岸川正人さん(2班)

西山昇さん(3班) 今回追加

大石芳男さん(4班)

藤原国雄さん(5班)

松本勝正さん(6班)

国本力さん(6班)

河村徳市さん(9班)

川崎助男さん(9班) 今回追加

池田和義さん(10班)

池本忠清さん(10班)

藤谷周覚さん(12班) 今回追加

笠井繁雄さん(13班)

清水巧さん(15班)







【その他】


整列して何やら訓示か注意か受けているようです。

こちらはわりとごちゃっと集まって話を聞いている様子。
24分隊だと思います。木原辰雄さん、新井正美さん、都築国雄さん、仲野修さん、福山清武さんらしきお顔が見えます。
エンジン始動中でうるさいのか、耳に手を当てて聞いている練習生が何人かいます。

待機中?
23分隊です。
 
こちらも待機中でしょうか?
24分隊。

上の写真を逆方向から撮っています。


これが14年6月8日の日付のある黒板。
手前の黒板に「甲班」、向こうの黒板に「乙班」と書かれています。なんだろう?
以前この写真の白い作業服の右の人を、「羽藤さんに似ている」と書いていますが、6月8日に操偵検査をしているのは23分隊なので、24分隊の羽藤さんではありえないですね。撤回します。


この機械、何だろうな?

と思ったら・・・・卒アルにこんな風に加工されて掲載されていました。
「二十三號歸ッテ來マス」

望遠鏡でしょうかね?
どこを向いているんだろう?(^^;)


練習機の列線。筑波空の所属機。
ここらへんで、「筑波空と百里ヶ原空の2ケ所でやった」と思い込みが深まり・・・・(;´Д`)
筑波海軍航空隊百里ヶ原分遣隊なので、筑波空マーキングの飛行機なんですよね。
(14年12月1日筑波空から独立して百里原海軍航空隊に)




卒アルによると同乗出発の申告だそうです。
向こう側の人は大山輝一さんかも?

池田和義さん。
操偵検査時だとしたら、これはレアです。
操縦席で撮られた写真はいままでこれ1枚しか見たことがありません。



【教員】
羽藤さんのアルバムに貼ってあった集合写真。

『日本海軍戦闘機隊』【エース列伝】の阿部健市さん(9期)のところに「乙9期の飛行練習生時代」と書いてあったのでそうなんだろうと思っていたのですが(←9期のことを調べ始める前)、羽藤さんのアルバムの写真でちゃんと見たとき、飛行服の襟元の詰襟を発見。「下士官やんか!」
さらに原田要さんを発見したことから、ご本人に見ていただきました。

この写真は、
「昭和14年6月頃の筑波空教員全員と思います」
とのことでした。

その際、数名の教員に、氏名と期を書き込んでくださっていました。




前列左から、
金子光夫さん(乙3)
戦闘機
14年8月9日  筑波空百里原分遣隊  殉職
浅川さんの他写真から判断

浅川三雄1空曹(乙2)
原田さんが「浅川さん 乙2期?」と書き込んでくださっていました。

小山内末吉1空曹(乙2)
先任教員。戦闘機。
原田さんの書き込みもあり、さらに他の集合写真で小山内さんと書かれている方と一致していました。
17年10月26日  瑞鶴  南太平洋海戦 

林八太郎さん?(操26?)
原田さんが「林さん 操練?」と書き込んでくださっていました。
戦闘機。

徳永有1空曹(乙3)
12班班写真の教員。と書いていますが、いまは違うんじゃないかと思っています。
原田さんはここに「工藤さん」と書かれていたのですが、他の写真でこの方は徳永さんであると確認しました。
艦爆、陸偵。
17年8月2日  台南空  東部ニューギニア  


後列左から、
不明

原田要さん(操35)
戦闘機。

工藤修1空曹(乙2)
徳永さんのところに「工藤さん 乙3期?」と書いてあったのですが、『日本海軍戦闘機隊』【エース列伝】の工藤さんの写真から、こちらの方が乙2期の工藤修さんだろうと。
17年3月3日  3空  ブルーム攻撃  
※工藤さんではない説 平塚萬蔵さんでは? 20210811
平塚萬蔵さん(操37)
艦攻操縦
19年11月17日  931空  済州島西方
浅川さんの他写真から判断

不明
古俣豊壽さん(操26)
艦攻操
582空などを経て戦後生存
※浅川さんからご教示があり202604092218に追記

高橋利男さん(操24)
艦攻操
17年6月5日 飛龍 ミッドウェー海戦(艦と共に)
浅川さんの他写真から判断

不明

不明
15班班集合写真の教員

井上朝夫さん(乙5)
戦闘機
昭和18年3月28日 253空 ニューギニア

萩原末二さん(操39)
艦攻操
ご家族ご提供写真・その他から判断
萩谷さんのグループ写真の教員

不明
藤原国雄さんグループ写真の教員

不明

小林正さん(乙4)
「小林くん 乙4期?」と書かれていました。
島田清守さんのグループ写真の教員です。←違うかも。島田さんグループ写真の教員は15班集合写真の人と同じ人かも。
陸偵。
17年4月27日  3空  敵機と交戦重傷、デリー基地に不時着の際、機体転覆




