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9期 実施部隊の搭乗機機番号2017年09月08日 10時05分21秒

※1421追記しました

「愛機」という言い方をよくしますが、何人かの搭乗員さんに聞いたところ、

「搭乗機は特に決まっていなかった」

と言われることが多いです。

隊長(分隊長)標識?が入った機体もあるので、必ずしも「どれでもいい」というわけではなく、もしかしたら人(立場)によっては固定機があったのかもしれません。





9期生の場合、数人ですが、使用した搭乗機の機番号がわかっている人がいます。

池田和義さん
33-207号機

33空の99艦爆です。
そこらへんにあった機体と適当にツーショットを取ったのではなく、自分が搭乗した飛行機と一緒に撮ったのではないかと思っています。

池田さんはもう1機、搭乗機かな?という機体と一緒に写った写真があります(機番号がわかる分で)。
カウリングの下に「8」。
33空の208号機でしょうか。
池田さんは17年7月に35空に転勤になっているので、ほんの少しですが35空の可能性も。これだけではたしかなことはわかりません。

そもそも、機番号だけではなく、9期生が実施部隊に出てから自分の搭乗機と一緒に写った写真ってほとんどないです。
ですから、池田さんの写真は9期的には超貴重。


他に搭乗機の機番号がわかっている人。

嶺岸友三郎さん
機種がわからないですが艦爆です。サヘ211号機
飛練(中攻操)を卒業したあと、艦爆に転科するために佐伯空で訓練中でした。
機体の故障により不時着殉職。そのときの機番号です。

余談です。
この機番号を見て「あれ?」と思いました。
わたしは大分の佐伯は「さいき」だと思っていました。たぶん「さいき」。
でも、海軍の基地としては「さえきくう」だったのかな?
前に、「美幌空」も、地名では「びほろ」だけど海軍では「みほろくう」だと教えてもらったことがありました。へえー。




森田勝さん。
零戦21型 X-107号機
これは17年1月21日のケンダリー攻撃時の機体で、被弾して左翼の翼端(ピトー管より外側ぐらい)をもがれた状態で基地に帰ってきたあと、その機体と森田さんが記念写真を撮ったようで、写真が残っています。
『日本陸海軍航空英雄列伝』によると、森田さんはこの行動で特別善行章を上申してもらったということですが、直後(2月3日)に戦死されているので、この話が実現したのかどうか・・・・わたしは把握していません。




村田耕一さん。
99艦爆。たぶん35-202号機だろうと。
17年2月19日、戦地に移動中、台湾の山に激突して殉職されたときの機番号です。
戦後に、当時の35空整備長・十河義郎さんが書かれた手記に、遭難機全機の搭乗員と機番号が記載されてます。村田さんのところには「202」と書かれています。
整備の人なので、何かそういう資料をお持ちだったのかもしれません。





都築国雄さん。
99艦爆。33-205号機
17年3月3日、戦死されたときの機番号です。




笠井繁雄さん。
95水偵。R-18号機
聖川丸。サラモア沖で戦死されたときの機番号です。




中尾鶴蔵さん
零式1号水上偵察機 オミ5号機
大湊空、17年3月22日、遭難時の機番号です。
その後、4月22日になって戦死認定。




後藤龍助さん。
零戦21型。V-152号機
これがよくわからんのですが、17年4月17日にモレスビー攻撃時に被弾、ラエ帰着時に不時着大破した後藤機がV-152号機ではないかと『台南海軍航空隊 【ニューギニア戦線篇】』に書いてありました。
ちなみに17日の「被弾」は撃った側の報告書が残っていて、本にはそのときの状況が詳細に載っていました。撃たれている零戦に知っている人(?)が乗っていると思いながら読むととても嫌な気分になります。
このとき後藤さんは大怪我をしたようで、このあと2か月以上搭乗記録がありません。
大破したVー152号機はそのままラエに放置され、18年9月に連合軍に鹵獲されたそうです。




中門清司さん。
一式陸攻。
751空はたまに行動調書に機番号の記載があり、18年11月11日敵艦隊攻撃時は「312」、翌11月12日の第4次ブーゲンビル島沖航空戦時(戦死時)は「309」と記載されています。
佐藤暢彦さんの『一式陸攻戦史』に751空の一式だとして「Z2-」の機番号の写真が掲載されています。
ということは中門さんの機体も「Z2-312号機」「Z2-309号機」ということでしょうか。




石井三郎さん。
同じく751空。
18年11月16日、「312」号機。
たぶんZ2-312号機。中門さんが11月11日に搭乗した機体です。
石井さんが行方不明というか未帰還になったときの機体です。
公式にはこの日戦死したことになっていますが、実際に亡くなられたのはこの日ではありません。




松沢正二さん。
彗星11型。鷹-23号機
19年1月25日、遭難殉職時の機番号です。




益田増雄さん。
吉野泰貴さんの『日本海軍艦上爆撃機 彗星  愛機とともに』に523空時代の編制表がいくつか出ていました。
19年2月22日 サイパン―テニアン移動時  鷹-12号機
19年2月23日 索敵攻撃時           鷹-12号機
19年3月30日 パラオ沖海戦索敵攻撃    鷹-34号機 戦死
いずれもペアの操縦員は兵69期の大石将人中尉(3月15日に大尉)なので、もしかしたら鷹-12号機が固定機だったのかもしれません。2月23日の索敵攻撃時に鷹-12号機は発動機不調でサイパンに不時着し、一時間後に敵戦闘機の銃撃を受け炎上したとか。




高橋兼春さん。
一式陸攻。951空の361号機
19年4月12日の戦死時の搭乗機です。
951空の機番号がどう表記されていたのか、わたしは不勉強で知りません。




遠藤秋章さん。
701-122号機
みなさんご存知かと思いますが、20年8月15日、玉音放送のあとで、大分基地から沖縄に向け発進した彗星11機のうちの1機。

遠藤さんは指揮官・中津留達雄大尉(兵70期)の偵察員でした。その偵察席に宇垣長官が乗り込みました。彗星は操偵2人乗りです。残留を言い渡されたにもかかわらず、一斗缶を狭い偵察席に持ちこみ、無理矢理宇垣さんの膝の間に同乗して出撃した遠藤飛曹長。そのときの様子(写真)が上記・吉野さんの本に掲載されています。

予科練に入った直後はつらさのあまり「5年で海軍をやめて松山に帰りたい」と泣きごとを言っていた遠藤練習生が、長官に降りろと言われたにもかかわらず、無理矢理同乗して出撃して行ったのです。




※画像は9期生ご遺族ご提供。
本文中に挙げた書籍・手記、行動調書など参照。Kさんご教示。