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戦艦武蔵・・・・伊33潜・・・・2011年04月10日 14時58分24秒

『戦艦武蔵』、読み終わりました。

なんだか、いま、モヤモヤ・・・・っとしてますねん・・・・。

せっかく『戦艦武蔵』を読んだのだから、と、同じ吉村昭さんの『空白の戦記』も読みました。
吉村さんが書いた戦史小説の裏話・・・・みたいな短編集です。
”小説”と言っても、吉村さんのスタンスは、
『戦史小説を書く場合、むろん事実を忠実に追い、少しの誤りもおかさぬようにつとめた』(『戦史の証言者たち』あとがき)
ということなので、ヘンなフィクションは加わっていないはず。
そのために関係者に丹念な取材をされています。

その取材の裏話的短編集です。
『空白の戦記』の中に「軍艦と少年」という短編があり、これが『軍艦武蔵』本編とつながっているのです。
三菱の長崎造船所で極秘裏に建造されていた”二号艦”(のちの武蔵)の設計図紛失事件。
この事件の”犯人”である少年のその後・・・・について書かれた短編です。

かなりモヤモヤっとする話でした。


『戦史の証言者たち』にも武蔵関連のことが書かれていたので読みました。
史上初とも言うべき、巨大戦艦の進水に携わった三菱の大宮丈七技師との取材時のやりとり。


『戦艦武蔵』も、三菱の手から離れるまで・・・・造船所の技師や作業員たちの血のにじむような努力は読み応えありました。
無事に進水したときなど、なぜかわたしまで誇らしい気持ちに。


そこから軍艦として巣立っていった武蔵が・・・・不憫でなりません。

一大決戦の時のために重油をムダにしないよう温存され、「御殿」と陰口を叩かれていた武蔵。
輸送船では危なくて行けないため、陸軍兵や物資の輸送に使われる武蔵。
そして、最後、シブヤン海での戦い。
その身に敵機の集中攻撃を受け、激闘むなしく武蔵は沈んでしまったのですが、このとき艦と運命を共にした猪口艦長が副長に託した遺書にあることば。
「唯、本海戦に於て他の諸艦被害殆どなかりし事は誠にうれしく、何となく被害担当艦となり得たる感ありて、この点幾分慰めとなる」


猪口艦長、「この点幾分慰めとなる」と書かれているものの、やはり「被害担当艦」の前に差し込まれている「何となく」ということばが、猪口艦長自身も武蔵のこの運命に釈然としないものを感じていたのでは・・・・と思ってしまいました。
自ら望んで被害担当艦になったのではなく、気がついたら被害担当艦の立場だった・・・・。

何となく被害担当艦・・・・。
これが、世界一の戦艦として生を受けた武蔵の本懐だったのだろうか・・・・と、なんだか、とってもいたたまれない気持ちになりました。


そんなモヤモヤっとした気持ちのまま、『戦史の証言者たち』の目次を見ていたら、見たことのあるお名前が・・・・。

「伊号第三三潜水艦の沈没と浮揚」

という項に、
「沈没時に救助された乗組員二名中の一人 小西愛明氏の証言」

と。

あれ? 72期の方だなあ。最近、お名前、見たぞ。
何日か前、ブログに写真入りで会食時の写真が掲載されているのを見た覚えが・・・・。

さっそくその項も読んでみました。
昭和19年6月13日、伊予灘で急速潜航訓練中の伊33潜が浸水して沈没し、艦長以下乗組員102名が殉職した、というのです。
戦時中にこんな事故があったことも、戦後、この艦が引き揚げられたこともまったく知りませんでした。もちろん、小西さんがその経験者であったことも。

なにわ会のサイトに小西さんの手記も載っていたので併せて読みました。

丸太の切れ端一つが挟まったために弁が閉まらず浸水して沈没したとのこと。

これ読んで、またモヤモヤ・・・・っとしてしまいました。
丸太の切れ端で100余名が命を落としたのです。

さらに戦後の引き揚げ。
同じく海底から引き揚げられた紫電改には搭乗員の痕跡はありませんでしたが、こちらは浸水していない区画で、損傷の少ない乗組員の遺体が見つかったそうで。

その発見に関する諸々のことも、『戦史の証言者たち』には書かれています。
その区画で寝起きしていた岡田兵曹が、小西さんとともに救助されたおふたりのうちの一人。吉村さんは岡田さんにも取材されています。
また、引き揚げられたとき、サルベージ会社よりも先に艦内に入って写真を撮った記者がいて、その人にも取材されているのです。そのやりとりも載っていました。

これ読んで、ますますモヤモヤ・・・・っとしてしまいました。

すいません、いつものことですが全然感想になっていないですね。