ここまで筑波空百里ヶ原分遣隊の教員(操縦教員)に関して書きましたが、実はこの操偵検査には予科練の教班長(教員)も同行しているようです。

前分隊の集合写真に一種軍装のまま写っている集団がいます。


なんか見覚えがあるんですよ。
たぶん予科練の教班長と思います。

右端でしゃがんでいるのは6班の池田教班長かな。

機会があれば他の人もちゃんと照合したいと思います。


ということは、後ろの分隊もついてきているわけで。




10班の教班長とか(作業服の前列の左端)。

よくよく見ると前分隊は軍服が一種。後ろ分隊は二種(椅子列の幹部の人たち。教班長たちは作業服ですが軍帽に日よけのカバーがついています)。
この2枚の集合写真撮影の間に衣替えがあったんだな、と。

23分隊と24分隊の操偵検査の時期がずれているということは、ここで気づくべきでした・・・・orz

後ろ分隊のスナップ写真に写っている教班長たちが一種姿のものもあります。
後ろ分隊は操偵検査に入ったときは一種、終わったときは二種――ということなんでしょうね。

衣替えの件に関しては島田さんが日記に書いてくれているんですけどね(^^;)
操偵検査を終えて霞空に戻ってきた直後の6月12日の日記に「軍服、夏襦袢、軍帽ノ交換有り」。
百里の人たちも同じ日にやったのかな。

1班と11班の班集合写真に写っている一種の人も予科練の教班長です。
1班はいいとして、11班の教班長が一種で写っているので、あの班集合写真と、軍帽に日よけカバーがついている分隊集合写真は、違う日に撮っている可能性が高いということです。



ちなみに筑波空教員全員集合写真は、
・地面が濡れている
・飛行服の襟元から見えている軍服が一種
であることから、23分隊が写真を撮ったとき(6月8日)に一緒に撮られたものだろうと想像しています。



ずいぶん前にどなただったか、知り合いの搭乗員さんに衣替えの時期のことを聞いたことがあるんですが、
「覚えていない」
と言われました。70年以上前のことですからね。わたしも学生時代のことはほぼ覚えていません。

島田さんの日記には、わたしが関心があっても未解決のままだったことの答えがあちこちに書かれています。
島田さまさまです。





【島田清守さん日記より】※句読点は読みやすいよう、わたしが加えたところもあります

五月二十九日(月) 曇 寒
前々カラ待ッテ致タ我等ノ適性検査モ来タ。午前八時ヨリ地練デ練習。午前ニ水平飛行ノ練習、午后一時ヨリ又練習。今度ハ旋回シテ水平飛行ダ。見テ致テハ易イ様ダガ自分デスルトナカナカ上手ニ行カン。今日モ二度地練デ練習。一寸此レデ飛行機ノ操縦ハコンナモンカ見当ガ着イタ。
八期生モ今日ヨリ後期ノ試験ガ始マッタ。

五月三十日(火) 曇 暖
七時半本隊ニ向フ。「今日ノ検定コソ・・・・」ト言フ意気ダ・・・・。午前中地練ノ検査ガ有リタ。思フ様ニ行カナカッタ。又或ル者ハ心理検査ダ。午后ハ仕事ガナカッタ。地練、心理検査ノモノモ有リタ・・・・。アアコレデ地練ノ検定モ終ッタ。矢張操縦ニナリタイ。

五月三十一日(水) 晴 暖
心理検査・・・・二次検査ト同様デアッタ。
六ツノ検査ガ有リタ。午前中終了。
午后自習。
福本教官ヨリ
「教班長ト言ッテ致タガ今后ハ班長ト改メル――当直練習週番練習ニ関シテ話サレタ。今迠ノ伍長ハナクナリタ」
明日ノ用意デ先教
(先任教員?)ヨリ話ガ有リタ。

六月一日(水) 雨 寒
四時半総員起シ。毛布ノ移送準備デアッタ。午前ハ準備デアッタ。午后一時ヨリ自動車七台ニテ筑空百里ヶ原分遣隊ニ向ッタ。雨ナノデ苦シイ中ニ着イタ。マダ百遣モマダ新築中予科練ノ様ダ。其レヨリ兵舎ニオサマリテ釣床ノ整備デ兵舎中ノ整頓デアッタ。食事后酒保ノ菓子モタベル。温習ナシ。飛行服モ渡サレタ。始メテ着ルモノデ何ニカラ何迠珍ラシイ。先輩ガ大方教員ダ。七時釣床卸セダ。新シイ釣床デ苦労スル。タダ祈ルハ明日ノ天気ダ。乗レル、飛ブテ心ガ!!
十一期モ入隊。甲種四期一等ニ兵進級シタ。


六月二日(金) 晴 暖
午前ハ杉浦大尉ヨリ操縦座学デアッタ。本デ教ハル事総テガムヅカシイ様ダ。明日ノ事総テヲ話サレタ。
午后ハ飛行場ニテ整備員ヨリ飛行機取扱方ニツイテ話ガ有リタ。終リテ操縦教員ヨリ各組毎ニ総テニツキ説明有リタ。始メテ飛行服モ着テ生レテ始メテダ。一人前ノ操縦員ニデモナッタ様ダ。別科ハ訓育ノ予定ナレドモ体技ニ変更。格納庫前デ野球排球等ヲシタ。
温習有リ。飛練出ノ操縦教員ヨリ当直班デ掃除后・・・・仕事ヲスルニ静粛ガカケテイル、モット気ヲツケル様ニ!!


