Google
WWWを検索 ひねもすを検索

『関ヶ原』2017年09月07日 17時44分01秒

見てきました!

突然暇ができました!

おうち仕事、雇い主さんに返しました。次の仕事がまだ来ていません。→「いまのうちだ!!( ̄▽ ̄)」



いやー、なんかねー。

「こんな話だったっけー?(´・ω・`)」

すっかり忘れとりますぞ!(爆)



原作では出てくる人、出てくる人、みんなもっと癖のある人たちだった記憶があるんですが。

岡田くんじゃ、

「こいつ、なんやねん!?( ̄Д ̄;)」

って三成はムリですよね・・・・。


原作では出てくる人たちの「キャラ立ちすぎ」がおもしろかった記憶があったのですが、映画ではそうでもなかったですね。

司馬さんの本って、映像化されると「あれ?」なことが多いのはわたしだけでしょうか(^^;)



それに今回の関ヶ原は登場人物の顔が覚えられず、誰が誰かよくわからないまま見ていました。
とくに忍び。

人の顔が覚えられない病気かも知れない・・・・。






帰りにイオンモールの店内でばったり知り合いの中年女性と会いました。

「あ、こんにちは」

あいさつして通りすぎたのですが、

(いまの人、誰だっけ?)

知っている人だと思ってあいさつはしたのですが誰かわからない(笑)

(幼稚園のママ友か? 小学校か? いやちがう)

だいぶ経って思い出しました。 近所のコンビニのレジのおばちゃんでした。制服着ていないからわからんかった(;´Д`)



そういえば、前に駅の近くで若い男性にこんにちはとあいさつされ、あいさつしかえしたけど、ずーっと誰かわからないままでした。

やっと思い出しました。

春海のイト〇ンのコーチでした!
毎日会っている人でした! 服を着ていたからわかりませんでした(爆)



何の話でしたっけ?
あー、そうそう、関ヶ原。

もう一回、原作を読むか。
時間があれば(^^;)






せっかく行ったので。

サンマルクカフェでコーヒーゼリーパフェを食べてきました。

スイムジャック2017年09月07日 22時53分46秒

先日、勢いでポチッて春海にたっかい水着を買ってしまったでしょう?

あれ、まだ一度も着ていません。

試着すらしていません。破ったら困るから。

というか、アレ単独で着るのはムリらしいです(笑)
アレを持っている先輩たちの話によると、スイムジャックという補助具がないと着れないそうです。



「まだ金がいるのかよー( ;∀;)」

しかし、「着れない」と言われたらしかたがない。春海のためにスポーツ用品店に買いに行きました。
ありませんでした。取り寄せ。

今日、やっと届きました。


腰巻みたいな形をしています。テロテロの薄い素材です。
これを使ってどうやってあの水着を着るのか、イラストで描いてあります。




たいへんです。
ちゃんとした水着は、フツーに着れんのです(困惑)



とにかく1回2回で破かんでくれよ。

いや、3回目でも破かんでな。

9期 実施部隊の搭乗機機番号2017年09月08日 10時05分21秒

※1421追記しました

「愛機」という言い方をよくしますが、何人かの搭乗員さんに聞いたところ、

「搭乗機は特に決まっていなかった」

と言われることが多いです。

隊長(分隊長)標識?が入った機体もあるので、必ずしも「どれでもいい」というわけではなく、もしかしたら人(立場)によっては固定機があったのかもしれません。





9期生の場合、数人ですが、使用した搭乗機の機番号がわかっている人がいます。

池田和義さん
33-207号機

33空の99艦爆です。
そこらへんにあった機体と適当にツーショットを取ったのではなく、自分が搭乗した飛行機と一緒に撮ったのではないかと思っています。

池田さんはもう1機、搭乗機かな?という機体と一緒に写った写真があります(機番号がわかる分で)。
カウリングの下に「8」。
33空の208号機でしょうか。
池田さんは17年7月に35空に転勤になっているので、ほんの少しですが35空の可能性も。これだけではたしかなことはわかりません。

