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乙8期 花田芳一さん2022年04月22日 23時34分44秒

蒼龍12分隊はちょっと待ってください。
他の用事が入って少し横に置いています。今回は集中力云々の問題ではありません。

12分隊に関連して。

海軍の至宝・佐藤-金井ペアの電信員の乙8期の花田芳一さん。
9期坂田清一さんの新潟県出身者集合写真に写っているはずだよなー、どの人かなー、とずっと気になっていました、
卒アル写真でお顔がわかったので探してみました。
たぶんこの人。
「たぶん」なのは、いちおう新潟8期生を全員当てはめてみたのですが、一部、写真のお顔部分に損傷があり全部が見えない人がいます。自分としてはたぶん間違っていないのではと思っているのですが、そういう状態で照合したので「たぶん」と書いています。


蒼龍12分隊宴会写真にも写っているはず。
たぶんこの人ではないか。

こちらの「たぶん」は、わからない人が多すぎて自信がないからです。

他に花田さんらしい人はいないので、この人だと思うのですが・・・・。




16年12月22日  蒼龍  ウェーク島攻撃



このペアの最期の様子は、同じ中隊にいて目撃してしまったらしい島田さんの日記に描写があります。
いろいろと思うところがあって、何度読んでも涙が出てしまいます。


※画像は9期生ご遺族ご提供

たぶん瑞鶴派遣艦攻隊2022年04月13日 14時54分08秒

いつもお世話になっている知人の方から、乙15、飛練29期(筑波空)の搭乗員の写真を見せていただきました。

いまから思うとすごい不思議な話なのですが、最初聞いたときは、
「乙15は知っている搭乗員さんはいないけど、もしかしたら飛練の教員に9期生がいるかもしれないので見せていただきたいです」
という感じで返事をしました。

その後で、写真の主の名前を教えてもらいました。
その名前を見たとき、我が目を疑いました。
「あっ!?(;゚Д゚)」
マジで声出ました。

ウソやろ、と思ったんです。

数ヶ月前に、いつものKさんとメールをしていました。
話題は9期生のことです。そのとき、どういうわけかKさんが、
「海軍の搭乗員でふたごがいる」
みたいな話題を出して、おふたりのことを教えてくださったんです。
9期生とはまったく無関係の人たち。

今回の写真の主・乙15出身の搭乗員の方がまさにそのふたごのお兄さんの方だったんです。


いやあ、もうびっくりしたのなんのって。

こんなことある!?って思いました。

Kさん情報ではお二人とも戦死されているとかで。

今日はとりあえず名前は出しません。
(出すかどうかは今後考えます)
「お兄さん」「弟さん」で説明しますね。

知人の方が写真を送ってきてくださいました。
お兄さんのお名前のあるアルバムです。
ふたごのツーショットはあるかなと思って探しましたが、見当たりませんでした。
本人のお顔はほぼつかめました。

9期生も写っていました。
お兄さんは戦闘機なのですが、大分空の飛練修業記念写真らしき集合写真の教員列に川崎助男さんが写っていました。
「助さん!( ;∀;)」
9期生を見つけるとうれしいです。知っている人と再会したみたいで。
今日はそれが本題ではないので、川崎さんはまた今度。


今日の本題はこれです↓。
実施部隊らしき集合写真。

本人は?
わたしの認識が間違っていなければたぶん、これ。

前に藤本速雄さんの写真で、マリアナ沖海戦前の訓練地での集合写真を見たのですが、同じような雰囲気でした。
「601空か!?」
と思って、戦闘機搭乗員に詳しい知人に見てもらいました。具体的には、
「これ、〇〇さんじゃないですか?」
と601空のベテラン搭乗員を名指しで聞いたのですが、
「違うようにある」
との返事。
「(仕事なので)夜ゆっくり見ますね」
みたいな感じで今日の日中に突入。

「そうだ。Yさんにも聞いてみよう」
こういうのにめちゃ詳しいと思われるYさんにも写真を見てもらおうと送ってみました。

「この写真、見たことないですか?」


送った後で、弟さんの方も気になり始めて、弟さんが所属していた18年11月ごろの瑞鶴の行動調書を見始めました。

「あれ?」

18年末から19年初の瑞鶴って、先日ブログに書いたばかりの8期の根食貞憲さんや偵練38期の森本敬司さんがいらしたみたいなんですよね。
もっというと、7期の大迫留彦さんや大江道大さんのお名前もありました。
「みんないるやん」
と思い、集合写真を見返してみたところ・・・・。