六月三日(土) 曇 暖
午前飛行作業ノ予定ナレドモ霧ガ大クテ午前七時飛行服ニ身ヲカタメテ「今日コソ」来いト言フ意気デ致タ。飛行機ニ整列シテ試運転中ダ。所ガ指揮官等ガ来ラレテ「中止」トナリタ。皆気落シタ!!其レヨリ口頭試問デアッタ。飛行長ヨリ「操縦偵察トテドチラガヨイカ? スキナ学科、霞空ヨリ本隊迠ノ距離等ヲ問ハレタ・・・・。午后大掃除ダ。二時三〇分休メ。其レヨリ体技ヲシタ。角力等デアッタ。今年ノ角力モ始メテダ。アア今日天気ガ良カッタラ飛行機ニノレタモノヲ・・・・。
筑空ノ兵隊ハ非常ニ温和デアリマタ親切ダ。マヅマヅ感ジダ。霞空ヨリ此ノ点ガ勝ッテ致ル様ダ。

六月四日(日) 曇 暖
行軍・・・・。午前七時出発。分隊士ヲ始メトシテ何ニモ何ニモ見ル物、聞クモノナキ此の地。唯気力胆力ノ養成ト言フ様ナ分隊士ノ要求デアル。唯自分ガ歩ケルダケ歩イテ見ロト言フ様ナ意気ダ。白河村榎本等ヲ経テ小サナ町トモ言ヘナイ様ナ玉造町ヲ経テ八木蒔ヲ通リ立花ノ小学校デ開散。二時迠ニ桃浦駅手前ニ集合デアッタ。東与沢ヲ経テ帰隊シタ。途中軍歌デアッタ。・・・・多イニ胆力気力養成ニナッタ。
温習ナシ。


六月五日(月) 晴 暖
青空ヲ眺メテ「今日コソ飛行機ニ乗レル」ト言フ意気デ総員起シ・・・・。皇居遥拝終リテV
(飛行)機ノ搬出ニカカッタ。アア此のV(飛行)機ニ乗ルト言フトV(飛行)機ガ致ッテナツカシイ。終リテ朝食・・・・。七時ヨリV(飛行)始メ。分隊長・飛行長ノ訓示ヲ受ケテ感■カッタ。各組如ニ各機ニテ教員ヨリ注意。順番ニ飛行ガ始マッタ。早イモノハ皆V(飛行)機ニ乗リ大空ニ行ッテイル。乗ッテ「エンヂン」ノ音ガブンブンシテ致テ始ネハ一寸変ンナ気持ダガナレテ非常ニ気持ガヨイ。「舵ノ効果、水平直線V(飛行)」ヲ練習シタ。。二十分間ノV(飛行)モ短イ。午后ハ「各種水平V(飛行)」何ガ■カムツカシイ。教員ヨリ始メカラ終リ迠注意ヲウケドウシ・・・・。マダマダ元気ガタラナイトカ、カタクナリスギル」トカ注意ヲウケ二十分間。V(飛行)機モコレデ四十分間ノッタノダ。面白カッタ。

六月六日(火) 晴 暖
昨日モ乗リテ今日モマタ上天気ダ。「今日モ乗レル」ト言フ意気ダ。昨日ト同ジ様ニV
(飛行機?)改ムル。「各種直線飛行及旋回」デアッタ。ナカナカ思フ様ニ操縦モ出来ン。ダガ教員ガ手ヲ放シ自分一人デ操縦シテ致ルト思フト嬉シカッタ。自分一人デ大空ヲ飛ブト思フトマタ親ニモ見セテヤリタイ様ダ・・・・。午后モ午前ト同ジ教員ガV(飛行)ガ終ッテ「昨日ト比ラベテ大分上手ニナッタ」ト言ハレタ。嬉シカッタ。飛行機ニ乗ルニモ馴レテ何ントモ感ジナイ。

六月七日(水) 曇 暖
午前飛行作業ノ予定ナレドモV
(飛行)用意シテ飛行場ニ出タケレドモ霧等ガ悪クテ午后ニ飛行作業ニカヘル。カワッテ温習。一部ノ者ハ口頭試問デアッタ。午后一二四五V(飛行作業)開始・・・・。今日ハ愈々検査ダ。二分隊士ト乗ッタ。水平飛行、水平旋回デアッタ。飛行長・分隊長等モ乗リ始メタ。「大体ウマイガバンクガ多イ。少シ傾ク」ナド言レタ。V(飛行作業)ガ終リテ分隊士ガ駈足ヲサセタ。ナカナカ骨ガ折レル。「飛行機ガ不時着シタラマダカケルノダ」ト言ハレタ。七班長着テ教員ヨリ注意ヲ受ケタ。「モウ少シ緊張シテ練習生トシテノ本分ニ邁進シテ行カナケレバナラナイ・・・・。矢張ダラケテイルノダ。緊張シテ行カナケレバナラナイノダ・・・・」

