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予科練と飛練、操偵検査と艦務実習2023年04月30日 16時10分25秒

先日、乙2の操偵検査期間に関して書いたときに、『予科練外史』に書いてあることで、ちょっとまだ呑み込めていないことがあると書いた点に関して。


初期の予科練制度において、予科練と飛練の間にそのどちらでもない期間があること。


倉町秋次さんの『予科練外史』1巻に以下のような記述がありました(太字部分)。
※数ケ所にわかれて記述されていたものを集めました


【艦務実習】
「第一期予科練習生予科練教程を卒業し飛練教程に進む
予科練で基礎教育を終わった少年たちは、待望の大空への飛翔を目ざして、飛行練習生教程へ進む。
昭和七年十月十四日、仰裁案に示された日取り通りに、予科練習生第一期生七十九名中、病気の為免役になった一名を除き、七十八名が予科練習生教程を卒業して退隊した。規定の教育年限は二年十一ヶ月であったが、一期生がこのように二年五ヶ月に短縮されたのは、前記のように国際情勢の急迫に起因するものであった。」
十月十四日に卒業した一期生は引き続き十月十六日、当時別府湾に入港していた第一艦隊の戦艦「金剛」、「霧島」、「伊勢」の三艦に分乗して艦務実習を行った。期間は前述の理由によって、正規四ヶ月を二週間に短縮され、十一月二日、第一期飛行練習生として霞ヶ浦航空隊に入隊し、適性検査の結果、操縦専修者四十名、偵察専修生三十名に分かれて十二月二日、偵察専修者は横須賀航空隊に入隊した。
右の外、艦務実習直後、近視者八名は高等科航空兵器練習生として、横須賀航空隊に入隊した。」
※赤字はわたし



「昭和十一年五月一日、第四期予科練習生一三九名は予科練教程を卒業し―中略―予科練卒業と同時に艦務実習に出かける。期間は、多少の差はあっても、特別の場合を除いて、四期生までは約四ヶ月であった。
尚、五期生以降は、艦務実習規定が改定されて、予科練在隊中に行うことになり、期間も四ヶ月が二ヶ月に短縮され――」




【艦務実習】【操偵検査】
「予科練教程終了後の教育コース
当局が画いた予科練習生教程終了後の教育コースは、まず卒業と共に四ヶ月の艦務実習を行い、続いて適性検査として、操偵に分け、約八ヶ月の専門教育を施す。近視その他身体上の都合で搭乗員として不適格者は、高等科整備術練習生教程をとる」



昭和七年六月二九日
「仰裁案要旨
一、予科練習生出身航空兵の海上実地教育期間を将来航空教育に適合セシムる如く、教育期間を約四ヶ月とし、第三学年教程卒業後、四月下旬、聯合艦隊ニ配乗、艦務実習を行はしめ、八月下旬、霞ヶ浦航空隊に入隊せしむ、
二、練習生は左記により命ず
(イ) 八月下旬より十一月上旬まで飛行練習生として霞ヶ浦航空隊に入隊せしめ、主として操縦術及整備術の教育を施すと共に適性検査を実施す。
(ロ) 霞ヶ浦航空隊司令は適性、学術及勤務等を参照し、操縦又は偵察員として適否を決定し、告達に基き専修別に定む。
(ハ) 飛行練習生に適せずと認むるものは志願により兵器練習生を命ず。
三、前諸号に関連し、練習生教程を左の如く新設すると共に現制度を運用す。
(イ) 飛行練習生教程(操縦・偵察の専修別とす)を新設し、之を霞ヶ浦航空隊(操縦)及横須賀航空隊(偵察)に置く。
(ロ) 兵器練習生教程(普通科、高等科)を新設し横須賀航空隊に置く。
(ハ) 高等科飛行練習生教程を新設し、之を横須賀航空隊に置く。
(ニ) 飛行練習生教育終期を翌年七月上旬とす。」


【操偵検査】
「尚昭和十一年六月十一日、教育綱領の改正によって、適性検査は予科練の一学年の末期に施工し、操偵に分けて教育するようになった」










上の倉町先生の文章を読むと、―特に赤字にした部分なのですが―、1期生に関しては、
予科練卒業→艦務実習→飛行練習生として霞空入隊→操偵検査
という流れで説明してあるように感じるのですが、2期生に関しては履歴から読むと、
予科練卒業→艦務実習→霞空入隊・操偵検査→飛行練習生
と流れになっているように思います。

どういうことかというと、「操偵検査」をしている時期が、飛練に含まれるのか含まれないかの違いです。

そもそもわたしは乙2の人たちが操偵検査をそんな時期にしていることすら気づいておらず、先日知人に言われて初めて気づいたという体たらくで(^^;)

