乙8期 甲斐巧さん ― 2021年06月20日 20時30分55秒
何回書いてはお蔵入りになっているかわからない甲斐さん。
今日はもうアップしてしまいます。
宮崎県出身、戦闘機。
豊田さんのアルバムに貼ってあった甲斐巧さん。
加賀戦闘機隊の面々と。
アルバムの台紙に記入してあった「俺(豊田さん) 甲斐君」の文字。写真なし。貼ってあった痕跡だけ。
ここに貼ってあった写真はおそらく富高時代のものではないかと想像しています。
見たかったなあ、
見たかったなあ、
見たかったなあ。
甲1期の豊田さんと乙8期の甲斐さんはどちらも12年の海軍入隊ですからねえ。
加賀時代からの同僚。
どんなツーショットだったんだろうなあ。
富高時代の写真の中のどこかに甲斐さんが写っているんじゃないかと思って探したのですが、見当たりませんでした。
ただ、この写真の豊田さんの右隣りの人、甲斐さんに似ているんですよね。
椅子列右端。
甲斐さんと違うかな?
冒頭の加賀戦闘機隊の笑っている甲斐さんとは雰囲気が違うんですが、わたしの手元にある甲斐さんの写真で同じような格好をして真面目な顔をしている写真があるのですが、その写真とはよく似ているんです。
まあ、保留です。
他人の空似ということもあるし。
同郷の人にはちょっと気持ちが入っちゃいます。
ホントはよくないかもしれないけど。
8期生同期生会誌によると、予科練時代は病気で半年働けずハンモック暮らしだったみたいです。
そんな状態でよく留年もせず、階級も遅れず、卒業できたと思います。
『英語が巧み、着実型の温順な奴だった』
19年6月20日 652空(隼鷹発艦) マリアナ沖海戦
※画像は愛媛零戦搭乗員会ご提供
翔鶴の大石さん ― 2021年05月04日 10時45分46秒
昨日、未解決のまま終わった「翔鶴の大石さん」。
起きたら解決していました。
Kさんから、
「翔鶴の大石さんはこの人だと思います」
とメールが届いていました。
ありがとうございます、ホントにいつもいつもスイマセン<(_ _)>
もともとは豊田一義さんのアルバムで認識した人なのですが、「大石兵曹」としか書かれておらず、「どこの大石さん?」と追跡がストップしていた人です。
偶然のことから、谷水竹雄さんの翔鶴時代の写真に写っていることに気づきました。
「大石 一八、一一、一一」
赤字は戦死日と解釈。
行動調書で大石さんがどなたか判明するだろうと探したのですが、この日の行動調書を見つけられず、Yさん(お世話になっている戦史研究家。隊史、搭乗員、機体なんでも)に翔鶴戦闘機隊の18年11月11日の戦死者を把握されていないか尋ねてみました。
佐藤仁志飛曹長(操練26)
磯部隆造上飛曹(丙飛6)
立住一男1飛曹(乙飛11)
とのことで。
「うーん、やっぱり大石さんのお名前がない(+_+)」
で、朝起きたらKさんからメールが届いていて、
「翔鶴の大石さんは磯部隆造さん(旧姓大石)のことだと思いますよ」
と。
なんと!?
改姓されていた!