六月八日(木)
午前飛行作業・・五分隊士ニ同乗シタ。検定二日目デアッタ。乗ラン者モイタ。終ッテ写真ヲ撮ッタリシタ。
午后一部ノ者ハ口頭試問。又一部ノ者ハ相学デアッタ。適性検査ニ来テ相学トハ思ヒモヨラヌ事ダ。

六月九日(金) 曇 暖
本文記載なし

ここに挟んであった紙
先任教員(小山内一V(空)曹)ノ話
夜温習ノ際来テ飛行機ニ関シテ質問シ其レガ終ッテ予科練出身ハ矢張「純真」ト言フ所ガヨイノデアル。私ハ二期生ダ。予科練出身ハ矢張評判ガ良イノダ。ダカラ私等ノ後ヲ継グオ前達ガシッカリセントダメダ。或ル上層マデ来テ始メテ予科練トシテノヨイ所ガ見ラレルノデアル。ダカラ今ノ所大イニ勉強シテ立派ナ予科練ヲノバサナクテハナラナイ。特ニ私ハ此レヲ希望シテオク」ト!!矢張同ジ後輩ト思ヘバ其フイフノダ。先輩ノ心モ深ク察シタ、全ク真剣ノ色ガ見エテイル

六月十日(土)晴 暖
午前飛行作業。乗ル者乗ラン者有リテ皆クサクサシテ致ル。十時頃終リテ待望ノ適性検査モ夢ノ如ク終リテ今日■帰隊。午前中飛行衣服ノ還納デアッタ。マタ十時半頃ヨリ飛行長ノ「口頭試問ニ関シテ注意ガ有リタ。午后ハ各所ノ大掃除。一時頃終リテ其レヨリ先輩ノ三期生徳永一V
(空)曹ヨリ実戦談ヲ聞ク。殊勲甲ダ。矢張先輩ハヨイ。恣(知?)ッタリスルノモ先輩、実戦隊ヲ話シテ下サルモ先輩。予科練ノ伝統ヲ何事ニモ持チ出スノダ。先輩ノ有難サヲ真ニ知ッタ。二時半頃二十四分隊ガ入隊。当(同?)時ニ退隊シタ。分隊長ヨリ「操偵ノ云々ハ言ワヅニ大イニ学力体力ヲ練リテ来イ。俺ハオ前ノ来ルノヲ待ッテイル。将来ノ航空界ハオ前ニヨッテ・・・・」ト!!四時帰隊シタ。此レヨリ大イニ勉強シヨウ!!







「そういえば操偵検査や艦務実習の期間や時期に関して、乙飛のクラスによって違う」
って話を最近書いたなと思って探したら、なんと!「最近=2023年5月」でした(笑)
もう、そういう時間感覚です。


おまけ
『乙1~9期 操偵検査、艦務実習の時期』20230504

前回、「ほぼ完成」と出したのですが、知人が期間に空欄があるのに気づいて情報提供してくれました。

期間も埋まりました。
ありがとうございます!(・∀・)



これ、一番簡易版です。
もっと詳細にやろうと思ったら、
・操偵検査の時期、場所
・艦務実習の時期、派遣された艦
・飛練(初練・中練)の航空隊、期間

こういうのを調べられたらいいのですが。
現時点でわたしが把握しているのは9期だけなので、ボチボチやります。

ちなみに9期を詳細に書くとこんな感じ↓

時期は書き込んでいないですが、
予科練入隊・・・・13年6月1日
操偵検査・・・・14年6月ごろ(1学年の終わりごろ)
艦務実習・・・・15年3~4月(2学年の終わりごろ)
予科練卒業・・・・15年11月30日
飛練操中練・・・・15年11月30日~16年5月末、実用機・・・・16年6月~10月末
   偵中練・・・・15年11月30日~16年7月末、実用機・・・・16年8月~10月末

※Tさんご教示感謝です













というわけで、9期の操偵検査をここにまとめてみました。


※画像は9期生ご遺族ご提供。無断転載禁止。

乙9期 中野釥さん 追加編集2026年03月20日 23時47分52秒

海軍飛行予科練生の乙9期という集団に関して書き始めたのは2012年。
羽藤一志さんと松本勝正さんのご遺族からアルバムをお借りしたことがきっかけでした。

あれから十数年経って、情報もいろいろと増えているので、少しずつ追加情報を加えた記事をアップしようかなと思っています。
ベースは以前に書いた記事です。






台南空の中野釥さん。

愛知県出身。
艦爆操→戦闘機

ずっと「釥」、何とお読みするのだろうと思っていました。
あるとき、知人から「きよし」みたいと聞いて、そうか、きよしさんとお読みするのか、と判明したわけですが、先日、ご遺族の方からも連絡をいただき正式に「きよし」であることが確定しました。

以前は「釥」の漢字が出ず、「鈔」で書いているところもあるかと思いますが、正式には「釥」です。






中野さんも、羽藤さん(ご遺族所有)、松本さん、西澤さんの写真(ご遺族所有・武田信行氏ご提供)にたくさん写っています。



入隊時班写真。9班。



【東京行軍】13年6月
海軍館前。


楠公銅像前。


宮城前。


神宮外苑。



【鎌倉行軍】13年6月
38分隊大仏前、羽藤さん所有分。




38分隊大仏前、松本さん所有分。

じつはこれら2枚も同じ写真に見えてビミョーに違うんですよ💦

しかも下写真の所有者である松本さん、この分隊ではありません。
なぜ松本さんがこの分隊の集合写真を買っていたのか。自分の分隊の集合写真は持っていなかったですよ・・・・。なぜなんだい?



