昭和20年4月21日 343空 B29邀撃戦 ― 2008年04月21日 08時54分10秒

戦闘701飛行隊
鴛淵 孝 大尉
駒走俊雄 1飛曹 引き返す
廉島孝幹 上飛曹
藤木喜久男 飛長
木村 勉 1飛曹 不時着
栗田 徹 2飛曹
長谷川正雄 2飛曹 不時着軽傷
大村哲哉 中尉
豊原清志 1飛曹 不時着
船越二郎 1飛曹 不時着
高橋 斌 1飛曹
戦闘407飛行隊
林 喜重 大尉 自爆
石井正二郎 1飛曹
伊奈重頼 上飛曹
川端 格 中尉 引返す
来本昭吉 飛長
戦闘301飛行隊
菅野 直 大尉
田中 弘 中尉 不時着
清水俊信 1飛曹 自爆
常石末保 1飛曹
松村正二 大尉 出発取止め
佐藤精一郎 上飛曹 不時着
今井 進 2飛曹
吉原貞人 1飛曹
堀 光雄 上飛曹 不時着
沖本 堅 2飛曹
林喜重大尉―鎌倉出身。海兵69期。戦闘407飛行隊長。
昭和20年4月21日、B29の攻撃時に被弾し、自爆戦死。
もともと343空の紫電改は戦闘機に対して訓練された飛行機隊でした。ところが、この頃から九州にたびたびB29が爆撃に来るようになり、343空の紫電改もB29の邀撃をやらざるをえなくなってきました。
この攻撃困難なB29をいかにして落とすか、343空でも種々議論がされたようです。4月20日、林大尉の指揮で邀撃に上がったものの、B29を1機も落とすことができませんでした。その日の士官室での議論は特に白熱して、戦闘407の飛行隊長である林大尉が、
「明日落とせなかったらおれは帰ってこない」
と言い、それに対して、戦闘301の飛行隊長・菅野直大尉は、
「そんなにまでする必要はないでしょう。運が悪くて落ちない時はしかたがないじゃないですか。また次の機会にやればいい」
と言い、普段の行状とは人物が入れ替わってしまったような会話が交わされたようです。
「いや、君はそれで気が済むかもしれないが、おれには我慢できない。1機も落とせなかったら帰ってこない」
林大尉はそう言い張り、これにムッとした菅野大尉は、
「あなたがそれほどまでに言われるのならそうしなさい。わたしも落とさなかったら帰ってこない」
と、まるで子供の喧嘩のような言い合いになってしまったということです。
二人とも若いけど歴戦の飛行隊長。なぜ、ここまでヒートアップしてしまったのか、いまとなっては知る由もありませんが・・・・。
ただ、源田司令が林大尉の戦死後に直接菅野大尉からこのやり取りを聞いた、と手記に書かれているので、こんな会話が二人の間に交わされたことは事実なのでしょう。
林大尉は菅野大尉に宣言したとおり、翌日のB29の邀撃から帰ってきませんでした・・・・。
ただし、「1機も落とせなかった」から帰ってこなかったのではありません。なかなか落ちないB29に対し執拗に攻撃を繰り返し、見事1機を撃墜したものの、自身も被弾し、鹿児島県阿久根の海岸近くの浅瀬に不時着(「墜落」と書いたものもある)、着水時の衝撃で頭蓋底骨折、戦死されてしまったのです。
林大尉の戦死された海岸には後に慰霊碑がつくられました。かつての部下たちがそのことを知り、戦闘407の戦死者全員の慰霊碑も新たにつくられたということです。
林大尉のことを評する人は必ずといっていいほど「部下思い」という形容を使います。そんな林大尉ですから、命を落としてしまった部下たちと同じ場所で慰霊されているとしたら、それはかれにとって少しは慰めになることなのではないでしょうか。
参考文献
源田実『海軍航空隊始末記』文春文庫