豊田さんの飛練23期の集合写真に写っていたので、当然丙6の名簿は見ました。
ただし「大石さん」を探していました。
まさか磯部さんと大石さんが同一人物だったとは。
よく考えたら、あの頃の人って、いまより姓が変わっている人多い印象です。
結婚とか養子とか。
大石さんの場合、理由はわかりませんが、どこかの時点で大石さんから磯部さんに改姓されて、海軍的には磯部さんになっていたと。
築城時代はたぶん正式に「大石」さんです。作業服の胸に「二飛曹(?) 大石」と書いていあるように見えます。「大石」は間違いないです。
翔鶴時代はわからないです。
谷水さんが「大石さん」と旧姓で認識していただけかもしれません。
Yさんから聞いた戦死時の磯部さんの階級は上飛曹になっています。
翔鶴写真の磯部さんは1飛曹の階級章をつけていますが、Kさんによると18年11月1日上飛曹に進級されているようです。
さっき、豊田さんの写真を見返していて、もう1枚見つけました。
書き込みはなかったけど大石さん。
ちょっと教員(左)と練習生(練成員? 右)には見えないですが。
飛練の教員・練習生ではありえない写真です。
練成部隊なので一人前に扱っているのでしょう。豊田さんと大石さんの間にあまり高い壁はなさそう。
というわけで、翔鶴の大石さんは丙6期の磯部隆造さんのようです。
※画像は愛媛零戦搭乗員会、谷水さんご家族ご提供
翔鶴戦闘機隊 ― 2021年05月03日 16時10分59秒
今日の話はいつにもましてややこしくわかりにくい話です、先に謝っておきます、スイマセン<(_ _)>
例によって例のごとく、わたしの絶望的なまでの集中力の無さが幸いした(?)んでは、と思っています。
ことの発端は乙8の甲斐巧さんです。
今回の豊田さんのアルバムのおかげで甲斐さんのお顔が把握できたような気がしたので、手持ちの写真(豊田さんの写真以外)の中に甲斐さんが写っていないか探していました。
可能性が高いのは乙2期の浅川三雄さんの教員時代の写真。霞ヶ浦とか百里原の集合写真が何枚かあり、その中に乙8の飛練と思われる集合写真もあったのでどこかに写っていないかな?と探していました。
集中力欠如①
浅川さんの百里原の集合写真を見ていて教員列に近藤政市さんらしきお顔があるのに気づきました。
「たしか谷水竹雄さんの写真の中に近藤さんの写真があったな。比べてみよう」
集中力欠如②
近藤さんのお顔は確認できました。たぶん、近藤さん。→この話はまた今度
「もっとお顔がちゃんと写っている写真、なかったかな?」
とさらに探していて、谷水さんの翔鶴時代の写真に目が釘付け。
これです。
何度も見ている写真です。
おそらく18年10月ごろの写真。
谷水さんの筆跡だと思うのですが、「翔鶴リフト上」、さらに全員のお名前も書きこんであります。
「川村さんとなっ!?」
目が釘付けになったのはこの人です。
後列左から2人目。
豊田さんのアルバムに貼ってあったこの人ではないか!
書き込みがありました。
「甲七期 川村兵曹」
なので、わたしは自作の注記ファイルに「川村武彦さん 三重」と書き込んでしまったんですが。
「翔鶴の川村さん」を調べたら、甲6の川村正次さんが出てきました。
愛知県出身
18年11月2日 翔鶴 ラバウル
お顔が一緒で、姓が一緒なのでこれは甲6の川村正次さんの可能性大と思っています。
もうおひとり。
後列左から4人目。
大石と書き込んであり、赤字で「十八、一一、一一」と書き込んであります(最初11月11日ではなく2月2日かと思ったのですが、写真が18年10月ごろの撮影としたらそれ以降)。
やはり同じ人が豊田さんのアルバムに。Tは築城空のTでしょうか。富高基地。
これは「大石兵曹と」と書き込みがありました。
「どこの大石兵曹やねん?」って散々調べたのですが、そのときはわかりませんでした。
今回谷水さんの写真のおかげで「翔鶴」「18年11月11日戦死」とわかったので、
「よし、これでどこの大石さんかわかるゾ」
と名簿類や行動調書など調べてみたのですが・・・・。
わかりませんでしたorz
お二人は人数が多い翔鶴戦闘機隊写真にも写っています。
川村さん
大石さん
こちらの写真には7期の檜垣英次郎さんや窪田晴吉さんも下士官で写っていて、18年11月1日より前だとわかります(18年11月1日飛曹長進級)。
これは豊田さんのアルバムにあった写真で、
「富高基地にて 二十三期卒業に際して」
という書き込みがありました。
飛練23期ってことでしょうね。
大石さん、ここに写っているんですよね。
飛練23期の人か?
該当者、いないですよね?
教えている側か?
もっと古い人?
