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平山繁樹さんの写真102020年02月12日 21時49分29秒

平山さんのアルバムにあったご家族写真。


台紙に書きこみはありませんでした。

小さな子どもさんたちが一緒なので、ご家族が平山さんがいる基地に面会に来たというよりは、平山さんがご実家に帰ったときに撮られたもの、と想像しています。

いつの写真かな?

平山さんの袖が写っていました。

んー、はっきり見えないぞー(´・ω・`)
でも飛行機は1機、縦にレイアウトされているように見えるんですが。3飛曹の階級章です。

これが9期生が実際に袖につけていた3飛曹の階級章です。
飛行機の主翼や尾翼の位置は平山さんの袖の図柄と一致しているような気がします。





ちなみに、平山さんの場合の、使用階級章の想定を図化してみました。
※丸型階級章の図は実際9期が袖につけていたものとは違います
丸いのは旧型、盾型のは新型です。17年11月1日に切り替わったそうです。
ちなみに帽章も。

17年10月31日~18年10月31日までの階級章は上の通りなんですが、2飛曹(11月1日からは1飛曹)に進級したのがちょうど南太平洋海戦の直後でトラック島だったろうと思うんです。
そこで進級日である10月31日にきっちりと階級章が支給されたのかどうか?
支給されたとして、丸いのが支給されたのか、盾型のが支給されたのか?
わたしはつかんでいません。わからないので、いちおう2種類ともあげておきました。

今回は写真の平山さんがつけている階級章の話なので、あれが「3飛曹」の階級章だとしたら、上のことは関係ないんですが。

話をすすめます。
平山さんが3飛曹時代の写真だとします。

進級したのは15年10月1日。
このころ平山さんは宇佐空で実用機の飛練中です。
10月31日に卒業し、加賀に配属。
島田さんの日記を読む限りでは博多卒の人たちは飛練を卒業した後はそのまま任地に向かっています。
実家に帰る日程的余裕はなかったと。たぶん宇佐も同じだったのでは。

そのまま休暇なしで11月の下旬には真珠湾に向け出港。

真珠湾後はどうだったか?

加賀の艦爆操縦員だった山川新作さんによると、12月18日に日本近海まで戻ってきた加賀を飛び立ち、佐伯航空隊に戻ってきたと書いています。
そして、
「休暇は年末から正月五日までもらい家郷に急いだ」
これは艦爆隊だけの話なのか、飛行機隊全体の話なのか。

艦攻隊の人の手記が手元にないので断言はできませんが、休暇をもらった可能性が高いんじゃないか、と。

その後、加賀はラバウル攻撃、ダーウィン攻撃、チラチャップ攻撃に向かいます。

で、山川さんによると、作戦を終えた加賀は佐世保に入港(wikiによると3月22日)、飛行機隊は館山を基地にして訓練に励んだということです。

平山さんは3月初のチラチャップ攻撃までは艦攻隊で出ていますが、ミッドウェイは艦爆で出ています。
偵察員は基本何でも乗る、って話なんですが、このときも山川さんと一緒に館山にいたと思っていいんでしょうかね。山川さんは「飛行機隊」という書き方をしているので、艦攻や戦闘機も一緒だったのかと思ったのですが、wikiには4月18日にドゥーリットル空襲があったときは加賀の戦闘機隊は木更津にいたって書いてあります。
戦闘機隊だけ別行動だったのか、最初は館山に一緒にいたけど、4月18日時点では木更津に移動していたのか、そこらへんはわたしはちょっとわかりません。

まあ、とにかく、この時期からミッドウェイに出撃するまで平山さんは内地にいたことはたしかでしょう。
ただし、実家に帰る休暇があったかどうかはわかりません。

ミッドウェイ後は内地に戻ってきたとしてもその時期にはもう写真のような格好ではないはずですので、夏季は検討対象から外します。




ということは、あの写真が撮られたのは17年の正月休暇の可能性が一番高いのではないか。

4月とか5月の可能性はほぼないと思っています。
平山さんの右に立っている和装のお嬢さんが上着を羽織っていますよね。

あと、同じ時の写真だろうというのがもう1枚ありまして。
一番上のお兄さんです。
こちらの写真ではコートを手にしています。

けっこう寒い時期なんじゃないかな。
子どもたちは割と軽装ですけどね(^^;)