そもそも、機番号だけではなく、9期生が実施部隊に出てから自分の搭乗機と一緒に写った写真ってほとんどないです。
ですから、池田さんの写真は9期的には超貴重。


他に搭乗機の機番号がわかっている人。

嶺岸友三郎さん
機種がわからないですが艦爆です。サヘ211号機
飛練(中攻操)を卒業したあと、艦爆に転科するために佐伯空で訓練中でした。
機体の故障により不時着殉職。そのときの機番号です。

余談です。
この機番号を見て「あれ?」と思いました。
わたしは大分の佐伯は「さいき」だと思っていました。たぶん「さいき」。
でも、海軍の基地としては「さえきくう」だったのかな?
前に、「美幌空」も、地名では「びほろ」だけど海軍では「みほろくう」だと教えてもらったことがありました。へえー。




森田勝さん。
零戦21型 X-107号機
これは17年1月21日のケンダリー攻撃時の機体で、被弾して左翼の翼端(ピトー管より外側ぐらい)をもがれた状態で基地に帰ってきたあと、その機体と森田さんが記念写真を撮ったようで、写真が残っています。
『日本陸海軍航空英雄列伝』によると、森田さんはこの行動で特別善行章を上申してもらったということですが、直後(2月3日)に戦死されているので、この話が実現したのかどうか・・・・わたしは把握していません。




村田耕一さん。
99艦爆。たぶん35-202号機だろうと。
17年2月19日、戦地に移動中、台湾の山に激突して殉職されたときの機番号です。
戦後に、当時の35空整備長・十河義郎さんが書かれた手記に、遭難機全機の搭乗員と機番号が記載されてます。村田さんのところには「202」と書かれています。
整備の人なので、何かそういう資料をお持ちだったのかもしれません。





都築国雄さん。
99艦爆。33-205号機
17年3月3日、戦死されたときの機番号です。




笠井繁雄さん。
95水偵。R-18号機
聖川丸。サラモア沖で戦死されたときの機番号です。




中尾鶴蔵さん
零式1号水上偵察機 オミ5号機
大湊空、17年3月22日、遭難時の機番号です。
その後、4月22日になって戦死認定。




後藤龍助さん。
零戦21型。V-152号機
これがよくわからんのですが、17年4月17日にモレスビー攻撃時に被弾、ラエ帰着時に不時着大破した後藤機がV-152号機ではないかと『台南海軍航空隊 【ニューギニア戦線篇】』に書いてありました。
ちなみに17日の「被弾」は撃った側の報告書が残っていて、本にはそのときの状況が詳細に載っていました。撃たれている零戦に知っている人(?)が乗っていると思いながら読むととても嫌な気分になります。
このとき後藤さんは大怪我をしたようで、このあと2か月以上搭乗記録がありません。
大破したVー152号機はそのままラエに放置され、18年9月に連合軍に鹵獲されたそうです。




中門清司さん。
一式陸攻。
751空はたまに行動調書に機番号の記載があり、18年11月11日敵艦隊攻撃時は「312」、翌11月12日の第4次ブーゲンビル島沖航空戦時(戦死時)は「309」と記載されています。
佐藤暢彦さんの『一式陸攻戦史』に751空の一式だとして「Z2-」の機番号の写真が掲載されています。
ということは中門さんの機体も「Z2-312号機」「Z2-309号機」ということでしょうか。




石井三郎さん。
同じく751空。
18年11月16日、「312」号機。
たぶんZ2-312号機。中門さんが11月11日に搭乗した機体です。
石井さんが行方不明というか未帰還になったときの機体です。
公式にはこの日戦死したことになっていますが、実際に亡くなられたのはこの日ではありません。




