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聖川丸の笠井繁雄3飛曹2016年02月23日 18時13分41秒

茨城県出身、水上機の偵察員です。

優秀な方だったようで、入隊時も、操縦分隊になってからも伍長をされていたようです。

集合写真などで見ると、小柄な方です。

同県人、・萩谷幾久男さんのアルバムにあった笠井さんの写真。


これは藤原国雄さんのアルバムに貼ってあった写真。全員偵察専修生。
前列左・笠井繁雄さん。
右・二階堂信治さん(北海道、中攻)
後列左・藤井国男さん(香川、飛行艇)
右・藤原国雄さん(長野、中攻)


笠井さんは17年3月10日に聖川丸、サラモア沖で戦死されています。

そのときの聖川丸戦闘詳報(アジア歴史資料センターHP)。
『ファーゼル港ニテ飛行作業中0830頃ヨリ0950頃迄敵陸攻及艦上機約三十機ノ来襲ヲ受ケ、観測機一機九五式水偵三機ヲ以テ之ヲ攻撃スル傍・・・・』

95水偵R18号機、操縦・大友功1飛、偵察・笠井繁雄3飛曹。
『0630水発々艦 ラエ附近上空哨戒中(0840頃迄ノ行動ハ不詳)0840頃サラモア港外ニ於テ(附近・十四掃海隊アリ目撃)単機敵艦攻五機ノ編隊ニ突入 数次ノ攻撃ノ後 内一機ヲ撃墜セルモ、折シモ上空ヨリ来襲セル敵戦闘機四機ノ攻撃ヲ受ケ之ト空戦状態ニ入リシモ遂ニ性能及バズ衆寡敵セズ、一瞬ニシテ火ヲ発シ壮烈ナル戦死ヲ遂ゲタリ』


わたしが把握していたのはここまでなのですが。




先日読んだ大日本絵画の台南空の翻訳本に敵側から見たこのときのことが書かれていました。
まさか、この本に笠井さんの最期が書かれているとは思いませんでした。


『まだ日本軍の航空戦力はまったく不在だったが、特設水上機母艦聖川丸には零式観測機が1機、九五式水偵が5機、零式水偵3機が搭載されていた。これらは急ぎ発進を試み、3機の九五式水偵と1機の零観が離水した。最初に発進したのは複葉で開放操縦席の九五式水偵で、武装は7.7ミリ旋回機銃が1挺のみだったが、その戦意旺盛な搭乗員は敵を手当たりしだいに撃ちまくった[編註:機首にも7.7ミリ固定機銃を1挺装備している]。大胆にもその機が最初に追跡したのは、ラエ南方で回避運動中の艦船を攻撃していたデヴァステーター隊だった。VS-2の4機のSBDがそのあとを追ったが、複葉機はこれらの全機をうまく振り切り、アメリカ人たちはのちにこの単機の日本機をして「勇猛果敢」と報告している。ワイルドキャット隊搭乗員のウォルト・ゲイラーがようやくここで参戦し、僚機のヴォースが間一髪で水偵への射撃を外したのを見たゲイラーは・・・・(略)』

笠井さんのR18号機は海に突っ込んだそうです。


R18号機は日本側の資料によると、敵が現れたときにはすでに上空哨戒中であり、そこから攻撃に向かったことになっています。
翻訳本では敵が現れてから離水したように書かれています。

ここが食い違っているのですが、撃墜されているのは笠井さんのR18号機だけなので、やはり笠井さんの戦闘状況・最期なのでしょうか。

※聖川丸戦闘詳報ではR18号機が敵艦攻1機を撃墜しているようですが、翻訳本によると米側の飛行機損失は高射砲によるSBD1機だそうです(搭乗員2名戦死)






単機で多数の敵編隊に突っ込んで行っただけでも驚きですが、かれらの搭乗機は95水偵です。
笠井さんが予科練時代(15年)に仲間と撮った写真の背景のスクリーンにさえ単葉の飛行機が描かれているのに、笠井さんが開戦後(17年)に戦地で乗っていた飛行機は複葉の飛行機でした。
戦闘詳報に「遂ニ性能及バズ」と書かれているのをみて、何とも言えない気持ちになりました。
この飛行機で、SBD、デヴァステーター、ワイルドキャットの編隊を相手に戦いを挑んだのかと思うと・・・・。



敵側から「勇猛果敢」と評されていたとのこと。
少しでも笠井さんと大友1飛への手向けになれば・・・・。




※引用:ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド(平田光夫訳)『台南海軍航空隊【ニューギニア戦線篇】 モレスビー街道に消えた勇者たちを追って』大日本絵画
※画像は9期生ご遺族ご提供

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