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ティラミス2026年03月27日 00時23分11秒

ティラミスの底にコーヒーシロップでひたひたになったスポンジ敷いてあるじゃないですか。
ネットのレシピ見たら市販のビスケットとか書いてあったのですが、
「せっかくだから焼くか」
と、自分でココアスポンジを焼きました。


最初に比べたらだいぶ上達しましたよ、スポンジケーキ。


これを丸い抜型で抜いてプラカップに敷き、コーヒーシロップ(コーヒー粉末、水、グラニュー糖、ブランデー)でひたひたにしました。

その上にマスカルポーネクリーム(卵黄、グラニュー糖、マスカルポーネチーズ、生クリーム、メレンゲ)を乗せて、純ココアのパウダーを振りかけました。


こんな感じ。

思っていたより緩かったです。
冷蔵庫で冷やしたら少しは固まるのかな?

丸く抜いた残りの端切れを四角いガラス皿に入れて余ったマスカルポーネクリームをかけたやつを晩ごはんの後で食べましたが、クリームが少なすぎて固まっているのかどうかよくわかりませんでした(^_^;)


上の写真のプラカップに詰めた分はソッコー冷凍庫に入れました。
自分で作るまで知らなかったのですが、ティラミスって加熱していない卵を使っているんですね。ビックリしました。これは早めに食べたないといけないですね。
冷蔵庫に入れてある分(角皿残り分)は明日中かな。
冷凍庫分も一週間以内がよさそうですね。

娘の誕生日ランチ2026年03月24日 21時53分41秒

娘、3月17日に24歳になりました。
早いですね。
赤ちゃんの頃は「あー、しか言わんな」と思っていたら、最近は話しかけても「あー」すら言いません。


17日(火)はたしか仕事で、帰宅も遅かったんじゃなかったかな。
なので、わたしひとりで城下町めぐりの途中でカフェに入って「娘を生んだ記念日パーティ」を開催しました。




で、19日(木)にはパパが有休をとって休んでいたので、高の原のグッドスプーンというカフェで本人抜きの誕生会ランチ(笑)
メインを選んであとはサラダとパン(シュー皮みたいなパン)とドリンクが食べ放題飲み放題でした。
めっちゃよかったです。ハンバーグもパスタもおいしかったし、シュー皮みたいなパンが軽くてパクパク食べられるんですよ。生クリームみたいなトッピングも用意してあったのでどっさりとってきてたっぷりつけて食べました。あれ、家で作ってみたいわ~





そして、今日!
本人が有休で家にいたので、ようやく本人参加の誕生日ランチが実現しました!(≧▽≦)

何年か前に筒井にできたピソラというイタリアンカフェ。
平日ランチは、メインを選んだら前菜(キッシュorサラダ)とフリードリンク。
ドリンクが生ジュースがあっていいんですよ。グアバとかマンゴーとか。おいしいです。
一度娘とチャレンジしたことがあるんですが、土曜だったか日曜だったかでランチのシステムが違っていて頼めなかったので、今日は再チャレンジです。
ピザとパスタをメインにして分け分けしましたが、どちらもおいしかったです♪


というわけで、毎年恒例のバースデーウィークでした。
たぶん今日で終わり(笑)

乙9期 中野釥さん 追加編集2026年03月20日 23時47分52秒

海軍飛行予科練生の乙9期という集団に関して書き始めたのは2012年。
羽藤一志さんと松本勝正さんのご遺族からアルバムをお借りしたことがきっかけでした。

あれから十数年経って、情報もいろいろと増えているので、少しずつ追加情報を加えた記事をアップしようかなと思っています。
ベースは以前に書いた記事です。






台南空の中野釥さん。

愛知県出身。
艦爆操→戦闘機

ずっと「釥」、何とお読みするのだろうと思っていました。
あるとき、知人から「きよし」みたいと聞いて、そうか、きよしさんとお読みするのか、と判明したわけですが、先日、ご遺族の方からも連絡をいただき正式に「きよし」であることが確定しました。

