富雄丸山古墳で新発見 ― 2023年01月26日 14時08分29秒
昨日の夕方、アクセス解析を見たら、立て続けにツイッター経由で訪問している人がいたので、
「霧島水偵隊キター!」
何かのきっかけで注目を集めたのかと思ったら、なんと注目を集めていたのは2年前に書いた富雄丸山古墳でした。
ツイッターで検索したら数十分前に大大大発見のニュースが報道されていました!(゚Д゚;)
2年前に行ったときの写真↓
当時も発掘調査していそうな雰囲気でした。
最近、何年か連続で市民参加の測量・発掘調査をしていたのは知っていました。
その結果、全長が伸びて!?日本最大の円墳ということになったんですよ。
「近所に日本最大があるのか、スゲー(゚Д゚;)」
って見に行ったのが上の写真です。
近所と言ってもそんなに近所でもなく、他の古墳群に比べると近所、ぐらいの意味です。
名前が「富雄丸山」でしょう?
なのでわたしはずっと近鉄の富雄駅の近くなんだと思っていました。
日本一の円墳報道があって場所を調べたら全然富雄駅の近くではなく、むしろ郡山に近い位置。
まあ、駅で言うと富雄駅と近鉄郡山駅の間ぐらいでしょうかね。市境のあたりです。
ちなみに郡山には新木山古墳という陵墓参考地があります。前方後円墳。全長120余メートルというから富雄丸山より格上です。時期的には富雄丸山に続くぐらいの時期ですかね。陵墓参考地なので埋葬施設とか副葬品はわからないです(T_T)
映画にも出てことがある古墳なんですよ!
かんたんな奈良の古墳地図を作ってみました(近鉄の線路は途中で切れています)。
最古の古墳(前方後円墳)は桜井市の箸墓古墳と言われています。
そのすぐ北につらなるように大和(おおやまと)・柳本古墳群という、初期大和政権の王陵群と言われている古墳群があります。
それらに続くのが西大寺駅の北に広がる佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群。広陵町の馬見古墳群もそのころですかね。
その後、王陵は河内(古市古墳群)に移動――という理解でいいんでしょうか。
富雄丸山は前期後半と言われているので、佐紀に古墳が作られていた時期と同じぐらいの時期ですかね。
近つ飛鳥博物館で購入した畿内古墳群消長図のトートバッグ。
富雄丸山が入っている古墳群消長図を探したのですが見つけられなかったので、「ここらへんかな?」と思って入れてみました。間違っているという指摘があれば訂正します。
この消長図、元図はどなたかが論文などで発表された図でしょうね。探したけどわからなかったので、近つ飛鳥博物館のトートバッグということだけ明記しておきます。
白石太一郎先生かなあ???
※20230130富雄丸山古墳の位置、少しずらしました→ここ
場所的な話をすると、富雄丸山って王陵のある古墳群からは独立してポツンと離れた富雄川沿いにあるんです。
しかし、この富雄川沿いというのがポイントで。
ここから下流に下れば大和川と合流し、河内を抜けて河内湖(当時大和川の流路は大阪に入って北上。東大阪の辺りは「河内湖」という潟になって大阪湾とつながっていた)、瀬戸内海へ。
また、上流にのぼっていけば一部陸路をてくてく歩いて天野川経由で淀川→瀬戸内海に抜けられる位置です。いまでも車で富雄川→天野川沿いルートで北河内(交野や枚方)に遊びに行きます。
この富雄丸山古墳で、いままでに類例のない「だ龍文盾形銅鏡」と2メートル超の「蛇行剣」が出土したってのはスゴイことだと思います。
どちらも技術的に「どうやって作ったの!?」って専門家を驚かせているもよう。
しかも、出てきたのが墳頂の主要埋葬施設ではなく、造り出し部の副次的な埋葬施設の方。
主要埋葬施設の方はたしか盗掘を受けていて全容はよくわからないんですよね。それでも三角縁神獣鏡とか石製品とかかなり豪華な副葬品を持っていたよう。
そして今回はきっちり発掘調査で出てきた副葬品。
専門家の人たちもビックリしたらしいですね。「こんなん見たことないぞ!」って。
ちなみにうちの娘がニュースを見た印象→「誰かが埋めたんちゃう?」 母「ちゃうちゃう(;^ω^)」
主要埋葬施設に葬られた人物がどんな人物だったのか、また造り出しに葬られた人が主要埋葬施設の人とどんな関係だったのか、気になるところです。
造り出し付き円墳なので「大王墓」という扱いではないでしょうが、政権の中でかなり特異な位置にいた人物ではないかと想像できますよね。
今後、造り出しの埋葬施設の発掘調査もされるのかな?
棺内から何が出てくるか、期待期待(*´ω`*)
さらに、現状発掘調査できない数多くの王陵にはいったいどんな珍品が副葬されているのか、夢が膨らみます。
膨らんだところで、たぶん発掘調査されることはないのでしょうけど(^^;)