重巡 青葉 ― 2023年01月25日 21時54分18秒
昨日、ちょっと触れた青葉の写真です。
『この世界の片隅に』に登場していた青葉です。
物語の中で何か象徴的な存在でしたよね。
初恋の人?水原さんが乗っていた艦。
姪っ子が見に行こうとして亡くなったときも青葉。
わたしは艦は全然わからんのですが、裏書がありました。
昭和十一年 青葉
昭和11年の海軍特別大演習観艦式の時の写真かも、とのことでした(知人ご教示)。
電灯艦飾っていうんですかね。
戦艦霧島 水偵隊 ― 2023年01月24日 10時51分46秒
※202301250103三宅正之さんの戦没場所と堤虎雄さんの漢字を訂正しました。
先日もちょろっと書いたのですが、数日前、公開できる寸前まで書き上げていたのに全消滅させてしまったのは霧島の水偵隊です。
画像をもう1枚追加しようとして選択したら、思っていた画像じゃなかったんです。
「ちゃうちゃう、これじゃない」
無意識にマウスの戻るボタンを押してしまいました。
「あっ!?(゚Д゚;)」
画面が管理画面に戻ってしまっていました。
「しまったー! バックアップはあるか?」
何をしてもバックアップ画面は出てきませんでしたorz
あそこまで書いて全消滅させてしまい心が折れて放心状態だったところにKさんからメールが。
霧島水偵隊に関する貴重な新情報が書かれていました!!
「さっきの記事、アップせんでよかったー!( ;∀;)」
ってぐらいの新情報でした。
なのでほぼ全部書き直しです。
乙8期が霧島で艦務実習をしたときの集合写真を以前紹介しました。
あの写真を入手したとき、一緒に入っていたものです。
裏書きに「昭和十四年 霧島」と書いてあります。
水上機は全然わからないのでYさんに見ていただいたところ、搭乗員の右に写っているのは94水偵ではないかとのことでした。
もう1枚。
写っているメンバーから上と同じ霧島の水偵隊と思われます。
こちらは後ろに95水偵。
Yさんは4機かなあ?と言われていたけれど、わたしにはいったい何機写っているのかすらわかりません(T_T)
8期の艦務実習写真の撮影場所は艦首、この2枚は艦の後方の飛行機作業甲板ってところでいいでしょうかね?
ネットでプラモデルの作例など検索して見てみましたが「なるほど」って感じです。
飛行機運搬軌条ってのが写っているそうです。
戦艦の水偵隊に関してはわたしはまったく無知で誰一人としてわからないんですが。
ただ、入手した直後に、この写真の持ち主だったのでは?という方はどなたかわかりました。
※左:飛行服写真、右:一種軍装写真
清水洋少佐(兵52)
19年8月2日 第1航空艦隊 テニアン
霧島水偵隊の写真以外に、青葉、海大の集合写真もあり、それに共通する人物がおそらくこの清水洋少佐だろうと。
14年当時、霧島の飛行長です。
8期の艦務実習写真の裏に「実習航空兵記念写真 V長」という書き込みがありました。たぶん「飛行長」って意味だと思うんですよ。ただ、8期艦務実習写真には清水さんは写っていません。
最近、加賀艦攻隊が行き詰っているので、ちょっと違う方面をやってみよう、と思ってこの写真を見返していました。
いつもようにKさんにいろいろ教えてもらい、おかげで数人わかりました。
三宅正之大尉(兵61)
17年2月7日 高雄空 南洋
三宅さんは別写真での確認が取れていません。
辞令公報を見ていて、
「あれ? 霧島だ」
となって、いろいろKさんに尋ねていました。
「戦死状況がよくわからないんですよね。高雄空で17年2月7日に亡くなっているんですが行動調書がないんです」
なんて話したら、
「戦死状況はママさんがブログに書いている通りですよ」
と言われ、
「ああっ!?(゚Д゚;)」
ってなりました。
思い出しました。
高雄空17年2月7日。基地移動中に接触事故を起こして1機墜落しているんです。
8期坂本四月さんの戦死状況として、一緒に僚機として飛行中だった同期の小南良介さんが予科練の倉町先生に話した内容をブログで紹介していました。→ここ
墜落した機は三宅分隊長機だったそうです。
以下の方々は2枚の水偵隊写真を突き合わせていろいろ検討した結果をKさんに伝えてご教示いただき、他の写真を探してほぼ間違いないだろうと思っている人たちです。
荒井秋雄空曹長(操12)
荒井さんは戦後ご健在で特空会の名簿に写真があるということだったので確認したところ、ご本人でした。
さらに、浅川さんの百里原時代の同僚でした。
15年百里原第二士官室集合写真より。
野口克巳1空曹(乙1)
のちに銀河隊の飛行隊長をされていた方です。
Kさんが「あそこに写っているんじゃないか」と言ってくださるんで探すんですが、ホントに写っているんでビックリします。
浅川さんの13年加賀飛行機隊総員集合写真の野口さん。
川崎進さん(乙3)
のち戦闘機に転科。
20年6月3日 252空S316 沖縄
Kさんが戦闘316の集合写真に写っているというので書籍を探してみたところ写っていました。確認。
堤虎雄1空曹(偵26)
堤さん、加賀の艦攻偵察(電信?)員時代。
堀龍生さん(操30)
17年7月17日 横浜空 ソロモン
Kさんと知人Mさんが海兵団や操練時代の写真をお持ちで確認が取れました。
残りの方はどなたかまではわかりません。
2枚の集合写真からわかっている情報を下の写真に書き込みました。
並び列が単純に1列、2列、3列・・・・となっていないのでややこしいのですが、最後列のジョンベラさんたちの一つ前の列の中央に固まっている下士官の左端の人、この人、階級章が見えていないのに「3空曹」としています。どうしてかというと、飛行服写真の方で同じ人が3空曹の階級章をつけているからです。
飛行服写真では、
この人なんですが。
飛行服についている階級章が3空曹なだけではなく、ビックリ仰天、救命胴衣に、
「三空曹」
と書いてあります!