以前は「釥」の漢字が出ず、「鈔」で書いているところもあるかと思いますが、正式には「釥」です。






中野さんも、羽藤さん(ご遺族所有)、松本さん、西澤さんの写真(ご遺族所有・武田信行氏ご提供)にたくさん写っています。



入隊時班写真。9班。



【東京行軍】13年6月
海軍館前。


楠公銅像前。


宮城前。


神宮外苑。



【鎌倉行軍】13年6月
38分隊大仏前、羽藤さん所有分。




38分隊大仏前、松本さん所有分。

じつはこれら2枚も同じ写真に見えてビミョーに違うんですよ💦

しかも下写真の所有者である松本さん、この分隊ではありません。
なぜ松本さんがこの分隊の集合写真を買っていたのか。自分の分隊の集合写真は持っていなかったですよ・・・・。なぜなんだい?



建長寺山門前、羽藤さん所有分。



建長寺山門前、松本さん所有分。

これまた同じに見えて違う写真でした💦
たぶんカメラマンが動いていますね。
ほぼ総員集合写真。精度が悪くてひとりひとりの確認ができませんが。





1学年時の水泳集合写真。
3組(9~12班)集合写真。
線が2本入っているのかなあ?(1本はもっと細い)
2本だとしたらかなり泳げる方。



【愛知県出身者集合写真乙7~9期】13年8月
7期生卒業に際しての記念の集合写真。



【大楠山慰安行軍】13年秋?




【操偵適性検査】14年6月
24分隊集合写真、羽藤さん所有分。

池田和義さん所有分。

島田直さん所有分。

少し前に書きましたが、この3枚、ちょっとずつ違います。



【水郷めぐり】14年7月16日
香取神宮24分隊集合写真。




ここから先が操偵分かれてから(2学年)。

【操縦分隊・二空時代】



【整備実習】



【操縦分隊、ラグビー優勝】



【操縦専修生、倶楽部】
卒アルより





【操縦分隊・一空時代】15年11月初
大友分隊長の離任記念集合写真。
霞空で撮られた最後の集合写真かもしれません。

この直後の11月15日に予科練は土浦海軍航空隊に移転し、9期生は土空初の卒業生に(11月30日)。



【飛練・筑波】飛練10期



筑波空での中練を終えて、中野さんは宇佐空で艦爆操縦の訓練に入りますが、その間の写真はありません。中野さんだけでなく、飛練10期生の宇佐時代の写真は1枚も見たことがありません。



16年10月30日に飛練卒業、そのまま佐世保空(出水)での艦戦への転科教育へ。
中野さんの履歴が不明なので同期生履歴からの推測ですが、17年2月上旬に転科教育を終えて実施部隊に配属されたのではないかと思います。どこに配属されたのかは不明。



6月10日に台南空の行動調書に初登場。




【台南空時代】

西澤さん命名「南空の猛者」集合写真。後列右端。
たぶん17年6月20日、ラエ
裏に西澤さん直筆で氏名が書いてあり「中野」の文字も。
ちなみにこの写真には9期生がほかにも写っていて、後列左から2人目が上原定夫さん、6人目が木村裕さん。



たぶん上の写真と同じ時。後列右から2人目。



西澤さん命名「南空の勇士」集合写真。前列右端。
7月20日に戦死されている人たちが写っているのでそれ以前かと思いますが・・・・。
場所はラバウルに見えます。
こちらの裏書では「中ノ」。
この写真の9期生は、前列左端大西要四三さん、3人目熊谷賢一さん、後列左から3人目木村裕さん、4人目遠藤桝秋さん。



8月4日、ラバウル撮影と言われている戦闘機隊集合写真。



この集合写真の後、8日には木村裕さん、14日には新井正美さん、26日に熊谷賢一さん、中野さん戦死。その後も9月13日羽藤一志さん、佐藤昇さん、10月25日後藤龍助さん、森浦東洋男さんが戦死し、最大14名いた9期生で、11月の内地引き上げ時に生きて戻れたのは遠藤桝秋さん、上原定夫さんだけでした(久米武男さんは病気で離脱、山口浜茂さん(1空籍?)他隊に転勤)。




