鴛渕中尉の不思議な話 ― 2010年04月27日 15時37分27秒
のち、343空戦闘701の飛行隊長になる鴛渕孝中尉。
かれの飛行学生卒業後の経歴に関して、ちょっと不思議な話。
かれの飛行学生卒業後の経歴に関して、ちょっと不思議な話。

世にいくつか出回っている鴛渕さんにまつわる本を見ても、ネット上の鴛渕さん情報を見ても、
「17年8月(または”夏 頃”)、台南空に配属される」
とまことしやかに書かれています。
ネット上のことはさておいて、ママの手元にある書籍でそれらしきことが書いてるものを以下に挙げてみました。
①坂井三郎『戦話・大空のサムライ』光人社
笹井中尉の海兵後輩で、後に紫電改の名隊長となられた鴛淵孝中尉が、延長教育も終わって、在ラバウルの台南空へ、新参パイ ロットとして着任して来たのは昭和十七年六月のことでした。
<中略>
私も笹井中尉のすすめがあって、この若い分隊士に、いくどか空中戦の手ほどきをしたことがあります。鴛淵中尉は、笹井中尉とはひと味ちがった空中戦に対する天性を備えていました。そして出撃するごとに技量をそなえ、生来の素質の上に、目の前で活躍している笹井中尉から受ける刺激もあって、かれは、後年の紫電改隊長となってからの大活躍の原動力を、ラバウルのこの地から見つけ出し、わが身にそなえていったのではないでしょうか。
②豊田穣『蒼空の器』光人社
十七年六月、ミッドウェー敗戦の報を聞いた直後、鴛淵は大分空の教程を卒業、横須賀航空隊で新型零戦のテストパイロットをやった後、大分空教官を経て、同年 八月十五日、いよいよラバウル飛行基地に出撃した。
小さな火山花吹山の近くにある東飛行場、通称ラバウル航空隊に着任すると、「よう、鴛淵、来た か!」と迎えてくれたのは、笹井醇一中尉である。
「やあ、これは笹井生徒。いえ、分隊長!」
鴛淵は懐かしそうに笹井の手を握った。
③ヘンリー境田 高木晃治共著『源田の剣』ネコ・パブリッシング
鴛淵孝大尉は・・・・十七年二月から大分航空隊で戦闘機を専修し、三月中尉に進級、同年六月三〇日同教程修了と同時に横須賀航空隊付となった。横空勤務の後、第一線部隊の台南空(のち二五一空)に転じたが転勤月日が不詳である。
世良光弘「坂井三郎が語る紫電改と343空」(学研『局地戦闘機紫電改』所収)によれば、戦闘七〇一分隊士を勤めた坂井三郎元中尉(ラバウル台南空に一飛曹として在隊時、昭和十七年八月七日重傷、内地送還)は、「鴛淵大尉は、ラバウルで私が直接教えた間柄でした」と言い、のち二人が三四三空で再会したとき、「私の至らぬことで笹井中尉を殺してしまいました」と鴛淵大尉に詫びられたと言うのである。とすれば、鴛淵中尉は、坂井一飛曹の戦傷前にラバウルの台南空に着任し、多数機撃墜者の坂井に最前線の空戦の手ほどきも受けたが、分隊長笹井醇一中尉(兵67)の下で出撃に参加するに至らず、坂井の期待に応え得なかったことを詫びたのであろう。
④碇義朗『紫電改の六機』光人社
飛行学生からいきなり第一線の、それも激戦地で知られたラバウルの台南航空隊で、同期の村田功中尉(十七年八月十三日、ラエ上空で戦死)、大野竹好中尉(十八年六月三十日、レンドバ攻撃で戦死)もいっしょだった。
鴛淵のラバウル着任がいつであったか正確な期日はわからないが、多分、七月末か八月はじめあたりではないかと想像される。
「ラバウルで笹井中尉から、 鴛淵は将来、戦闘機隊長として中心になってもらわなければならない人物だから、存分に鍛えてやってほしいといわれ、一生懸命に教えた」と当時、台南空の先任搭乗員だった坂井三郎が語っているところからすると、すくなくとも昭和十七年八月七日以前ということになる。
なぜなら、この日、初のガダルカナル攻撃に出動した坂井は重傷を負い、数日後、内地に後送されているからだ。
当日の編成表は資料が現存しており、陸攻隊を援護して出撃した台南空戦闘機十八機の搭乗員名もはっきりしている。
その中に鴛淵の名が見当たらないのは、この作戦が片道五百六十カイリ(一千五十キロ)という長距離洋上飛行をともない、しかも相手が相手だけに、鴛淵のような未熟なパイロットは除外されて当然と考えるべきだろう。
