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羽藤一志3飛曹2008年10月21日 11時51分09秒

だんだん手抜きになってきた・・・・
『日本海軍戦闘機隊』エース列伝より引用。

羽藤一志 2飛曹 NAP 2/C Kazushi Uto

台南空で「ポッポ」と愛称されていた白面の温厚な若年パイロットであったが、坂井三郎の列機をつとめ、地味にスコアを重ねていった。
大正11年愛媛県に生まれ、昭和16年10月乙9期飛練を卒業して、翌年2月台南空に配属され、4月ラバウル、ついでラエに進出して10日のモレスビー攻撃で初戦果をあげていらい、ニューギニア、ソロモンに転戦、9月13日のガダルカナル島攻撃で行方不明になるまでの半年足らずに、19機(公認)を撃墜した。



ネットで調べても、まあ、だいたい上と同じ内容の「羽藤一志」が出てくるわけです。ウィキペディアにもこう書いてあったなあ。ここが元ネタかな?とママは思っているのですが。

誰も突っ込んでいる人がいないので、ママが突っ込んでもいいかなあ?
別に「嘘ばっかしやんけ(怒)」と突っ込んでいるわけではなく、例によって例の如く妄想込みでの突っ込みなので、気を悪くなさらないでください。

どっから突っ込もうかなあ~(^o^)
まず名前! 苗字に”Uto”という読みがついているのですが、ママ妄想では”Hato”ということで。
坂井さんも『大空のサムライ』に書いていますが、かれの愛称は「ポッポ」。別に羽藤兵曹がハトに似ているとか、動きがハトっぽいというわけではないと思うんですよね~。ママは名前が「ハトー」だから「ポッポ」って愛称になったんだと思い込んでいます。
(「羽藤」なんて変わった名字だなあ、と思ったのですが、ネットで検索してみると、かれの出身地・愛媛県では割とメジャーな名字のようです。いっぱい引っ掛かりました)

一番突っ込みたいポイントはここ!!
「翌年2月台南空に配属」
これです。いったい、どこからこういう話になったのか、ママにはさっぱりわからないのですが、羽藤兵曹が17年2月に台南空に配属された事実は見当たりません。
羽藤兵曹が17年2月に配属されたのは「千歳空」ではないかと思います。ただ、正式にいつ配属されたのかは不明です。千歳空の編制表で最初に羽藤兵曹の名前が出てくるのが17年2月2日。この前、数日のうちに配属されたのではないでしょうか。

千歳空戦闘機隊とひとくちにいっても本隊(? 飛行隊長・岡本晴年少佐の所在地)はトラック、その他タロアやルオットにも分散していました。
このうちのトラック隊が瑞鶴・翔鶴でラバウルに運んでもらった、というグループなのです(西澤さんもいるよーん)。1月下旬にトラックからラバウルに移動しています。
その移動先のラバウルで、羽藤兵曹はじめ、新井正美、後藤龍助、熊谷賢一、木村裕、鈴木松巳、といった乙9期戦闘機専修の同期生が千歳空に合流したようです。これらの人たちはのち、4空経由で台南空になります。

2月下旬になって千歳空戦闘機ラバウル隊は4空戦闘機隊に編入されたようです。
翌3月も同じです。ところが、羽藤兵曹、どういうわけか4空の編成表に名前が出てません。
4月に台南空に編入された当初は、台南空本隊はまだ到着しておらず、元4空搭乗員だけで戦っているのですが、そこに羽藤兵曹の名前があるので、別によその隊に転勤になったというわけではなさそうです。病気でもして休んでいたのだろうとママ妄想。

というわけでママペディア的にはここは訂正して「17年2月ラバウルの千歳空に着任、その後、4空を経て4月に台南空」ということで。


「(4月)10日のモレスビー攻撃で初戦果をあげ」
自分で調べてみたのですが、4月10日のモレスビー攻撃(河合四郎大尉指揮)には羽藤兵曹の名前、ないんですよねー。10日は羽藤兵曹はラエで上空哨戒任務です。
翌11日のラエ上空哨戒中にP‐40を1機撃墜しているようなので、これの間違いでは?
坂井さんも「編制表と、実際の出撃メンバーは違う」みたいなことを書かれていましたが、確認のしようがないので、とりあず、ママ的には羽藤兵曹の初戦果4月10日説は却下して、翌11日ということで。


「坂井三郎の列機をつとめ」
たしかに坂井さんの列機として出撃していることもあります。しかし、しかしですね、ことさら「坂井の列機」と強調するほど列機だろうか、というのがママの突っ込みです。
基地上空哨戒や急な敵機邀撃をのぞいた、大規模な出撃や船団上空哨戒時、果たして羽藤兵曹はだれと飛んでいるのか、そこらへんママ独自に調査(?)してみました。

4月に台南空になってから、羽藤兵曹が一緒に出撃した小隊メンバーは別に固定というわけではなさそうです。
小隊長だけ挙げると、山口馨中尉、吉野俐飛曹長、宮崎儀太郎飛曹長、半田亘飛曹長、太田敏夫兵曹、西澤廣義兵曹・・・・まあ、いろいろいます。ちょっと吉野飛曹長が多いかなあ・・・・という気はします。千歳空―4空―台南空のよしみでしょうか。でも、羽藤兵曹が出撃を休んでいる間に、吉野飛曹長は戦死してしまいました・・・・。
6月下旬から7月初めにかけては高塚寅一飛曹長の列機として結構一緒に飛んでいます。
7月下旬は林谷忠中尉(海兵67期)に気に入られたのか、ずっと一緒です。
さて羽藤兵曹の「坂井三郎の列機」時代ですが、ママ調査では7月30日から坂井さんが怪我をして戦線離脱する8月7日まで3回、ということで!
それ以前は1回あるだけなので、集中的に列機として飛んでいるこの時期を「坂井三郎の列機」時代と名付けたいと思います。短いですよ(^_^;)
ちなみに坂井さんが戦線離脱してからは8月9から8月26日まで7回、笹井醇一中尉の3番機として出撃。
笹井中尉が戦死した8月26日のガ島陸攻隊掩護時も羽藤兵曹が3番機でした。
そのとき2番機だったのが大木芳男1飛曹ですが、笹井中尉の戦死後、羽藤兵曹が戦死する9月13日までの間は、大木1飛曹が小隊長として羽藤兵曹を列機にして6回出撃しています。

気に入られたら、とことん使ってもらうタチの人だったみたい、羽藤兵曹って・・・・。

「19機(公認)を撃墜した」
ここは調べていません。調べても無駄?
撃墜機数は把握していませんが、おもしろい撃墜例を見つけました。17年5月13日、3号爆弾でB‐17を不時着させたのではないか、という記録。ママにとっては「19機」より、こっちの方がおもしろかった。

結論!!
羽藤兵曹は技倆優秀で性格もよく、一度上官が気に入ると手放したくなくなる好青年だった!!
で、どうでしょうか?
もちろん、ママ妄想てんこもりで。