乙8期 町元善春さん ― 2022年01月02日 14時41分40秒
去年の12月8日は真珠湾攻撃80年ということでテレビやネットニュースなどで盛んに特集が組まれました。
わたしは遺族でも関係者でもないですが、そんなわたしのところにも真珠湾80年の余波が・・・・。
9期島田清守さんの日記のことや、島田直さんの加賀艦攻隊集合写真の件などで、仲介、というんでしょうか。ご遺族の方を紹介してほしいとか、写真を使わせてほしいとか。
そんなこんなで、数ヶ月前から加賀の艦攻隊集合写真を見る機会が増えまして、いろんな情報を取捨選択しつつわたしなりに人物特定を試みていました。
そのことは先日ブログに書きました。
そのときは個人個人をトリミングして出したのでわかりにくかったと思いますが、実はこんなシーンが写っていました。
前、乙8期・町元善春さん(偵察、宮崎)
後ろ、同じく乙8期の久恒吾市さん(偵察、大分)
ふたりとも九州出身なので、予科練の休暇で帰省するときなどは途中まで汽車で一緒にワイワイ帰っていたのかもしれません。
さらにふたりとも偵察員なので、飛練に上がってもそれは続いていたかも。
写真のおふたり、真珠湾出撃直前(12月5日らしい)の加賀艦攻隊総員のオフィシャルな集合写真なので表情は若干硬いですが。
久恒さんが町元さんの肩に手をかけています。
写真全体を見渡してみたところ、他人の体に触れているのは久恒さんだけ、他人に触れられているのは町元さんだけです。
おそらく久恒さんの方から町元さんの肩に手をかけたのだろうと想像できますが、それをした久恒さんの心境、また後ろから久恒さんに肩に手をかけられたときの町元さんの心境、どんなだっただろうと・・・・。
真珠湾攻撃出撃前夜のことが『予科練外史』(倉町秋次)に加賀艦攻隊電信員だった渡辺禎夫さんの回想として掲載されています。
渡辺禎夫さん(加賀艦攻隊集合写真から)
『前夜は眠れた
同期生と特別糧食の葡萄酒を呑み、(「加賀」の八期同期生は渡辺、町元、田中、甲斐の四名)予科練、飛練の思い出を語り合った。
夢も見なかった。誰のことも思い出さなかった。
遺書は二日前に書いておいた。戦死しても力を落とさないように、父母の御恩を感謝する、ということを書いた』
田中一則さん(加賀艦攻隊集合写真から)
甲斐巧さん(訓練時の加賀戦闘機隊集合写真から)
この回想内の( )部分。本に書くにあたって倉町先生が注として加えたものか、渡辺さんの回想時点で入っていたものかは不明ですが、実際の加賀八期生はあとおふたり、艦攻隊の久恒さんと艦爆隊の西森俊雄さん(操縦)。
西森俊雄さん(百里原飛練集合写真より)
倉町先生がお二人のことを失念してつけた注なのか、渡辺さんが前夜一緒に葡萄酒を呑んだ同期生が田中、町元、甲斐だけだったのか、そこらへんはわたしにはわかりません。
町元さんは真珠湾攻撃時、雷撃隊第2中隊長・鈴木三守大尉の電信員でした。操縦員は乙3の森田常記飛曹長。
乗機はAⅡ-356号機。
ご存じの方もいるかと思いますが、鈴木大尉機は雷撃時に撃墜され、自爆。
数日後に米側に機体を引き上げられました。ご遺体もともに・・・・。
鈴木三守大尉
森田常記飛曹長
『予科練外史』より。
『森田常記飛曹長(乙三期)、町元善春二飛曹(乙八期)の最期はすさまじかったという。一緒に行った二番機の田中一則二飛曹(乙八期)の後日の話によれば、分隊長の鈴木三守大尉とペアで出撃、戦艦に対して雷撃に入った直後被弾、火達磨になりながら魚雷を発射してそのまま艦橋に自爆を遂げたという』
八期同期生会誌の町元さんの項に田中さん手記よりの引用があります。
『港内の敵戦艦に雷撃した瞬間前方の一番機が被弾で火炎を靡かせた。町元機だ夢なれ・・・・ 神に祈るも空しく一発心中雷撃を敢行した町元機はよろめく機首を引き起こし命中を確認するや「フォード島」に痛烈なる体当りをなす、時将に午前三時二十八分、「町元喜べ我が奇襲は見事成功せり」』
鈴木機の最期に関しては複数の目撃談が残っていて、被弾して火を吹き海面に激突した、というものもあります。
機体も海中から引き上げられているということで、「艦橋に自爆」や「フォード島に体当り」より海面に激突したものと思います。
去年暮、12月8日より前でしたが、8期生のご遺族の方ら連絡をいただきました。
その時点ではどなたのご遺族の方か知らずにやりとりをしていたのですが、あとになって町元さんのご遺族の方とわかりました。
前に書いたかもしれませんが、やはり同郷の方はつねに気になる存在ですので、町元さんと聞いてもうなんとも言えない気持ちになりました。
特に加賀艦攻隊集合写真に取り組んだあとだったこともあり。
町元さんの予科練卒業アルバムが残っていたんですよ。
年末のお忙しいときに卒アルの個人写真を撮影して送ってきてくださいました。
上にシレッと西森俊雄さんの画像を出していますが、町元さんの卒アルのおかげで百里原8期飛練の20名は判明したと思っています(まだ最終確認はできていません。数名、照合に自信のない人がいる)。
いままでブログで取り上げた中で、他にも8期に関しては保留になっている方がたくさんいます。
県別集合写真の8期生だけがお顔がわからないとか、「このおふたりのうちどちらかが〇〇さんなのだろうけど、わかりません」とか。
それらはちゃんと解決しましたので近々アップしようと思っています。
町元さん、ご遺族の方、ホントに感謝感謝です。
町元さんの人柄に関しては同期生会誌にも書かれていませんでした(人柄以外のことが書かれていた)。
同期生の書きぶりからはどちらかというといじられキャラなのかな?という印象。
『予科練外史』の8期操偵検査の項に町元さんに触れた記述がありました。
操偵検査のため友部分遣隊(のちの筑波空)に向かうのどかな田舎道シーンです。
『馬を引いた若者を見て、町元善春練習生は家からの便りを思い出した。今年は仔馬が二頭生まれたとあったが、昨年の今ごろは自分も仔馬を引っぱり回して遊んでいたっけ・・・・・と南九州の故郷の様がふと心をよぎった』
8期は5月に操偵検査をやっているので、この場合の「昨年の今ごろは・・・・」は予科練入隊の前の月ということになります。
16年12月8日 加賀 真珠湾攻撃
※画像は9期生ご遺族、浅川さんご家族、愛媛零戦搭乗員会ご提供
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