Google
WWWを検索 ひねもすを検索

寺社に関するお尋ね2022年07月18日 13時38分26秒

浅川さんのアルバムに貼ってあった写真。

写っている寺社がどこかわかりません。

見たことある!

って方、ご一報ください。


自分では神社かお寺かもわかっていません。




わたしが探すときに注目してみたのは、唐破風の屋根。
唐破風部分にはめ込まれた鳳凰らしき透かし彫り。
その下に龍かな?
「宗」と書かれた鬼瓦。
柱根巻金具。
柱の交差部分(木鼻というんですか?)の獅子?狛犬?




この屋根、何ですかね?
けっこう特徴的だと思うんですけど。
本瓦葺にしては丸瓦の間隔が広すぎな気もする・・・・。
本瓦葺と見せかけて違う素材の屋根なんでしょうか。銅かな?
じつは似ている屋根、見つけたんです。靖国神社の拝殿の屋根。
でも、靖国神社の拝殿ではないです(古写真で確認)。

軒丸瓦の模様は何でしょうかね? これがわかれば絞り込めることもあるんですが。



見る人が見たら、他に着目点があるのかもしれません。


ちなみに撮影時期は乙2の飛練時代(霞ヶ浦海軍航空隊)。昭和9年の秋~10年春ごろまで。
同じページに2枚貼られていたのですが、もう1枚は香取神宮の参道を歩いているシーンでした。
関係あるのか、まったく無関係なのかわかりません。



かなり大きな寺社だと思います。
ずっと探しているのですが、現時点で見つけられていません。


もし、「見たことある」って方がいらしたら。

操練40期 堀口虎男さん 岡本光雄さん2022年06月23日 11時44分48秒

※2022060232009追記があります。

浅川さんの15空myカメラシリーズ。


浅川さんのmyカメラアルバムに貼ってあった写真です。注記は浅川さん。
九江飛行場ニ於テ 堀口

九江ニテ 四十期操練 岡本


これだけでも十分すごいのですが、浅川さんのmyカメラシリーズの何がすごいって、さらにこれのネガが残っているところです。

さらにさらにすごいのは、このネガから息子さんがお手製の機械を使ってポジ化してくださったことです。



アルバムに貼られている写真は撮影直後か、浅川さんご存命時に現像されたものでしょう。やはりそれなりに劣化が見られます。
しかし、ネガで残っていたものはほぼ劣化が見られず。息子さんがどんな技を使われたのか、まるで最近撮影したかのような出来栄えでポジ化してくださいました。




操練40期の堀口虎男さんと岡本光雄さん。
おふたりは操練の同期生ですが、階級が違うので入隊年が違うのでしょうかね。15空解散時の名簿では堀口さんが3空曹(3等航空兵曹)、岡本さんは2空(2等航空兵)。上の写真の救命胴衣の記名も「5岡本二空」になっています(5は5分隊を示すと思われる)。
15空開隊時の集合写真にはお二人とも写っていないので、途中で合流されたのでしょうか。


おふたりも飛行眼鏡が違いますね。
3空曹の堀口さんの方が古いタイプの飛行眼鏡を装着しています。
15~16年の鈴鹿空では教員が新タイプ、練習生が旧タイプだったので「新>旧」の序列でもあったのかと思っていましたが、このおふたりを見た感じでは15空では自分が好きなものを選べたのかもしれません。


13年明治節5分隊集合写真の堀口さんと岡本さん。

この写真、ホント、精細ですばらしいです。よくお顔がわかります。




さて。
このおふたり、操練40期出身なのですが、操練40期というのは浅川さんが霞空教員時代に担当したクラスです。


浅川さんの写真の中にありましたー!(・∀・)
飛行服バージョン





1種バージョン







これだけと思っていたらもう1枚ありました。
これ、浅川さんが教員で写っています。

浅川さんが担当した練習生たちと行軍でも行ったときの写真だろうな、ぐらいで見ていました。

あとになって練習生の中に岡本さんのお顔を見つけ、操練40期だとわかりました。
堀口さんがちょっとわからないんですがこれかなあ???

