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ぺこちゃんハンドクリーム2020年02月01日 09時11分01秒

新型コロナ騒動で手を頻繁に洗っているので新しいハンドクリームを購入しました。


家には皮膚科でもらったビーソフテン、職場には薬局で買ったユースキンが置いてあるんですが、台所用に買いました、ぺこちゃん。

いちおうお店の試供品で匂いを嗅いでみました。
ミルキーの香り。甘いです。食べたくなる系の香り(笑)
不快なにおいではないけど、ちょっと強めの匂いなので苦手な人もいるかも。
使用感はサッパリ系です。保湿効果、ちゃんとあるんかな?




忍者カウンター、なかなか復活しませんね。もう1週間経ちました。
アナライズの方もアクセスできない状態です。
たぶんブログやホームページの表示の方を優先して復旧作業しているんでしょうね。
時間はかかってもいいから、「もうサービスやめます」だけは勘弁してほしいです。
復旧したら夜中でもツイッターでのアナウンスがあるようなので、休みなしで復旧作業をしている? 一刻も早く復旧してほしいけど、倒れたら元も子もないので無理のない範囲でお願いします。

忍者ツールズの利用者でサイトが更新できなくなった人たちは、閲覧者向けにツイッターなどで事情説明のアナウンスをされているみたいで。

わたしもブログの更新や表示ができなくなったときにはどこかほかでアナウンスします。
いまのところ全体公開しているのはフェイスブックのひねもすのたりのアカウント(動画用)だけなので、何かあればそちらに書きますねー。
フェイスブックの方に何の事情説明もあがっていないときはただたんにブログをさぼっているだけとみなしてください。

鹿屋空の一式陸攻2020年02月01日 23時25分08秒

今日は自分が「これは何だ?」と思ったことをつらつらと書き連ねたにすぎません。
読んで役に立つ話でもないので、お時間の無い方はスルーしてください。

何日もかけて書いたり消したり、追加したり修正したりをくり返しているので、文章のつじつまが合っていないところがあるかもしれません。







大澤さんの写真の中にこんな写真がありました。

わたしは初めて見たような気がするんですが。

手前に飛行隊の幹部らしき方々、その後ろに飛行服の搭乗員14名、さらにうしろに隊員らしき方々がずらずらと。

中央で一歩前に出ている人、先日検索して出てきた亀井凱夫大佐(3空司令)に似ているような気もします。

が。
人物にピントが合っていないんですよねー。
搭乗員たちもよくわかりません。
14名って何だろうな?
戦闘機の編制だろうか?
戦闘機3機×4小隊+陸偵1機(2名)で14名とか。
哨戒の直かな?

人はたくさん写っているんですが、残念ながらお顔は判然としません。
ピンぼけしているんです。

でも、中央の人物が亀井大佐だとしたら3空の写真なのかな?
大澤さんが所有していたものだし。

この整列は何かの祝祭日でしょうか。わからないですが。





人物はピンボケなんですが、なぜかずっーと向こうの方にピントが合っていてですね。

テントの向こうに一式陸攻11型の尾翼と主翼が見えているんです!
機番まで見えますぜ! 「K‐353」。
その右側にもちょっと方向を違えた尾翼の先端が見えています。テントの向こうに最低2機は駐機してあるようです。


Kですよ、K。Kと言えば鹿屋空。

佐藤暢彦さんの『一式陸攻戦史』に、
「(鹿屋空の一式陸攻の)垂直尾翼に横線1本が入った機体は2中隊機とされる」
という記述(写真のキャプション)がありました。


「おおっ! 鹿屋空の第2中隊の使用機なのか!」


あれ? 待てよ。
第2中隊?