建長寺山門前、羽藤さん所有分。



建長寺山門前、松本さん所有分。

これまた同じに見えて違う写真でした💦
たぶんカメラマンが動いていますね。
ほぼ総員集合写真。精度が悪くてひとりひとりの確認ができませんが。





1学年時の水泳集合写真。
3組(9~12班)集合写真。
線が2本入っているのかなあ?(1本はもっと細い)
2本だとしたらかなり泳げる方。



【愛知県出身者集合写真乙7~9期】13年8月
7期生卒業に際しての記念の集合写真。



【大楠山慰安行軍】13年秋?




【操偵適性検査】14年6月
24分隊集合写真、羽藤さん所有分。

池田和義さん所有分。

島田直さん所有分。

少し前に書きましたが、この3枚、ちょっとずつ違います。



【水郷めぐり】14年7月16日
香取神宮24分隊集合写真。




ここから先が操偵分かれてから(2学年)。

【操縦分隊・二空時代】



【整備実習】



【操縦分隊、ラグビー優勝】



【操縦専修生、倶楽部】
卒アルより





【操縦分隊・一空時代】15年11月初
大友分隊長の離任記念集合写真。
霞空で撮られた最後の集合写真かもしれません。

この直後の11月15日に予科練は土浦海軍航空隊に移転し、9期生は土空初の卒業生に(11月30日)。



【飛練・筑波】飛練10期



筑波空での中練を終えて、中野さんは宇佐空で艦爆操縦の訓練に入りますが、その間の写真はありません。中野さんだけでなく、飛練10期生の宇佐時代の写真は1枚も見たことがありません。



16年10月30日に飛練卒業、そのまま佐世保空(出水)での艦戦への転科教育へ。
中野さんの履歴が不明なので同期生履歴からの推測ですが、17年2月上旬に転科教育を終えて実施部隊に配属されたのではないかと思います。どこに配属されたのかは不明。



6月10日に台南空の行動調書に初登場。




【台南空時代】

西澤さん命名「南空の猛者」集合写真。後列右端。
たぶん17年6月20日、ラエ
裏に西澤さん直筆で氏名が書いてあり「中野」の文字も。
ちなみにこの写真には9期生がほかにも写っていて、後列左から2人目が上原定夫さん、6人目が木村裕さん。



たぶん上の写真と同じ時。後列右から2人目。



西澤さん命名「南空の勇士」集合写真。前列右端。
7月20日に戦死されている人たちが写っているのでそれ以前かと思いますが・・・・。
場所はラバウルに見えます。
こちらの裏書では「中ノ」。
この写真の9期生は、前列左端大西要四三さん、3人目熊谷賢一さん、後列左から3人目木村裕さん、4人目遠藤桝秋さん。



8月4日、ラバウル撮影と言われている戦闘機隊集合写真。



この集合写真の後、8日には木村裕さん、14日には新井正美さん、26日に熊谷賢一さん、中野さん戦死。その後も9月13日羽藤一志さん、佐藤昇さん、10月25日後藤龍助さん、森浦東洋男さんが戦死し、最大14名いた9期生で、11月の内地引き上げ時に生きて戻れたのは遠藤桝秋さん、上原定夫さんだけでした(久米武男さんは病気で離脱、山口浜茂さん(1空籍?)他隊に転勤)。




17年8月26日 ブナ基地敵機邀撃 交戦戦死





一緒に出撃予定だった2空の角田和男さん(乙5)の戦後の手記『修羅の翼』(光人社)
17年8月26日の様子。

『早朝、飛行場に出る。前日に引き続きラビ空襲の予定。戦闘機隊のみ基地指揮官の命を受け、搭乗する。編制は、
 指揮官兼一小隊長山下丈二大尉以下台南空四機
 ニ小隊は一番機私、二番機岩瀬一飛曹、三番機井原二飛曹
 〇六一五、山下大尉が離陸線に着いた時、見張りより敵襲の報がある。西南高度五百メートルに、すでに地上銃撃の態勢に入ったP39十五機が見えた。
 飛行場が狭く、単機離陸しかできない。ただちにチョークを外しフラップを下げ、離陸線に出る。山下大尉離陸、続いて二番機が十メートルくらい上がったところで左後上方より攻撃され、いきなり爆発した。三番機も四番機も共に離陸後脚を入れる間もなく火達磨となり爆発、滑走路前方に墜落してしまった。
 目の前で三機も爆発するのを見ていると、向こうもあまり速力のつかない内に零戦が高度を上げたがるので射撃しやすいのだ、と見て、続いて離陸した私は密林すれすれに速力をつけながら飛び、まずフラップと脚を入れ、突っ込んで来る敵に向首反撃に移る。P39の三十七ミリ砲がブオッ、ブオッ、と耳元をかすめてうなる。こいつを一発喰らったらなるほど爆発するにちがいない。ガンガンと十三ミリが何発か当たった。再び突っ込んで速力をつけ、増槽を落とす。すぐに二機目に正面反撃、また被弾あり、そしてもう一度突っ込んで速力をつける。』






