岡本さんは前から2列目?、左の方です。


で、場所が長らく不明だったのですが、今日、わかりました。
というのも、
後ろの門柱に取り付けてあるゾウさんに気づいたからです(笑)


先日、日光東照宮を特集した番組をたまたま見ていました。
東照宮にゾウさんがいるという話。

「あ! もしかして!」
検索したら出てきました。
日光東照宮 表門
で検索してみてください。
これは白黒ですが、現在の様子、めっちゃカラフルですよ。昭和12年頃もこんな状態だったかどうかはわかりませんが、のちに修復したとしても元の状態に近づけているはずなので、何らかの彩色はされていたのでしょう。
ド派手ですね~(笑)

じつはわたし、寺社巡りが好きで関東の寺社もいくつか行っているのですが、日光東照宮には行ったことがありません。

いつか日光江戸村とセットで行ってみたい。

で、表門の石段に立って写真撮らなきゃ。




(追記)
堀口虎男さん  鹿児島出身  戦後病没

岡本光雄さん  鳥取出身  14年6月17日  第2聯合航空隊司令部附  戦死


※画像は浅川さんご家族ご提供、Kさんご教示  

乙5 大林行雄さん 冠谷悟さん22022年06月20日 23時16分07秒

昨日、ブログをアップした後、何件が情報をいただきました。

ひとつは昨日のうちに注記したのですが、原田要さんの回想に関する事実関係について。
原田さんは自分と大林さんが同年兵だと書いていましたが、原田さん8年志願兵、大林さん乙5(9年入隊)なので、同年兵ではないです、とのご指摘(Kさん)。
言い訳してもいいですか。
わたし、原田さんから直筆履歴のコピーをいただいているのですが、途中からなんですよ(^^;)
入隊年が書かれておらず、大林さんと「同年兵」という記述を読んで、他の部分(手記の著者略歴とか)で確認もせずに、
「そうか、原田さん、9年兵なのかー」
と思い込んでいました。
いつもご面倒おかけして申し訳ありません<(_ _)>


2つ目。
知人のMさんから、筑波空の集合写真に教員として冠谷さんが写っているとのご教示!
15空搭乗員名簿には次の転勤先まで書かれてあって、冠谷さんも大林さんも「霞」と書かれています。
わたし、てっきり「霞ヶ浦海軍航空隊」(いわゆる予科練が移転したところ)と思い、手元の霞空の集合写真を必死で探していました。お二人とも見当たりませんでした。
「そうか、担当した分隊が違うんだな」
と自分を納得させました。
Mさんからのご教示で、「霞」がどうやら霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊(のちの筑波空)らしいとやっと気づきました。
Mさんが見せてくださった集合写真には冠谷さんだけでなく大林さんも写っていました。

「あ、やっぱり教員してはったんや(・∀・)」

とわかったので、あの写真に写っているんじゃないかと思い探してみました。

「あの写真」↑。
浅川さんの写真なのですが、書き込みがなく何の写真かわかりません。
わたしの中では「土浦(霞ヶ浦)周辺の航空隊にいた乙飛生の集まり」と勝手にタイトルをつけています。乙2の浅川さんとか小山内さん、青井さん(百里原)、乙6の山岸さん(筑波)、宮武さん(谷田部)などのお顔が見えます。あと、予科練の倉町先生もいます。周辺の練習航空隊の教官・教員の乙飛生が集まって慰霊祭でもしたのだろうか(お寺なので)?
※この写真に関しては知人Tさんも、わたしとは別の人を見つけて雄飛会だろうとの推察。

筑波で教員をしていたのなら、ここに写っているだろう!

