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マリアナ沖海戦の652空戦爆隊 飛鷹・龍鳳組2026年01月14日 20時38分08秒

乙8期の東富士喜さんの写真の中に、マリアナ沖海戦時の652空の戦爆隊と思しき集合写真がありました。



知人何人かに聞いてまわったところ、同じ写真(東富士喜さんのもので、提供は奥さま名)が川崎まなぶさんの『マリアナ沖海戦』(大日本絵画)に掲載されていて、しかもどれが誰さんか特定済みとのことで。

『マリアナ沖海戦』によると652空の戦爆隊で、飛鷹発艦組と龍鳳発艦組の集合写真で、飛鷹艦上で撮られたものだとのこと。



写っているのは、
後列左から、
占部正道2飛曹(丙13)、不明、不明、佐藤孝治上飛曹(操47)、不明、不明、不明、金高菊雄2飛曹(丙12)
中列左から、
不明、東富士喜飛曹長(乙8)、村上武大尉(兵70)、矢田義治1飛曹(乙16)、富田勝夫飛長(丙15)
前列左から、
不明、木須奨2飛曹(丙12)、野口八郎上飛曹(乙12)、小泉繁造上飛曹(操55)、岡澤清忠上飛曹(甲7)、植竹巧上飛曹(甲9)

だそうです。※出身期は『マリアナ沖海戦』巻末編制表より
わたしは東さん以外は確認できていません。



これが巻末編制表から抜き出した652空戦爆隊の昭和19年6月19日・20日の編制です。
写真に写っているとして氏名が書かれているのはオレンジベタの人です。

ふつうに考えたら、「『不明』と書かれている人はベタなしの人では?」と考えます。




写真に氏名を入れてみました。
赤が『マリアナ沖海戦』参照、緑がわたしが書き加えた人です。
※氏名が間違っていたので差し替えました。202601150011


富永勝馬さん(乙16)なんですけどね。後列左から2人目。
いや、富永さんのお顔、知らんですよ。
名札がね、「富永」に見えるんですよ。
※色調調整しました

隊に富永が二人いない限り、乙16の富永勝馬さんでいいかなと。本当は富永さんであると確かな別写真で確認したいんですが、あいにくわたしは富永さんのお写真を持っておりません。名札からの推測です。




そういう意味では後列左から6人目の人も名札の文字が見えているんですよね。
※色調調整しました

編制表に名前があるのに写真に写っているとされていない人はほかに、長谷川達さん(甲10)、高木清一さん(丙11)、上岡啓男さん(丙7か8)、奥田鼎さん(甲9)ですかね。
「髙木?」とも思ったんですが、これはちょっと保留で。




あと一人、
お名前は書き込んでいないのですが、○○さんかな?という人がいます。
東さん、この写真のお顔のところに3人だけ○囲みしているんですよ。
後列左端の占部さんと、東さん本人、前列左端の人。
占部さんと東さんの共通点は同じ小隊ということ。
ということは、もうおひとりは20日の列機の一人、奥田鼎さんかな?と想像しているんですが。
奥田さんもお顔がわかる別写真がないので、あくまで想像です。
奥田さん、検索してみたらヒットしました。653空S166(昭和19年9月)の奥田さん搭乗機の塗装が出てきました、日の丸の中に「奥」と描かれた機体です。プラモデル化されているようです。
奥田さん、10月24日の比島沖海戦では9期の武田清さんと同じ小隊で出撃されているようですが、「エンジン不調で引き返す」になっています。


編制表にお名前がある人を入れてもまだ不明者がいるので、予備員みたいな人もいるのかなと思います。


もし、編制表にお名前があるのに写真に記名されていない人、「顔知っているで」って方がいらしたらご一報いただけるとうれしいです。





この写真、裏書がありました。




※画像は乙8期東富士喜さんお孫さんご提供

熊本県出身者 6~8期2026年01月12日 18時18分33秒

この話、書きましたかね?
数年前に神野正美さんから、
「8期の東富士喜さんの住所知らない?」
って聞かれました。
9期ならまだしも、8期生は知らんです――
みたいな返事をしたような気がするんですが、戦後の同期生会誌を見たら県と市まではわかりました。なので、それをお伝えしたらそこまでは神野さんもご存じでした。

