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吉村昭『陸奥爆沈』2011年04月15日 11時06分05秒

ロクロク感想文も書けないママですが、読み終わったので性懲りもなくまた・・・・。

陸奥が爆沈したことは、かすかに知っていました。
知っていましたが、本当に「聞いたことがある」って程度で、爆沈した、ということ以外にはほとんど知りませんでした。

自分の中で、陸奥のことがちょっと引っかかりだしたのは、去年の10月か11月頃、「ある甲飛11期生の消息を探しています、何か情報をお持ちじゃないですか」というコメントをいただいてからです。

残念ながら、わたしの周囲には甲飛11期出身の搭乗員の方はおられませんでした。
「そういえば、戦記を読んでいても甲飛11期はあまり見かけないなあ・・・・」
と、思いつつ、お尋ねのあった搭乗員さんを探すべく、知人からいただいていた予科練名簿を探してみました。
甲飛11期生。
「没年月日」が昭和18年6月8日の方がたくさん・・・・。
「戦死場所」は柱島泊地、理由は「殉職・陸奥爆沈」。

「6月8日だったのか・・・・」
自分の記念日に人がたくさん亡くなるような事件や事故があるのって、あまり気分のいいものじゃないですよね。
最近では大阪・池田の小学校での事件や、東京の有名電気街での通り魔事件もこの日に起こっています。
6月8日は、ママの誕生日であり、結婚(入籍)記念日でもあります。

陸奥まで沈んでいたのか・・・・と暗然としました。


探していた搭乗員さんは陸奥爆沈の災厄は免れていたようですが、結局、消息はつかめませんでした。

それからしばらくして、忘年会に参加するために松山まで遠征しました。その行きがけに、せっかくなので呉に寄って、海軍にゆかりにある場所を訪ねようと試みました。


到着した日は天気が悪く、画像がイマイチですが。
大和ミュージアム前の陸奥引き揚げ品。

陸奥・引き揚げ品

手前から、旗竿、主錨、フェアリーダー、主砲身、スクリュー・・・・(主舵がその向こうにあるはずですが、画像ではわからないですね・・・・)

翌朝、撮り直し。
陸奥・主砲身
主砲身は、4番主砲塔左砲。

陸奥の爆沈は3番主砲塔火薬庫で起こったようなので、そのすぐ隣の砲ということになります。


陸奥・主錨
主錨。

いまさらながら、『陸奥爆沈』を読んでから呉に行けばよかった・・・・と後悔。
本を読んだあとなら、きっと、この場所に立ったときの感慨もまた違ったものがあったはずです。

まだまだ書きたいことがいっぱいあるので、2部にわけることにします。
前半はここまで。

                                                 【つづく】

吉村昭『陸奥爆沈』 つづき2011年04月15日 14時10分31秒

自分の話ばかりで本の話を全然していませんでした。

本の内容。

話は、戦後20年以上経って、吉村さんが岩国の紀行文を書くために、瀬戸内海の続島という無人島を訪れたところから始まります。

そこは昭和18年6月8日に、柱島泊地で起こった陸奥爆沈の犠牲者たちを焼いた島だったのです。

その島を訪れたことがきっかけで、吉村さんは陸奥爆沈について調べはじめます。

細かいことは書きませんが、海軍がいかにして陸奥爆沈を隠し通そうとしたか、また、爆沈原因を探ることに心血を注いだか。
そして、爆沈原因が、どうやら犯罪発覚を恐れた一下士官の人為的放火の可能性があること・・・・にまで話が及んでいきます。

爆沈当初は、敵潜水艦や敵攻撃機による雷撃が疑われたものの、すぐに可能性は低いとされ、次には主砲三式弾※が疑いをかけられました。火薬庫の中で自然発火したというのです。

※「飛行中の航空機や陸上の目標を広範囲に捕捉して焼夷効果をあげることを目的に開発された砲弾です。敵航空機編隊の前方に向けて発射された弾丸が、調定時間が来ると爆発し、多数の焼夷性弾子が広がって目標を捕捉するようになっていました」(大和ミュージアム常設展示図録)