よくあるんですかね?
わたしは初めて見ました。
名前を書かずに階級だけ書いてある救命胴衣(^^;)
どうせなら名前の方を書いておいてほしかった(>_<)
飛行服写真の方は他にも注目点があって、
これこれ、こういうの、好きなんです。
満面笑みで腕を組みにいっています。
しかもこれ、腕を組みに行っている方が1空で、組まれている方が3空曹です。
おふたりの間柄がしのばれてほほえましいです。
飛行服写真の中で、3人だけが落下傘の縛帯をつけています。
荒井秋雄飛曹長、野口克巳1飛曹、そして救命胴衣に「三空曹」と書いてある人。
ちょうど3人いるので、この3人がペアで、直前に哨戒にでも出ていたのか、直後に哨戒の予定があったのか、などなど想像してみています。
荒井さんが操縦、野口さんが偵察なので、「三空曹」さんは偵察(電信)の人なのかなあ?
野口さんの座り位置もおもしろいです。
もうすぐ空曹長になろうかという立場で地べた(甲板)にじか座りしているんで。先任者なのに後列の端っこの方に立っている人なら見たことはありますが、地べたに座っている人ってあまり見ません。
最初、
「飛行服の写真に野口さんがいない、いない」
って戸惑いました。
※霧島以外の画像は浅川さんご家族、知人ご提供
乙8期 艦務実習 霧島 ― 2022年10月07日 09時46分08秒
8期、操縦専修生の半分の艦務実習記念写真のようです。
裏書『実習航空兵記念写真』。
この写真に写っている人たちの氏名を書き込んだ紙がついていて、「実習航空兵」が8期の操縦専修生半分だとわかります。
椅子列は記名がないですが、たぶんこの艦の幹部の人たちじゃないかな?と想像しています。
ジョンベラが8期生で、左の方にいる下士官(3名)が予科練からの引率教員かな? 下士官3名は名前が書いてありましたが、8期の教員氏名を知らないので、「予科練からの引率教員かな?」というのはわたしの想像です。
写っている8期生は操縦専修生で、以前町元善春さんのご遺族の方に見せていただいた卒アル個人写真コーナーから推測するに、操縦分隊全8班あってそのうちの卒アルページ順の後半半分の4班が写っているようだと。
だとしたら教員がひとり足りないのですが(^^;)
練習生のペンネントは「霞ヶ浦海軍航空隊」です。
なのでこれだけでは実習した艦名がわからないのです。
が、写っている練習生の一人、本村静夫さんがどこで艦務実習したかわかっているので、そこから「霧島」。
8期生が艦務実習をしたのは14年6~7月。
このころ霧島艦長は多田武雄大佐みたいですが(wiki)、写っている最高位の人は中佐の階級章みたいだしお顔も多田さんではなさそう。なので、写っているのは副長でしょうか? 当時の霧島の副長は調べていないのでどなたかわかりません。
わたしは軍艦にはまったく詳しくないので、写真からこの艦が霧島かどうかの判別はまったくできません。
ネットでいろいろ画像を検索して見たんですが、そもそも霧島の特徴を知らないんで判断しようもないという(^^;)
この写真で個人的注目は、甲斐巧さんが写っているってところですかね。
真珠湾時、加賀戦闘機隊のあの甲斐さんです。
戦後の同期生会誌の甲斐さんに対する寄せ書きに「2学年の時神経痛で半年働けなくて」みたいなことが書いてあったので、「そんな状態でよく卒業も進級も影響なかったな」と思ったものです。
卒業間際には艦務実習もきっちり参加できるぐらい回復していたんだなと安心しました。
ちなみに艦務実習は学年によって派遣先が違います。
全部把握しているのは9期だけです。
9期は偵察専修生が山城、伊勢、陸奥。操縦専修生が金剛、榛名です。
山城。
島田さんの日記があるので艦務実習中の日程もおおよそ把握できています。島田さんは陸奥です。
8期は操縦専修生の半分が今回の霧島ですね。あと残りの前半分の班は金剛かな。
偵察で扶桑に派遣されている人がいます。
7期の操縦班の一部は伊勢に派遣されていました。
これは艦長の山口多聞さんが写っています。
『予科練外史』では、5期で長門ってのもあったみたいです。
もっと古い人だと、たとえば乙2ですが。
艦務実習は予科練期間中ではなく卒業後、つまり予科練と飛練のあいだに艦務実習期間が設定されているみたいなんです(浅川さん履歴より)。しかも長期間。
浅川さんは愛宕です。
※画像は9期生ご遺族、浅川さんご家族、Mさんご提供。いろいろご教示はKさん。