いらっしゃるんですがっ!?(;゚Д゚)




偵練38期 森本敬司さん


7期 大迫留彦さん

大迫さん飛練時代


7期 大江道大さん

大江さん予科練時代



「待て待てー! 瑞鶴の艦攻隊ということは写っているのは兄じゃなく弟の方か!」
どうやら艦攻操縦員の弟さんの方らしい。

で、アルバムを見返してみたんですが。どうも、兄と弟の写真が書き込みなしでバラバラに貼られているっぽい(^^;)
しかも、激似。
わたしはよく「他人の空似」をやらかしてしまうのですが、これは他人ではなくふたご。
空似ではなく、本当に瓜二つなんですよ。

わたし、高校のときに同じクラスに一卵性のふたごの男子がいましたが、ちゃんと区別はついていました。どっちかに好意を持っていて特別じろじろ見ていたとか、そういうわけじゃありません。
ふたごといっても何となく違うもの。
しかしね。今回のふたごさんたち、めっちゃ似ているんですよ。
どこで見分ければいいのっ!?

とりあえず、見分けるポイントを見つけたので(顔ではない)、それが写っているものに関しては「これはお兄さん」「これは弟さん」とフォルダーにわけています。別々にじっくり見て顔で見分けれられるようにします。




そうこうしているうちにYさんから返事がきました。

「拙著(『流星戦記』)の42ページに掲載している写真です」

「あああっー!?(;゚Д゚)」ですよ、ホントにもう。
その本、持っています。
すぐに見ました。ありました。穴があったら入りたいですorz
よりによってYさんに聞いてしまうなんて。
いや、Yさんに聞いてよかったです。

Yさん(イニシャルの必要はあるのか?)は、写真提供者の方から二航戦の集合写真と聞かれていたみたいですが、Yさん的には再考の必要ありと思われていたようで。
「ママさんの見解は?」
と聞かれたので、じつは瑞鶴の行動調書に・・・・という話をしたところ、今日のタイトルの返事が来た、と(^^;)
「たぶん瑞鶴派遣艦攻隊」
Yさん曰く、”謎の組織”らしいですよ(; ・`д・´)

わたしが「謎の組織だったらブログに書けない」って言ったら、ちゃんと考えてくださいました。

「ろ号作戦後、第1航空戦隊飛行機隊が第601海軍航空隊の編成準備に入った際に、選抜されてラバウルへ進出した兵力」

らしいです(Yさんご教示)。


Yさんの本にお名前があった搭乗員の方。
普電練55期 村上則明さん

普電練55期 橋本真二さん


場所はどこでしょうね?
ラバウルかブーゲンビルかも、という話でしたが。
行動調書を見たらブナカナウと書かれているものもあったので、まあ、あの周辺なのでしょう。



搭乗員さんの写真などを見ていると、本当に不思議なことがたびたび起こります。
写真を見せてくださった知人の方も、KさんもMさんもYさんも、ありがとうございます。
そしていつも頼ってばかりでスイマセン(汗)



※画像は7期生ご遺族、浅川さんご家族、知人ご提供

百里原航空隊の8期飛練2022年03月28日 04時51分01秒

※202003301506追記あります。

タイトル、乙8期の飛練――という意味です。

このブログでメインで書いている乙9期は飛練に進んだら飛練10期、10期飛練と書いていますが、乙8期までの飛練と数字はつながっていません。
ややこしいので説明するなら別記事にしますね(といってもわたしもそんなにわかっていない)。



今日は浅川さんの写真の中にあった百里原航空隊の乙8期生の飛練時代(中練)の写真。


飛行場で93中練をバックに飛行服。


後ろは庁舎ですかね、一種軍装で。
左袖に特技章がついているので、飛練卒業の日、15年3月30日かなと思います。

浅川教員や徳永有教員も写っているのですが、今日は練習生だけ。


飛行服写真の並び順で(一種写真は同じ並び順ではありません)。
中列左から
高崎外茂次さん


20年8月4日  951空  東シナ海(同期生会誌)
                 上海基地の人員収容要務で同基地発進後敵機と交戦、被弾戦死(雄飛会戦没者名簿)



賀来準吾さん
艦攻

戦後生存


川西渡さん
中攻

17年8月7日  4空  ツラギ(行動調書)


高野敬さん
中攻

戦後生存


須藤市郎さん
艦爆

19年6月24日  横須賀空  硫黄島(行動調書)


新木武さん
中攻

17年8月26日  木更津空  ガダルカナル飛行場攻撃(行動調書)