松沢正二さん。
彗星11型。鷹-23号機
19年1月25日、遭難殉職時の機番号です。




益田増雄さん。
吉野泰貴さんの『日本海軍艦上爆撃機 彗星  愛機とともに』に523空時代の編制表がいくつか出ていました。
19年2月22日 サイパン―テニアン移動時  鷹-12号機
19年2月23日 索敵攻撃時           鷹-12号機
19年3月30日 パラオ沖海戦索敵攻撃    鷹-34号機 戦死
いずれもペアの操縦員は兵69期の大石将人中尉(3月15日に大尉)なので、もしかしたら鷹-12号機が固定機だったのかもしれません。2月23日の索敵攻撃時に鷹-12号機は発動機不調でサイパンに不時着し、一時間後に敵戦闘機の銃撃を受け炎上したとか。




高橋兼春さん。
一式陸攻。951空の361号機
19年4月12日の戦死時の搭乗機です。
951空の機番号がどう表記されていたのか、わたしは不勉強で知りません。




遠藤秋章さん。
701-122号機
みなさんご存知かと思いますが、20年8月15日、玉音放送のあとで、大分基地から沖縄に向け発進した彗星11機のうちの1機。

遠藤さんは指揮官・中津留達雄大尉(兵70期)の偵察員でした。その偵察席に宇垣長官が乗り込みました。彗星は操偵2人乗りです。残留を言い渡されたにもかかわらず、一斗缶を狭い偵察席に持ちこみ、無理矢理宇垣さんの膝の間に同乗して出撃した遠藤飛曹長。そのときの様子(写真)が上記・吉野さんの本に掲載されています。

予科練に入った直後はつらさのあまり「5年で海軍をやめて松山に帰りたい」と泣きごとを言っていた遠藤練習生が、長官に降りろと言われたにもかかわらず、無理矢理同乗して出撃して行ったのです。




※画像は9期生ご遺族ご提供。
本文中に挙げた書籍・手記、行動調書など参照。Kさんご教示。

倶楽部にて 偵察2017年09月09日 10時47分05秒

前に一度出しているのですが。

写っている個人に関しては書いていなかったと思うので、もう一度。



予科練の卒業アルバムに掲載されていた、3学年時の倶楽部での写真だと思われます。
15年夏。霞ヶ浦航空隊時代。
写っているのは偵察専修生たち。
後方にいる人たちが暗くて顔が見えない&前の人たちも笑顔 ということで、かなり難易度が高い写真です。


前列の人たちはまだわかりやすいです。はっきり写っているので。
左から。
村上守司さん


中尾鶴蔵さん


遠藤秋章さん?
全然自信がないです。
遠藤さんって、笑ったらこんなお顔なんだろうか?


岡本清見さん


平山繁樹さん


岡吉郎さん


仲野修さん


牛澤四郎さん



後列はわかる人だけ。
左から3人目かな?
堂前清作さん


岡本さんの後ろで中腰ぐらいの姿勢。
兼藤二郎さん


アコーディオンみたいな楽器を持っている。
篠原藤市さん










最初、これは3学年の班だろう、と思っていたのですが、いまは「ちょっとわからない」という感じになっています。

兼藤さんがね。

藤原国雄さんが持っていた3学年の班写真(土浦海軍航空隊)にも写っているんですよ。
これは隊内で撮られていて教員が一緒に写っているので、こっちのほうが班写真の可能性が高いです。

この倶楽部写真と、藤原さんの3学年班写真で、両方に写っているのは現時点では兼藤さんだけです。他はかぶっていません。


わたしとしては倶楽部は班ごとか組ごととか分隊ごととか、そういう単位で割り当てられていると思っているので、兼藤さんが写っているということで、「班ではなく組の倶楽部かも? それとも偵察分隊の倶楽部なのか?」ぐらいの漠然とした感じになっています。
おそらく操縦(分隊)と偵察(分隊)は同じクラブは使ってないだろう、と。





