倶楽部にて 偵察 ― 2017年09月09日 10時47分05秒
前に一度出しているのですが。
写っている個人に関しては書いていなかったと思うので、もう一度。
予科練の卒業アルバムに掲載されていた、3学年時の倶楽部での写真だと思われます。
15年夏。霞ヶ浦航空隊時代。
写っているのは偵察専修生たち。

後方にいる人たちが暗くて顔が見えない&前の人たちも笑顔 ということで、かなり難易度が高い写真です。
前列の人たちはまだわかりやすいです。はっきり写っているので。
左から。

村上守司さん

中尾鶴蔵さん

遠藤秋章さん?
全然自信がないです。
遠藤さんって、笑ったらこんなお顔なんだろうか?

岡本清見さん

平山繁樹さん

岡吉郎さん

仲野修さん

牛澤四郎さん
後列はわかる人だけ。

左から3人目かな?
堂前清作さん

岡本さんの後ろで中腰ぐらいの姿勢。
兼藤二郎さん

アコーディオンみたいな楽器を持っている。
篠原藤市さん
最初、これは3学年の班だろう、と思っていたのですが、いまは「ちょっとわからない」という感じになっています。
兼藤さんがね。
藤原国雄さんが持っていた3学年の班写真(土浦海軍航空隊)にも写っているんですよ。
これは隊内で撮られていて教員が一緒に写っているので、こっちのほうが班写真の可能性が高いです。
この倶楽部写真と、藤原さんの3学年班写真で、両方に写っているのは現時点では兼藤さんだけです。他はかぶっていません。
わたしとしては倶楽部は班ごとか組ごととか分隊ごととか、そういう単位で割り当てられていると思っているので、兼藤さんが写っているということで、「班ではなく組の倶楽部かも? それとも偵察分隊の倶楽部なのか?」ぐらいの漠然とした感じになっています。
おそらく操縦(分隊)と偵察(分隊)は同じクラブは使ってないだろう、と。
みんな、楽しそうですよね。
これも元写真が絶対にあるはず。
元写真で見ればもう少しわかるんじゃないかという気もします。
そのうち出てくると期待して。
※画像は9期生ご遺族ご提供
9期 搭乗機と ― 2017年09月09日 14時00分20秒
9期生が実施部隊に出てから搭乗機と一緒に写っている写真ってほとんどないと書きましたが、まったくなくはありません。
池田さんの写真は先日出した以外にもあります。


めっちゃエエ写真です。
あとは本に掲載されていたものや掲載許可をもらっていない写真なので、略図化してみました。
こんな感じというのがわかる程度で。

森田勝さんと左翼端がもがれたX-107号機(3空)。
『日本陸海軍航空英雄列伝』に写真が掲載されています。
ピトー管から先がガバッともっていかれていますが、これで飛んで帰って来たらしいです。


新井正美さん。
雄翔館に写真があります。
台南空時代、モレスビー攻撃で片翼・・・・なんかほとんど持って行かれている感じなんですが・・・・
いったいどうなっているのかよくわからないほど破損したまま山越えして戻って来たんですよ、零戦、スゴすぎ! 新井さんもすごいぞ!
図では省略していますが、もがれている部分からはコード類が垂れ下がっています。
つーか、よく脚が残っていたなァ。
これで無事に着陸していますからね。

