乙3期 徳永有さん ― 2021年07月18日 11時52分19秒
9期の操偵検査時の教員の一人、乙3期の徳永有さん。
いままで何度か書いています。
今回、浅川さんの写真にたくさん写っていたので追加してまとめなおしということで。


これは9期生の遺品の中にあった操偵検査時の教員集合写真の徳永さん。
原田さんはこの人に「工藤さん」と書かれていたのですが、わたしのPC内の「出どころがはっきりした写真フォルダ」に徳永さんの写真があったので、それと照合し、この方は徳永有さんであると判断しました。

操偵検査時の練習生も一緒の集合写真から。
島田清守さんの日記にも徳永さんのお名前が出てきます。
6月10日(土) 操偵検査も終わり、退隊準備完了――
『一時頃終リテ其レヨリ先輩ノ三期生徳永一V(空)曹ヨリ実戦談ヲ聞ク。殊勲甲ダ。矢張先輩ハヨイ。恣(知?)ッタリスルノモ先輩、実戦隊ヲ話シテ下サルモ先輩。予科練ノ伝統ヲ何事ニモ持チ出スノダ。先輩ノ有難サヲ真ニ知ッタ。』
6月11日(日) 霞空に帰隊後の話。
『午後外出。百遣の徳永教員と土浦にて合い倶楽部にて色々の事を話を聞いた。矢張り先輩だけに何となく其の気持が違う。ああ我等乙種予科練は先輩がいるので心強い。大いにやろう!! 徳永教員、後輩の私達を待っていてください』
※百遣・・・・筑波航空隊百里ヶ原分遣隊
徳永さんの殊勲甲の実戦談というは何度もここに書いているのでいまさらですが、15空時代の南昌飛行場焼き討ちの一件です。

