乙9期 10期飛練 ― 2013年06月04日 10時33分02秒
15年11月30日に第九期飛行予科練習生を卒業。
翌12月1日から第十期飛行練習生となる。
操縦専修生は谷田部と筑波に。 ※全員陸上機操縦。水上機操縦は0。
翌12月1日から第十期飛行練習生となる。
操縦専修生は谷田部と筑波に。 ※全員陸上機操縦。水上機操縦は0。

飛練十期・谷田部

飛練十期・筑波
偵察専修生は全員鈴鹿へ。
16年5月31日 操縦専修生、練習機教程を修了。実用機教程へ。
大分(戦闘機)、宇佐(艦攻・艦爆)、大村(中攻)へ。
操縦専修生たちはこのあと大幅な機種入れ替えがあって多少ややこしいのですが、どう移動したかはほぼ把握しています。
偵察専修生は少し遅れて16年7月30日に実用機教程へ。
博多、大村。
偵察専修生をどういう基準で博多、大村にわけたか、把握できていません(自分が)。
偵察員であった藤代護さんは手記に、
「同期の偵察専修の百七名は、六十五名が大村空に、四十二名は水上機搭乗偵察員予定者として、博多空に配属された」
と書かれています。
これを読んで、
「博多の42名が水上機(飛行艇と艦載の小型水上機)で、大村の65名がそれ以外(艦上機・中攻)か」
と、ずっと思い込んでいました。
ところが、ある写真を目にして、「違う」ということに気づきました。
博多の卒業修業写真です。
その写真には、
「博多海軍航空隊、偵察専修43名は水上機教程を卒へ・・・・」
と書かれてあります。
藤代さん手記では42名、写真の添え書きでは43名。
これはいまは問題にしません。上のクラスから降りてきた人がいるかもしれないので。
この「水上機教程」と書かれた写真に、清水巧さん(艦攻・艦爆)、佐々木隆寿さん(艦攻)、坂田清一さん(艦爆)らしき人が写っていたのです。
ということは「水上機搭乗予定者」の中には、艦上機予定者も入っている?
博多・・・・水上機、艦上機
大村・・・・中攻
ということになるのでしょうか。
そもそも、どうしてわけて教育しているのか、ですが。
この方面に詳しい方(複数)に聞いてみたのですが、
「偵察員教育を機種でわける必要はないんじゃないか」
ということでした。
ある方は、単に教育施設のキャパシティの問題では?とも。
たしかに偵察員って、何にでも乗るんですよね。
9期生でいえば、開戦直後は加賀97艦攻の電信員をしていた西谷芳数さんが、戦死されたときは2式飛行艇でした。
これとは逆に、水上機から陸上機って方。
宮本一さん・・・・艦載水上機→銀河・彩雲
本間猛さん・・・・飛行艇→艦載水上機→彩雲
ただ、不思議といまのところ、中攻とその他を行き来した方は把握できていません。
やはり大村と博多は、中攻とその他でわけていたのかも。
まだ全員の全部の航空隊を把握しているわけではないので、今後、行き来した方が出てくる可能性はあります。
ちなみに前後の期ですが。
8期の金沢秀利さん(艦攻)の手記を読むと、飛練・鈴鹿のあと宇佐に移ったようです。
のちに「かくして延長教育を修業し、同期生は、水偵、九六陸攻、戦闘機、艦爆にと、それぞれ四散した」という記述が出てくるので、宇佐まで全員一緒だった可能性大です。
10期は、「とんぼ」という同期生会誌の生存偵察員の手記を参考にしたところ、ほとんどの方が、飛練は最初から最後まで鈴鹿だったと書かれています。
お一人、そののち中攻の偵察員講習を木更津で受けたと書かれている方がいました。
偵察専修生は全員鈴鹿へ。
16年5月31日 操縦専修生、練習機教程を修了。実用機教程へ。
大分(戦闘機)、宇佐(艦攻・艦爆)、大村(中攻)へ。
操縦専修生たちはこのあと大幅な機種入れ替えがあって多少ややこしいのですが、どう移動したかはほぼ把握しています。
偵察専修生は少し遅れて16年7月30日に実用機教程へ。
博多、大村。
偵察専修生をどういう基準で博多、大村にわけたか、把握できていません(自分が)。
偵察員であった藤代護さんは手記に、
「同期の偵察専修の百七名は、六十五名が大村空に、四十二名は水上機搭乗偵察員予定者として、博多空に配属された」
と書かれています。
これを読んで、
「博多の42名が水上機(飛行艇と艦載の小型水上機)で、大村の65名がそれ以外(艦上機・中攻)か」
と、ずっと思い込んでいました。
ところが、ある写真を目にして、「違う」ということに気づきました。
博多の卒業修業写真です。
その写真には、
「博多海軍航空隊、偵察専修43名は水上機教程を卒へ・・・・」
と書かれてあります。
藤代さん手記では42名、写真の添え書きでは43名。
これはいまは問題にしません。上のクラスから降りてきた人がいるかもしれないので。
この「水上機教程」と書かれた写真に、清水巧さん(艦攻・艦爆)、佐々木隆寿さん(艦攻)、坂田清一さん(艦爆)らしき人が写っていたのです。
ということは「水上機搭乗予定者」の中には、艦上機予定者も入っている?
博多・・・・水上機、艦上機
大村・・・・中攻
ということになるのでしょうか。
そもそも、どうしてわけて教育しているのか、ですが。
この方面に詳しい方(複数)に聞いてみたのですが、
「偵察員教育を機種でわける必要はないんじゃないか」
ということでした。
ある方は、単に教育施設のキャパシティの問題では?とも。
たしかに偵察員って、何にでも乗るんですよね。
9期生でいえば、開戦直後は加賀97艦攻の電信員をしていた西谷芳数さんが、戦死されたときは2式飛行艇でした。
これとは逆に、水上機から陸上機って方。
宮本一さん・・・・艦載水上機→銀河・彩雲
本間猛さん・・・・飛行艇→艦載水上機→彩雲
ただ、不思議といまのところ、中攻とその他を行き来した方は把握できていません。
やはり大村と博多は、中攻とその他でわけていたのかも。
まだ全員の全部の航空隊を把握しているわけではないので、今後、行き来した方が出てくる可能性はあります。
ちなみに前後の期ですが。
8期の金沢秀利さん(艦攻)の手記を読むと、飛練・鈴鹿のあと宇佐に移ったようです。
のちに「かくして延長教育を修業し、同期生は、水偵、九六陸攻、戦闘機、艦爆にと、それぞれ四散した」という記述が出てくるので、宇佐まで全員一緒だった可能性大です。
10期は、「とんぼ」という同期生会誌の生存偵察員の手記を参考にしたところ、ほとんどの方が、飛練は最初から最後まで鈴鹿だったと書かれています。
お一人、そののち中攻の偵察員講習を木更津で受けたと書かれている方がいました。
※画像は武田さん、Pさんご提供
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。