17年8月26日 ブナ基地敵機邀撃 交戦戦死





一緒に出撃予定だった2空の角田和男さん(乙5)の戦後の手記『修羅の翼』(光人社)
17年8月26日の様子。

『早朝、飛行場に出る。前日に引き続きラビ空襲の予定。戦闘機隊のみ基地指揮官の命を受け、搭乗する。編制は、
 指揮官兼一小隊長山下丈二大尉以下台南空四機
 ニ小隊は一番機私、二番機岩瀬一飛曹、三番機井原二飛曹
 〇六一五、山下大尉が離陸線に着いた時、見張りより敵襲の報がある。西南高度五百メートルに、すでに地上銃撃の態勢に入ったP39十五機が見えた。
 飛行場が狭く、単機離陸しかできない。ただちにチョークを外しフラップを下げ、離陸線に出る。山下大尉離陸、続いて二番機が十メートルくらい上がったところで左後上方より攻撃され、いきなり爆発した。三番機も四番機も共に離陸後脚を入れる間もなく火達磨となり爆発、滑走路前方に墜落してしまった。
 目の前で三機も爆発するのを見ていると、向こうもあまり速力のつかない内に零戦が高度を上げたがるので射撃しやすいのだ、と見て、続いて離陸した私は密林すれすれに速力をつけながら飛び、まずフラップと脚を入れ、突っ込んで来る敵に向首反撃に移る。P39の三十七ミリ砲がブオッ、ブオッ、と耳元をかすめてうなる。こいつを一発喰らったらなるほど爆発するにちがいない。ガンガンと十三ミリが何発か当たった。再び突っ込んで速力をつけ、増槽を落とす。すぐに二機目に正面反撃、また被弾あり、そしてもう一度突っ込んで速力をつける。』






















中野さんの戦死状況に関しては2016年に出版されたルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド『台南海軍航空隊【ニューギニア戦線篇】 モレスビー街道に消えた勇者たちを追って』(大日本絵画)に詳細が書かれています。

ちょっと長いですが引用します。


『中野釥3飛曹、奇襲により撃墜される

 8月26日早朝、ポートモレスビー周辺の各飛行場には朝日が降り注いでいたが、空模様は雨を予感させた。それでも第80戦闘飛行隊のP‐400エアラコブラ8機は日の出とともに12マイル飛行場を発進した。目的地は台南空と2空の零戦隊が前進基地とするブナだった。計画ルートは北海岸から洋上に進出し、日本軍が予想しない方向から接近、離脱するため、通常よりも長距離だった。離陸から間もなく2機のエアラコブラがメカニカルトラブルのため引き返した。その1機はフィル・グリズリー飛行隊長の機で、彼は編隊の指揮をビル・ブラウンに手信号で託した。12マイルに戻った同機は、電気系統の故障により射撃用ソレノイドが作動しないことが地上員により確認された。
 一方、編隊では指揮を引き継いだブラウンが北東のブナではなく、東のミルン湾へ針路をとるミスを犯していた。一緒に飛んでいたダニー・ロバーツは無線封鎖を守っていたが、ついに黙っていられなくなって航法ミスを指摘すると、ブラウンはすぐさまコースを改めた。そうして0725にブナに急降下しながら接近した6機のエアラコブラは、絶好の獲物を発見した。それは2個の編隊に分かれて離陸中だった2空と台南空の零戦6機だった。

