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乙8期 本村静夫さん2022年01月03日 12時21分48秒

2020年8月10日に投稿した記事をそのまま転載します。



『飛練10期の大分修業記念写真(攻撃機)とその後の木更津修業記念写真(大型機)に9期以外の人が写っています。





飛練10期の大分(攻撃機)の人たちは16年8月末に大型機訓練のために木更津に移動しているのですが、おそらく移動直前に撮った記念写真だろうと思っています。
その時点で9期生たちはまだ1飛ですが、このお二人はすでに3飛曹に任官しています。

「教員じゃないの?」
って見方もありかと思いますが、移動先の木更津の大型機訓練の集合写真↓にも写っているので練習生と判断しました。





木更津の修業記念集合写真は16年10月末。


この2枚の情報だけでは出身期などはわからないです。
9期より先任、ってだけでしょうか。



大分の前、中練教程・谷田部にはおふたりとも写っていません。
もし、その時点から合流していたとなると筑波だろうと思うのですが、筑波の集合写真は精度がよくなくて個人の判別が非常に困難です。端っこが切れていて全員写っていないし。



以前Kさんからどちらかが8期の本村静夫さんかもという情報をいただきました。

本村さんは中練は筑波です。飛練10期の時期に筑波にいらしたようです。
筑波の集合写真、探すのですがわかりません。精細な写真が出てきたら判別できるかもしれません。

というわけで、どちらが本村さんで、残りのもうおひとりがどなたなのか、前に書いたときからまったく進展していないのですが。





本村静夫さん

乙8期、鹿児島県出身。操縦、中攻。
飛練卒業は10期。

17年1月4日  高雄空  コレヒドール攻撃



※画像は9期生ご遺族ご提供』







ここから2022年1月3日の追記です。

このおふたりに関してはずっと前から「どなたかしら?」状態が続いていたのですが、町元さんの卒アル個人写真のおかけで半分解決しました。



こちらが8期の本村静夫さんでした。


8期の同期生会誌、本村さんの項には、
『あごの張った意志強固不言実行の士で、一見とりつきにくい感じがするが話せば話す程人を引き付けずには置かない真実さがあった。三角頭に見え「サカサラッキョ」の異名頂戴』

外見の回想は主観が入るのであまりあてにしない方がいいと9期で学んでいましたが、これはまあ、おふたりのどちらのことを言っているのかはわりとわかりやすいというか。

しかし、卒アル写真で確定できたのは大きいです。



じゃあ、あとおひとり、あれはどなた?(^^;)
スイマセン、8期生を探すのですがわかりません。

わかったらまた報告したいと思います。


乙8期 町元善春さん2022年01月02日 14時41分40秒

去年の12月8日は真珠湾攻撃80年ということでテレビやネットニュースなどで盛んに特集が組まれました。

わたしは遺族でも関係者でもないですが、そんなわたしのところにも真珠湾80年の余波が・・・・。

9期島田清守さんの日記のことや、島田直さんの加賀艦攻隊集合写真の件などで、仲介、というんでしょうか。ご遺族の方を紹介してほしいとか、写真を使わせてほしいとか。


そんなこんなで、数ヶ月前から加賀の艦攻隊集合写真を見る機会が増えまして、いろんな情報を取捨選択しつつわたしなりに人物特定を試みていました。
そのことは先日ブログに書きました。

そのときは個人個人をトリミングして出したのでわかりにくかったと思いますが、実はこんなシーンが写っていました。

前、乙8期・町元善春さん(偵察、宮崎)
後ろ、同じく乙8期の久恒吾市さん(偵察、大分)
ふたりとも九州出身なので、予科練の休暇で帰省するときなどは途中まで汽車で一緒にワイワイ帰っていたのかもしれません。
さらにふたりとも偵察員なので、飛練に上がってもそれは続いていたかも。


写真のおふたり、真珠湾出撃直前(12月5日らしい)の加賀艦攻隊総員のオフィシャルな集合写真なので表情は若干硬いですが。
久恒さんが町元さんの肩に手をかけています。
写真全体を見渡してみたところ、他人の体に触れているのは久恒さんだけ、他人に触れられているのは町元さんだけです。
おそらく久恒さんの方から町元さんの肩に手をかけたのだろうと想像できますが、それをした久恒さんの心境、また後ろから久恒さんに肩に手をかけられたときの町元さんの心境、どんなだっただろうと・・・・。




真珠湾攻撃出撃前夜のことが『予科練外史』(倉町秋次)に加賀艦攻隊電信員だった渡辺禎夫さんの回想として掲載されています。
渡辺禎夫さん(加賀艦攻隊集合写真から)