話はいったんそれで終わったんですが、それから少しして(数日後? 数週間後だったような?)、予科練慰霊祭に参列していたYさんから、
「いま8期の東さんのお孫さんと一緒にいるよ~」
とメールか。

「なんですとー!?(;゚Д゚)」

そりゃもうビックリしました。
「神野さんが連絡取りたがっているから東さんのお孫さんとつないでほしい!」
そうお願いして連絡先をお聞きしました。

そのご無事に神野さんと東お孫さんは連絡が取れ(面会もされたらしい)、ひとまずホッ。

こういうのをご縁というのだろうなと思います。
必然というのかな。



わたしもしばらくはメールでのお付き合いだったのですが、今年の予科練慰霊祭で面会を果たし、10月の瑞鶴慰霊祭には東お孫さんが奈良に来られ参列されたりってことがありました。

去年の終わりごろに、富士喜さんの残した写真類をお借りすることができ、せっせとスキャンさせていただいていたのですが、ようやく一段落しました。
撮れる分は撮れたと。



予科練時代や実施部隊時代の写真に興味深いものが何枚もありました。



熊本県出身者6~8期生。







東さんの写真の中にもう1枚熊本県出身者集合写真がありましたが、それは8~11期生のもので、以前に9期生関係でここで紹介しているものと同じものでした。なので割愛。

今日は初めて見た6~8期生分を紹介します。
残念ながら裏書はなかったので、写っている練習生や状況はわたしが調べました(推測込み)。

教員列(椅子列)は省略(スイマセン💦)。


2列目左から
竹下勝典さん(8期)
偵察
19年2月6日 802空 トラック(雄飛会戦没者名簿)



碩一夫さん(7期)
操縦 艦戦
17年10月26日 瑞鳳 南太平洋海戦


三島輝夫さん(7期)
操縦 艦攻
真珠湾時加賀艦攻隊。
19年6月19日 601空(翔鶴発艦) マリアナ沖


高田満さん(6期)
偵察 偵察機
20年3月19日 343空偵察第4飛行隊 四国上空の空戦



塚本一正さん(6期)
偵察 水上機
戦後生存


高藤幸一さん(6期)
操縦
19年12月7日 病気加療入室中に病死(雄飛会戦没者名簿)


米満孝人さん(6期)
偵察 飛行艇


谷元勝さん(6期)
偵察 中攻


磨田甚造さん(7期)
偵察


牛島静人さん(7期)
真珠湾時瑞鶴艦攻隊(電)。
戦後生存。


米本義人さん(8期)
偵察 飛行艇
17年10月15日 東港空 ソロモン ヒ連送のち行方不明




3列目左から
八幡一喜さん(7期)
偵察 戦死時百式司偵
18年7月1日 151空 ソロモン写真偵察消息不明


高橋幸人さん(7期)
偵察 中攻
17年8月24日 三沢空 ソロモン索敵哨戒
※戦死時のペアの主操は8期根津弘史さん


浦田健治さん(7期)
偵察 中攻
17年9月11日 木更津空 ガダルカナル


中島政時さん(7期)
偵察 艦攻
真珠湾攻撃時飛龍艦攻隊
19年8月2日 761空 テニアン(雄飛会戦没者名簿)
※横手正明さん(甲1)がご遺族に伝えたところによると19年5月20日、テニアン基地より索敵に向かい1010「ワレ敵機ト交戦中」と打電後消息を絶ったとのこと。


雲野武明さん(7期)
偵察 中攻
17年2月2日 705空 ソロモン(敵空母攻撃 雷撃)
※戦死時のペアの主操は9期の島子栄二さん


角田金次郎さん(8期)
操縦
20年6月8日 801空 沖縄(雄飛会戦没者名簿)


