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BABY-G2021年07月11日 00時15分43秒

かなり唐突に春海に時計をねだられました。


電池交換不必要で、自動で時間合わせしてくれる時計が欲しい、と。

電波ソーラー時計のことだな。

試合で役員をするのに何時何分何秒単位で動かなければならないそうで、みなと秒が合っていないといけないのだそうです。

パパ「ボディガード(BD)ではみなで集まって『誤差なし!』って時計合わせしてたやん」
ママ「海軍航空隊では整列して『よーい、テッ!』で時計合わせしたらしいで」
ふたり「それでええやん」

しかし令和では電波で時間合わせするとかで、『誤差なし』も『よーい、テッ!』も却下されました。




で、春海が選んだのが電波ソーラーのBABY-G。

かわいいやん。

秒は丸窓にデジタル表示されるんですが、アナログの針と重なったら見えにくいね。
機能として針をずらせるみたいだけど、一度ずらしちゃうとたいへん、と店員さん。
店頭で店員さんに丸窓と針を重ねてもらって秒が見えるかどうか確認して「大丈夫、なんとか見える」って買っちゃったけど。

まあ、大事に使ってください。

オランダ屋でモーニング2021年07月11日 12時38分11秒

オランダ屋ってあちこちにあるので全国展開のチェーン店かと思ったら、奈良の地域カフェなんですね。
今回検索して初めて知りました(^^;)


パパ提案で今日はオランダ屋にモーニングに行きました。

だいぶ前から予定していたのですが春海が「試合だ」「役員だ」と言ってなかなか行けず今日になりました。

日曜なのに張り切って6時過ぎに起きて行ってきました。

ドリンク代+250円のモーニング。
バタートースト(おかわりOK)、サラダ、ゆで卵、スープ、あとパン食べ放題。

ドリンクはマンゴーとバナナのスムージーにしました。



バタートーストのおかわりもしなかったし、食べ放題のパンも1回取りに行っただけですがおなかいっぱいに。
お昼ごはん、まったく食べたい気分になっていない一家(笑)

乙2期 小山内末吉さん2021年07月11日 18時06分16秒

※7月13日1109追記の註があるので読んでください。赤字

小山内末吉さんのことは以前個人記事を書いています。→ここ



あのときは9期の操偵検査時の筑波海軍航空隊百里原分遣隊の先任教員としての小山内末吉さんのことを取り上げました。
小山内さんが後輩たち(9期生)に語ったことばも、予科練生としての矜持、後輩たちへの思いなどがよくわかることばだったのでそのまま書いています。


2021年4月から同じく百里原で教員をしていた乙2の同期生・浅川三雄さんの息子さんから当時の写真を送っていただいている中で、新たな小山内さんを発見したので今日はそれを紹介したいと思います。


あ、その前に。
連日の写真観察で小山内さんをほぼ把握できるようになったと自負しています。
9期の操偵検査時の写真を見直したところ、新たに発見しました、小山内教員。
予科練の教員たち(一種軍装)が手前に群れて長椅子に腰かけていますが、前列の一番手前の飛行服の人、小山内さんです。
先任教員として、予科練から引率してきた教員たちの接待も重要なお仕事の一つだったのかな?

他の集合写真も見ていますが、小柄な人です。

前回の工藤さんの投稿で引用した『予科練外史』ラグビーのところに選手として名前が挙がっています。
スポーツマンでファイトマンなんだろうと思います。※イメージです



【予科練時代】横須賀
入隊時の私服。
ちょっと少年ポイ、可愛いですね。

総員集合写真より
やはり軍服を着るとピリッと締まります。



みな剣道の格好をしています。
全員はいないようです。分隊か組ごとの授業なのか。

小山内さん。


【飛練時代】霞ヶ浦




戦闘機。
実施部隊はどちらにいらしたのか、把握できていません。
※母艦の航空隊。


【教員時代】百里原
操練46期の集合写真(14年3月)に写っているので、けっこう初期から百里原にいらっしゃるのだと思います。

で、14年6月が冒頭の9期操偵適性検査時の写真です。

操練49期集合写真(15年6月ごろ?)。
空曹長に進級後。

操練54期の集合写真(15年12月)。




こんな写真もありました。

大尉さん1人、中尉さん1人、残りは空曹長です。百里原の特務士官の集合写真かな?
でも中尉さん、若そうなんだよなあ。
何の集団かちょっとわかりません。
乙2期生は他に浅川さんと青井正雄さんが写っています。青井さんも百里原の教官です。