戸高昇さん
戦闘機

17年6月5日  飛龍  ミッドウェー海戦(戦闘詳報)


馬場時治さん
中攻

17年2月20日  4空  ニューギニア沖航空戦(行動調書)
※9期岡田温次郎さんペア


高原重信さん
戦闘機

19年9月21日  201空  比島(戦闘311 マニラ ※『日本海軍戦闘機隊』)



後列左より
東秀一さん
戦没者にも生存者にも不明者にもお名前が出ておらず消息不明です。

※Kさんからご教示いただき、行動調書で確認しました。
17年10月18日  三沢空  ソロモン


奥富梅次さん
艦爆

15年10月16日  大分空  殉職(同期生会誌、雄飛会戦没者名簿)


高橋清さん
中攻

18年1月4日  705空  ブナカナウ発進  索敵中行方不明(行動調書)

同期生会誌、雄飛会戦没者名簿によるとニューギニア方面のようです。


北村富佐士さん
艦爆

19年6月20日  653空  南洋群島(同期生会誌、雄飛会戦没者名簿)


白野博さん
中攻

20年3月24日  攻撃709  木更津方面(同期生会誌、雄飛会戦没者名簿)



高野保男さん

戦後生存


中仮屋国盛さん
戦闘機

戦後生存


西森俊雄さん
艦爆

17年10月26日  瑞鶴  南太平洋海戦(行動調書)


尾崎勝正さん
中攻

17年4月27日  高雄空  ダーウィン攻撃(行動調書)
※9期米盛朴さんペア


金子一郎さん
艦爆

16年7月24日  龍驤  都井岬沖(宮崎県)  殉職(同期生会誌、雄飛会戦没者名簿)


根食貞憲さん
艦攻

19年10月12日  K262  台湾沖航空戦(同期生会誌、雄飛会戦没者名簿)






下の2枚はおそらく浅川さんのmyカメラで撮られたものではと思っています。
水戸・偕楽園。
8期生だけで。みな、リラックスした表情です。

こちらは教員入り。



写真順は上で紹介した順です。
左が練習生のみの写真、右が教員込みの写真。
高崎外茂次さん

賀来準吾さん

川西渡さん

高野敬さん

須藤市郎さん

新木武さん

戸高昇さん

馬場時治さん

高原重信さん

東秀一さん

奥富梅次さん

高橋清さん

北村富佐士さん

白野博さん

高野保男さん

中仮屋国盛さん

西森俊雄さん

尾崎勝正さん

金子一郎さん

根食貞憲さん



イス、浅川教員。
後列左から金子一郎さん、高崎外茂次さん。

イス、浅川教員。
後列左から馬場時治さん、高橋清さん、中仮屋国盛さん。

途中で練習生ペアの交代があったんでしょうかね?

一種の写真では練習生20名に教員(下士官)が10名写っているので(空曹長もいるので教える側はもっといるはず)、まあ、教員1名に練習生2、3名ですかね。

2枚の写真、撮影は同じ時に行われたように思います。



※画像は浅川さんご家族ご提供

辻堂演習写真 自分用まとめ2022年03月22日 17時03分50秒

手元にある辻堂宿舎写真。
どれが紹介済みか、自分でわからなくなっているのでまとめておきます。
赤字・・・・済

9期1班隅倉さん分(縁側)
9期1班坂田さん分(庭)→辻堂演習写真③
9期2班萩谷さん分(庭)→辻堂演習写真④
9期4班島田清守さん分(室内)
9期5班藤原さん分(縁側、室内)→辻堂演習写真①
9期6班松本勝正さん分(庭)→辻堂演習写真⑦
9期10班池田さん分(庭)→辻堂演習写真⑥
9期11班島田直さん分(縁側)→辻堂演習写真②
9期12班羽藤さん分(庭)
9期14班石川さん分(庭)→辻堂演習写真⑤


計画的にやらないから番号が前後してしまって申し訳ないです。
そもそもこのブログ、記事のすべてが計画的じゃない(;´・ω・)



<まだの分>
隅倉さんの縁側の分は笑っている人が多くて、9期生はわかるのですが、8期生がわからないのです。何人かはわかりました。あと数人。
後藤元さんがいると思うのですが。



島田さんの室内分は、これまた笑顔すぎてあと数名がわからないorz
中仮屋さんらしき人がいます(教員さんの右)。




羽藤さんの分は、先月だったか、オリジナル版をもう一度スキャンさせていただいて再度検討しました。でもやはりおひとりどうしてもわからない状態です。
羽藤さんのアルバム、初めて見せていただいてからもう10年です。
9期生のことを調べるきっかけになったアルバムなので・・・・10年、長かったような短かったような。