西義武さん(7期)
操縦→偵察 中攻
18年2月2日 705空 ソロモン(索敵)
※戦死時、雲野さんとは別の戦闘行動。ペアの主電は9期川原与三郎さん。


東富士喜さん(8期)
操縦 艦攻→戦爆
戦後生存


島田豊さん(7期)
偵察
19年2月17日 11航戦司 トラック(雄飛会戦没者名簿)
※七期雄飛会『予科練のつばさ』では「十一航艦」。


松村美龍さん(7期)
偵察(電) 飛行艇
19年6月4日 東港空 南洋群島哨戒中天候不良により行方不明(雄飛会戦没者名簿)


田中一則さん(8期)
操縦 艦攻
真珠湾攻撃時加賀艦攻隊
19年10月24日 攻撃256飛行隊 比島沖海戦 



調べてみたのですが、消息がわからない人がいます。
雄飛会戦没者名簿や同期生会誌なども見てみたのですが、日付か航空隊が間違っているのでは?という方も。行動調書を探してみたけど見つからず、わからないまま書いています。



並び順はこんな感じです。
白が6期生、青が7期生、黄色が8期生です。
6期生を中列中央に集めた以外はわりとフリーダムな並びです。

以前も書いたかもしれませんが、7期の碩一雄さん。
『予科練外史』では福岡になっていますが、『予科練のつばさ』、『雄飛会戦没者名簿』では熊本になっています。
あと、『予科練のつばさ』『雄飛会戦没者名簿』では戦死時「瑞鶴」になっていて、さらに橿原神宮の瑞鶴の戦没者名録にもお名前が刻まれていますが、Kさんご教示で戦死時「瑞鳳」のようです。アジ歴の行動調書や瑞鳳戦闘機隊写真で確認とれています。


一人熊本出身で探したところ、お名前が入らなかった人がいました、
6期生だろうと思ったので(7期・8期は以前氏名を入れたので)、6期生の近隣県出身者を重点的に探したところ、『予科練外史』で鹿児島出身となっている谷元勝さんが写っているのでは?と思いました。
卒アルの谷元さんはこの方です。


上の写真で熊本出身者としてお名前が入らなかったのはこの方なんですがいかがでしょうかね?
わたしは谷元さんかなと思って上ではそのように紹介したのですが。
『予科練外史』の出身県と違う県の集合写真に写っているのはたまにあると言えばあるので、鹿児島出身となっている谷元さんが写っていても特別おかしいということもないかな、と。
事情は分かりません。






場所は横須賀の予科練の庁舎前ですが、問題はいつ撮影されたのものかな、という点です。

写真を見ると、6期生の階級章は2空(海軍2等航空兵)。7期生も2空。8期生が3空の階級章をつけています。


6期入隊(昭和10年6月1日)から6期が卒業した昭和13年(1月10日ですが)いっぱいに関して、進級状況を表にしてみました。

6期2空、7期2空、8期3空という状況は、
薄いピンクベタの部分です。
昭和12年9月1日~6期が卒業する13年1月10日まで。
さらに、みんなの軍服が1種なので10月1日?からに限定されるでしょうか(海軍の衣替えの時期を正確に知らないのです💦)

この間に、日の丸を出して写真を撮る機会と言ってすぐに思い浮かぶのは明治節でしょうかね。

卒業式の県別集合写真で日の丸を出してとっているのは見たことがないので、明治節の可能性が高いような気がします。
昭和12年11月3日。





※画像は6期生、8期生ご家族ご提供

蒼龍艦攻隊 佐藤・金井・花田ペア2025年12月22日 10時40分22秒

昭和16年12月22日、真珠湾攻撃を終えた2航戦の空母(蒼龍、飛龍)は、日本への帰途、ウェーク島攻撃へ。


蒼龍艦攻隊水平爆撃隊の嚮導機ペアを敵戦闘機の奇襲で失いました。
操縦・佐藤治尾飛曹長(操18)
偵察・金井昇1飛曹(偵35)
電信・花田芳一2飛曹(乙8)
※画像は真珠湾出撃前の鹿屋での蒼龍艦攻隊12分隊の壮行会にて