第2航空隊:角田(つのだ)和男飛曹長、岩瀬毅一1飛曹、井原大三3飛曹
台南航空隊:山下丈二大尉、山崎市郎平2飛曹、中野釥3飛曹

 隙をつかれた零戦隊は、ラビ攻撃への出撃のため10分前にエンジンを始動、エアラコブラ隊が襲いかかってきた時には第1編隊の3機がまさに離陸する、最悪のタイミングだったが、これはブラウンの航法ミスによる怪我の功名だった。ブラウンとロバーツが先陣を切って2機の2空機に襲いかかり、脚を引きこむ間も与えず、これを火だるまにして撃墜し、岩瀬1飛曹、井原3飛曹は戦死した。直後につづいていたジョージ・ヘルヴェストン少尉とジェラルド・ロバーツ少尉は、つづいて離陸しようとしていた台南空の零戦編隊を銃撃した。この攻撃航過で中野釥3飛曹が戦死し、第80戦闘機隊初の確実撃墜機となった。ブラウンとロバーツは第一撃から急速に機首を引き上げると、今度は上昇中の日本軍機に反航するように向かった。銃撃を加える2機の後方ではジョージ・ヘルヴェストン、レオニダス・マザース、ノエル・ランディの各機も可能な限りの速度で追従していた。この一瞬の戦闘の直後、ジェラルド・T・ロジャース少尉機がブナの対空砲火に数発被弾した。彼は直ちに日本軍占領地域から離脱した。操縦席の背後に鎮座するエンジンの振動と不安定な計器表示から、彼はそう長く飛びつづけられないことを悟った。』


このとき戦死した2空の井原大三3飛曹も乙9期の同期生。
きっと一緒に出撃することになり、直前まで中野さんと何か会話を交わしていたのではと想像したりしますが・・・・。


ただでさえつらいこの状況が、敵の事情を知ってみると「航法ミスによる偶然の襲撃タイミング」だったとわかり、なお一層つらいです。もっというと、飛行隊長の飛行機が故障していなければこのタイミングでかれらがやってくることはなかった・・・・。
しかし、逆に何か小さなきっかけで命拾いをしたということも戦場では多々あったことでしょう。




台南空 昭和17年8月26日の戦闘行動調書。
ブナ基地上空敵戦闘機邀撃
指揮官 大尉 山下丈二
参加機種機数 零戦3
効果評点 撃墜1、不時着無、敵機数7、撃墜(不確)無、衝突無、撃滅計1
被害 被撃墜無、大破1、行方不明無、自爆1、消耗計2
評点B

0615 零戦×3、二空零戦×3 ラビ上空哨戒ノタメブナ基地発進
    P‐39×7来襲 飛行場上空ニ於テ之ト交戦ス
    P‐39×1ヲ撃墜 他ヲ撃退ス 我ガ方ノ被害自爆一
    不時着一機
0640 迄ニ零戦×1(台南)、零戦×1(二空)ブナ基地帰着

大尉 山下丈二         被害無       P‐39×1撃墜
ニ飛曹 山崎市郎平(軽傷)  不時着大破 軽傷
三飛曹 中野 釥(自爆戦死) 自爆




二空の戦闘行動調書。
船団上空直衛
指揮官 飛曹長 角田和男
参加機種機数 零戦3
(略)
0615 零戦三機ブナ基地発進
    離陸直後P‐39七機来襲 之ト交戦 一時苦戦ニ陥リタルモ終始攻勢ニ出デ撃退ス 
    自爆二機
0630 被弾ノタメ一番機着陸 

飛曹長 角田和男      消耗兵器機銃弾100  被弾10
一飛曹 岩瀬毅一(戦死)     不明        自爆 
三飛曹 井原大三(戦死)     不明        自爆




台南空・2空の戦闘行動調書、角田さん手記、『台南海軍航空隊』の記述、それぞれいろんな点で不一致があり、どれが真実かわたしには判断できません。
しかし、ラビに向かうために離陸しかけていたところ(離陸直後)、敵戦闘機の奇襲を受けたという点は間違いないのでしょう。









「おもいで」から

「居眠り居士」「とにかく学科はよく居眠りをしていた。ところがいつ教官に指名されても実にすらすらと答えてわれわれを驚かせたものだ。居眠りしなかったら勉強の上達する天才であった」