これは15年の百里原の第二士官室。
特務士官の人たちです。階級章を見た感じでは中尉さん、少尉さん、兵曹長。
こちらの中尉さんはけっこうそれなりのお歳のよう。



これは時期場所共によくわからない写真。乙2期生が空曹長になっているので15年5月以降でしょう。

顔ぶれから乙飛の集まり(雄飛会)なんじゃないかと推定しています。
乙6期の山岸昌司さん(筑波空教員)らしきお顔もありますし、乙6宮武義彰さん(谷田部空教員)のお顔もあります。
椅子列の中に倉町先生がいます。
なので、土浦周辺の航空隊勤務の乙飛の卒業生が集まったのかな?と。
場所がお寺みたいなので慰霊祭かもしれません。
この写真、あらためて紹介します(もう少し研究してみます)。







じつは今日はみなさんにとても見ていただきたい写真があってこの記事を書いているのです。

もちろん、ここまで紹介した小山内さんの写真も「見ていただきたい」という思いは同じですよ。

わたしが一目見て感激した、隊外で撮られた写真があるのでそれを紹介したいと思います。

イメージの話をして申し訳ないのですが、わたしは隊内の小山内さんは先任教員らしくある意味「コワい人」と思っていました。  ※イメージです
そのイメージが一瞬で崩れました。
















かわいらしい少女ふたりと小山内さん。
ネガ袋の注記「H氏宅」   ※実際は実名(姓のみ)です

注記は「H氏宅」だけでしたが、見た瞬間にすぐに、

「小山内さんだ!!」
とわかりました。

先任教員=コワい人、と思っていたのでこの表情を見たときはとても衝撃的でした。

「こんな顔するんだ・・・・」



手を見てください。
少女を抱き寄せる小山内さんの大きな手。
小山内さん、大柄な人じゃないです。でも小さな女子に添えた手が頼もしい大きな手に見えます。やさしい手。
なんかもうこれだけで泣けちゃって。

「お兄ちゃんと一緒に撮ろう」
と両側に呼び寄せて撮ったのでしょうね。

わたしは気づいていなかったのですが、左側の小さな女の子は錨マークの入ったエプロンをしています。



小山内さんの衝撃が去った後、
「この少女たち、Hさん宅の子どもだろうか? いまどうしているだろう・・・・」
でした。


わかったんですよ、少女たちのこと。

経過は割愛します。

少女はH氏宅のお嬢さんたち(姉妹)でした。
お姉ちゃんの方のご家族の方と連絡がついて、ご家族を通じてお話をうかがうことができました。

「右はわたしです」
とのこと。

しかもですよ。
小山内さんのこと、おぼえているそうです。

H家には妹さんと小山内さんのツーショット写真もあったそうです。
今回は、そのままでの写真の掲載も快諾いただきありがとうございました。




当時、小山内さんはH家の2階に下宿していたそうです。
隣家の2階にも海軍さんが下宿していて、ふたりは隣り合った窓から直接行き来をしていたんだとか。

「何ッ!? 泣く子も黙る先任教員の部屋に窓から出入りする強者がいるとは!?(;゚Д゚)」

あやしいのは同期生です。
浅川さんは違うでしょう。窓から出入りするようなイメージがまったくありません。いやそもそも浅川さんの下宿の場所はわたしはだいたい推定できているのですが、H家の隣ということはないんじゃないかな? 近所だったとは思いますけど。
青井さんも、窓から出入りするイメージじゃありません。
あ、スイマセン、いつもイメージで語ってしまっています<(_ _)>
工藤さんはどうだろうか? 鎖骨を折っても試合を最後まで続けたという燃える闘魂エピソードから、
「オッス!」
と窓から入ってきてもおかしくはない――ような?(^^;)

あとおひとり、わたしの中での候補は徳永さん。
乙3の後輩ですが、徳永さんは南昌飛行場にアレした人ですからね。
先任教員の部屋にも窓からアレするかもしれない――。

いろいろ想像すると楽しいです。
玄関から出入りするとその家の家族を煩わすことになります。なので直接窓から部屋を行き来していたのかな。下宿の主人家族に対する気づかいだな、きっと。
それを子どもたちが知っていたというものおもしろいです。
子どもたちが部屋に遊びに来ているときに、窓から、
「ちーす」
って隣家の下宿人が入って来たことがあったんでしょうかね(笑)

それとも子どもたちが、
「小山内のおにーちゃーん」
って部屋に遊びに行ったら、ちょうど小山内さんが窓から出て行こうとしていたとか。
ドラえもんか!