前述の佐藤さんの本には「二中隊長の東大尉」という記述もあります。
東森隆大尉です。
わたし、この人のことを書いたような気がしていたのですが、ブログ内検索しても出てきません。
なんかさらっと知っている人のように書いているでしょう?
知っているんですよ、お名前は。
藤原国雄さん絡みです。
藤原さんがご両親にあてた直筆の遺書が残っているんですが(19年10月13日に戦死する直前ではない、もっと前のもの。鹿屋空から高雄空に転勤した際か?)、そこに東大尉のお名前が出てきます。
「自分をこの配置に付けて下されし東森隆大尉に深く御礼申し上げます」




佐藤さんの本に、鹿屋空の編制が出ています。

司令 藤吉直四郎大佐(兵44)
副長兼飛行長 入佐俊家少佐(兵52)
飛行隊長 宮内七三少佐(兵56)
1中隊長 鍋田美吉大尉(召予2)
2中隊長 東 森隆大尉(兵65)
3中隊長 壹岐春記大尉(兵62)
4中隊長 池田拡己大尉(兵65)
5中隊長 森田林次大尉(兵63)
6中隊長 田中武克大尉(兵62)

中隊一つ9機編制です。3機小隊×3。

開戦時、比島イバ飛行場を攻撃したのは4中隊、5中隊、6中隊。
マレー沖海戦に参加したのは1中隊、2中隊、3中隊です。




以前、鹿屋空の9期生のことを書いたときに、鹿屋空は「本隊」と「支隊」にわかれて行動していたと書いているんですが、その「本隊」にあたるのが1、2、3中隊、「支隊」にあたるのが4、5、6中隊です。



↑ここでは9期生の所属中隊を書いていませんが、うちわけはこんな感じ↓です。
<本隊>
1中隊(鍋田中隊)  (偵)新井誠二さん、川原与三郎さん、仲野修さん、鈴木光雄さん
2中隊(東中隊)   (偵)牛澤四郎さん、藤原国雄さん、高坂浪次さん、畑中嘉夫さん、
             (操)今村文三郎さん、鹿島長重郎さん、木下光三さん
3中隊(壹岐中隊)  (偵)三浦光雄さん、鈴木俊夫さん、小薬武さん(8期)、、岡本清見さん、篠原藤市さん

<支隊>
4中隊(池田中隊)  
5中隊(森田中隊)  (操)小林為雄さん、杉本栄さん
6中隊(田中中隊)  (操)谷口十七夫さん、中門清司さん 


もし、上の写真が3空と鹿屋空が一緒にいる写真だったらダバオかケンダリ―かな?と思うのですが、とすると一緒にいる鹿屋空は4、5、6中隊ということになります。

写っている鹿屋空の陸攻尾翼は拡大するとこんな感じです。左が機体前方になります。
垂直尾翼のマーキングを見てほしかったので、手を抜いて、機体尾部の窓は省略しています。ホントは格子状?窓になっていて機銃がついています。



もし、ダバオとかケンダリ―だったら、どうして本隊の2中隊機があるんだろう?
と不思議に思いました。


で、家にある本を探して、尾翼マーキングが写っている鹿屋空陸攻の写真を探してみました。
佐藤さんの解説にしたがって中隊別に出してみました。
※機番号は全部「K-353」になっていますが、写真に写っていた実際の機番号はイラストの右枠に書いてある番号です。スイマセン、イラスト手抜きしました。

横線1本は2中隊機と書いてあったのですが、横線1本にも2種類あって、やや下の方に横線1本(便宜上「2中隊A」と呼称)というタイプと、もっと上方に横線1本(便宜上「2中隊B」と呼称)というタイプがありました。
前縁に白線?が入っているタイプと入っていないタイプがあるみたいです。文林堂の『世界の傑作機59 一式陸上攻撃機』にはこの白線のことが「共通標識」と書かれているのですが、わたしにはこの「共通標識」の意味がわかりません。分類したらわかるかとも思ったのですが、上の通り、ありなしの違いはよくわかりません。

横線の位置も、だいたいこんな感じ、と適当に描いたので、実際はもっと厳密に位置が決まっているのかもしれません。

ちょっとサンプルが少ないですね。もっと集めないとなんとも。
当事者、関係者が「これはこういうことだよ」とご教示くださると一番いいのですが。



疑問があるんですが、この法則(線なし・・・1中隊、線1・・・2中隊、線2・・・3中隊、線3・・・4中隊)でいくと5中隊は線4本、6中隊は線5本ということになるのでしょうか? スペース的にどうなんでしょうね? 5中隊、6中隊の横線が何本あるのか、佐藤さんの本には出ていなかったように思いました。
うちにあった鹿屋空陸攻の写真の中にも、横線が4本、5本入った機体は見当たりませんでした。