「中野居眠り居士」「宇佐延長教育では「パチリ」「パチリ」と写真機に凝っていた」

「同期生百九十六人中唯一人いまだに君の名を何と呼ぶのかわからない」



予科練卒業時の色紙





中野家では、中野さん戦死後に戦友がお母さんのもとに訪ねてきて、「自分は直接目撃した」として、中野さんの戦死状況を話していった、という話が伝わっているそうです。
中野さん戦死時に一緒に出撃しようとしていたのは2空の角田さん、岩瀬さん、井原さん、台南空では山下大尉、山崎さんということになるわけですが、上にも書いたように岩瀬さんと井原さんは同じときに戦死。
山下大尉も翌日戦死。
となると、中野さんの戦死状況を実家に伝えに行けるのは出撃隊員の中では角田さんと山崎さんということになるのですが、他隊の角田さんは可能性は低いかと思います。
同隊だった山崎さんは8月26日の戦闘で入室するほどの怪我をして、その上マラリアとデング熱を併発し内地に送還されてしまいます。さらにほかの病も患い長期に離脱することに。最終的には豊橋の251空(17年11月に台南空が改称)に18年2月ごろ合流していますが、山崎さんと中野さんのつながりがわからないので、何とも言えない感じです。

【参考】山崎市郎平さん手記
「今までに三回死線を越えました。
(中略)
第三回目は昭和十七年八月二十六日ニューギニヤ東岸ブナに進出、空戦中、愛機負傷止むなく不時着し顔面及胸部打撲傷により休養中、更にマラリヤとデング熱を併発し内地送還となりました」


一番可能性が高いのは同期生でしょうか。
豊橋にやってきた251空にも乙9期の同期生はいました。
遠藤桝秋さんと上原定夫さん。



251空時代と思われる宴会写真の上原さん(左)と遠藤さん(西澤さん写真より)。
上原さんは18年5月に251空がラバウルに再進出したときにはいないのですが、この写真の頃はまだ251空にいらしたようです。ラバウルから戻ってきた直後に宴会をやったのか、年末とか年初にやったのか?


これは台南空の、中野さん戦死前後の乙9期生たちの滞在地(出撃時の発進基地)です。
オレンジがラバウル。青がラエ。緑がブナです。
(グレーのベタは戦死。イエローのベタは編制表未登場です。●▲■の記号は同じ任務か別任務かを区別するためです)

遠藤さんはずっと搭乗記録がないんですよね。でも、このあと10月に入り戦線復帰します。
これ以前の最後の出撃記録が8月11日のラバウル発進ラビ飛行場攻撃なのですが、このとき遠藤さん、シャレにならない大けがをしています。行動調書では「負傷」「被弾×1 前膊負傷」と書かれているように見えます。
行動経過概要欄には「空戦中 2N 3/2D(遠藤機のこと) 被弾 ブナ帰投着」。
この日は14機出撃して、1機(指揮官中島少佐機)早々に故障で引き返していて、最終的に12機がラバウルに戻っているので、おそらく遠藤さんはブナから戻っていないです。
ブナに治療できる施設があったのか?
そこがちょっとわからないんですが。
そのままブナにとどまっていたのか、早いうちに迎えが来てラバウルの病院に入れたのか。
この怪我が原因で9月いっぱい搭乗できなかったのか、あるいは山崎さんのように他の病気を発症してしまい長引いたのか、それはわかりません、
ただ、武田信行氏の取材によると、内地に戻ってきて実家に帰省した折、このときの大けがの痕を幼い弟さんに見せつけて怖がらせた、って話。「前膊負傷」は左腕で盲管銃創だったそうです。



上原さんはというと・・・・8月27日にブナから出撃しているんですよね。26日もブナにいた可能性もあるんじゃないかと・・・・。となると、見送り時に目撃した可能性も。



三人の関係性を表にしたらこんな感じです。
1学年時は中野さんと、上原さん・遠藤さんは分隊が違います。分隊単位で行動することが多かったようなので、もしかしたら1学年時は「顔と名前を知っている」程度だったかもしれません。
操偵分かれてからは三人とも操縦分隊。ただ、班が同じだったかどうかまでは不明です。班が同じだとかなり親しい間柄だったと思います。