22日のウェーク島攻撃の様子は、攻撃に参加していた乙9期の島田清守さんの日記にも記されています。


島田さんの昭和16年11月・12月の日記原本の画像はブログ右側のリンク先にありますので、興味のある方はぜひご覧になってください。



金井さんは海軍航空隊に関心がある人ならどなたでも知っているのではというぐらい有名な方で、爆撃の神様、海軍の至宝のような存在の方です。
『航空母艦蒼龍の記録』には金井さんの日記が手記ということで掲載されていて、それを読んで、
「人格技量ともに申し分ない完璧な人」
のように思いただただ尊敬していました。

ところが2021年にNHKで放送された『真珠湾80年 生きて 愛して、そして』、さらにその後、番組のディレクター大島隆之氏著の『真珠湾攻撃隊 隊員と家族の八〇年』が出版され、そこで紹介された金井さんの日記内容を知り、かなり衝撃を受けました。
『航空母艦蒼龍の記録』では完璧人間のような日記が紹介されていたのですが、こちらの金井さんは恋愛に悩み苦しむふつうの青年。それ以外の日常もかなりふつう描写が多く、人間金井昇をますます好きになってしまいました。

あまり書くとアレなのでこれぐらいでやめておきますが、ウェーク島で戦死されず無事に内地に戻って来られていたら、金井さんとお相手のお嬢さんの未来はどのような未来が開けていたのだろうか。思っても詮無いことをいろいろ考えてしまいます。

とにかく爆撃に関しては別格であることにかわりはありません。
金井さん、真珠湾時のメンタルはどん底だったと思います。
そんな状態で結果を出す金井さんはやはり爆撃の神様、海軍の至宝であることにかわりはありません。






最近、乙8期生のご家族の方からアルバムをお借りしました。
予科練時代のアルバムのページをめくったところに、

こんな添え書きが。

残念ながらこの写真は剥がされていて、どんな写真が貼られていたのかわかりませんが、添え書きから想像するに、田中一則さん(真珠湾時加賀艦攻隊、752空19年10月24日比島方面、操縦 熊本出身)、矢津田竣夫さん(三沢空17年8月8日ソロモン、中攻操縦、宮崎出身)と花田さんがどこかで撮った3ショットが貼られていたのだろうな思います。
添え書きの書き方から、屋外で横に3人が並んでいるものというより、写真館で撮られたもので、前に椅子に座る矢津田さん、花田さんがいて、後ろ、間に田中さんが立っている写真かな、なんて想像したりしていますが。
わからないですけど。
見たかったですけどね。



卒業アルバムもお借りしたので、卒アルの花田さん。





※画像は9期生ご遺族ご提供、8期生ご家族ご提供

昭和16年12月5日「甲板上にて撮影をなす」真珠湾攻撃時加賀艦攻隊集合写真2025年12月05日 22時43分08秒

真珠湾攻撃を目前に加賀飛行甲板で撮られた艦攻隊搭乗員の集合写真。


艦攻隊総員集合写真。


北島一良大尉分隊集合写真。




鈴木三守大尉分隊集合写真。


もう一枚、牧秀雄大尉分隊の集合写真があるはずなのですが、わたしはお目にかかったことがありません。



以前からこれらの集合写真に関してはブログでたびたび話題にしており、特に飛行甲板中央部の風向標識に関する投稿はぜひぜひ読んでいただきたい記事です。

そこでもちょっと触れているのですが、今日はこれらの写真の撮影日に関して。
風向標識の記事には以下のように書いています(青字)。


『ちなみにこの加賀艦攻隊総員集合写真、書籍には12月7日、真珠湾攻撃の前日に撮影されたもの、という説明があるものがありますが、2021年12月に放送された「真珠湾80年 生きて 愛して、そして」という番組の中で紹介された加賀艦攻操縦員の北原收三さん(操50)の日記に12月5日に「記念写真を撮る」の記載が(ご遺族ご提供、Оさんご協力)。
北原さんは真珠湾攻撃で戦死されているので、日記は当日か遅くとも7日までには書かれていたもので、そういう意味では大変資料的価値が高い記述ではないかと思います。