中野さんの戦死状況に関しては2016年に出版されたルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド『台南海軍航空隊【ニューギニア戦線篇】 モレスビー街道に消えた勇者たちを追って』(大日本絵画)に詳細が書かれています。

ちょっと長いですが引用します。


『中野釥3飛曹、奇襲により撃墜される

 8月26日早朝、ポートモレスビー周辺の各飛行場には朝日が降り注いでいたが、空模様は雨を予感させた。それでも第80戦闘飛行隊のP‐400エアラコブラ8機は日の出とともに12マイル飛行場を発進した。目的地は台南空と2空の零戦隊が前進基地とするブナだった。計画ルートは北海岸から洋上に進出し、日本軍が予想しない方向から接近、離脱するため、通常よりも長距離だった。離陸から間もなく2機のエアラコブラがメカニカルトラブルのため引き返した。その1機はフィル・グリズリー飛行隊長の機で、彼は編隊の指揮をビル・ブラウンに手信号で託した。12マイルに戻った同機は、電気系統の故障により射撃用ソレノイドが作動しないことが地上員により確認された。
 一方、編隊では指揮を引き継いだブラウンが北東のブナではなく、東のミルン湾へ針路をとるミスを犯していた。一緒に飛んでいたダニー・ロバーツは無線封鎖を守っていたが、ついに黙っていられなくなって航法ミスを指摘すると、ブラウンはすぐさまコースを改めた。そうして0725にブナに急降下しながら接近した6機のエアラコブラは、絶好の獲物を発見した。それは2個の編隊に分かれて離陸中だった2空と台南空の零戦6機だった。

第2航空隊:角田(つのだ)和男飛曹長、岩瀬毅一1飛曹、井原大三3飛曹
台南航空隊:山下丈二大尉、山崎市郎平2飛曹、中野釥3飛曹

 隙をつかれた零戦隊は、ラビ攻撃への出撃のため10分前にエンジンを始動、エアラコブラ隊が襲いかかってきた時には第1編隊の3機がまさに離陸する、最悪のタイミングだったが、これはブラウンの航法ミスによる怪我の功名だった。ブラウンとロバーツが先陣を切って2機の2空機に襲いかかり、脚を引きこむ間も与えず、これを火だるまにして撃墜し、岩瀬1飛曹、井原3飛曹は戦死した。直後につづいていたジョージ・ヘルヴェストン少尉とジェラルド・ロバーツ少尉は、つづいて離陸しようとしていた台南空の零戦編隊を銃撃した。この攻撃航過で中野釥3飛曹が戦死し、第80戦闘機隊初の確実撃墜機となった。ブラウンとロバーツは第一撃から急速に機首を引き上げると、今度は上昇中の日本軍機に反航するように向かった。銃撃を加える2機の後方ではジョージ・ヘルヴェストン、レオニダス・マザース、ノエル・ランディの各機も可能な限りの速度で追従していた。この一瞬の戦闘の直後、ジェラルド・T・ロジャース少尉機がブナの対空砲火に数発被弾した。彼は直ちに日本軍占領地域から離脱した。操縦席の背後に鎮座するエンジンの振動と不安定な計器表示から、彼はそう長く飛びつづけられないことを悟った。』


このとき戦死した2空の井原大三3飛曹も乙9期の同期生。
きっと一緒に出撃することになり、直前まで中野さんと何か会話を交わしていたのではと想像したりしますが・・・・。


ただでさえつらいこの状況が、敵の事情を知ってみると「航法ミスによる偶然の襲撃タイミング」だったとわかり、なお一層つらいです。もっというと、飛行隊長の飛行機が故障していなければこのタイミングでかれらがやってくることはなかった・・・・。
しかし、逆に何か小さなきっかけで命拾いをしたということも戦場では多々あったことでしょう。




台南空 昭和17年8月26日の戦闘行動調書。
ブナ基地上空敵戦闘機邀撃
指揮官 大尉 山下丈二
参加機種機数 零戦3
効果評点 撃墜1、不時着無、敵機数7、撃墜(不確)無、衝突無、撃滅計1
被害 被撃墜無、大破1、行方不明無、自爆1、消耗計2
評点B

0615 零戦×3、二空零戦×3 ラビ上空哨戒ノタメブナ基地発進
    P‐39×7来襲 飛行場上空ニ於テ之ト交戦ス
    P‐39×1ヲ撃墜 他ヲ撃退ス 我ガ方ノ被害自爆一
    不時着一機
0640 迄ニ零戦×1(台南)、零戦×1(二空)ブナ基地帰着

大尉 山下丈二         被害無       P‐39×1撃墜
ニ飛曹 山崎市郎平(軽傷)  不時着大破 軽傷
三飛曹 中野 釥(自爆戦死) 自爆




二空の戦闘行動調書。
船団上空直衛
指揮官 飛曹長 角田和男
参加機種機数 零戦3
(略)
0615 零戦三機ブナ基地発進
    離陸直後P‐39七機来襲 之ト交戦 一時苦戦ニ陥リタルモ終始攻勢ニ出デ撃退ス 
    自爆二機
0630 被弾ノタメ一番機着陸 