『前夜は眠れた
同期生と特別糧食の葡萄酒を呑み、(「加賀」の八期同期生は渡辺、町元、田中、甲斐の四名)予科練、飛練の思い出を語り合った。
夢も見なかった。誰のことも思い出さなかった。
遺書は二日前に書いておいた。戦死しても力を落とさないように、父母の御恩を感謝する、ということを書いた』
田中一則さん(加賀艦攻隊集合写真から)

甲斐巧さん(訓練時の加賀戦闘機隊集合写真から)

この回想内の( )部分。本に書くにあたって倉町先生が注として加えたものか、渡辺さんの回想時点で入っていたものかは不明ですが、実際の加賀八期生はあとおふたり、艦攻隊の久恒さんと艦爆隊の西森俊雄さん(操縦)。
西森俊雄さん(百里原飛練集合写真より)

倉町先生がお二人のことを失念してつけた注なのか、渡辺さんが前夜一緒に葡萄酒を呑んだ同期生が田中、町元、甲斐だけだったのか、そこらへんはわたしにはわかりません。




町元さんは真珠湾攻撃時、雷撃隊第2中隊長・鈴木三守大尉の電信員でした。操縦員は乙3の森田常記飛曹長。
乗機はAⅡ-356号機。
ご存じの方もいるかと思いますが、鈴木大尉機は雷撃時に撃墜され、自爆。
数日後に米側に機体を引き上げられました。ご遺体もともに・・・・。

鈴木三守大尉

森田常記飛曹長

『予科練外史』より。
『森田常記飛曹長(乙三期)、町元善春二飛曹(乙八期)の最期はすさまじかったという。一緒に行った二番機の田中一則二飛曹(乙八期)の後日の話によれば、分隊長の鈴木三守大尉とペアで出撃、戦艦に対して雷撃に入った直後被弾、火達磨になりながら魚雷を発射してそのまま艦橋に自爆を遂げたという』

八期同期生会誌の町元さんの項に田中さん手記よりの引用があります。
『港内の敵戦艦に雷撃した瞬間前方の一番機が被弾で火炎を靡かせた。町元機だ夢なれ・・・・ 神に祈るも空しく一発心中雷撃を敢行した町元機はよろめく機首を引き起こし命中を確認するや「フォード島」に痛烈なる体当りをなす、時将に午前三時二十八分、「町元喜べ我が奇襲は見事成功せり」』

鈴木機の最期に関しては複数の目撃談が残っていて、被弾して火を吹き海面に激突した、というものもあります。
機体も海中から引き上げられているということで、「艦橋に自爆」や「フォード島に体当り」より海面に激突したものと思います。







去年暮、12月8日より前でしたが、8期生のご遺族の方ら連絡をいただきました。
その時点ではどなたのご遺族の方か知らずにやりとりをしていたのですが、あとになって町元さんのご遺族の方とわかりました。

前に書いたかもしれませんが、やはり同郷の方はつねに気になる存在ですので、町元さんと聞いてもうなんとも言えない気持ちになりました。
特に加賀艦攻隊集合写真に取り組んだあとだったこともあり。




町元さんの予科練卒業アルバムが残っていたんですよ。
年末のお忙しいときに卒アルの個人写真を撮影して送ってきてくださいました。

上にシレッと西森俊雄さんの画像を出していますが、町元さんの卒アルのおかげで百里原8期飛練の20名は判明したと思っています(まだ最終確認はできていません。数名、照合に自信のない人がいる)。

いままでブログで取り上げた中で、他にも8期に関しては保留になっている方がたくさんいます。
県別集合写真の8期生だけがお顔がわからないとか、「このおふたりのうちどちらかが〇〇さんなのだろうけど、わかりません」とか。
それらはちゃんと解決しましたので近々アップしようと思っています。
町元さん、ご遺族の方、ホントに感謝感謝です。





町元さんの人柄に関しては同期生会誌にも書かれていませんでした(人柄以外のことが書かれていた)。
同期生の書きぶりからはどちらかというといじられキャラなのかな?という印象。


『予科練外史』の8期操偵検査の項に町元さんに触れた記述がありました。
操偵検査のため友部分遣隊(のちの筑波空)に向かうのどかな田舎道シーンです。
『馬を引いた若者を見て、町元善春練習生は家からの便りを思い出した。今年は仔馬が二頭生まれたとあったが、昨年の今ごろは自分も仔馬を引っぱり回して遊んでいたっけ・・・・・と南九州の故郷の様がふと心をよぎった』