北原日記の12月5日にはもう一つ注目の記述があって、
「一昨日来の暴風雨静まれども終日曇天小雨模様なり」
これなんですけどね。
総員集合写真を見ると飛行甲板のところどころに水たまりがあるように見えます。前日まで荒れていたらしいので波をかぶった可能性も無きにしも非ずですが、写真の様子からも晴天には見えません。天気の面からも「5日」で矛盾ないように思います。


ちょっと余談ですが、乙9期の島田清守さん(蒼龍艦攻隊)の日記によると12月5日は、
「次第ニ南下スル。昨日迄ノ荒天モ静マリト平常通リ「総員体操用意」ノ號令モカカル。飛行甲板ニ出ルト部隊ハ厳然ト進ム。各艦飛行甲板ニペラノ(不明。部員?)ガ有ル様ダ。攻撃ヲ前ニシテ、昨日、一昨日ト飛行甲板ノ作業モ出来ズ今日カラ一斉ニ初(始)マル。 飛行機ノ試運転ダ。」※( )はわたし注記
蒼龍ではこんな具合です。
蒼龍から見たら他艦も飛行甲板に飛行機を上げて試運転をしていたらしいので、きっと加賀も飛行機を飛行甲板に上げていたのでしょう。そのときに記念撮影もやった、ということだろうと思います。

というわけで、今回の話に直接関係はないですが、わたしはこの写真に関しては「12月5日撮影」説をとろうと思います。

余談の余談ですが、7日も加賀も蒼龍も飛行機を飛行甲板に上げています(北原日記、島田日記)。
お天気情報は北原日記「今日は暫く振りの晴天」。島田日記にはお天気情報なし。


と、ここまで書いてからの追記。
2023年9月に町元善春さんの遺品を見せていただいたのですが、同じ総員集合写真がありました。
どなたが書かれたのかわかりませんが裏に手書きで「昭和十六年十二月七日撮 布哇攻撃前日 加賀艦攻隊総員」と書かれていました。
「やはり7日なのか?」
正直、揺れています。
北原さんが日記に書いている5日に撮影した「記念写真」はこの集合写真のことではないのか?

総員集合写真の撮影日に関しては、機会をあらためてゆっくり考えてみようと思っています。』


この件は、何か新しいものが出てこないと決着がつかないと思っています。
これ以上いくら写真を眺めても進展しないだろうな、と。


ちょっとだけ進展がありました。
進展というか、援軍というか。

先日知人から本をお借りしたんですよ。
大戸喜一郎という人が書いた『若鷲のふる里』という本です。
甲飛4期の真珠湾戦没者のふる里を訪ねたときのことを随想風に著した本です。
それぞれが育った土地の様子や、両親との面会の様子、本人の幼少期の話など、貴重な内容がたくさん。
著者が訪ねたのは、記載順に書くと、
武田英美さん
外山維良さん
桑原秀安さん
大西俊夫さん
熊本研一さん
坂本清さん
梅津宣夫さん
長井泉さん
の8名です。


かれらのことは別途書きたいと思います。


この大戸喜一郎という人、本の奥付の横にあった著者紹介によると、
早大英文科中退、少年作家として著書あり。海軍省年兵に就いて研究すること既に七年におよぶ。
とあります。
これだけじゃ、なんのこっちゃ全然わかりません。
ネットで検索してみました。1897年生まれ、1961年没らしいです。
著書の画像がいくつか出てきました。『日本海大海戦』『前世界探検』『炭焼キ爺サン』