※ここら辺はすべてわたしの妄想です。
史実は「隣りの下宿人(海軍)と直接窓から行き来していた」ってだけです。




小山内さんが下士官時代の写真なので、昭和14年~15年4月ごろまでの写真。
81、2年前の話です。


そして17年10月26日南太平洋海戦、小山内さんは瑞鶴第一次攻撃隊の制空戦闘機隊第二小隊長として出撃し、還らぬ人となりました。




森史朗『空母対空母 空母瑞鶴戦史〔南太平洋海戦篇〕』(光人社NF文庫)に描かれた小山内さん。

出撃前の瑞鶴搭乗員待機室。
「制空隊零戦は瑞鶴から八機編成で、隊長白根大尉、第二小隊長小山内末吉飛曹長、第三小隊長横田艶市一飛曹以下八名が待機状態のくつろいだ表情でいた。
小山内飛曹長は旧一航戦赤城乗組で白根大尉とともに中国戦線、真珠湾攻撃の戦火をくぐりぬけてきたベテラン搭乗員である。」
※小山内さんと白根斐夫大尉は中国戦線で一緒になっているのかな? 白根大尉が12空に着任したのは14年9月。当時小山内さんは百里原で教員勤務中。
真珠湾攻撃時も、白根大尉は鳳翔分隊長(真珠湾参加せず)、小山内さん赤城(真珠湾参加)。


小山内さんは第一次攻撃隊、高橋定大尉率いる艦爆隊の直掩任務。
ホーネットに向かった艦爆隊のうち左翼側・石丸豊大尉の第三中隊が、攻撃開始前に敵空母上空直衛戦闘機(リンド小隊・グラマンF4F、4機)に狙われた時のこと。
「その最左端の”カモ番機”ともいうべき機が、操縦宮原長市一飛曹の九九艦爆であった。だが、宮原機の危機は上空から駆けつけてきた白根隊第二小隊、小山内末吉飛曹長、甲斐巧二飛曹、二杉利次一飛の零戦三機によって危うく救われた。
小山内飛曹長は埼玉県出身、昭和六年、高等小学校卒業後、乙飛予科練に進み、第十三空、空母赤城、瑞鶴と転戦したベテランパイロットである。赤城では真珠湾攻撃に参加し、ヒッカム飛行場銃撃では全弾を射ちつくして帰投してきたという闘志の持ち主。
この日の空中戦闘でも、たちまち猛スピードでリンド隊の二番機ジョージ・L・ウレン少尉機を追いつめ、「零戦の技術に強烈な印象をうけた」と同少尉を感嘆させている。ウレン機は急反転して追尾したが、小山内機に巧妙にかわされ、自分が失速しそうになった。また後尾スレスレに零戦が急追してきたため、いそいで急降下して難をのがれた。」
※わたしの手元にある知人作成の「予科練名簿」では出身地は「樺太」。「北海道」と書かれたものもあるようです。
「第十三空」の根拠はわたしは見つけられていません。


甲斐さんは南太平洋海戦時、小山内さんの2番機だったのですね。
小山内さんにかわされたウレン少尉機を続けて追尾したのは甲斐さんだったのかも?


戦の詳細はここに書ききれません。

瑞鶴第一次攻撃(艦爆)隊。
艦爆21機のうち自爆・未帰還12機、不時着水5機、戦死26名(石丸中隊は全機未帰還)。
戦闘機8機のうち自爆・未帰還2機、不時着水1機、隼鷹に着艦3(1機は艦爆?)、戦死2名。

小山内さんは瑞鶴に戻ることはありませんでした。



橿原神宮瑞鶴慰霊碑横の戦没者名録




あの日から79年が経とうという今日、いまでも小山内さんのことを記憶にとどめてくれている人がいることに胸が熱くなりました。




※画像は9期生ご遺族、浅川さんご家族、愛媛零戦搭乗員会ご提供
H家の方々に感謝申し上げます。
※Kさんご教示。ずいぶん前にKさんから白根さんの経歴を教えてもらっていたのをうっかり失念していました。