何が言いたいかというと、上の写真に写っているK-353号機は線は1本だけれど、本当に2中隊の所属機なのか?
支隊の4、5、6中隊の所属機の可能性はないのか、ということです。


数字部分は「3○○」と決まっているように思えます。
3の次の数字が若い方、K-315とかK-322(上の図の2中隊A・横線下方タイプ)、ここらへんが2中隊機で、3の次の数字が「5」、K-353、K-357(2中隊B・横線上方タイプ)が5中隊か6中隊の所属ってことはないんでしょうかね。
となると近藤1飛曹撮影の機体が問題になるわけですが(^^;)

K‐357号機ですが、佐藤さんの本には2中隊の近藤義宣1飛曹撮影、ということで掲載されています。時期や場所は書かれていません。自分操縦の操縦席から僚機を撮ったということでしょうかね。
同じ写真が世界の傑作機の方にも出ていて、こちらのキャプションでは、「ガ島攻撃の帰途か?」として場所はソロモン、時期は17年9~10月となっています。
後者の場合、いったん内地に戻って再編した後の鹿屋空なので中隊編制もかわっているんじゃないか?(詳細に見ていませんが) その場合、当初の中隊標識がそのまま運用されていたのかは疑問です。


ふつうに考えれば、1つの中隊は9機編制なのでたとえば1中隊だったら301~309で足りるわけです。
が、実際残っている写真は301~312まであります。300から314まであったのか? 
しかし日々戦闘をしている間に、喪失機が出る場合もあります。
喪失機の機番号を使いまわすということであれば、1中隊9機分の番号を用意しておけば足ります。
が、喪失機の機番号は欠番にする、というのであれば、1中隊の機番号として300?~314まで用意しておくことは理解できます。
ここでなぜ1中隊の最大数字を「314」と仮定したかというと、佐藤さんの本に「315」号機が2中隊東大尉搭乗機として紹介されていたからです。それを信じる前提で、1中隊機は314まで、と。
同じように、
2中隊機は315~329。
3中隊機は330~344。
4中隊機は345~359。
5中隊機は360~374。
6中隊機は375~389。
喪失を見込んで15機分の番号なら6中隊で90個。300番台でたります。



この想像を踏まえて整理し直すとこんな感じです。


この表で「5中隊」としているマーキングの鹿屋空機が存在するのではないか?

上の横線が若干下気味なのが本隊(2・3中隊)、上気味(尾翼後縁上部の屈曲部に合わせて引かれている)なのが支隊(4~6中隊)ってことはないんでしょうかね?

4中隊機では?と疑っているK‐357号機を、開戦のころ2中隊員だった近藤1飛曹が撮影している点がやっぱり引っかかりますが。


しかし、この説、パッと見て「3中隊機だ!」「5中隊機だ!」とわからないのが難点ですよ(^^;)
二つを見比べるぐらいしてやっと、「あ、上のラインの位置が微妙に違うのか」ってわかるようじゃあ、中隊識別の役に立ちませんよね。





いま、巖谷二三男さんの『雷撃隊、出撃せよ!』文春文庫を見返していて、わたしに都合のいい記述を見つけました!!
K‐310号機の写真のキャプションです。巖谷さんによると、
『鹿屋空第1中隊所属の一式陸攻。K‐310の機体は、従来マレー沖海戦に於ける第3中隊長壹岐春記大尉の搭乗機、といわれてきたが、当日大尉が搭乗したのは331号機だったことが航空記録から判明している』
この本、壹岐さんの監修です。
3中隊長壹岐大尉の搭乗機が331号機! わたしが想定した3中隊機の番号の範囲に入っています。331号機の写真はないのかーい!? 横線が見たいー!