一番右のお嬢さんなんですけどね。

のちに平山さんの奥さんになる方です。


息子さんのお話だと、お見合いじゃないかな、ということでした。

でも、平山さんの家のルーツと奥さんの家がどうも同じ地域らしく、もしかしたら、見合いをする前から(結婚の話がわく前から)顔見知りだったかもしれない、みたいな話もされていました。


この写真が17年正月の写真だとしたら、その頃にはすでに知り合いだったということですね。




※画像は9期生ご遺族ご提供
※平山さんは17年7月に加賀から瑞鶴に転勤されていますが、10月15日が瑞鶴の行動調書初出です。それまでどうされていたのかまったく把握できていないのですが、内地でコートを着る季節ではないだろうと思い、その時期の撮影の可能性は除外しました。

令和二年二月二日 橿原神宮2020年02月04日 13時27分18秒

瑞鶴の碑をお参りした後、北神門から本殿の方に行きました。


必ず写真を撮る北神門。
飛練10期、鈴鹿の偵察練習生たちが記念写真を撮った場所です。


海軍はあまり奈良には縁がないですから、そんな中、かれらが立ち寄ったとわかっている奈良公園や橿原神宮はわたしにとってはある意味”聖地”です。





拝殿の向こうに見えるお山が畝傍山です。

そういえば松本勝正さんのアルバムにこんな写真が貼られていました。
紀元二千六百年頌歌





ご朱印、いただきました。








桜井から見た夕焼け。
左手前の低い山は大和三山の一つ・耳成山。
向こうの山並みは葛城・金剛の山並み。
そのつらなりの右端は二上山。



画像は9期生ご遺族・ご家族ご提供

鹿屋空の一式陸攻2020年02月01日 23時25分08秒

今日は自分が「これは何だ?」と思ったことをつらつらと書き連ねたにすぎません。
読んで役に立つ話でもないので、お時間の無い方はスルーしてください。

何日もかけて書いたり消したり、追加したり修正したりをくり返しているので、文章のつじつまが合っていないところがあるかもしれません。







大澤さんの写真の中にこんな写真がありました。

わたしは初めて見たような気がするんですが。

手前に飛行隊の幹部らしき方々、その後ろに飛行服の搭乗員14名、さらにうしろに隊員らしき方々がずらずらと。

中央で一歩前に出ている人、先日検索して出てきた亀井凱夫大佐(3空司令)に似ているような気もします。

が。
人物にピントが合っていないんですよねー。
搭乗員たちもよくわかりません。
14名って何だろうな?
戦闘機の編制だろうか?
戦闘機3機×4小隊+陸偵1機(2名)で14名とか。
哨戒の直かな?

人はたくさん写っているんですが、残念ながらお顔は判然としません。
ピンぼけしているんです。

でも、中央の人物が亀井大佐だとしたら3空の写真なのかな?
大澤さんが所有していたものだし。

この整列は何かの祝祭日でしょうか。わからないですが。





人物はピンボケなんですが、なぜかずっーと向こうの方にピントが合っていてですね。

テントの向こうに一式陸攻11型の尾翼と主翼が見えているんです!
機番まで見えますぜ! 「K‐353」。
その右側にもちょっと方向を違えた尾翼の先端が見えています。テントの向こうに最低2機は駐機してあるようです。


Kですよ、K。Kと言えば鹿屋空。

佐藤暢彦さんの『一式陸攻戦史』に、
「(鹿屋空の一式陸攻の)垂直尾翼に横線1本が入った機体は2中隊機とされる」
という記述(写真のキャプション)がありました。


「おおっ! 鹿屋空の第2中隊の使用機なのか!」


あれ? 待てよ。
第2中隊?