飛練中練時は中野さん・上原さんが筑波空。遠藤さんは谷田部空。
飛練実用機に進んでからは上原さんは艦戦で大分空へ。中野さん・遠藤さんは艦爆で宇佐空へ。宇佐の艦爆は10人しかいないので、少人数、かなり親しい付き合いをしたと想像します。

上原さんは16年10月末に飛練卒業後はそのまま実施部隊へ。最初から台南空だったのかどうかは把握していないんですが、わたしは飛練卒後早い時期に台南空に配属されているんだろうなと思っています。
中野さんと遠藤さんは飛練卒後、戦闘機転科のために佐世保空(出水・大村)へ。遠藤さんが17年2月に台南空へ着任しているので、中野さんもそのタイミングでどこかの部隊に着任したのだろうと思います。いまのところどこかは不明。

その後、6月に中野さんが台南空の行動調書に初登場して、完全に三人が台南空で一緒だったという時期に入ります。
ただ、ラバウルとラエで行動していたので、常に一緒にいたわけではないです。
台南空は9期生は多かったのでね。同じ基地にいた9期生同志は何かと寄って話をしたりしていたと思いますけどね。


おそらく今後も中野家を訪ねて来た戦友は誰だったのか判明することはないと思いますが、わたし的には上原さんか遠藤さん、あるいは二人で連れ立ってお話に行かれたのではないかなと思いたいです。
どちらかが「今度の休日、中野のお母さんのところに行こうと思う」という話をしたら、きっと「おれも行く」となるんじゃないかな。
もしかしたら遺品を預かって届けに行ったのかもしれないですしね。現在、釥さんゆかりのものは何も伝わっていないということでしたが・・・・。

ご遺族の方がいろいろと動いてくださっているので、何か見つかるとよいですが・・・・。





※画像は9期生ご遺族、武田信行氏ご提供

養源院ふたたび2026年03月18日 13時39分22秒

一週間前の話なんですが(3月11日)、京都の養源院に行きました。大学時代のツレと。

ここ、伏見城落城時の血天井があります。
関ヶ原の時に、伏見城を守っていた徳川家家臣・鳥居元忠たちが西軍に囲まれ落城、その後遺体はひと月以上放置されていたとかで、かれらが切腹した廊下には黒々とシミが・・・・。供養のために養源院に移設して天井にあげたのだそう。
学生時代にとっていた美術史演習の授業でみなで見学に行ったことがあります。
そのときは天井を見上げているうちに心臓が痛くなって(心臓の持病とかない)、クラクラしながら耐えました。養源院を出たら治りました。
次に行ったのが豊国神社の宝物館?だったのですが、そこでの見学中にも同じ症状に見舞われました。出たら治りました。遺跡とか寺社の見学中にこんな状態になったのは後にも先にもこの時だけです。


というわけで約40年ぶりにリベンジ養源院。
ちょっと迷ったけど無事到着。





わたしは学生時代の思い出としては「血天井を見て心臓が痛くなった」しかなかったんですが、ここは俵屋宗達や狩野山楽の絵画が残っているお寺なんですね。
美術史の演習で来ていたので、おそらく血天井メインではなく安土桃山時代の絵画を見に来たんでしょうね。まったく覚えていなかったです(笑)

しかし、血天井のことはもうろうとしながらも覚えていて、案内の人が棹で天井のシミを指して説明していたのは記憶にあります。
今回も案内の人が棹で指しながら「ここが頭で、ここが左手で」と説明してくれました。
こんなことを言ったら罰が当たるかもしれませんが、説明を聞きながら「無理やり当てはめてない?」と思わないこともなかったです。いま天井になっているこの床板の上で多くの武将たちが亡くなっていた、で十分厳粛な気持ちになります。

中は撮影禁止で画像はありません。

帰りに受付で御朱印をいただきました(書き置き)。



養源院で心臓が痛くならなかったので、お楽しみのランチ!

