女子会@京都 ― 2015年02月19日 17時46分33秒
今日は、大学時代一番の仲良しだったお友だちと京都でランチ&スイーツやってきました♪
年賀状は毎年やりとりしているのですが、会うのは数年ぶり。最後に会ったのは春海が幼稚園のときやったか?みたいな?(^^;)
ランチはパスタ。
和パスタのチェーン店。
同じ系列店はいつも並ぶんですが、今日行ったところはこちらが心配になるほどガラガラでした。
ついつい長居。
その後、彼女が調べてくれたカフェに。
フルールって、パンケーキのお店です。
混んでいたので、並びました。
並んでいる間も話は尽きない(笑)
年賀状は毎年やりとりしているのですが、会うのは数年ぶり。最後に会ったのは春海が幼稚園のときやったか?みたいな?(^^;)
ランチはパスタ。
和パスタのチェーン店。
同じ系列店はいつも並ぶんですが、今日行ったところはこちらが心配になるほどガラガラでした。
ついつい長居。
その後、彼女が調べてくれたカフェに。
フルールって、パンケーキのお店です。
混んでいたので、並びました。
並んでいる間も話は尽きない(笑)

中がいっぱいだったので外で待たされたのですが、日なたはあったかくて快適でした。
なんなら外で食べてもええわ、ってぐらい。
その後、店内の待合スペースが空いたとのことで店内に移動。
そこでまた少し待って、やっと案内されたところはソファ席でした。
4~6名ぐらい座れそうな。
パンケーキを注文したら、
「30分ぐらいお時間いただきますがよろしいでしょうか?」
かまわんですよ!( ̄▽ ̄)
これだけ待たされて、「30分」が待てないわたしたちではありませんっ!(笑)
で、やってきたのがこれだ!↓

ふっわふわでした(*´▽`*)
スフレっていうんでしょうか。ふっわふわのとっろとろでした♪
今日の女子会は前半は家族の話をしていました。
お互い子どもいるんで。あ、旦那の話も(←ついで感)
後半は海軍さんの話とか(^^;)
彼女、おじいちゃんが海軍さんで。
厚労省に履歴申請するよう勧めました。
いや、ホントにね、厚労省の履歴、すごいですよ。
最近もちょっと複数の9期生の履歴を見せていただいたんですが、わたしが把握していなかったことがいっぱい書かれていますからね~。
いつの間にか話題を海軍の方に持って行こうとしとりますが(笑)
彼女は海軍さんも家族ネタも読んでくれているそうです( ;∀;)
今日の女子会は前半は家族の話をしていました。
お互い子どもいるんで。あ、旦那の話も(←ついで感)
後半は海軍さんの話とか(^^;)
彼女、おじいちゃんが海軍さんで。
厚労省に履歴申請するよう勧めました。
いや、ホントにね、厚労省の履歴、すごいですよ。
最近もちょっと複数の9期生の履歴を見せていただいたんですが、わたしが把握していなかったことがいっぱい書かれていますからね~。
いつの間にか話題を海軍の方に持って行こうとしとりますが(笑)
彼女は海軍さんも家族ネタも読んでくれているそうです( ;∀;)
35空の悲劇 ― 2015年02月19日 19時30分39秒
何度も出しています、この写真。