吉田一さんが新聞で記事化したらしいです。
『司令もまた、可愛いわが子の腕白ぶりでも思い出したふうに目を細めていた。
「昨日だったら面白い写真が撮れたんだがね。上海で樫村のやった片翼帰還ほどではなかったが、まず特ダネだね」
残念がった司令の話は、昨日のモレスビー上空での空戦で、片翼のフラップを敵弾にもぎ取られた若い搭乗員が、いまにも分解しそうな飛行機で、スタンレー山脈を越え、あえぐようにここまで帰り、フラップなしで立派に着陸した沈着な技量を讃える話だった。
私はさっそくその飛行機を見にいってみた。なるほどフラップどころか翼の四分の一も素ッ飛ばされている。傍らにいた整備員に、この搭乗員を呼んでもらうと、まだ子どものように若い新井三飛曹が、面映ゆそうにはにかんでやってきた。
飛行機の前に立たして写真を撮り、彼の姫路の住所をメモすると、
「こんなことが新聞に出るのですか」と目を見張った。
「多分ね」と私が答えると、
「じゃさっそく、家に手紙を出します。みんなで新聞を見るように・・・・」
はじめて彼の顔に押さえ切れぬ喜びの色が浮かび、額から両頬にかけて、派手に吹き出たにきびが、いっそう赤みを帯びてきた。そして、「帰ります」と、上官にでもするように、カチンと飛行靴の踵を合わせ、眉間までまっすぐな敬礼をして走り去って行った。
この可憐な紅顔の少年搭乗員も、それから間もなくソロモン海にはかなく消えてしまったが、その後私は、姫路の彼の父から一通の手紙を受け取った。
その文面のどこにも、子どもの戦死に関していささかの悔やみの色もみせてはいなかったが、ただ私の撮った写真を一枚送ってくれぬか、立派に死んだ子どもの形見とし、また子孫に残して誇りにもしたい、といった意味の文意がしたためられていた』
吉田一『サムライ零戦記者』光人社NF文庫
「昨日だったら面白い写真が撮れたんだがね。上海で樫村のやった片翼帰還ほどではなかったが、まず特ダネだね」
残念がった司令の話は、昨日のモレスビー上空での空戦で、片翼のフラップを敵弾にもぎ取られた若い搭乗員が、いまにも分解しそうな飛行機で、スタンレー山脈を越え、あえぐようにここまで帰り、フラップなしで立派に着陸した沈着な技量を讃える話だった。
私はさっそくその飛行機を見にいってみた。なるほどフラップどころか翼の四分の一も素ッ飛ばされている。傍らにいた整備員に、この搭乗員を呼んでもらうと、まだ子どものように若い新井三飛曹が、面映ゆそうにはにかんでやってきた。
飛行機の前に立たして写真を撮り、彼の姫路の住所をメモすると、
「こんなことが新聞に出るのですか」と目を見張った。
「多分ね」と私が答えると、
「じゃさっそく、家に手紙を出します。みんなで新聞を見るように・・・・」
はじめて彼の顔に押さえ切れぬ喜びの色が浮かび、額から両頬にかけて、派手に吹き出たにきびが、いっそう赤みを帯びてきた。そして、「帰ります」と、上官にでもするように、カチンと飛行靴の踵を合わせ、眉間までまっすぐな敬礼をして走り去って行った。
この可憐な紅顔の少年搭乗員も、それから間もなくソロモン海にはかなく消えてしまったが、その後私は、姫路の彼の父から一通の手紙を受け取った。
その文面のどこにも、子どもの戦死に関していささかの悔やみの色もみせてはいなかったが、ただ私の撮った写真を一枚送ってくれぬか、立派に死んだ子どもの形見とし、また子孫に残して誇りにもしたい、といった意味の文意がしたためられていた』
吉田一『サムライ零戦記者』光人社NF文庫
たぶん、この写真は吉田さんが撮って新聞に載せた写真ではないと思うんですよね。
この写真の新井さんはちょっと斜めを向いていて、写真自体もピンボケな感じです。
吉田さんは真正面からちゃんと撮っているんじゃないかと。
第三者が、傍から撮影の様子を撮ったものが残っているんじゃないかと想像しています。

『日本海軍艦上爆撃機 彗星 愛機とともに』に掲載されていた出撃直前の遠藤秋章さん。
すでに操縦席には中津留大尉、偵察席には宇垣長官が乗り込んでいるところに、一斗缶を抱えて翼の上を歩いている遠藤飛曹長。
この一斗缶をイス代わりに宇垣長官の足の間に入れたんでしょうね、そこに乗り込んで出撃していったそうです。
この写真の遠藤さん、鉢巻きを巻いているのがわかります。
※画像は9期生ご遺族ご提供
523空の「三重基地」 ― 2017年09月09日 14時30分22秒
訂正があります。
先日、松沢正二さんの殉職のことを書いたときに、伊丹から「三重基地」に向かっていたと書いたのですが。
その「三重基地」。
わたしはてっきり「三重海軍航空隊」のことだと思っていたのですが、昨日、吉野泰貴さんの『日本海軍艦上爆撃機 彗星 愛機とともに』を読んでいたら、
『なお523空は鈴鹿基地を三重基地と称しているがこれは通称で、三重海軍航空隊(予科練、予備学生などの地上訓練を担当)とは別物である』
という記載がありました。
というわけで、523空の資料に出てくる「三重基地」というのは鈴鹿のことらしいです。

松沢さんが向かっていたのは鈴鹿海軍航空隊。
伊丹―鈴鹿ルートで、東吉野村で遭難したということは、直線ルートの雲が厚く、迂回しようとして南にまわったということなのでしょうかね。