そのため、他艦に積んであった三式弾まで陸揚げされ、その開発者たちは針の筵状態になってしまいました。

大和ミュージアム・砲弾
大和ミュージアムの三式弾。赤いの。

やがて、三式弾に対する疑惑は晴れます。
実験を繰り返し、さらには三式弾が出す煙を陸奥生き残りの乗員に見せることによって、三式弾の疑いが晴れたのです。

残ったのは、人為的原因による爆発・・・・。

ここから、おそろしい実例がこれでもかと挙げられていきます。
陸奥爆沈に至るまでにも、海軍では人為的原因による火薬庫の爆発・未遂、またはその可能性のあるものが何件もあったというのです(爆沈しなかったものも含む)。

三笠 明治38年9月11日  兵員が火薬庫の中で隠れて飲酒中、引火?
磐手 明治39年11月2日  犯罪発覚のため自殺しようとした水兵による火薬庫放火未遂
松島 明治41年4月30日  進級の不満による兵員の放火の可能性?
三笠 大正元年10月3日   盗癖が発覚した精神異常?の兵員による放火?
日進 大正元年11月18日  周囲の自分の扱いに対する不満や進級の不満から下士官が放火
筑波 大正6年1月14日   窃盗が発覚し叱責を受けた兵の自殺的放火?
河内 大正7年7月12日   原因不明

結果としては爆沈して多くの犠牲者を出したものもあれば、放火直前に取り押さえて未遂に終わったものもあります。
しかし、放火の動機・・・・を考えると、なんとも・・・・暗澹たる気持ちになってしまいます。

(磐手は放火直前に犯人取り押さえ、日進は後日犯人が強盗殺人罪で逮捕されて、余罪として日進の放火を自供したため、犯人・動機は確定しているものと思われますが、他は「疑い」のようです)

そして、いよいよ陸奥爆沈の原因です。
疑惑は、一下士官に向けられました。
この下士官が衛兵伍長として夜間巡回しているときに、窃盗が頻発していたというのです。
目撃者も出て、いよいよこの下士官の疑惑が深まりました。
それとなく監視してみると、金遣いが異常に荒い。しかし、先輩が呼んで、それとなく盗難事件について気づいたことはないかと聞いてみてもシラを切る・・・・

そのうちこの窃盗事件のことは副長の耳にまで入ることとなり、大がかりな取り調べをすることになりました。
呉に停泊中の大和に置かれた第一艦隊司令部の高頼治法務大佐(陸奥に乗艦経験あり)に直接この下士官を取り調べてもらおうということになり、事件当日の18年6月8日朝、陸奥から呉に迎えが発ったのです。

そしてその日の正午過ぎ、陸奥は第3主砲塔付近から煙を上げて爆沈。

この下士官、爆沈後に潜水調査された居住区に、遺体はありませんでした。
どこからも見つからなかったそうです。

乗組員・乗艦実習中の予科練生併せて1474名中1121名殉職。
このとき助かった353名も、終戦まで生き延びられたのは100名。

                               ※日時・人数などは『陸奥爆沈』から引用。




最後に、陸奥爆沈に関わった海軍軍人の2人の夫人の戦後のことばを・・・・。


三式弾を開発した艦政本部第一部第二課の安井保門中佐夫人。
「本当にあの時は辛うございました。主人は『陸奥』ということは口にしませんでしたが、フネが沈んでその原因が三式弾だと疑惑をもたれているというのです。もしもその通りの結論になったら、おれは腹を切ると申すのです。私も覚悟しまして、あなたが腹を切る時には介錯をいたしますと言ったものです」


殉職した陸奥艦長・三好輝彦大佐夫人・近江さん。
「爆沈した前日、新たに『扶桑』の艦長さんとなられた鶴岡信道大佐が、『陸奥』に新任の挨拶に来られ、その答礼として爆沈日に三好が『扶桑』へ行ったそうです。鶴岡さんは三好に昼食を共にしようと引きとめたのだそうです、三好は、留守にもできぬからと『陸奥』にもどってあの事故にあったのです。私は、三好が『陸奥』にもどってくれて、本当によかったと思っています。もしも留守中にあんな事故が起きたら、三好も艦長として生きてはおられなかったでしょう。私がこのように遺族の方々に親しくさせていただけるのも、三好が事故当時『陸奥』にいてくれたからなのです」