碇義朗『最後の撃墜王』光人社
碇義朗『紫電改の六機』光人社NF文庫
鴛淵 孝 大尉
駒走俊雄 1飛曹 引き返す
廉島孝幹 上飛曹
藤木喜久男 飛長
木村 勉 1飛曹 不時着
栗田 徹 2飛曹
長谷川正雄 2飛曹 不時着軽傷
大村哲哉 中尉
豊原清志 1飛曹 不時着
船越二郎 1飛曹 不時着
高橋 斌 1飛曹
戦闘407飛行隊
林 喜重 大尉 自爆
石井正二郎 1飛曹
伊奈重頼 上飛曹
川端 格 中尉 引返す
来本昭吉 飛長
戦闘301飛行隊
菅野 直 大尉
田中 弘 中尉 不時着
清水俊信 1飛曹 自爆
常石末保 1飛曹
松村正二 大尉 出発取止め
佐藤精一郎 上飛曹 不時着
今井 進 2飛曹
吉原貞人 1飛曹
堀 光雄 上飛曹 不時着
沖本 堅 2飛曹
林喜重大尉―鎌倉出身。海兵69期。戦闘407飛行隊長。
昭和20年4月21日、B29の攻撃時に被弾し、自爆戦死。
もともと343空の紫電改は戦闘機に対して訓練された飛行機隊でした。ところが、この頃から九州にたびたびB29が爆撃に来るようになり、343空の紫電改もB29の邀撃をやらざるをえなくなってきました。
この攻撃困難なB29をいかにして落とすか、343空でも種々議論がされたようです。4月20日、林大尉の指揮で邀撃に上がったものの、B29を1機も落とすことができませんでした。その日の士官室での議論は特に白熱して、戦闘407の飛行隊長である林大尉が、
「明日落とせなかったらおれは帰ってこない」
と言い、それに対して、戦闘301の飛行隊長・菅野直大尉は、
「そんなにまでする必要はないでしょう。運が悪くて落ちない時はしかたがないじゃないですか。また次の機会にやればいい」
と言い、普段の行状とは人物が入れ替わってしまったような会話が交わされたようです。
「いや、君はそれで気が済むかもしれないが、おれには我慢できない。1機も落とせなかったら帰ってこない」
林大尉はそう言い張り、これにムッとした菅野大尉は、
「あなたがそれほどまでに言われるのならそうしなさい。わたしも落とさなかったら帰ってこない」
と、まるで子供の喧嘩のような言い合いになってしまったということです。
二人とも若いけど歴戦の飛行隊長。なぜ、ここまでヒートアップしてしまったのか、いまとなっては知る由もありませんが・・・・。
ただ、源田司令が林大尉の戦死後に直接菅野大尉からこのやり取りを聞いた、と手記に書かれているので、こんな会話が二人の間に交わされたことは事実なのでしょう。
林大尉は菅野大尉に宣言したとおり、翌日のB29の邀撃から帰ってきませんでした・・・・。
ただし、「1機も落とせなかった」から帰ってこなかったのではありません。なかなか落ちないB29に対し執拗に攻撃を繰り返し、見事1機を撃墜したものの、自身も被弾し、鹿児島県阿久根の海岸近くの浅瀬に不時着(「墜落」と書いたものもある)、着水時の衝撃で頭蓋底骨折、戦死されてしまったのです。
林大尉の戦死された海岸には後に慰霊碑がつくられました。かつての部下たちがそのことを知り、戦闘407の戦死者全員の慰霊碑も新たにつくられたということです。
林大尉のことを評する人は必ずといっていいほど「部下思い」という形容を使います。そんな林大尉ですから、命を落としてしまった部下たちと同じ場所で慰霊されているとしたら、それはかれにとって少しは慰めになることなのではないでしょうか。
参考文献
源田実『海軍航空隊始末記』文春文庫
碇義朗『最後の撃墜王』光人社
碇義朗『紫電改の六機』光人社NF文庫