坂井は負傷して内地に帰ることになったとき、鴛淵に、「笹井(醇一)中尉を頼みますよ」といって別れたという。だが、それから間もない八月二十六日、笹井中尉は列機八機をひきいてガダルカナルに進攻したまま未帰還となった。
⑤武田信行『最強撃墜王』光人社
鴛淵中尉は、すでに去年八月二十六日にガダルカナルの航空戦で未帰還となった笹井醇一中尉の海軍兵学校の後輩に当たり、大野竹好中尉や、奇しくも笹井中尉と同じ日に未帰還となった結城国輔中尉たちとは海兵の同期であった。<中略>
ところが、ラバウルへ来て早々に兄貴とも慕っていた笹井中尉を失ったショックと、内地とまったく違うラバウルの風土にうまく適応できなかったため、実戦を経験する前にマラリアに罹ってしまったのである。西澤も当時マラリアが再発し、基地の病院に伏せっていたが、やがて戦線に復帰したら、笹井中尉や坂井先任の後を受けて、鴛淵中尉の実戦訓練を任されることになっていた。
だが、西澤が戦線復帰を果たし、ふたたび一騎当千の活躍をしながら、鴛淵中尉の回復を待っていたにもかかわらず、鴛淵中尉のマラリアはいっこうに回復の兆しを見せず、かれの焦る心をよそに、高熱はいつまでも去らなかった。そしてついに台南空は、人員と機材の消耗の末、ラバウルを去る日を迎えてしまったのである。結局、ラバウルでは実戦を経験できずに終わってしまった。
「17年8月(または”夏 頃”)、台南空に配属される」
とまことしやかに書かれています。
ネット上のことはさておいて、ママの手元にある書籍でそれらしきことが書いてるものを以下に挙げてみました。
①坂井三郎『戦話・大空のサムライ』光人社
笹井中尉の海兵後輩で、後に紫電改の名隊長となられた鴛淵孝中尉が、延長教育も終わって、在ラバウルの台南空へ、新参パイ ロットとして着任して来たのは昭和十七年六月のことでした。
<中略>
私も笹井中尉のすすめがあって、この若い分隊士に、いくどか空中戦の手ほどきをしたことがあります。鴛淵中尉は、笹井中尉とはひと味ちがった空中戦に対する天性を備えていました。そして出撃するごとに技量をそなえ、生来の素質の上に、目の前で活躍している笹井中尉から受ける刺激もあって、かれは、後年の紫電改隊長となってからの大活躍の原動力を、ラバウルのこの地から見つけ出し、わが身にそなえていったのではないでしょうか。
②豊田穣『蒼空の器』光人社
十七年六月、ミッドウェー敗戦の報を聞いた直後、鴛淵は大分空の教程を卒業、横須賀航空隊で新型零戦のテストパイロットをやった後、大分空教官を経て、同年 八月十五日、いよいよラバウル飛行基地に出撃した。
小さな火山花吹山の近くにある東飛行場、通称ラバウル航空隊に着任すると、「よう、鴛淵、来た か!」と迎えてくれたのは、笹井醇一中尉である。
「やあ、これは笹井生徒。いえ、分隊長!」
鴛淵は懐かしそうに笹井の手を握った。
③ヘンリー境田 高木晃治共著『源田の剣』ネコ・パブリッシング
鴛淵孝大尉は・・・・十七年二月から大分航空隊で戦闘機を専修し、三月中尉に進級、同年六月三〇日同教程修了と同時に横須賀航空隊付となった。横空勤務の後、第一線部隊の台南空(のち二五一空)に転じたが転勤月日が不詳である。
世良光弘「坂井三郎が語る紫電改と343空」(学研『局地戦闘機紫電改』所収)によれば、戦闘七〇一分隊士を勤めた坂井三郎元中尉(ラバウル台南空に一飛曹として在隊時、昭和十七年八月七日重傷、内地送還)は、「鴛淵大尉は、ラバウルで私が直接教えた間柄でした」と言い、のち二人が三四三空で再会したとき、「私の至らぬことで笹井中尉を殺してしまいました」と鴛淵大尉に詫びられたと言うのである。とすれば、鴛淵中尉は、坂井一飛曹の戦傷前にラバウルの台南空に着任し、多数機撃墜者の坂井に最前線の空戦の手ほどきも受けたが、分隊長笹井醇一中尉(兵67)の下で出撃に参加するに至らず、坂井の期待に応え得なかったことを詫びたのであろう。