探してみました。

冠谷さん

大林さん

いてはりましたー!(・∀・)

お手上げだった写真に知った人を見つけるとうれしいです。



それともうひとつ。

救命胴衣にさしている拳銃。
一四式拳銃・前期型というらしいです(Hさんご教示)。
あまり興味がないので見ていませんでした、スイマセン。
すぐに『日本海軍航空隊 軍装と装備』を見てみました。
前期型と後期型では、引き金を引くときに指を入れる輪の部分の大きさが違うそうです。
後期型の方が、手袋をしたまま指が入れられるよう大きくなっているそうです。へー。

でね。
まじまじと拡大していて気づいたのですが、冠谷さんの飛行服!
袖口がファスナーなんですよ!(;゚Д゚)
わたし、これ、初めて見ました。


ちなみに大林さんの飛行服の袖口。
これが一般的じゃないんですかね?
わたし、これがふつうだと思っていました。


あと、ベルトにボタンってやつ。
これは19年なんですが。


ファスナー!
おもしろい!
と思って『軍装と装備』を見たら、ファスナー式、わりとふつうに載っていました。
変遷があるみたいです。

とにかくわたしは初めてファスナー式飛行服の袖を見た、と。
家にある飛行服写真をいろいろ見てみたのですが、ここまではっきりファスナーが写っているのはやはりこれ1枚のようです。


※画像は浅川さんご家族、武田信行さんご提供

乙5期 大林行雄さん 冠谷悟さん2022年06月19日 21時42分22秒

浅川さんの写真です。

15空時代の写真の中に、乙5の大林行雄さんと冠谷悟さんの写真がありました。
おふたりとも艦攻操縦員です。

九江。
左が大林さん、右が冠谷さん。
おふたりとも軍刀を手に、救命胴衣に拳銃を差し込んでいます。
機番号は、10-37?
最後の数字は右上がカーブの数字。なんだろう?

この写真、おもしろいです。
大林さんは旧型の飛行眼鏡、冠谷さんは新型の飛行眼鏡を装着しています。
実施部隊ではちょうど入れ替わりの時期だったんでしょうか。
今度、15空飛行眼鏡特集でもしましょうかね(時期の幅がありますが)。



我ガ三番機操縦員大林氏
だそうです。

この写真、いいですね。
97艦攻の胴体がお尻から鼻先まで写っていますし、胴体の下の地面に爆弾(60キロ?)が置いてあるのも見えます。
出撃準備中ですかね。



こちらは冠谷さん。
冠谷さんが座っているのは、なななんと爆弾!?(;゚Д゚)
これまた出撃準備中でしょうか。
軍刀を持っていますが、一番上の写真で冠谷さんが手にしている軍刀とは別物のような気がします(柄の長さが違う?)
どっちかというと、大林さんが持っている軍刀に似ているような? これと同じような軍刀(柄に白布巻き)を持っている浅川さんの写真もあります。
同じものなのか、似ているだけなのかはわかりません。
もし同じものだとしたら、「撮影用」に用意してあったりしたんでしょうか。それともどなたかの持ち物を「貸して」「貸して」と借りて撮影に臨んでいたのでしょうか。




おふたりとも15空開隊時の集合写真には写っていません。
たぶんアレ、13年6月末か7月初ぐらいじゃないかと思うのですが、おふたりが飛練を卒業したのが13年3月15日らしく(15空搭乗員名簿、アジ歴)、それから実用機の延長教育をやっていると思われるので、15空途中で合流されたのでしょうね。
乙5の方、15空搭乗員名簿によるとあと3人いらっしゃるようなのですが(児子力さん、橋本富吉さん、角崎良次さん)、3人のお名前が書かれた写真はありませんでした。
お名前がないだけでどこかに写っているのかな?