前述の佐藤さんの本には「二中隊長の東大尉」という記述もあります。
東森隆大尉です。
わたし、この人のことを書いたような気がしていたのですが、ブログ内検索しても出てきません。
なんかさらっと知っている人のように書いているでしょう?
知っているんですよ、お名前は。
藤原国雄さん絡みです。
藤原さんがご両親にあてた直筆の遺書が残っているんですが(19年10月13日に戦死する直前ではない、もっと前のもの。鹿屋空から高雄空に転勤した際か?)、そこに東大尉のお名前が出てきます。
「自分をこの配置に付けて下されし東森隆大尉に深く御礼申し上げます」




佐藤さんの本に、鹿屋空の編制が出ています。

司令 藤吉直四郎大佐(兵44)
副長兼飛行長 入佐俊家少佐(兵52)
飛行隊長 宮内七三少佐(兵56)
1中隊長 鍋田美吉大尉(召予2)
2中隊長 東 森隆大尉(兵65)
3中隊長 壹岐春記大尉(兵62)
4中隊長 池田拡己大尉(兵65)
5中隊長 森田林次大尉(兵63)
6中隊長 田中武克大尉(兵62)

中隊一つ9機編制です。3機小隊×3。

開戦時、比島イバ飛行場を攻撃したのは4中隊、5中隊、6中隊。
マレー沖海戦に参加したのは1中隊、2中隊、3中隊です。




以前、鹿屋空の9期生のことを書いたときに、鹿屋空は「本隊」と「支隊」にわかれて行動していたと書いているんですが、その「本隊」にあたるのが1、2、3中隊、「支隊」にあたるのが4、5、6中隊です。



↑ここでは9期生の所属中隊を書いていませんが、うちわけはこんな感じ↓です。
<本隊>
1中隊(鍋田中隊)  (偵)新井誠二さん、川原与三郎さん、仲野修さん、鈴木光雄さん
2中隊(東中隊)   (偵)牛澤四郎さん、藤原国雄さん、高坂浪次さん、畑中嘉夫さん、
             (操)今村文三郎さん、鹿島長重郎さん、木下光三さん
3中隊(壹岐中隊)  (偵)三浦光雄さん、鈴木俊夫さん、小薬武さん(8期)、、岡本清見さん、篠原藤市さん

<支隊>
4中隊(池田中隊)  
5中隊(森田中隊)  (操)小林為雄さん、杉本栄さん
6中隊(田中中隊)  (操)谷口十七夫さん、中門清司さん 


もし、上の写真が3空と鹿屋空が一緒にいる写真だったらダバオかケンダリ―かな?と思うのですが、とすると一緒にいる鹿屋空は4、5、6中隊ということになります。

写っている鹿屋空の陸攻尾翼は拡大するとこんな感じです。左が機体前方になります。
垂直尾翼のマーキングを見てほしかったので、手を抜いて、機体尾部の窓は省略しています。ホントは格子状?窓になっていて機銃がついています。



もし、ダバオとかケンダリ―だったら、どうして本隊の2中隊機があるんだろう?
と不思議に思いました。


で、家にある本を探して、尾翼マーキングが写っている鹿屋空陸攻の写真を探してみました。
佐藤さんの解説にしたがって中隊別に出してみました。
※機番号は全部「K-353」になっていますが、写真に写っていた実際の機番号はイラストの右枠に書いてある番号です。スイマセン、イラスト手抜きしました。

横線1本は2中隊機と書いてあったのですが、横線1本にも2種類あって、やや下の方に横線1本(便宜上「2中隊A」と呼称)というタイプと、もっと上方に横線1本(便宜上「2中隊B」と呼称)というタイプがありました。
前縁に白線?が入っているタイプと入っていないタイプがあるみたいです。文林堂の『世界の傑作機59 一式陸上攻撃機』にはこの白線のことが「共通標識」と書かれているのですが、わたしにはこの「共通標識」の意味がわかりません。分類したらわかるかとも思ったのですが、上の通り、ありなしの違いはよくわかりません。