④碇義朗『紫電改の六機』光人社
飛行学生からいきなり第一線の、それも激戦地で知られたラバウルの台南航空隊で、同期の村田功中尉(十七年八月十三日、ラエ上空で戦死)、大野竹好中尉(十八年六月三十日、レンドバ攻撃で戦死)もいっしょだった。
鴛淵のラバウル着任がいつであったか正確な期日はわからないが、多分、七月末か八月はじめあたりではないかと想像される。
「ラバウルで笹井中尉から、 鴛淵は将来、戦闘機隊長として中心になってもらわなければならない人物だから、存分に鍛えてやってほしいといわれ、一生懸命に教えた」と当時、台南空の先任搭乗員だった坂井三郎が語っているところからすると、すくなくとも昭和十七年八月七日以前ということになる。
なぜなら、この日、初のガダルカナル攻撃に出動した坂井は重傷を負い、数日後、内地に後送されているからだ。
当日の編成表は資料が現存しており、陸攻隊を援護して出撃した台南空戦闘機十八機の搭乗員名もはっきりしている。
その中に鴛淵の名が見当たらないのは、この作戦が片道五百六十カイリ(一千五十キロ)という長距離洋上飛行をともない、しかも相手が相手だけに、鴛淵のような未熟なパイロットは除外されて当然と考えるべきだろう。
坂井は負傷して内地に帰ることになったとき、鴛淵に、「笹井(醇一)中尉を頼みますよ」といって別れたという。だが、それから間もない八月二十六日、笹井中尉は列機八機をひきいてガダルカナルに進攻したまま未帰還となった。
⑤武田信行『最強撃墜王』光人社
鴛淵中尉は、すでに去年八月二十六日にガダルカナルの航空戦で未帰還となった笹井醇一中尉の海軍兵学校の後輩に当たり、大野竹好中尉や、奇しくも笹井中尉と同じ日に未帰還となった結城国輔中尉たちとは海兵の同期であった。<中略>
ところが、ラバウルへ来て早々に兄貴とも慕っていた笹井中尉を失ったショックと、内地とまったく違うラバウルの風土にうまく適応できなかったため、実戦を経験する前にマラリアに罹ってしまったのである。西澤も当時マラリアが再発し、基地の病院に伏せっていたが、やがて戦線に復帰したら、笹井中尉や坂井先任の後を受けて、鴛淵中尉の実戦訓練を任されることになっていた。
だが、西澤が戦線復帰を果たし、ふたたび一騎当千の活躍をしながら、鴛淵中尉の回復を待っていたにもかかわらず、鴛淵中尉のマラリアはいっこうに回復の兆しを見せず、かれの焦る心をよそに、高熱はいつまでも去らなかった。そしてついに台南空は、人員と機材の消耗の末、ラバウルを去る日を迎えてしまったのである。結局、ラバウルでは実戦を経験できずに終わってしまった。
坂井さんは特に説明はいらないかと思います。ご自身の戦時中の回想です。
豊田譲さんは、鴛渕さんと海兵同期生(68期)で、4号生徒(いわゆる1年生)時、同じ分隊だったそうです(1学年上の笹井さんも同じ分隊)。
『蒼空の器』は、同期生目線の鴛渕さんの伝記です。ですが、ママにはどこがフィクションでどこがノンフィクションかいまいちわかりません。
『源田の剣』は、343空の活躍を記述したノンフィクション、ですか。
『紫電改の六機』は、20年7月24日に未帰還になった343空の6人(鴛渕さん、武藤さん、初島さん、米田さん、今井さん、溝口さん)のことを中心に書かれたもの。鴛渕さんのことを語るときに外せない1冊といっても過言ではないでしょう。
『最強撃墜王』も『蒼空の器』と同じく、虚実入り乱れたまことに始末の悪い本(笑)。本だけ読むと、つい信じてしまいそうな箇所がたくさんあります。主人公は西澤廣義。
まあ、とにかく、↑こんな感じで、「鴛渕中尉=台南空」というのは、ほとんど定説化しているわけです。
しかし、ママは、台南空(ラバウル)の写真をいくら見ても、鴛渕中尉がまったく写っていないことがずっと気になっていました。
17年8月初の指揮所前での集合写真。同期生の大野竹好中尉、結城国輔中尉、村田功中尉は写っているのに、鴛渕中尉だけ写っていない・・・・。
指揮所前で准士官以上搭乗員で撮った集合写真、これにも大野中尉、結城中尉、村田中尉は写っているのに、鴛渕中尉は写っていない・・・・。