13年11月明治節の集合写真。
大林さん。

冠谷さん。




冠谷さんは戦後ご健在だったようです。



大林さんは、練習航空隊で教員をされたのち、飛龍。


17年6月5日  飛龍  ミッドウェー


先日紹介した赤松作特務少尉(友永丈市大尉偵察員)と同じです。
艦攻隊2度目の攻撃で還らぬ人に。

原田要さん(操35、戦闘機)の『零戦 老兵の回想』(桜の花出版)、
『わたしは自分の母艦である蒼龍がやられてしまったので、唯一健在であった飛龍に着艦しました。ところが、またもや被弾が激しく、零戦は即座に海に捨てられました。

とうとう乗る戦闘機がなくなってしまった私は、艦橋で飛行機の発艦と着艦を手伝いました。その時、ちょうど敵機動部隊攻撃に飛び立つ友永丈市大尉を見送る場面に遭遇しました。その攻撃隊の中には、私と同年兵の大林君もいました。私の姿を見つけた大林君が別れを告げに来ました。「俺は行く。もう帰らないと思う」と、血の気がなく、諦めたような表情でした。
友永大尉ら攻撃隊が発艦した後、整備の人が「友永機は燃料タンクに被弾して、片道燃料しか積まずに出て行った」と話しているのを耳にしました。片道燃料ということは、生きて帰る望みは無い訳ですから、ある意味これが特攻の先駆けではないかと思います。大林君も帰ってきませんでした』
※原田さん8年兵、大林さん乙5(9年入隊)なので同年兵ではないそう(Kさんご教示)


原田さんは長野の出身の戦闘機乗り、大林さんは香川の出身で艦攻操縦員。
どこでご一緒だったのだろうか?




以前、香川県の乙飛生ご遺族の方が送ってくださった田村神社の海軍少年飛行兵の碑。
大林さんのお名前もあります(最下段右端)。


※画像は乙飛生ご遺族、浅川さんご家族ご提供。Kさんご教示。

偵練23期 鶴勝義さん2022年06月14日 22時40分30秒

偵察員。

鶴さん、けっこう浅川さんの写真に写っています。
さらに、浅川さんmyカメラの被写体にもなっています。


加賀。
皇居二重橋。


13年5月、加賀飛行機隊総員。

13年5月、加賀艦攻隊渡辺中隊集合写真。


13年6月末?7月初?
15空開隊時5分隊集合写真。大村?


13年11月3日。明治節記念5分隊集合写真。


15空時代と思われる指揮所?待機所をバックに。

イス列の左端が鶴さんではないかと思うんですが。
お顔がちゃんと見えていないので、もしかしたら違うかもしれません。鶴さんにしてはがっちりしている気も・・・・。
いや、お顔は鶴さんだと思うんですが。
調整済




浅川さんmyカメラ。15空時代と思われます。
鶴さんも長髪。







真珠湾時は加賀艦爆隊。
操:内門武蔵1飛曹(操32)
偵:鶴勝義飛曹長



戦死されたダーウィン攻撃(17年2月19日)の時も同じペアです。

山川新作さん(加賀艦爆隊)が操縦の内門さんと親しかったようで、ダーウィン攻撃後の時のことを、
『遅ればせながら、予定集合地点にかけつけた。みると、一機足りない。だれだろう、一中隊の三小隊長機だ。操縦員内門一等兵曹、偵察員鶴兵曹長だ。
内門一飛曹は日支事変以来の猛者であり、笠ノ原基地出発直前に妻をもらったばかりである。出撃前のあわただしいバラック建ての基地に、土産物を山ほど持って来てくれた若くて美しい奥さんだった。まだ若い私たちにはよくわからなかったが、何かしら運命の測り難さを感じた。代われるものなら代わってやりたいと思った。
ハワイ攻撃に多くの戦友を失い、いままた先輩を失う。』
(山川新作『空母艦爆隊』光人社NF文庫)

山さんは見ていなかったようですが、行動調書の概要欄に、
『1C 1/3D 東飛行場90度2000米ニ自爆』  ※1C 1/3D・・・・鶴機のこと
と書かれているので、目撃していた人がいるのでしょう。





※画像は浅川さんご家族ご提供
参照:『真珠湾攻撃隊 隊員列伝』