ツレがハンバーガー屋さんを見つけてくれていたのでそこに行ってみたのですが、定休日でした。残念!(>_<)
ツレがすぐに次の候補を探してくれて(何もかもおまかせでスマンです!(;´Д`))、そこに向かっている途中、850円のハンバーグランチのお店を発見!!(≧▽≦)
「ここでええやん!!」
コスパよすぎん!?
奈良でもいまどき850円でハンバーグランチはなかなかないですよ!?
しかも、わたしの好きなに肉々しくないハンバーグでした。うまかったです~(´▽`*)



ランチの後はまたスタート地点に戻ってきました。
三十三間堂(養源院の道挟んだ向かい)

やはり堂内撮影禁止なので画像はないでーす。

いつ振りやろう。
きっと美術史演習で養源院に来ているので、そのときに三十三間堂も来ているのではないか思うんですが。修学旅行では来ているよな? とにかく初ではありません。
なんかきれいになっていましたよ。お堂以外の部分が。

やはりお寺や神社は個人的に行かないとゆっくり見れないですよね。修学旅行ではガイドさん、演習では先生が解説してくれたと思うんですが、集団で動いているせいかなんかあんまり聞いていなかったんじゃないかな💦
歳とってから自分で興味をもってから行くとまた違いますよね。
仏像には詳しくないんでアレですが、勉強してから行くともっとよかったかも。1000体以上の仏様がいらっしゃるのでじっくり見ていたら日が暮れるレベルと思います(後ろの方はほとんどお顔見えなかったけど)。









そういえば京都、思った以上に人が少なくて快適でした。
まったくいないということはないですよ。コロナ禍の時みたいに。
外国人観光客もいましたが、テレビで見る清水寺みたいな感じでは全くなかったです。
印象としては、養源院も三十三間堂も日本人観光客が主体のように感じました。

ただ、このあと四条河原町に行ったんですが、さすがにそっちはいつも通りの京都で、歩道に人が溢れていました💦

楽しかったです~♪
次はどこ行こうかね~(´▽`*)

大和の城郭と考古学 橿原考古学研究所附属博物館2026年03月16日 22時27分37秒

昨日で終わったんですが(^_^;)
駆け込みで土曜日に行ってきました。

橿考研の博物館で開催されていた「大和の城郭と考古学」。
「橿考研の展示で城郭なんかやったって、誰も行かんて!」
とのんきに出かけて行ったら、なんと! いつもより混んでいました!(;゚Д゚)
これも豊臣兄弟効果か!?



わたし、こう見えても学生時代、、史学科やったんですよ(笑)
国史の授業で、大和の中世城郭の授業があって、それ、とっていました。
あまり覚えていないんですが、奈良の護国神社の近くにある城とか取り上げていました。


何が言いたいかというと、お城もまあまあ興味があると。



けっこう見ごたえありました。
これは郡山城コーナー。
先日、郡山城の櫓で行われている展示を見に行ったんですが、そこに派手な金箔瓦がなかったんですよ。菊紋の、よっく見たら金箔残っている?ぐらいのはありましたが。

これ↓、郡山で見た金箔瓦。
「金はどこ?」
って感じ。
「派手なやつは収蔵庫に隠しとるな」
と思っていました。




一昨日、お目にかかれました@橿考研博物館
橿考研の持ち物らしいです(^_^;)

豊臣兄弟の間だけでも返してもらえ―(;´Д`)



いろいろ勉強になりましたよ。
高山右近が奈良にゆかりの人とは一昨日まで知りませんでした。
高取城に猿石があるのも知りませんでした。

最近、ツイッターで赤色立体地図で古墳を探すの流行っているじゃないですか。
古墳だけじゃなくて、山城とかも探してみませんか、みなさん!
今回の展示でも山城は赤色立体地図が掲示してあるのがありました。郭や土塁の様子がわかりやすいですよね。まだまだ未発見の山城があるかもですよ!(*´▽`*)