おそらく17年秋、内地帰還前に撮ったのではないかと思われる指揮所前での集合写真にも大野中尉は写っているのに(村田中尉、結城中尉は8月に戦死)、鴛渕中尉は写っていない・・・・。
「写真嫌いだったんだろうか? それとも、たまたま写っていないだけだろうか・・・・?」
いよいよ謎が深まったのは、西澤さんの仕事ぶりを調べる ために台南空搭乗員勤怠表を作成したときです。
「おい、おい、おい\(- -;)、鴛渕中尉なんて人、台南空にいてへんやんっ!」
閲覧可能な編制表を全部見ました。全搭乗員分、いつ出撃したのか表にまとめてみたのです。
ママが見た限りでは、「鴛渕孝」という名前は行動調書に一度も出てこないのです。
「『最強撃墜王』の武田さんが言っているように、ラバウルまで来たものの、マラリアで入院しっぱなしだったのでは!?」
なるほどー。そうかもなー(-_-)
で、 このたび、ある知人の方が、
「防研行くから、もし、何か調べてほしいことがあったら調べてきてあげるぜよ」
と言ってくださったので、お言葉に甘えて、
「じゃあ、鴛渕さんの履歴をいっちょお願い♪」
と頼んでしまいました。
結果。
17年6月30日 横須賀空附兼教官
17年8月10日 大分空附兼教官
18年3月29日 251空分隊長
・ ・
・ ・
・ ・
あれ? 台南空は? マラリアは?
要するに、大野中尉や村田中尉、結城中尉らが台南空に配属になったと同じタイミングで鴛渕さんは横空に(宮崎勇さんの手記に、横空時代の鴛渕さんの回想あり)。
その後、大分空で教官。これは写真が残っています(18年3月。神立尚紀『零戦隊長』)。
18年3月29日になって初めて台南空の後身である251空に分隊長としてやってきた、という履歴です。
じゃあ、どうして「鴛渕さん=台南空」なんて話が流布されているのか?
どう考えても、坂井さんの回想がもとのような・・・・(^_^;)
それではこれは坂井さんの作り話かというと、そうとも思えません。というか、思いたくない。
坂井さんは他にも手記の中で「搭乗員取り違え」をやっています。
ほとんど同じエピソードなのに、あるときは”主人公”が遠藤兵曹だったり、本吉1飛だったり。
回想の中で「新参パイロットとして着任して来たのは昭和十七年六月のことでした」と言っているので、どうも68期の他の人と混同されてしまっているのでは?という気がします。
大野竹好中尉、村田功中尉、結城国輔中尉のどなたかです。
③の話の中に『「私の至らぬことで笹井中尉を殺してしまいました」と鴛淵大尉に詫びられた』という記述がありますね。
これがミソで、もし、笹井中尉の件を詫びたのが本当であれば、3人の中では251空で再会しえた大野中尉だけが坂井さんに詫びることができた唯一の人物なので、このエピソードは大野中尉と鴛渕中尉を混同してしまっている可能性があるのではないか、と。
(坂井さんは17年8月7日の怪我がもとで台南空を離れた後、内地で療養中に”脱走”し、豊橋に戻ってきた251空に一時期合流している)

④の話の中に出てくる「ラバウルで笹井中尉から、鴛淵は将来、戦闘機隊長として中心になってもらわなければならない人物だから、存分に鍛えてやってほしいといわれ、一生懸命に教えた」という坂井さんの話も、”鴛淵”の部分を”大野”に入れ替えたって、何の違和感もありません。
将来、戦闘機隊長として中心になってやってもらわなければない人物――大野中尉はそういう人物だったと思います。笹井中尉も目を掛けていたのでしょう。
「坂井さん、鴛渕さんと大野さんを混同する!?」って説、どうでしょう?(^_^;)
将来、戦闘機隊長として中心になってやってもらわなければない人物――大野中尉はそういう人物だったと思います。笹井中尉も目を掛けていたのでしょう。
「坂井さん、鴛渕さんと大野さんを混同する!?」って説、どうでしょう?(^_^;)
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