飛曹長 角田和男      消耗兵器機銃弾100  被弾10
一飛曹 岩瀬毅一(戦死)     不明        自爆 
三飛曹 井原大三(戦死)     不明        自爆




台南空・2空の戦闘行動調書、角田さん手記、『台南海軍航空隊』の記述、それぞれいろんな点で不一致があり、どれが真実かわたしには判断できません。
しかし、ラビに向かうために離陸しかけていたところ(離陸直後)、敵戦闘機の奇襲を受けたという点は間違いないのでしょう。









「おもいで」から

「居眠り居士」「とにかく学科はよく居眠りをしていた。ところがいつ教官に指名されても実にすらすらと答えてわれわれを驚かせたものだ。居眠りしなかったら勉強の上達する天才であった」

「中野居眠り居士」「宇佐延長教育では「パチリ」「パチリ」と写真機に凝っていた」

「同期生百九十六人中唯一人いまだに君の名を何と呼ぶのかわからない」



予科練卒業時の色紙





中野家では、中野さん戦死後に戦友がお母さんのもとに訪ねてきて、「自分は直接目撃した」として、中野さんの戦死状況を話していった、という話が伝わっているそうです。
中野さん戦死時に一緒に出撃しようとしていたのは2空の角田さん、岩瀬さん、井原さん、台南空では山下大尉、山崎さんということになるわけですが、上にも書いたように岩瀬さんと井原さんは同じときに戦死。
山下大尉も翌日戦死。
となると、中野さんの戦死状況を実家に伝えに行けるのは出撃隊員の中では角田さんと山崎さんということになるのですが、他隊の角田さんは可能性は低いかと思います。
同隊だった山崎さんは8月26日の戦闘で入室するほどの怪我をして、その上マラリアとデング熱を併発し内地に送還されてしまいます。さらにほかの病も患い長期に離脱することに。最終的には豊橋の251空(17年11月に台南空が改称)に18年2月ごろ合流していますが、山崎さんと中野さんのつながりがわからないので、何とも言えない感じです。

【参考】山崎市郎平さん手記
「今までに三回死線を越えました。
(中略)
第三回目は昭和十七年八月二十六日ニューギニヤ東岸ブナに進出、空戦中、愛機負傷止むなく不時着し顔面及胸部打撲傷により休養中、更にマラリヤとデング熱を併発し内地送還となりました」


一番可能性が高いのは同期生でしょうか。
豊橋にやってきた251空にも乙9期の同期生はいました。
遠藤桝秋さんと上原定夫さん。



251空時代と思われる宴会写真の上原さん(左)と遠藤さん(西澤さん写真より)。
上原さんは18年5月に251空がラバウルに再進出したときにはいないのですが、この写真の頃はまだ251空にいらしたようです。ラバウルから戻ってきた直後に宴会をやったのか、年末とか年初にやったのか?


これは台南空の、中野さん戦死前後の乙9期生たちの滞在地(出撃時の発進基地)です。
オレンジがラバウル。青がラエ。緑がブナです。
(グレーのベタは戦死。イエローのベタは編制表未登場です。●▲■の記号は同じ任務か別任務かを区別するためです)

遠藤さんはずっと搭乗記録がないんですよね。でも、このあと10月に入り戦線復帰します。
これ以前の最後の出撃記録が8月11日のラバウル発進ラビ飛行場攻撃なのですが、このとき遠藤さん、シャレにならない大けがをしています。行動調書では「負傷」「被弾×1 前膊負傷」と書かれているように見えます。
行動経過概要欄には「空戦中 2N 3/2D(遠藤機のこと) 被弾 ブナ帰投着」。
この日は14機出撃して、1機(指揮官中島少佐機)早々に故障で引き返していて、最終的に12機がラバウルに戻っているので、おそらく遠藤さんはブナから戻っていないです。
ブナに治療できる施設があったのか?
そこがちょっとわからないんですが。
そのままブナにとどまっていたのか、早いうちに迎えが来てラバウルの病院に入れたのか。
この怪我が原因で9月いっぱい搭乗できなかったのか、あるいは山崎さんのように他の病気を発症してしまい長引いたのか、それはわかりません、
ただ、武田信行氏の取材によると、内地に戻ってきて実家に帰省した折、このときの大けがの痕を幼い弟さんに見せつけて怖がらせた、って話。「前膊負傷」は左腕で盲管銃創だったそうです。



上原さんはというと・・・・8月27日にブナから出撃しているんですよね。26日もブナにいた可能性もあるんじゃないかと・・・・。となると、見送り時に目撃した可能性も。



三人の関係性を表にしたらこんな感じです。
1学年時は中野さんと、上原さん・遠藤さんは分隊が違います。分隊単位で行動することが多かったようなので、もしかしたら1学年時は「顔と名前を知っている」程度だったかもしれません。
操偵分かれてからは三人とも操縦分隊。ただ、班が同じだったかどうかまでは不明です。班が同じだとかなり親しい間柄だったと思います。

飛練中練時は中野さん・上原さんが筑波空。遠藤さんは谷田部空。
飛練実用機に進んでからは上原さんは艦戦で大分空へ。中野さん・遠藤さんは艦爆で宇佐空へ。宇佐の艦爆は10人しかいないので、少人数、かなり親しい付き合いをしたと想像します。