でも翔鶴の写真(18年10月ごろ)の時点で1飛曹ですよね。
わからない(>_<)
ちなみにこの写真、また今度取り上げたいと思っています。
というわけで、乙8甲斐巧さんを探していて、豊田さんアルバムの川村さんが甲6川村正次さんらしいという結論に達したという話です。
※画像は愛媛零戦搭乗員会、谷水さんご家族ご提供
加賀戦闘機隊 撮影時期 ― 2021年05月02日 14時43分55秒
昨日、上野公園西郷さん銅像前の末田さんと豊田さんの写真に関して訂正記事を書いたばかりですが、またまた訂正、、、というか、追記です。
先日出した鴨池における加賀戦闘機隊(二階堂中隊)の集合写真&個人写真(おそらく同日撮影)の撮影時期に関して。
この写真を紹介したときに、
五島さんはアルバムには「先任搭乗員」と書かれていましたが、真珠湾の編制表では飛曹長になっています。
アルバムの写真は進級前のお写真ってことでしょうかね。
他にもアルバムの階級が真珠湾時より一階級低い人がいるので進級時期を調べたら撮影時期がある程度わかるのかも。
アルバムの写真は進級前のお写真ってことでしょうかね。
他にもアルバムの階級が真珠湾時より一階級低い人がいるので進級時期を調べたら撮影時期がある程度わかるのかも。
と書いているんですが、これを見てさっそく連絡をくださった方がいらして。
五島一平さんが飛曹長に進級したのは16年9月15日です。
と。
「じゃあその前の夏ごろの撮影ですかね。甲斐巧さんがマフラーに襟巻なので寒い時期かと思っていましたー」←16年冬頃
なんてのんきに返信していたわたし(^^;)
その後、またまた他の方から連絡をいただいてですね。
五島さんが飛曹長に進級した16年9月15日以前には違いないのですが、じつはもっと前ということがわかりました。
この写真に写っていない二階堂中隊の一員・高橋英市1飛兵(真珠湾時)ですが。
加賀に着任したのが16年4月4日とか!?
ということはこの写真は16年4月4日以前?
それなら甲斐さんのマフラーと襟巻重ね着用も納得です。
が、もしかしたら、高橋さんは着任していたのにたまたまこの日いなかっただけかもしれない。
(写っていないことがそのグループに所属していなかった証拠にはならない)
これ以外にも階級のこともあるので(16年5月1日に1空曹に進級している豊田さんが、自分のことを「二空曹」と書きこんでいる&写真の豊田さんと同期生・石川友年さんの階級章が2空曹に見える)、高橋さんが着任していたとしてもおそくとも16年4月中の撮影。
「いつ以降か」という点に関しては絞れていません。
鈴木さん、豊田さん、甲斐さんが15年10月に加賀に着任しているようなので、いまはおおざっぱに15年10月~16年4月ごろ、みたいな感じです。
花(梅とか桜とか)でも写っていればねえ(^^;)
わたしの場合、ここに書いたことが最終結論ではなく、ここに書いたことがスタートになることが多いので(←見てくださった方からご教示いただける)、「その後どうなったかな?」と、ときどき覗いていただけるとうれしいです、スイマセン、中途半端で(^^;)
ホント、この写真、大好き。
操練、甲飛、乙飛と、出身も違えば年齢も違う搭乗員たちが笑顔で和気藹々、仲の良さが伝わってくる1枚です。
※画像は愛媛零戦搭乗員会ご提供
上野公園西郷さん銅像前の写真の撮影時期 ― 2021年05月01日 20時09分04秒
昨日出した豊田一義さんと末田利行さんのツーショット写真@上野公園西郷さん銅像前
この写真の背景が、昨日よりさらにわかりました。
末田さんが飛曹長に進級したのが17年10月31日。
写真の末田さんは兵曹長らしき階級章をつけて軍帽の帽章も士官のものです。外套も士官が着るマントです。
この写真は明らかに17年11月以降に撮られたものである、と。
Kさんから連絡いただきまして。
末田さんのその当時の状況が判明しました。
17年10月から12月初まで、豊田さんと同じ築城空でした。
10月いっぱいは豊田さんからみて下士官の先輩、10月31日に末田さんが飛曹長に進級した後は豊田さんにとって分隊士(上官)という立場になったのでは。
写真の書き込みは、
「大分空教員時代
末田分隊士と俺
上の公園西郷さんの銅像前にて
思い出の記念」
末田分隊士と俺
上の公園西郷さんの銅像前にて
思い出の記念」
でした。
「大分空教員時代」ではなく正しくは「築城空(富高)教員時代」。
「末田分隊士と俺」は正しい。
末田さんが12月初に252空に転出されているので、撮影されたのはほぼ17年11月って感じでしょうか。
一緒に飛行機を取りにでも行ったのかな?
おふたりは16年10月~17年1月初、大分空で一緒に教員をされています。
そのこともあって、アルバムに書き込むときに「大分空」って書いちゃったんじゃないかなと想像します。
この書き込みのおかげで飛練10期大分戦闘機の集合写真を見返して、豊田さんと末田さんがお隣で写っているのに気づいたので、結果、よかったです(^^;)
※画像は愛媛零戦搭乗員会ご提供