自分の理解を助けるために、わかる範囲でまとめてみました。仮です。
予科練から飛練の流れ。そこに操偵検査と艦務実習がどこに入って来るかを入れて。
左から右に時間が流れているだけで、時間の長さは表現していません。


浅川さんの履歴を見ると、乙2は明らかに操偵検査の時期は飛練の時期ではないんですよ。
先日書いたものを再掲すると、
昭和9年5月1日  予科練卒業
             艦務実習
     8月22日   霞ヶ浦海軍航空隊付
     10月1日   第二期飛行練習生を命ず

しかし、倉町先生の書きぶりでは乙1は飛練に進んでから操偵検査しているふうにもとれるのですが、どうなんでしょう?
わたしの受け取り方が悪いだけで、倉町先生も「予科練→艦務実習→霞空入隊・操偵検査→飛練」を表現しようとしたのでしょうか。

乙3、4はわたしはまったく様子がわからず、乙5は角田和男さんの手記で予科練中に操偵検査と艦務実習をやっているようだというのがわかるのみです。なのでおそらく予科練卒業と同時に飛練に進んでいるだろう、と。
倉町先生は乙4は予科練卒業後に艦務実習をやったと書いていますので、そうなんだろうと思います。となると、操偵検査はそのあとなのか?


操偵検査をしたのが飛練時代なのか、それとも予科練と飛練の間なのか、どうでもいいといえばいいかもしれないんですが、わたしはちょっとそここだわってみたいかな(^^;)

もし、このあたりの事情をご存じの方がいらしたらぜひご教示いただきたく。




操偵検査の期間に関してですが、上の表では最長40日、最短2週間でずいぶん差がありますが、島田清守さん(乙9)の日記を読むとまあ100名程度で2週間で済んでいるので、地上練習機や空飛ぶ飛行機に乗せて操偵を判別するだけならそれぐらいの期間でできるんでしょう。ただ、倉町先生の記述にあるように『八月下旬より十一月上旬まで飛行練習生として霞ヶ浦航空隊に入隊せしめ、主として操縦術及整備術の教育を施すと共に適性検査を実施す。』ということなら(飛練かどうかは横に置いておいて)、ひと月以上かかるのかもしれません。9期は操偵検査期間に整備術教育をやっている様子はないです。「40日」と「2週間」は同じ「操偵検査」という名称でも内容がちょっと違うのかなと思います。


※20230501追記
乙1期が飛練を始めたのは昭和7年12月1日。飛練の前にひと月操偵検査などをやっていたようです。→別記事







ようやく乙2の予科練卒業から飛練までの流れがつかめたところで――
乙2艦務実習中の写真
愛宕艦上なのかな。
士官列の中央の人(左から4人目)は大佐のようですが、宮田義一艦長でしょうか。


こちらは9年6月7日の日付あり。伊香保行軍だそうです。
ペンネントがよく見えないのですが「大日本軍艦愛宕」と「大日本軍艦高雄」の人がいるように見えます。

9期の人は艦務実習中は当時所属していた霞ヶ浦海軍航空隊(予科練)から、たとえば「榛名に派遣」ってことになっているみたいなんです。あくまで霞空の所属。
2期の浅川さんは艦務実習中は完全に愛宕の所属です。

ただ、9期も艦によってはその艦のペンネントを貸与していたようで、これ↓は艦務実習中に台湾に上陸したときに別々の艦の練習生が一緒になって記念撮影したようなんですが、
前列左の武田清さん(操)は「大日本軍艦榛名」、右の萩谷幾久男さん(偵)は「霞ヶ浦海軍航空隊」
後列左の三浦光雄さん(偵)は「霞ヶ浦海軍航空隊」、右の井原大三さん(操)は「大日本軍艦榛名」
9期艦務実習中の写真としては他に「山城」と「金剛」のペンネント写真もあります。「伊勢」と「陸奥」の分を見たことがなくて。
三浦さんと萩谷さんは「陸奥」派遣組です。陸奥ではペンネントを貸してもらえなかったのかな? あるいは上陸するときは付け替えて、ってことだったのかな? そこら辺の事情はわかりません。





自分の整理のために書いたものを投稿したので前後の脈絡がおかしくなっていたりして申し訳ないです。



※画像は9期生ご遺族、浅川さんご家族ご提供
倉町秋次『予科練外史』<1>
角田和男『修羅の翼』光人社
岩井勉『空母零戦隊』文春文庫
第一期予科練習生『予科練習部の回顧』

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