横線の位置も、だいたいこんな感じ、と適当に描いたので、実際はもっと厳密に位置が決まっているのかもしれません。

ちょっとサンプルが少ないですね。もっと集めないとなんとも。
当事者、関係者が「これはこういうことだよ」とご教示くださると一番いいのですが。



疑問があるんですが、この法則(線なし・・・1中隊、線1・・・2中隊、線2・・・3中隊、線3・・・4中隊)でいくと5中隊は線4本、6中隊は線5本ということになるのでしょうか? スペース的にどうなんでしょうね? 5中隊、6中隊の横線が何本あるのか、佐藤さんの本には出ていなかったように思いました。
うちにあった鹿屋空陸攻の写真の中にも、横線が4本、5本入った機体は見当たりませんでした。

何が言いたいかというと、上の写真に写っているK-353号機は線は1本だけれど、本当に2中隊の所属機なのか?
支隊の4、5、6中隊の所属機の可能性はないのか、ということです。


数字部分は「3○○」と決まっているように思えます。
3の次の数字が若い方、K-315とかK-322(上の図の2中隊A・横線下方タイプ)、ここらへんが2中隊機で、3の次の数字が「5」、K-353、K-357(2中隊B・横線上方タイプ)が5中隊か6中隊の所属ってことはないんでしょうかね。
となると近藤1飛曹撮影の機体が問題になるわけですが(^^;)

K‐357号機ですが、佐藤さんの本には2中隊の近藤義宣1飛曹撮影、ということで掲載されています。時期や場所は書かれていません。自分操縦の操縦席から僚機を撮ったということでしょうかね。
同じ写真が世界の傑作機の方にも出ていて、こちらのキャプションでは、「ガ島攻撃の帰途か?」として場所はソロモン、時期は17年9~10月となっています。
後者の場合、いったん内地に戻って再編した後の鹿屋空なので中隊編制もかわっているんじゃないか?(詳細に見ていませんが) その場合、当初の中隊標識がそのまま運用されていたのかは疑問です。


ふつうに考えれば、1つの中隊は9機編制なのでたとえば1中隊だったら301~309で足りるわけです。
が、実際残っている写真は301~312まであります。300から314まであったのか? 
しかし日々戦闘をしている間に、喪失機が出る場合もあります。
喪失機の機番号を使いまわすということであれば、1中隊9機分の番号を用意しておけば足ります。
が、喪失機の機番号は欠番にする、というのであれば、1中隊の機番号として300?~314まで用意しておくことは理解できます。
ここでなぜ1中隊の最大数字を「314」と仮定したかというと、佐藤さんの本に「315」号機が2中隊東大尉搭乗機として紹介されていたからです。それを信じる前提で、1中隊機は314まで、と。
同じように、
2中隊機は315~329。
3中隊機は330~344。
4中隊機は345~359。
5中隊機は360~374。
6中隊機は375~389。
喪失を見込んで15機分の番号なら6中隊で90個。300番台でたります。



この想像を踏まえて整理し直すとこんな感じです。


この表で「5中隊」としているマーキングの鹿屋空機が存在するのではないか?

上の横線が若干下気味なのが本隊(2・3中隊)、上気味(尾翼後縁上部の屈曲部に合わせて引かれている)なのが支隊(4~6中隊)ってことはないんでしょうかね?

4中隊機では?と疑っているK‐357号機を、開戦のころ2中隊員だった近藤1飛曹が撮影している点がやっぱり引っかかりますが。


しかし、この説、パッと見て「3中隊機だ!」「5中隊機だ!」とわからないのが難点ですよ(^^;)
二つを見比べるぐらいしてやっと、「あ、上のラインの位置が微妙に違うのか」ってわかるようじゃあ、中隊識別の役に立ちませんよね。





いま、巖谷二三男さんの『雷撃隊、出撃せよ!』文春文庫を見返していて、わたしに都合のいい記述を見つけました!!
K‐310号機の写真のキャプションです。巖谷さんによると、
『鹿屋空第1中隊所属の一式陸攻。K‐310の機体は、従来マレー沖海戦に於ける第3中隊長壹岐春記大尉の搭乗機、といわれてきたが、当日大尉が搭乗したのは331号機だったことが航空記録から判明している』
この本、壹岐さんの監修です。
3中隊長壹岐大尉の搭乗機が331号機! わたしが想定した3中隊機の番号の範囲に入っています。331号機の写真はないのかーい!? 横線が見たいー!