以上のことは思いきり想像まじりで書いているんで、もし、「実際はこうだ!」をご存じの方がいたらぜひご教示いただきたいです。

マーキングの実際をご存じなくても、上に出した以外の鹿屋空の機番号の写真を見たことがあるって方がいたら、ぜひ情報をいただきたいです。






時期もはっきりしないし、中央の軍人さんが本当に3空の亀井司令かどうかもわからないので、「ダバオかケンダリ―」というところも崩れるかもしれません。


何かわからないかなーとつらつら考えていて、こういう可能性はないだろうか、という程度の話です。なので引用や転載はしないでね(笑)

結果、確たることは何もわからなかったけれど、この写真のことを調べようとして鹿屋空は6中隊あって、尾翼を見ればどこの中隊所属かわかる、ということを学んだぐらいの感じでしょうか(^^;)






飛行機、まだ写っています。
「おおー! 零戦だ!」

ちょうどのところ(尾翼)にテントが重なっていて機番が見えねー!( ;∀;)

3空の所属機かどうかわかりません。



これも飛行機でしょうか?
画像の右端。
主翼の端部が写っているんじゃないかな?



結局、この写真に写っているもので動かぬ事実は鹿屋空の「K‐353」号機だけです。
それが零戦と一緒に写っている、ということもまあ事実として認定していいですかね。

はて、どこの戦闘機隊のものなのか? 場所は? 時期は?
うーん(^^;)





※画像は大澤さんご家族ご提供
参考文献
佐藤暢彦『一式陸攻戦史』潮書房光人社
『世界の傑作機59 1式陸上攻撃機』文林堂
巖谷二三男『雷撃隊、出撃せよ!』文春文庫

今日のおやつ2020年02月02日 22時01分17秒

プレスバターサンドです!



うっひゃー!(*'▽')

東京のお友だちが送ってきてくれました!

チョコとプレーン。

チョコはふだんは渋谷限定らしいです。

バレンタイン期間なので、他でも手に入るそうです。

いや、でも、それすら知らなかったのでうれしー!(*´ω`*)


プレーンもそうなんですが、中の濃厚な甘いクリームと、外の甘さ控えめクッキー?、一緒に食べたときのバランスがいいですね!

春海がこれを爆食いしないよう、ミカンを与えてきました(笑)




ありがとうございました~(^o^)丿

春海、間違われる2020年02月03日 21時46分13秒

ママが電話予約しておいた恵方巻を、春海に取りに行ってもらいました。


寿司屋のおばちゃんに、

「あら、息子さんが来たの?」

って言われちゃったそうです(爆笑)

神武天皇陵2020年02月04日 09時22分31秒

元宮崎県民のわたしとしては、神武天皇はとてもなじみの深い方です。

宮崎→大阪→奈良

と移動歴があることも親しみを感じています。畏れ多いって?(^^;)

なのに、いままで一度も御陵に参拝していませんでした。
2日、パパに連れて行ってもらいました。



途中で玉竹流というお蕎麦屋さんに立ち寄りました。ここも初めて。
十割蕎麦のお店のようですが、わたしたちが入店したときには最後の1人前しか残っておらず、パパが十割の冷たいお蕎麦、わたしが二八のあったかいお蕎麦にしました。
山菜とろろ蕎麦。

そういうわけで十割も二八もどちらも食べてみました。
わたしは全体的な感想としてはあったかい方でよかったんですが、蕎麦だけの感想ならやっぱり十割の方が好みかな?


橿原神宮の北にある神武天皇陵。





けっこう参拝者の方、いらっしゃいました。

その場ではよくわからなかったのですが、マップで見ると御陵は四角い壕に囲まれているようです。
そのなかに円丘の御陵があるそうです。

以前、神武天皇陵に関する考古学者の論文を読んだことがあります。
神武天皇陵の”歴史”みたいな論文です。





天皇陵に御朱印みたいなハンコがあるのをご存じですか?
全国に何か所か印をいただける場所があります。
この神武天皇陵の横にある畝傍陵墓管区事務所にも管区内の陵墓印がいくつかあるようです。
が、残念ながら日曜日で事務所は閉庁でした。

御陵印用の御朱印帳もなかったので事務所の戸を叩きすらしなかったのですが、さっきネットで検索したら日曜日でもいただけると書いている人がいました。もしかして、ピンポーンとかしたら事務所の中に入れてもらえたのかな?

次は平日に、御朱印帳を用意してから行ってみたいと思います。