もう少しお時間ください。


※画像は9期生ご遺族・ご家族ご提供

乙8期 坂本四月さんの戦没状況2022年03月10日 16時42分08秒

先日、『辻堂演習写真⑦』で紹介した乙8期の坂本四月さん。
高知県出身の中攻操縦員です。



戦没場所ですが、同期生会誌では「マレー方面」、雄飛会戦没者名簿では「西カロリン諸島方面」になっていて、行動調書も見つけられなかったことからその2つを併記しておいたのですが、あの後Kさんからメールをいただきまして。

「たしか『予科練外史』に小南良介さん(乙8、当時高雄空で坂本さんと一緒だった)の絵日記が紹介されていたような・・・・?」
と。

予科練時代の小南さん。

すぐに『予科練外史』を探しました。
4巻に、坂本さんの戦死時のことが図入りで載っていました。

17年2月7日。
高雄空陸攻隊はホロ基地→ダバオ基地→ペリリュー基地(パラオ)→トラックと移動中だったそうです。
『いよいよ二月七日早朝、トラックめざしてペリリュー基地を発進、一路東へ進む。船も、島も、空飛ぶ鳥も見えず、唯雲ばかりの洋上を、基地物件を満載した飛行機群は、強い陽光に銀翼を輝かせながら快翔を続ける。
機上では一一三〇頃航空弁当を開いた。竹皮包みの麦飯に里芋と魚と漬物のお菜。双樹席に座ったまま、綿のように浮かぶ雲の波を眺め、緑色の大海原を見下ろして味わう麦飯の味は格別であった。
北緯七度の線上を、東へ、東へ、ゆるぎない編隊陣で進んでいるうち、突然、一二五五、一小隊の二番機が、一番機の渦流内に吸い込まれて、右翼と右プロペラで一番機に空中衝突をしてしまった。
次は後日、ラバウルの陸攻隊の宿舎で、小南から聞いたそのときの状況である』
として、例の図(手書き)が掲載されています。
2機の接触の状況です。

こんな感じの絵です。※黒が小南さん図の元の書き込み。赤がわたし書き込み
たぶん上図が2機の接触時の状況で、下が接触直前の編隊3機の位置関係なのかなと思います。
小南さんの飛行機はもう少しまるっこくデフォルメしてあり、わたしが描いたものは一式陸攻の平面図をトレースしたものなので、若干位置関係がずれています(飛行機接触時の図。わたしの図では右翼で切ったように見えますが、小南さんの図ではもう少しプロペラが切断面に近いです)。




衝突地点はササオン島の170度6浬と書かれているのですが、「ササオン島」がどこなのかわかりませんでした。が、小南さんは丁寧にササオン島の緯度経度を「7度N、147度E」と書いてくれているので、おおよそこのあたりだろうという地点に×をつけています(下の地図)。



小南さんの絵日記では発生時刻は午後0時五十九分。
(1番機)『接觸ト同時ニ機首ヲ上ゲ墜落(死体収容シ得ズ)』
(1番機の胴体が切断された図から・・・・を引っ張り)『切断(胴体日ノ丸ノ所)二番機プロペラにて斬る』
『(一)、二番機ハ共ニ機首ヲ揚ゲ危険状態ニ入リタルモ、辛ジテ墜落ヲ免レ無事基地ニ飛行セリ
(ニ)、墜落現場海上は油の流れるのみにて機体及び死体發見し得ず。翌日捜索セルモ依然發見シ得ズ』


衝突された側は全員戦死しているのでそのときの様子はわかりませんが、何が起こったかわからないまま飛行機が落ちていったのではないかと想像します。



小南さんの話「坂本は実に惜しいことをしました。あいつは開戦の朝は私とペアでクラーク飛行場攻撃に行ったのですよ・・・・」(『予科練外史』)

小南さんと坂本さんは同県人ですし、操縦で機種も一緒、実施部隊でも一緒。
小南さんにとってさぞ縁深かった一人だろうと思います。


このあと無事にトラックに到着した高雄空面々は4空に編入されラバウルへ。
2月20日にはニューギニア沖航空戦で甚大な被害を出してしまいます。
小南さんは辛うじて生還。




8期が予科練2学年時秋、ラグビーの試合を見学したときの写真に坂本さんが写っていたので。





※画像は9期生ご遺族ご提供、倉町秋次『予科練外史』4巻参照、図は小南良介さん絵日記をもとに作成