上原さんは16年10月末に飛練卒業後はそのまま実施部隊へ。最初から台南空だったのかどうかは把握していないんですが、わたしは飛練卒後早い時期に台南空に配属されているんだろうなと思っています。
中野さんと遠藤さんは飛練卒後、戦闘機転科のために佐世保空(出水・大村)へ。遠藤さんが17年2月に台南空へ着任しているので、中野さんもそのタイミングでどこかの部隊に着任したのだろうと思います。いまのところどこかは不明。

その後、6月に中野さんが台南空の行動調書に初登場して、完全に三人が台南空で一緒だったという時期に入ります。
ただ、ラバウルとラエで行動していたので、常に一緒にいたわけではないです。
台南空は9期生は多かったのでね。同じ基地にいた9期生同志は何かと寄って話をしたりしていたと思いますけどね。


おそらく今後も中野家を訪ねて来た戦友は誰だったのか判明することはないと思いますが、わたし的には上原さんか遠藤さん、あるいは二人で連れ立ってお話に行かれたのではないかなと思いたいです。
どちらかが「今度の休日、中野のお母さんのところに行こうと思う」という話をしたら、きっと「おれも行く」となるんじゃないかな。
もしかしたら遺品を預かって届けに行ったのかもしれないですしね。現在、釥さんゆかりのものは何も伝わっていないということでしたが・・・・。

ご遺族の方がいろいろと動いてくださっているので、何か見つかるとよいですが・・・・。





※画像は9期生ご遺族、武田信行氏ご提供

乙9期 操偵検査23分隊集合写真2026年02月07日 23時24分21秒

先日、
「24分隊の操偵検査集合写真が4枚あるのだけれど、同じと思っていた写真が違う写真だった」
って話を書いたばかりですが。

「まさか23分隊もってことはないよな?」

もしかしたら、以前書いているかもしれないんですが、検索しても出てこないのでもう一度書きます。




藤原国雄さん所有品




坂田清一さん所有品
(坂田さんの写真は戦後に近所の火災の被害を受け、からくも救出されましたが一部傷んでいます)



「あっー!」


右端の、予科練教員たちがわらわらといるあたり。

座っていた人が立っていたり、立っていた人が座っていたり。

2枚だと前後関係はわかりません。




ちなみに集合写真で幹部列の中央(プロペラの下あたり)にいる一種の人は予科練からついてきた分隊長・大友文吉少佐で、二人挟んで左側の一種の人は分隊士の寺島特務少尉です。
予科練からついてきた教員は上の拡大部分のほかに、反対側の左側にも3名写っています。



※画像は9期生ご遺族ご提供

乙9期 操偵検査24分隊集合写真2026年02月03日 13時48分47秒

9期1学年時の昭和14年6月に筑波海軍航空隊百里分遣隊で行われた操偵適性検査。

23分隊(1~8班)、24班(9~16班)とで時期をずらして10日間ほど行われました。

わたしの手元に24分隊の集合写真が4枚あります。それぞれ持ち主が違います。
羽藤一志さん所有品。

石川茂さん所有品。

池田和義さん所有品。

島田直さん所有品。


初期のころは4枚とも同じ写真だと思っていたのですが、何か調べ物をしていて2種類あることに気づきました。
そのときのことはブログに書いた記憶があるのですが検索しても出てきません(;´Д`)



今日、ついさっきなんですが、まったく別のことをしていてこれらの写真を見返していました。



なんと!
じつは写真は2種類ではなく、3種類あるということに気づきました!!(゚Д゚;)


羽藤さんと石川さんの写真はまったく同じものです。

なので、
①羽藤・石川写真
②池田写真
③島田写真
の3種類ある、ということです。



トリミング。
羽藤写真(=石川写真)の都地さん、清水日出夫さん、巧さん、遠藤秋章さん、紺野さん部分です。

池田写真

島田写真


都地さんと日出夫さんの手を見てください。
羽藤写真と池田写真ではほぼ同じ位置なのに対して島田写真では完全に手の位置が動いています。

「じゃあ、羽藤写真と池田写真が連続で撮られて、ちょっと時間をおいて島田写真を撮影したのか!(・∀・)」

いや、違うんです。

集合写真を重ねてみたんですよ。
そしたら、どうも、羽藤写真と、池田・島田写真ではカメラの位置が動いているんじゃないかと思うぐらい重ならないんです。練習生個人はほぼ動いていないのに全体の構図が重ならない。
逆に、池田写真と島田写真は、練習生個人はあちこちで動いているのですが、全体の構図はほぼ重なります。

なのでわたしの推測。
まず羽藤(石川)写真を撮った
→カメラマンがわずかに移動。その間練習生たちは動かずガマン(池田写真)
→同じ位置でもう一枚撮るが、練習生たちはガマンが続かず動いてしまう(島田写真)








池田写真

島田写真

宅間さんなんかひょこりはんレベルで動いているのに気づかなかったのかorz



こんなん見つけるとめっちゃうれしいですんよ。


一見同じ写真で「これすでにあるからいいわ」とスキャン撮らないのは絶対ダメですね。
とにかく予科練生のアルバムに貼ってある写真は1枚残らずスキャンできるものはスキャンして、あとで拡大してじっくり観察しなければ。





※画像は9期生ご遺族ご提供