以上のことは思いきり想像まじりで書いているんで、もし、「実際はこうだ!」をご存じの方がいたらぜひご教示いただきたいです。

マーキングの実際をご存じなくても、上に出した以外の鹿屋空の機番号の写真を見たことがあるって方がいたら、ぜひ情報をいただきたいです。






時期もはっきりしないし、中央の軍人さんが本当に3空の亀井司令かどうかもわからないので、「ダバオかケンダリ―」というところも崩れるかもしれません。


何かわからないかなーとつらつら考えていて、こういう可能性はないだろうか、という程度の話です。なので引用や転載はしないでね(笑)

結果、確たることは何もわからなかったけれど、この写真のことを調べようとして鹿屋空は6中隊あって、尾翼を見ればどこの中隊所属かわかる、ということを学んだぐらいの感じでしょうか(^^;)






飛行機、まだ写っています。
「おおー! 零戦だ!」

ちょうどのところ(尾翼)にテントが重なっていて機番が見えねー!( ;∀;)

3空の所属機かどうかわかりません。



これも飛行機でしょうか?
画像の右端。
主翼の端部が写っているんじゃないかな?



結局、この写真に写っているもので動かぬ事実は鹿屋空の「K‐353」号機だけです。
それが零戦と一緒に写っている、ということもまあ事実として認定していいですかね。

はて、どこの戦闘機隊のものなのか? 場所は? 時期は?
うーん(^^;)





※画像は大澤さんご家族ご提供
参考文献
佐藤暢彦『一式陸攻戦史』潮書房光人社
『世界の傑作機59 1式陸上攻撃機』文林堂
巖谷二三男『雷撃隊、出撃せよ!』文春文庫

若草山の山焼き2020年01月25日 21時58分08秒

みなさん、無性に天丼が食べたくなることってないですか?

わたしはあります。

こんなに「油、アカン、油、アカン」言うてるのに(´・ω・`)




夜、天丼を食べに行きました。

移動中の車の中から、若草山の山焼きが見えました。

「若草山 山焼き」で画像検索したら豪華絢爛な山焼き画像がたくさん出てきますが、実際は真っ暗な中にオレンジの線みたいなのが見えるだけで「え?」って感じです(笑)

しかし今年の山焼きはけっこう派手に見えました。
ここ数日、天気はよくなかったのにな。




これ去年の11月にパイロットの友だちと若草山に登ったときの画像。不倫じゃないよ(-ω-)/
久し振りに会って山登りって、めっちゃ健康的じゃないですか!(・∀・)



飛練10期、偵察、鈴鹿の卒アルにも若草山らしき写真がありました。「奈良慰安行軍」。
宝探しをしたらしいです。
取り巻いている中に若い女性たちの姿も見えます。
飛練生たち、ドキドキじゃないでしょうか(*´ω`*)



たぶん、これ、平山さんですね。
お孫さん、平山さんにゆかりの地に行ってみたいと言われていたので、ここも候補にしておいてください♪


これは若草山一重目という場所です。
飛練10期生たちが座り込んでいるのは赤で囲んでいるあたりではないでしょうか。
また登って確かめてこようかな。






で。
天丼です。
野菜天丼。

具は、オクラ、ミニトマト、ナス、ピーマン、カボチャ、レンコン、マイタケでした。
500円しなかったです。




車じゃないと行けないような場所だったんですが、なぜか春海の中学の同級生がここで天ぷらを食べていたというね(笑)
近所の子です(笑)(笑)


