『鎌倉殿』 烏帽子視点 ― 2022年10月18日 14時31分30秒
昨日のブログにちょろっと書いたのですが、最近、『鎌倉殿』を見ながら烏帽子が気になっています。
いつものことなんですが、集団の中で装備の違いが目につくと、
「なんで? 何が違うの? 何を表しているの?」
ってのが気になってしかたがないんですよ。
海軍航空隊で言うと、練習航空隊の人たちが左腕に巻いている腕章が気になったり、救命胴衣の股間の紐の結び方が違う人がいる、なんで????みたいな(^^;)
それと同じノリなんですが、
「鎌倉武士が頭に乗っけている烏帽子。あれは身分を表しているんだろうか? いつも同じ形のものをかぶっているのか、場面場面で使い分けるものなんだろうか?」
いろいろ検索しまくっているんですが、結論から言うとよくわかりませんです。
ちなみにわたし、文学部史学科卒を自称していますが、鎌倉時代なんかまったくの門外漢で、大学4年間のうち鎌倉時代にかすったのはアルバイトで某遺跡を発掘したとき鎌倉時代の屋敷墓が出てきて、真っ黒に変色したご遺骨さんと対面した、あのとき一度きりです。
わたしはまったくそのご遺骨さんにはかかわらせてもらえず、ベテランの調査員の人が毎日長時間、墓壙に渡した板に寝そべって対面状態でご遺骨さんの図面をとっていたのが印象に残っています。
いちおう、『鎌倉殿』の公式サイトに載っていた考証担当の佐多芳彦先生(立正大学教授、中世史)の文章を引用させていただきますね。
まず貴族たちは「立烏帽子(たてえぼし)」が日常着の際のスタンダードなかぶり物です。そのうえで、武士たちはそれよりも格が低い、身分が低いわけなので、その一家の頭領は「立烏帽子」、それ以外はちょっと畳んだ「折烏帽子(おりえぼし)」とか「侍烏帽子(さむらいえぼし)」をかぶるという史実に即した設定にしています。なぜ「折烏帽子」かというと、畳んであるところに髻(もとどり)をぎゅっと中に入れている。つまり、ちょっと動きが激しくても烏帽子が取れないんです。馬に乗ったり戦に行ったりする際は、さらにそこにひもをかけます。「頂頭掛(ちょうずがけ)」というんですけど、ひもをかけて顎の下で結び、烏帽子を固定するわけですね。でも、一家の主人はそこまで動きが激しくないわけなので、貴族と同じ「立烏帽子」をかぶるということにしています。
史実をベースに、佐多さんがこの基本で衣装の考証をしていると解釈していいんでしょうかね。
要するに烏帽子は身分表象。
これを見たら高貴な人、あるいは一家の中でえらいヒトかどうかわかるってことですよね。
※実際にそうなのか、『鎌倉殿』でそういう設定にしているだけなのか、それはわたしにはわかりません(現在調査中)
『鎌倉殿』を見ていると、初代鎌倉殿の頼朝、2代目頼家、いまの実朝、みなさん立烏帽子です。
鎌倉殿ですからね。
(右:実朝さん、立烏帽子が折れていて乳母に叱られるの図)
はて? 2代目、3代目は登場時から鎌倉殿=立烏帽子で違和感なかったけど、頼朝は流人時代があるぞ。そのときはどうだったかな?
と思って見返してみると、流人時代も立烏帽子なんですよね。
女装して逃げるときは折烏帽子っていうんですか、小型の烏帽子をかぶっています。立烏帽子のまま女ものの着物をかぶったらとんがりすぎですぐにばれます(笑)
御曹司ってことで立烏帽子着用だったのかな。
たしかに流人なのにエラそうでしたもんね(笑)
折烏帽子って、これのことだろうと思うんです。
佐多さんは一家の頭領は立烏帽子、それ以外は折烏帽子と言っているので、そういう視点で見ると、小四郎が―――おやじさんを追放して北条家の頭領になったとたんに衣装が黒くなったと話題になっていましたが、同時に烏帽子も折烏帽子から立烏帽子に変わっているんですよ。
ちなみにおやじさんの時政さんは立烏帽子でした。
追放されたいま、どんな烏帽子をかぶっているのか気になります。
で、気になって気になってしかたがないのか、「一家の頭領は立烏帽子」設定のはずなのに、三浦義村も和田義盛も八田知家も折烏帽子なんですよ。もうお亡くなりになられましたが畠山重忠殿も折烏帽子でした。
ちなみにいま立烏帽子をかぶっているのは、鎌倉殿、義時、大江広元、源仲章(このふたりは京由来)ですかね。他にいるかな?
気にならんですか?
立烏帽子の人と折烏帽子の人がいるの。
北条家だけ特別なんだろうか?
そもそもどんな烏帽子をかぶるか、誰が決めるのか。
決まりがあって、それにのっとっているだけなのか。
これら疑問、まったく何も解決しておらず、ただただ、
「(鎌倉殿以外)どういう人が立烏帽子で、どういう人が折烏帽子なーん????」
と思いながら見ている、ってだけの話なんですけどね。
ちょっと余談ですが。
善児とか鶴丸みたいな武士という範疇から外れているような人たちもかぶり物をしています。
烏帽子の簡易版みたいな、くしゃっとした帽子をかぶっています。
武士は烏帽子を寝るときも絶対取らない、頭見せるのは恥、みたいな概念があったそうなので、庶民も似たような感じでかぶり物取らないいんでしょうかね。
で、気づきました?
鶴丸が義時から諱をもらって平盛綱になったでしょう?
あの直後にあった弓大会の場でのかぶり物が折烏帽子になっていたの。
まだ御家人ということではなかったけど、泰時の個人的使用人みたいな立場から北条家の家人になったということなんだなと思いながら見ていました。
烏帽子、おもしろそうですよ。
素材とか構造とか種類とか変遷とか、いろいろ見てみたいなあ。
これからもさらに烏帽子に注目して楽しみたいと思います。