8期は5月に操偵検査をやっているので、この場合の「昨年の今ごろは・・・・」は予科練入隊の前の月ということになります。




16年12月8日  加賀  真珠湾攻撃




※画像は9期生ご遺族、浅川さんご家族、愛媛零戦搭乗員会ご提供

偵練35期 金井昇さん2021年12月22日 23時17分55秒

14年前、ブログを始めた直後に書いた記事再掲。


『大正8年5月10日、長野県生まれ。
昭和9年6月、横須賀海兵団入団、通信兵を経て昭和11年10月、35期偵察術練習生。12年7月、首席で卒業。
館山、大村航空隊、「蒼龍」、横須賀航空隊、特修科練習生爆撃課程、「赤城」、「蒼龍」・・・・
というところがかれの経歴です。

「水平爆撃の名手」「機動部隊の至宝的搭乗員」「艦隊随一」「蒼龍飛行機隊の象徴」「日本海空軍第一人者」「名人」「海軍の至宝」・・・・かれのことを褒め称えることばを拾っていったらきりがないぐらいいくらでも出てきます。
かれは編隊の水平爆撃の照準を一手に任されている「嚮導機」の爆撃照準手です(九七艦攻)。高度3000㍍ほどのところから、地上の施設や海上の艦船めがけて爆弾を落とすのです。(B29のように雨霰のごとく無差別に落とすのとは違い、1個~数個の爆弾を目標を決めて落とすのですから至難の業です)
「蒼龍」では操縦・佐藤治尾飛曹長とコンビを組み、上に挙げたような賛辞を一身に集めたのです。その爆撃命中率の高さから、山本五十六連合艦隊司令長官や南雲忠一中将から賞状や短剣を授与されたという話もあります。

かれの一世一代の舞台は真珠湾攻撃でした。
真珠湾に向かう蒼龍の格納庫では、四六時中飛行服を身にまとい、愛機の偵察席で爆撃照準の訓練に取り組む彼の姿が目撃されています。(「赤城」水平爆撃隊の嚮導機・渡辺-阿曾コンビのエピソードとして、源田実参謀が「操縦索の張り工合など自分で自分の気に入るように調整し、一度その調整が終わったならば他人がこれに触れることを厳に警戒した。燃料の消費に伴って生ずる飛行機の釣合安定度の変化に関しても、どのタンクがどれだけ減れば、操縦にそう影響するかというようなことを精密且詳細に検討して爆撃操縦に適用した」と述べています)
それだけの成績を残すのは、天性のものだけではなく、不断の努力や研究があったということです。

佐藤-金井コンビは真珠湾でも敵主力艦2隻に命中弾を与える殊勲を挙げました。
『(前略)・・・・全精神を目標に集中して居るので、付近で炸裂する高角砲の音も耳に入らず、目標以外の何物も目に入らず無念無想だた狙って居る。目標のみ目と心に映ず、此の時既に命中の自信を得たり。
今度は絶対に大丈夫と前席に伝え、確信と余裕を以て更に懸命の保針を『頼みます』、心で伝う、以心伝心二人の心は一つになって居るからすぐ通ずる・・・・(後略)』(金井日記)

真珠湾攻撃を終えた機動部隊は12月23日には日本に凱旋帰国する予定でした。
ところが、「蒼龍」「飛龍」の2隻だけが帰途ウエーク島攻撃を命じられ、機動部隊とは別行動になります。
12月22日、真珠湾攻撃から2週間後・・・・。
この日も水平爆撃の嚮導機として出撃した佐藤-金井コンビは、ウエーク島上空で指揮官機と入れ替わった途端、上空の雲間から指揮官機めがけて降ってきた敵戦闘機に銃撃されてしまいます。
おそらく操縦・佐藤飛曹長が被弾したのでしょう。真っ赤に染まった風防の中から、金井兵曹は隊長に向かって笑顔を見せ、手を振りながら海に落ちていったということです。


参考文献:森史朗『運命の夜明け 真珠湾攻撃 全真相』、源田實『海軍航空隊始末記』、押尾一彦・野原茂『日本陸海軍航空英雄列伝』、森拾三・大多和達也手記』






この投稿をした後、『航空母艦蒼龍の記録』に掲載されている金井兵曹の日記も見ることができました。
真珠湾前日、12月7日の日記です。(掲載日記は送り仮名はカタカナ)
『―略―

 晴れの攻撃、皇国の興廃を決する重大なる攻撃を前にして、準備は既に十二分に整いたり。即ち、今迄航海中は毎日布哇(ハワイ)攻略に対する、研究会が搭乗員室において開かれ、われわれ搭乗員は普通の演習より以上に、攻撃について種々知り得て今や何事の不安も疑心もない。

