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乙9期 野口義徳さん2015年02月24日 10時16分17秒

※再度編集し直しました

東京出身
中攻操縦→戦闘機
千歳空、201空



野口さんは雄翔館に遺影がありましたが、それ以前に飛行服の名札で野口さんの判別はできていました。





【東京行軍】
楠公銅像前

海軍館前


【鹿島神宮】


松本さんの水泳集合写真にも写っているので、1学年時は5~8班です。


【ラグビー優勝】


【整備実習】


【操縦専修生集合写真】




【不明】

何の行事かわからないけど、池田さんのアルバムにあった予科練時代の野口さん。



予科練卒業時の寄せ書き


「おもいで」

「木更津空まで一緒だった。本当に仲良しだった。山道を歩きながら食べた菓子が喫茶店のミルクセーキに変わりそれが酒に変わるまで。別れるときは大酒を飲んで一夜を明かしたね。三宅島の話一生忘れられない」

「操縦専修になってから同班で仲良しだった。銃剣術の上手な君は教科が終わって後まで教員に引っ張られて練習していたね」

「赤銅色の童顔一学年のときは同班でしたね。百里ヶ原の適性検査で熊谷くんと共に小俣教員に師事された。島育ちのためか君の水泳は谷村くんと共に特に優れていた」

※熊谷くん・・・・熊谷賢一さん(青森 戦闘機 千歳空、4空、台南空 17年8月26日 ガダルカナル)
谷村くん・・・・谷村博明さん(福岡 偵察 木更津空、高雄空、705空 18年4月18日   ブイン西方海上  ※宇垣参謀長搭乗機)






【飛練・谷田部】
「横須賀海兵団」

飛行服

この写真の救命胴衣の名札がわりとはっきり読めました。

自慢の画像鮮明化ソフト(心眼)を使うまでもなく、
「野口さんだ」
と、この名札だけで判断しました。

先日出した、羽藤さん、石川さん、木村さん、関口さんと一緒に写っている谷田部時代の野口さん。


【飛練・大村】

【飛練・木更津】




『予科練外史』に、野口さんが帰らなかった日のことが書かれています。


『今日は味方の戦闘機も相当上がった。今日こそと壕の入口で片唾をのんで見上げていると、編隊は湾を越えて山の上の西飛行場に迫って行く。味方の戦闘機にやられたのか一機白いマフラーのような煙を空中に引きながら次第に遅れる。
墜ちろ! 墜ちろ!

しかし、遂に丘の稜線に隠れてしまった。空戦はそれから始まったらしい。邀撃に上がったのは二〇一空が三二機、二〇四空二三機、トベラ基地から二五三空の零 戦三三機であった。一時間余りで邀撃機は次々と帰って来た。今日は傘が開くのも見えず、火を吹くのも見なかったので安心して待機所を訪ねた。

三段の階段を上るか上らないうちに、壁に落下傘バンドを掛けていた内田次朗が言った。

「野口兵曹(乙九)がまだ帰りません。」

「一人?・・・・。」

「そうです。」

別に大して気にも留めていないらしい。燃料はまだ残っているし、この地の古つわもので腕は達者だから、そのうちに帰るだろうと安心しているのである。

上がり框に腰を下ろして、帰還した人たちから今日の戦況を聞く。鈴木秀雄、佐藤全徳、田中信策の面々である。空戦の詳細に耳を傾けながらも、目は入口に吸いつけられ勝ちであった。しかし、一時間過ぎ、二時間経っても野口は遂に姿を見せなかった。

昨、二十八日の午後のこと。この基地の手空きの予科練出身者の記念撮影をしようということになった時、それを言い出したのも撮影の世話をしたのも彼、三期の相曽飛曹長が見えないので捜し回っていたが、朝からマラリアが起きて宿舎に寝ていることがわかると、
「あのひげがないと物足りないですね。」

と言って無理に連れて来て、撮影がすむと、みんなで例の温泉に行こうと誘ったのもかれであった。熱で赤い顔をした相曽は宿舎に帰って行った。その時、私に手拭いがないことを知ると、自分のを私に貸して、自分は引き返して少し色づいたのを持って来た。歩きながら、

「教官、出て来たての若い連中を連れて行く時は、全くくたびれますよ。若い者は勇ましすぎて、前の方にばかり気をとられていて、後の方はおろそかになり勝ちな んです。だから、古い者は、自分で空戦をやりながらも、注意していて、上から、ちょいちょいと手伝ってやるのですが・・・・それが帰って来ると、『今日の敵は大したことはなかったですね。一つ墜としました。先輩は幾つですか・・・・』なんて、言いますからね。全く若い連中にはかないませんよ。」

と嬉しそうに笑顔を見せた。彼もやはり初めのうちはそのようにして先輩に守られて、死線を越えて生き残り、自分も知らないうちに、一騎当千のつわものと育っていたのであろう。そのベテランが、今日は遂に帰らぬ人となってしまった』






『予科練外史』には、28日に撮ったと思われる集合写真(文中にある)も掲載されています。
野口さんだとはっきり判別できる状態で写っています。
10月28日――に撮影されたんですよね・・・・これ。




18年10月29日  201空 ラバウルにて敵大型機43機、戦闘機50機を邀撃、自爆戦死




『翌三十日は空襲がなかった。一航戦の来援に感づいたのだろうか。
野口(乙九)の遺骸が火山の麓で見つかった。荼毘に付す。残念にも我が祈りは遂にきかれなかった。この地で戦う戦闘機搭乗員の遺骸が還ってくることは滅多に ない。霊といっしょに彼の肉体も故国に帰ることができる。それだけが、追いつめられた心に鎮魂の賦を奏でる』(倉町秋次『予科練外史』)






乙9期戦没者はこちら


※画像は雄翔館、9期生ご遺族ご提供

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