みんな、楽しそうですよね。

これも元写真が絶対にあるはず。
元写真で見ればもう少しわかるんじゃないかという気もします。
そのうち出てくると期待して。




※画像は9期生ご遺族ご提供

9期 搭乗機と2017年09月09日 14時00分20秒

9期生が実施部隊に出てから搭乗機と一緒に写っている写真ってほとんどないと書きましたが、まったくなくはありません。


池田さんの写真は先日出した以外にもあります。




めっちゃエエ写真です。









あとは本に掲載されていたものや掲載許可をもらっていない写真なので、略図化してみました。
こんな感じというのがわかる程度で。

森田勝さんと左翼端がもがれたX-107号機(3空)。
『日本陸海軍航空英雄列伝』に写真が掲載されています。
ピトー管から先がガバッともっていかれていますが、これで飛んで帰って来たらしいです。






新井正美さん。
雄翔館に写真があります。
台南空時代、モレスビー攻撃で片翼・・・・なんかほとんど持って行かれている感じなんですが・・・・
いったいどうなっているのかよくわからないほど破損したまま山越えして戻って来たんですよ、零戦、スゴすぎ! 新井さんもすごいぞ!
図では省略していますが、もがれている部分からはコード類が垂れ下がっています。
つーか、よく脚が残っていたなァ。
これで無事に着陸していますからね。


吉田一さんが新聞で記事化したらしいです。

『司令もまた、可愛いわが子の腕白ぶりでも思い出したふうに目を細めていた。
「昨日だったら面白い写真が撮れたんだがね。上海で樫村のやった片翼帰還ほどではなかったが、まず特ダネだね」
残念がった司令の話は、昨日のモレスビー上空での空戦で、片翼のフラップを敵弾にもぎ取られた若い搭乗員が、いまにも分解しそうな飛行機で、スタンレー山脈を越え、あえぐようにここまで帰り、フラップなしで立派に着陸した沈着な技量を讃える話だった。
私はさっそくその飛行機を見にいってみた。なるほどフラップどころか翼の四分の一も素ッ飛ばされている。傍らにいた整備員に、この搭乗員を呼んでもらうと、まだ子どものように若い新井三飛曹が、面映ゆそうにはにかんでやってきた。
飛行機の前に立たして写真を撮り、彼の姫路の住所をメモすると、
「こんなことが新聞に出るのですか」と目を見張った。
「多分ね」と私が答えると、
「じゃさっそく、家に手紙を出します。みんなで新聞を見るように・・・・」
はじめて彼の顔に押さえ切れぬ喜びの色が浮かび、額から両頬にかけて、派手に吹き出たにきびが、いっそう赤みを帯びてきた。そして、「帰ります」と、上官にでもするように、カチンと飛行靴の踵を合わせ、眉間までまっすぐな敬礼をして走り去って行った。
この可憐な紅顔の少年搭乗員も、それから間もなくソロモン海にはかなく消えてしまったが、その後私は、姫路の彼の父から一通の手紙を受け取った。
その文面のどこにも、子どもの戦死に関していささかの悔やみの色もみせてはいなかったが、ただ私の撮った写真を一枚送ってくれぬか、立派に死んだ子どもの形見とし、また子孫に残して誇りにもしたい、といった意味の文意がしたためられていた』
                         吉田一『サムライ零戦記者』光人社NF文庫

たぶん、この写真は吉田さんが撮って新聞に載せた写真ではないと思うんですよね。
この写真の新井さんはちょっと斜めを向いていて、写真自体もピンボケな感じです。
吉田さんは真正面からちゃんと撮っているんじゃないかと。
第三者が、傍から撮影の様子を撮ったものが残っているんじゃないかと想像しています。







『日本海軍艦上爆撃機 彗星  愛機とともに』に掲載されていた出撃直前の遠藤秋章さん。

すでに操縦席には中津留大尉、偵察席には宇垣長官が乗り込んでいるところに、一斗缶を抱えて翼の上を歩いている遠藤飛曹長。
この一斗缶をイス代わりに宇垣長官の足の間に入れたんでしょうね、そこに乗り込んで出撃していったそうです。

この写真の遠藤さん、鉢巻きを巻いているのがわかります。




※画像は9期生ご遺族ご提供