 既に諜報等により敵艦の碇泊位置、数、艦名まで知り得たので、他方又自分個人としての心構え、職務に対する為し得る限りの準備も十分終わり我が愛機の座席には八幡宮のお札を安置し、単冠(ヒトカップ)湾出港以来毎日拝しつつ、「鴻毛の軽き我が身はいかになりますとも必ず投下する爆弾が是が非でも命中させてください」、必ず真心こめてお祈りした。

 飛行長も「長い間飛行出来ないので勘が狂いはしないか」と非常に心配して居られた。飛行長にいわれるまでもなく、これは自分が一番気掛かりになって居る事柄である。

 仕方が無いので幾分の足しになると信じて、毎日座席内に入り照準器を覗く事にした。なるべく実感の出る様にと思って飛行服を着け、伝声管を着け、空中で照準するときの気持になって照準投下の練習をした。馬鹿らしいようにも見えるが真剣だ。

 艦内で出来得る事はその他すべてやった。為し得る事はいかに小さい事といえども皆終わったはずだ。自分は尽くすべきを完全に尽くしたのだ、これ以上いかんとも為し得ざるのだとの確信あり。あとは明日最善を尽くしてやるのみなり。

 ―略―』






金沢秀利さん(乙8、真珠湾時飛龍艦攻電信員)がご自身の手記『空母雷撃隊』(光人社NF文庫)に金井さんのことを書いています。

開戦前、金沢さんは爆撃訓練のために横須賀基地に行きました。そこには、飛龍だけでなく、蒼龍、赤城、加賀、瑞鶴、翔鶴の爆撃機代表も揃っていました。
ちょっと引用。

『金井上飛曹(このころは「上飛曹」ではなく「1飛曹」)は、特修科爆撃同期生中、爆撃技術成績は断然優秀であるばかりでなく、作業の余暇には、読経三昧にふけり、酒杯を手にせず、大言壮語することもなかった。また、訓練中使用する三十キロ演習弾の運搬は主として電信員の役で、偵察員はほとんど休養し、飛行場に弾が来てから、ちょっと手伝う程度が普通であるのに、運搬も弾作りも、投下器に取り付けることもやり、喜怒哀楽の表情を見せない人であった。しかも、柔和な仏像を思わせる―いってみれば、匂うがごとき美男子であった』




技倆だけでなく、人格的にも素晴らしい人であったのは間違いないです。












島田さんの遺品の中に蒼龍艦攻隊宴会写真を見つけたときから、
「この中に金井さんもいるんだよな?」
とは思っていました。


ずいぶん前に知人から見せてもらっていた海兵団時代の金井さんの写真(ジョンベラ)や、『日本陸海軍英雄列伝』に掲載されている金井さんの飛行服写真を見ながら、どこだどこだ?と探していたのですが、わかりませんでした。



先日、BS1スペシャルの『生きて 愛して、そして』の中に金井さんのご実家訪問シーンがあり、お仏壇に飾られたが下士官時代の遺影が映し出されました。

あの写真を見て、ようやく「これが金井さんか!?」と。
トリミングした真ん中の人。
これ、金井さんですよね。

宴会写真でいうと、最前列の左端の方です。
両隣の人はどなたか不明ですが、左は兵、右は下士官ですね。両腕をかれらの肩にまわして上機嫌のように見えます。

金沢さんの回想が本当なら、金井さんはお酒を飲まないということなので、この日ももしかしたらしらふで上機嫌にしているのかも。
「喜怒哀楽の表情を見せない人」なんてことはないですね。笑顔はふつうの青年です。



金井さんの最期は、目の前で目撃してしまった島田さんの日記の記述が一番近いのかなあ、といまは思っています。


※画像は9期生ご遺族ご提供

茨城県出身乙8期生2021年12月17日 10時30分29秒

乙9期萩谷幾久男さんの遺品の中に茨城県出身乙8期生が写った集合写真が3枚ありました。

乙7~乙9期生。
おそらく7期生卒業にあたって。
横須賀海軍航空隊、13年8月?

乙8~乙10期生。
霞ヶ浦海軍航空隊。
11期生が写っていないので、14年3月~5月ごろか?


乙8~乙11期。
霞ヶ浦海軍航空隊。
おそらく8期生卒業に際して。14年8月?