奥付によると発行は昭和19年9月20日、発行所は輝文堂書房。
ちなみに価格は2円70銭。




今日は長井泉さん。

『若鷲のふる里』の中に、長井さんの真珠湾攻撃時の日記の記述があったのです。

その中に、「甲板上にて撮影をなす」と書いている日がありました。

「こ、これはっ!(;゚Д゚)」

大戸さんが取材し活字化されたもので、日記現物の画像が掲載されているわけではありません。しかも伏字が多いです。日付も伏字、地名も伏字。
長井さんが「甲板上にて撮影をなす」と書いている日も「○○月○日」になっています。
なので、北原さん日記と照合して日付を入れてみました。共通して特定の行事を書いてくれていると日付が特定しやすいです。
その結果、日付的には『若鷲のふる里』に引用されている長井さんの日記は、11月19日~12月5日までと判断しました。
途中、11月23日と24日は抜けています。11月23日・24日というのは単冠湾に停泊している期間です。長井さんが書いていなかったのか、大戸さんが敢えて本に転載しなかったのか、そこはわかりません。
長井さんの日記現物を見てみたいですけどね。

が、現時点で見ることはできないので、『若鷲のふる里』に転記されているものを信じて、ちょっと考えてみたいと思います。


まず、長井さんの日記の伏字の件。
例えば、
○○月○○日 段々と暖かくなったような気がする。四日も島も見えず寂しさ一人身に沁む。(以下略)
○○月○日 遂に○○となる。思ひを故国の上に走らす。(以下略)
こんな感じです。

日付と、何か軍の機密めいたことが伏せられています。
これ、たぶん日付は伏せてあるけれど、内容から察するに、日付順にきちんと並べられているだろうと思いました。
そこで、同じ加賀艦攻隊だった北原修三さんの日記の記述と見比べながら日付を検討してみました。北原さんの日記は日付がきちんと入っていますし、ほぼ伏字なしです。下表で●になっているところはわたしが読めなかった字です。

北原收三さん(操50)


日記に書いている日課を比較検討したら、長井さんの日記はこんな感じで日付が入りました(単冠湾を出港した11月26日~12月7日分)。
日記に書いている日課を中心に抜き出したものです。

よく見たら、大戸さんは日付を伏せているけれど、「十一月三十日」は「○○月○○日」、「十二月一日」は「○○月○日」と伏せた文字数と○の数を合わせていました。ありがとうございます。
※上に引用した太字部分は11月30日と12月1日分です。


とまあ、こんなわけで、長井さんが「甲板上にて撮影をなす」と書いている日は12月5日で間違いないです。
北原さんが書いている12月5日の日記の内容とかなり一致しています。




風向標識の記事で触れた天気についても比較しました。


加賀艦攻隊の長井さんと北原さん、蒼龍艦攻隊の島田清守さんの日記に書かれていた天候に関する記述です。
さらに参考までに、戦史叢書に掲載されていた第8戦隊司令部首席参謀藤田菊一中佐(機動部隊に同伴)の日誌とやらからのお天気情報も併記しました。

これらを見ると12月2日夜ぐらいから荒れ始め、3日、4日は猛烈に荒れていたことがわかります。
3日には加賀で作業中の下士官が海に転落する事故が起きています。長井さんは落ちたのは「下士官一名兵一名」「助けられしとか聞く」と書いていますが、北原さんは「四分隊先任下士官山本一曹」が波に飲まれたとしか書いていません。実際、何人落ちたのか、その後どうなったのか、これに関して調べようとしたのですが、詳細が書かれたものが見つかりませんでした。


とにかくようやくこの荒天が一段落したのが5日。
ただし晴天には戻らず、「風次第に弱くなり、海上平穏となる。雨尚降る」(長井日記)、「一昨日来の暴風雨静まれども終日曇天小雨模様なり」(北原日記)。
この状態で各艦飛行機を甲板に上げ作業をしたようです。それは島田さんの日記にも描かれています。
「次第ニ南下スル。昨日迄ノ荒天モ静マリト平常通リ「総員体操用意」ノ號令モカカル。飛行甲板ニ出ルト部隊ハ厳然ト進ム。各艦飛行甲板ニペラノ(不明。部員?)ガ有ル様ダ。攻撃ヲ前ニシテ、昨日、一昨日ト飛行甲板ノ作業モ出来ズ今日カラ一斉ニ初(始)マル。 飛行機ノ試運転ダ。」※( )はわたし注記