15空当時の徳永さん。 ※15空アルバムより
昭和13年7月19日大阪朝日新聞一面
※なるべく旧字体・仮名遣いそのままに努めましたが、そのままになっていない部分もあります
【豪膽・南昌飛行場へ敵中着陸】
敵機廿を撃墜、焼拂ひ
格納庫内まで虱潰し
敵機廿を撃墜、焼拂ひ
格納庫内まで虱潰し
の大見出し。
【南京特電十八日發】艦隊報道部発表(十八日午後八時)
一、十八日黎明海軍航空隊は南昌敵軍根拠地を攻撃せり、わが飛行機隊の緊迫せるを知るや敵機約十五機は倉皇として離陸遁走せんとせしも南郷大尉指揮の〇〇機〇機は機を失せずこれを急追忽ちその八機を撃墜す、敵重爆機三機、戦闘機九機逃げ遅れて南昌新飛行場にあるを認めるや松本少佐指揮の〇〇機〇〇機は急降下爆撃に引続き猛烈果敢なる低空飛行により反復銃撃を加へ内七機を炎上せしめたり、しかるに機銃弾尽きたるも炎上せざるなほ若干残存せるを認むるや豪膽極まりなき〇〇機〇機は敢然敵飛行場に着陸を決行し、飛行機より躍り出して敵機に迫りマッチなどをもって放火一機残さず炎上せしむ、この間敵重爆機に装備しありたる機銃弾装二箇を戦利品として分捕り、更に敵格納庫内部飛行場の周辺を悠々隈なく偵察し鉄器の潰滅したるを確認しかつ燃料補給車を追ひかけ田の中に顚覆せしめたるのち離陸、全機無事帰還せり、地上の敵は全く膽を奪はれ唖然として何らなすところなく徒らに遠距離より我が行動を見守るのみなり、その間渡辺大尉指揮の〇〇機〇機は旧飛行場を攻撃せるもをとり機数機あるほか敵機を見ず、飛行場施設に大打撃を與へたるのち全機帰還せり
【〇〇にて岡美千雄特派員十八日發】
十八日朝南昌大空襲で海軍航空隊松本眞実少佐の指揮爆撃隊のうち小野二空曹、小川正一中尉らの〇機は相次いで敵空軍の心臓南昌飛行場に着陸、大膽にも地上に降りてマッチや木片で敵機を焼拂ったが、この日南昌一帯は絶好の空襲日和で、最初これら爆撃隊は猛然飛行場へ急降下爆撃を加へ、さらに地上〇〇メートルの低空飛行で地上掃射を加へたが地上の敵機は全然燃えなかったので、まづ小野二空曹機がわが爆撃でアバタのようになった飛行場の眞中にたった一本残った滑走路に着陸、ころげまろびつ逃げる敵に機関銃弾を浴せ、さらに小川正一中尉ら相次いで〇機が翼を揃へて着陸、機関銃では手ぬるいと敵機のそばにかけよりマッチや飛行場に散らばった木片で地上のソ聯製S・B重爆機二機をはじめ蒋介石が虎の子のやうにしてゐる戦闘機E十六型をはじめイギリス製グラヂエーターなどに片っ端から火を放ち、さらに勇敢にも手分けして十棟に餘る格納庫の中に次々と入り込みいづれも格納庫は蜂の巣のやうに穴があき格納庫中には無残にも壊れた飛行機だけで物の役に立つものはないのを見とどけ、小川機を最後に全機悠々帰還したものである、なほ戦ひの眞最中白昼堂々敵の心臓へ着陸火を放ったといふことは世界戦史空前のことで敵兵も全く度膽を抜かれてゐた
十八日朝南昌大空襲で海軍航空隊松本眞実少佐の指揮爆撃隊のうち小野二空曹、小川正一中尉らの〇機は相次いで敵空軍の心臓南昌飛行場に着陸、大膽にも地上に降りてマッチや木片で敵機を焼拂ったが、この日南昌一帯は絶好の空襲日和で、最初これら爆撃隊は猛然飛行場へ急降下爆撃を加へ、さらに地上〇〇メートルの低空飛行で地上掃射を加へたが地上の敵機は全然燃えなかったので、まづ小野二空曹機がわが爆撃でアバタのようになった飛行場の眞中にたった一本残った滑走路に着陸、ころげまろびつ逃げる敵に機関銃弾を浴せ、さらに小川正一中尉ら相次いで〇機が翼を揃へて着陸、機関銃では手ぬるいと敵機のそばにかけよりマッチや飛行場に散らばった木片で地上のソ聯製S・B重爆機二機をはじめ蒋介石が虎の子のやうにしてゐる戦闘機E十六型をはじめイギリス製グラヂエーターなどに片っ端から火を放ち、さらに勇敢にも手分けして十棟に餘る格納庫の中に次々と入り込みいづれも格納庫は蜂の巣のやうに穴があき格納庫中には無残にも壊れた飛行機だけで物の役に立つものはないのを見とどけ、小川機を最後に全機悠々帰還したものである、なほ戦ひの眞最中白昼堂々敵の心臓へ着陸火を放ったといふことは世界戦史空前のことで敵兵も全く度膽を抜かれてゐた
同じ紙面の記事です。
まるで記者もそこに立ち会ったかの如く、ものすごい臨場感です。
・隊名は伏されていますが、十五空です。
・南郷大尉はこの攻撃で戦死されています。
・徳永さんのお名前は出ていませんが、相次いで着陸した〇機の中に徳永さんも入っています。
・上の記事の最後に「渡辺大尉指揮の・・・・」と触れられているのが我らが浅川一空曹の所属する艦攻隊です。浅川さんは指揮官機の操縦員。
奇しくも83年前の今日の出来事です。
9期生にとっては予科練入隊後ひと月半ほど。
新聞にこれだけ大々的に載ったのですから、練習生たちにも伝えらえたことでしょう。
「お前たちの先輩も含まれているぞ」
と。
※桑島勝2空曹(乙2)、徳永有2空曹(乙3)
同じ大阪朝日新聞の7月23日の紙面には、
南昌飛行場敵中着陸の猛者=右より【前列】地徳一空曹、小川正一中尉、桑島二空曹、【後列】濵上三空曹、小野二空曹。宮里一空曹=二十一日〇〇基地にて林田特派員撮影(福岡より電送)
として、6人の写真が紹介されています。
残念ながら徳永さんペア(偵・別宮利光一空)のお顔は見えませんが、すごいフィーバーぶりです。
※戦闘詳報では宮里さんは一空、「濵上三空曹」は「浜ノ上」。「地徳一空曹」は「山地徳良一空」のこととと思われる
※戦闘詳報には各機の行動がさらに詳細に記載されています。新聞には書かれていませんが小野機ペアは拳銃を使用しています。十五空時代の浅川さんが拳銃を携帯している写真が残っていて「敵中に不時着したときに身を処すためだろう」と思っていましたが、まさかこんな使いかたがあるとは・・・・。
引用が長くなりましたが、徳永さんの15空時代のエピソードです。
藤代護さんも自身の手記『海軍下駄ばき空戦記』に、
わたしの教員は、支那事変で敵の飛行場に強行着陸して、格納庫内の敵機を拳銃で焼き打ちした先輩四期の徳永一等航空兵曹であった。太い眉毛に、炯々たる眼光、その底に慈愛にみちた笑みがたたえられている偉丈夫であった。
わたしの教員は、支那事変で敵の飛行場に強行着陸して、格納庫内の敵機を拳銃で焼き打ちした先輩四期の徳永一等航空兵曹であった。太い眉毛に、炯々たる眼光、その底に慈愛にみちた笑みがたたえられている偉丈夫であった。
※四期ではなく三期
※戦闘詳報には徳永さんの拳銃使用は触れられていません
その後、徳永さんとの同乗飛行の様子がつづられています。
うらやましいっす(・∀・)
着陸時、
高度計が五十メートルを切ったところで、教員の声である。
「手を離せ」
ヤレヤレ・・・・と思いながら、操縦桿から手をはなし、スロットルレバーからも左手をはなす。教員が機を三点の姿勢にして、すべるように着地した。まったくバウンドもしない。うまいもんだなーと思いながら、前後左右を見張った。
「手を離せ」
ヤレヤレ・・・・と思いながら、操縦桿から手をはなし、スロットルレバーからも左手をはなす。教員が機を三点の姿勢にして、すべるように着地した。まったくバウンドもしない。うまいもんだなーと思いながら、前後左右を見張った。
そりゃあ戦地帰りですから、うまいもんですよ。
藤代さん的にはけっこう操縦に自信があったようですが、フタをあけてみたら偵察でした。
本人が思っていたほど操縦がうまくなかったのか、偵察に適性を見出だされたのか。
百里原教員時代の徳永さん。