8期生は8名です。
小川政次さん
川井裕さん
小林保夫さん
須藤市郎さん
高野義雄さん
豊田三夫さん
根食貞憲さん
樋口金造さん

最初にこの写真を出した時は、「8期生はどの人が何さんなのか、まったくわかりません」みたいな感じで出していたと思います。

今年は真珠湾攻撃から80年目を迎えたということでいろいろな方面で取り上げられ、そのさざ波がわたしのところにも寄せてきまして。
これらの写真に関して検討し直すことができました。

まず、川井裕さんから。
あの日、たまたまヤフーニュースを開いたら、わたしの画面に川井さんの記事が表示されていました。
そこに、飛行服姿の川井さんが掲載されていたのです。
そのおかげで集合写真のどの人が川井さんかわかりました。
左から古い順(上に出した集合写真の順、以下同じ)。
真珠湾時、赤城艦爆隊。偵察員。

17年8月24日  翔鶴  ソロモン


  

真珠湾攻撃出撃組の写真を探す過程で特定(推定)した人たち。

蒼龍艦爆隊・須藤市郎さん(操縦)。
須藤さんはだいぶ前からわかっていました。

9期生のアルバムに貼ってあった剣道写真に、須藤さんがお名前入りで(^^;)

今回は、「須藤さん、じつは浅川教員の百里原飛練集合写真にも写っていた!」って話です。
なんでいままで気づかんのよ!?っていうぐらい須藤さんです。

19年6月24日  横須賀空  硫黄島



同じく蒼龍艦爆隊・高野義雄さん(偵察)。
高野さんは探すのに使った写真が雄翔館の遺影なのでここには出しません。
先日、島田さんの日記のために16年12月の編制表を入力していて気づいたのですが、高野さんはこせやん(小瀬本国雄さん、『激闘艦爆隊』の手記あり)のペアだったのですね。いまさらでスイマセン。

17年6月5日  隼鷹  アリューシャン



真珠湾時翔鶴艦攻隊・樋口金造さん(偵察)
樋口さんも参考にした写真が雄翔館遺影なので。

19年6月19日  652空  マリアナ沖




豊田三夫さんも、雄翔館に遺影がありました。
中攻操縦。

18年1月5日  705空  ソロモン
と、同期生会誌に書いてあるのですが、705空の行動調書では、18年1月25日に対「ガ」島戦闘機誘導任務で行方不明になっています。
こちらが正しいかと。



昨日わかった人。
蒼龍艦攻隊(水平爆撃)・根食貞憲さん(操縦)
氏名不明だったのですが、数日前、この人が浅川さんの百里原飛練集合写真に写っていることに気づきました。

飛練集合写真。

Kさんにご教示いただいて、この人が根食貞憲さんだろうという結論に至りました。
その時点で茨城県乙8期不明者は根食さん、小川政次さん、小林保夫さんの3名になっていたのですが、小川さんは蒼龍艦攻隊(雷撃)で電信員、小林さんも偵察員のこと。百里原操縦飛練の集合写真に写りうるのは根食さんのみということで、根食さんと判断しました。

ということは、おそらく島田清守さんの蒼龍艦攻隊十二分隊宴会写真にも写っているはずなのですが、????です。
「これじゃないのか?」という方はいらっしゃるのですが、どうでしょうか?
位置的には、島田さんの真後ろ、乙7の石井利一さんの左横に写っています。
乙7、8、9の雄飛先輩後輩がかたまっているということで、わたし的には「おお!」な立ち位置なんですが。
無帽でフラッシュが当たっているので、ちょっとよくわからないですかね。

19年10月12日  K262  台湾沖航空戦



残りのお二人、小川政次さんと小林保夫さんは照合できる写真が見つからず、現時点でどちらが小川さんで小林さんなのか、不明です。


小川さんは真珠湾時蒼龍艦攻隊(雷撃)の電信員。
17年6月5日  蒼龍  ミッドウェー海戦

小林さんは偵察員ということしか把握できていません。戦後生存者です。




※画像は予科練生ご遺族・ご家族ご提供

島田さん日記のリンクがエラー?2021年12月13日 18時25分33秒

パパから島田さんの日記のPDFへのリンク(その1、その2、その3・・・・のリンクか?)がエラーになる、と連絡がありました。出先で(^^;)

「帰って確認するわ」
と言って、とりあえずいったんブログページを非公開にしました。

帰ってきて確認したんですが、わたしのは大丈夫なんですが(^^;)

エラーになるって人います?


同じものをそのまま再公開しました。


パパが帰ってきたらまた確認し直しますが。

もし、エラーになるって人は大元の日記ページへのリンク(昨日のブログ記事内の「島田さん日記ページ」か、右欄の「島田清守さん蒼龍時代の日記」)から入ってそれぞれのこま切れになっているページ(その1、その2、その3・・・・)に入ってください<(_ _)>