※画像は9期生ご家族ご提供

平山繁樹さんの写真92020年01月24日 23時19分40秒

平山さんのアルバムの中にこんな写真がありました。



えっ-!? どういうシチュエーション?(困惑)

飛行服の人が娑婆の人と一緒に写真に写っているって、けっこうレアだと思います。

あ、”娑婆の人”はお兄さんです。一番上のお兄さんだそうです。

平山さんはこれ、コスプレではなく自前の飛行服じゃないかと思うんですよねえ。
どこだろう?
わかりません。


もっと面白い写真があったんですよ。


たぶん上の写真と同じとき。
お兄さんですぜ!!w( ̄▽ ̄;)w
海軍航空隊コスプレです。
たぶん”着付け”は平山さんがしてあげたのでしょう。救命胴衣の紐はちゃんと始末してあります。さすがだ。


こっちは平山さんみたい。
マフラーの巻き方と飛行帽の耳当てが一番上の写真と違うんですよね。
ツーショット→お兄さん→平山さん の順で撮ったのかな? 逆かな? 平山さん→お兄さん→ツーショット かも?
どちらにしても間でお兄さんに装備を着せていますね。


隊外なのかな?
隊内でこんなことが可能なのか?



これらの写真、お兄さんがコスプレしているってだけで十分おもしろい写真なのですが、もっとおもしろいものが写っていました。

平山さんがはいている飛行靴!
「EⅡ爆 平山一飛曹」って書いてあります。
はっきり、書いてあります!


撮影時期が絞れる!(・∀・)


「EⅡ」→瑞鶴
「爆」→艦爆隊
のことです。

大日本絵画『日本海軍機塗装図ハンドブック[零戦篇]』によると瑞鶴飛行機隊は16年9月から17年12月まで「EⅡ」を使用していたんだとか。(それ以降は「AⅠ‐1」)

平山さんは17年7月に瑞鶴に転勤しているはずなのですが、その後しばらく行動調書にお名前が出てこず、南太平洋海戦の直前ぐらいに艦爆偵察員としてお名前が出てきます。
南太平洋海戦は無事生還し、11月末ごろに横須賀航空隊(特練)に転勤。
さらに、「一飛曹」という階級です。
9期は何ごともなければ昭和17年10月31日に2飛曹に進級しています。これは「進級」です。
翌日の11月1日に階級の名称変更で2飛曹は「1飛曹」という名称になりました。これは「進級」ではありません。「名称変更」です。

「瑞鶴で一飛曹」の期間は18年6月~10月までの期間も該当するのですが、その期間にはおそらく「EⅡ」はすでに使われていないですね。
平山さんが特練を終えて瑞鶴に復帰した18年6月という時期が、瑞鶴に二式艦偵が配備された時期と重なるらしく(Yさんご教示)、平山さんの復帰先は艦爆隊ではなく艦偵隊だったのではと思われます(確たる証拠はないですが)。




というわけで、平山さんが「EⅡ爆 平山一飛曹」である期間は17年11月1日~28日までの間ということになります。
それが上の写真の撮影期間であろう、と。


南太平洋海戦後の瑞鶴飛行機隊がどこに戻って来たのか。

戦闘機隊は11月、鹿屋にいたらしい、という情報提供をいただきました。
艦爆隊も鹿屋にいたのかなあ?
鹿屋だったら、福岡のお兄さんも面会に行きやすいかも。

平山さんが鹿屋にいた、という話は息子さんからもうかがいました。

わたしはてっきり平山さんが鹿屋にいたのはK501時代、台湾沖出撃直前の話かと思って聞いていたのですが、もしかしたら瑞鶴時代にも鹿屋にいたのかもしれません。


息子さん、お母さん(平山さんの奥さん)からいろいろ話を聞かれているみたいです。
ミッドウェイで加賀が沈んだ後、海上で救助された話とか。
デート中の話とか。
お母さんが鹿屋の平山さんのもとに向かったときの話とか。



※画像は平山さんご遺族ご提供