順番が前後しますが、操練46期の集合写真より。
9期適性検査より前です。


後輩教員(小林正さんと?)の肩に肘を乗せくつろいだ様子の徳永さん。


8期飛練(乙8)の集合写真から。

兵曹長進級後。
操練では?と思うのですが何期か不明の集合写真より。

飛練12期集合写真より。


筑波山神社の徳永さん。
戦死されたのは17年8月2日。
台南空の陸偵隊です。

ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラ―リングボールド共著(平田光夫訳)『台南海軍航空隊【ニューギニア戦線篇】』(大日本絵画)、
『話を8月2日朝に戻そう。この日、すらりとした二式陸偵の1機がラエを発進してポートモレスビーの偵察に向かったが、0900少しすぎにラエ基地にはこの徳永有(たもつ)飛曹長機から敵機に遭遇との緊急通信が入電した。彼はこれがようやく同機により3回目の実戦飛行だった(同じペアで7月28日と29日にも偵察飛行を実施)が、彼と偵察員の班目昇1飛曹と電信員の森下八郎1飛兵が未帰還となった』
※本にはこれが2式陸偵3回目で7月28日と29日、同じペアでと書かれていますが、行動調書を見るとそうではないようです。
この本によると、撃墜した側の記録が残っているそうです。
ペアの偵察員・斑目昇1飛曹は7期生。

台南空戦闘機隊には乙飛の後輩たちも数多くいました。
先輩の未帰還は衝撃だったことと思います。
※画像は7期生・9期生ご遺族、浅川さんご家族ご提供