見ていただきたいのは写真の影と飛行甲板の様子です。
どう見ても晴天下の撮影ではないし、飛行甲板には水たまりが残っているように見えます。
分隊集合写真も装備などから同じ日ほぼ時間をおかずに撮られたものと判断しています。いずれの写真も同じ状態です。

藤田参謀がこの日「視界不良」と書いているんですが、加賀艦攻隊の総員集合写真も最前列の人たち(北原さんとか)と最後列の人たち(長井さんとか)の明瞭度を比べると、後列になるほど明らかにもやっている感じがあります。
搭乗員たちの背後の97艦攻もちょっとぼやけています。

5日の天候状態と矛盾ないと思われます。



お天気的な意味では6日も可能性は残っているかと思います。



では巷間言われている「7日撮影」、この可能性はないのか?

北原さんは「晴天」と書いています。

藤田参謀も「天気は益々良」。

戦後に書かれた手記なんですが、金沢秀利さん(乙8、飛龍)は7日の天気を「快晴、視界良好」と書いています(『空母雷撃隊』光人社NF文庫)。


一日中天気がよかったのか、それとも基本晴天で時々曇ってその隙に写真撮影されたのか、いやー、そこがわからないんですよね💦

一日中晴天だったらあの写真は撮れないと思うんですよ。

リアルタイムで書かれた日記の記述的にも、お天気的にも、5日の可能性が高いんじゃないかとわたしは思います。



※画像は8期生・9期生ご遺族ご提供。
北原收三さん日記はご遺族所有、Оさんご協力。

天理スタミナラーメン2025年10月26日 22時12分40秒

天スタの話題なのになぜかカテゴリが[乙8期](笑)

そう、8期生のお孫さんと天スタ行ったんですよ(・∀・)

昨日、瑞鶴の慰霊祭でちょっとあいさつ程度のお話はしたのですが。

もう帰られたかなあー、と思っていたら、今日、お寺巡り中にご連絡いただいて。まだ、奈良にいらっしゃるということだったので、お昼ごはんを一緒に食べることになりました。

お寺巡りが終わってから春海運転で合流。
「何か食べたいものありますかー?」
って聞いたら、奈良の知人から天理ラーメン勧められたって(笑)

じつは合流する前の車内で春海に、
「何が奈良っぽいかな?」
って聞いたら同じこと言っていてね。
ラーメンは春海の得意分野。

駐車場の関係もあるので、彩華か天スタかな、となって、天スタになりました。



初天スタ!!


と思っていたのですが、いまさっき思い出しました。
30年ぐらい前に一度天スタ行ったな(^_^;)
味とか記憶になかったし、食べても「昔食べた」と思い出さなかったけど、たしかに行ったな。パパと、パパの同僚の人と。

というわけなので、まあ「初」みたいなもの、ということで💦


見た目大したことなさそうだったんですが、食べたらめっちゃ辛かったです。
わたしがムリそうなのを察して、春海が最後4分の1ぐらいかな、食べてくれました。
あれはバリバリ体育会系のラーメン大好き人間だから。


その後、道の駅の談話コーナーみたいなところに移動して乙8関係の写真を見ていただいたり。
ホントは「写真、送りますね」と以前から言っているんですが、人名入れて送ってあげよう(^o^)なんて思ってなかなか送れずにいたので、とりあえず先に「おじいさん、ここですよ」ってのだけ見ていただきました。

大和神社の話題にもなりました。話をしていたところからそんなに遠くなかったんですが、雨が降っていたんでね。
もっと早く気付いて、天気がよければ、ご案内したのになあ。

遠方まで車で帰られるということだったのでちょっと早めに解散しました。
またお目にかかれるのを楽しみにしていまーす(^.^)/~~~