35空の田中茂雄3飛曹、和田邦介3飛曹、池田和義3飛曹、村田耕一3飛曹です(左から)。
九期生名簿では、村田さんに関しては、
「一七、二、一九 台湾新竹州 三五空」
和田さんの方は、
「一七、二、一九 台湾にて空輸中 三五空」
雄飛会の方でまとめたらしい名簿では、日付・航空隊は同じで、村田さんは、
「台湾新竹州に於いて」
和田さんの方は、
「台湾方面海域の物資輸送中に」
と書かれていて、正直、最初はお二人の戦没状況が関連があるのかないのか、よくわかっていませんでした。
はっきりわからせてくれたのは、戦史経歴研究家さんです。
「こんなんあるよ」
と見せてくださったのは、35空整備長だった十河義郎さんの『忘れざる艦爆隊 「第35空」悲劇の真相』という、雑誌丸の手記でした。
雄飛会名簿の方では和田さんのころに「物資輸送中」と書かれていますが、手記を読むと「戦地への移動中」のようです。運んでいたのは物資というより人間です。
運んでいたって言ったら失礼かな。
当日の編制、99艦爆8機。
整備長の手記によると、飛行機隊は2月16日7時32分に佐伯基地を飛び立ち、11時30分上海戊基地着、19日午後1時15分戊基地を発って台湾高雄に向った、とのこと。
事故が起こったのは台湾新竹州苗栗郡三叉草湖。
『四時五分ごろから天候がしだいに悪化し、あたりは濃霧におおわれはじめ、山岳地帯が西海岸にはり出している新竹州三叉ふきんで濃霧に迷いこみ、瞬時に山腹に激突、あるいは高圧線にふれて墜落したのであった。
八機のうち二機のみは、濃霧に突入する直前にかわし、清水潔美兵曹長が指揮して高雄空に到着し、事故発生が判明したのである』
遭難した各ペア
①
国井規行大尉
佐々木孝1飛曹
②
西岡左運中佐
村田耕一3飛曹
③
江森正直1飛
宇和数夫1飛
④
守屋信夫中尉
肱岡正1飛曹
※肱岡さんのことを調べている方がいらしたら、連絡いただけるとうれしいです。
hinemos.mama@gmail.com
⑤
和田邦介3飛曹
小松繁寿3飛曹
⑥
河合練2整曹
永満芳明1飛
①国井大尉は「パイロット」と書かれているので、国井さんが操縦員で佐々木さんが偵察員でしょうか。
②西岡中佐は35空の司令です。なので、このペアは村田さんが操縦で偵察員なし、という状態で指揮官機について行っていたのでは?
③江森さんが操縦、宇和さんが偵察でしょうか。
④守屋中尉は「偵察員」と書かれているので、肱岡さんが操縦員。
⑤和田さんが操縦、小松さんが偵察員でしょうか。
⑥河合さんは整備員なので、操縦はできないでしょう。永満さんが操縦員で、偵察員なし状態で飛んでいたと思われます。
難を逃れた2機のうち1機は清水潔美飛曹長が操縦していたと思われます。
もう1機、誰が操縦していたかわかりません。池田さんだったか田中さんだったか、あるいはこの二人は別便で戦地に向っていて、まったく別の人が操縦していたのか。
小山1整という整備の人が2機のうちどちらかの機に便乗されていて助かったようです。
この手記を書かれた十河さんは事故後間もない現場に入ってらっしゃるんですよね・・・・。
現場の状況が生々しく書かれています。
また、現場に行った軍医官が飛行機の状態を見て、中には事故後1時間ぐらい生きていた搭乗員がいたんじゃないか、と話したことまで書かれていて何とも言えない気持ちになります・・・・。
カテゴリ、[乙6期]も入れています。
国井大尉機の偵察員の佐々木孝1飛曹が6期生です。
あるとき、山岸昌司さんの姪御さんからメールが来て、そこに佐々木さんのことが書かれていました。
姪御さんは「山岸さんの同期生」ということで話題にされたようですが、メールに書かれていた戦没状況を見て、もしかして35空の事故で亡くなったお一人じゃないかと思い手記を見返したらやはりそうでした。
思わぬところでつながることがあるんだなあ・・・・と不思議な気持ちになりました。
あ・・・・
このとき事故に遭った99艦爆の機体の一部、残っているみたいですね・・・・。
いまもあるのかな?
※村田耕一さんのことを調べられている方、お伝えしたいことがあります。ご連絡いただけないでしょうか。
hinemos.mama@gmail.com
※画像は池田さんご遺族ご提供
九期生名簿では、村田さんに関しては、
「一七、二、一九 台湾新竹州 三五空」
和田さんの方は、
「一七、二、一九 台湾にて空輸中 三五空」
雄飛会の方でまとめたらしい名簿では、日付・航空隊は同じで、村田さんは、
「台湾新竹州に於いて」
和田さんの方は、
「台湾方面海域の物資輸送中に」
と書かれていて、正直、最初はお二人の戦没状況が関連があるのかないのか、よくわかっていませんでした。
はっきりわからせてくれたのは、戦史経歴研究家さんです。
「こんなんあるよ」
と見せてくださったのは、35空整備長だった十河義郎さんの『忘れざる艦爆隊 「第35空」悲劇の真相』という、雑誌丸の手記でした。
雄飛会名簿の方では和田さんのころに「物資輸送中」と書かれていますが、手記を読むと「戦地への移動中」のようです。運んでいたのは物資というより人間です。
運んでいたって言ったら失礼かな。
当日の編制、99艦爆8機。
整備長の手記によると、飛行機隊は2月16日7時32分に佐伯基地を飛び立ち、11時30分上海戊基地着、19日午後1時15分戊基地を発って台湾高雄に向った、とのこと。
事故が起こったのは台湾新竹州苗栗郡三叉草湖。
『四時五分ごろから天候がしだいに悪化し、あたりは濃霧におおわれはじめ、山岳地帯が西海岸にはり出している新竹州三叉ふきんで濃霧に迷いこみ、瞬時に山腹に激突、あるいは高圧線にふれて墜落したのであった。
八機のうち二機のみは、濃霧に突入する直前にかわし、清水潔美兵曹長が指揮して高雄空に到着し、事故発生が判明したのである』
遭難した各ペア
①
国井規行大尉
佐々木孝1飛曹
②
西岡左運中佐
村田耕一3飛曹
③
江森正直1飛
宇和数夫1飛
④
守屋信夫中尉
肱岡正1飛曹
※肱岡さんのことを調べている方がいらしたら、連絡いただけるとうれしいです。
hinemos.mama@gmail.com
⑤
和田邦介3飛曹
小松繁寿3飛曹
⑥
河合練2整曹
永満芳明1飛
①国井大尉は「パイロット」と書かれているので、国井さんが操縦員で佐々木さんが偵察員でしょうか。
②西岡中佐は35空の司令です。なので、このペアは村田さんが操縦で偵察員なし、という状態で指揮官機について行っていたのでは?
③江森さんが操縦、宇和さんが偵察でしょうか。
④守屋中尉は「偵察員」と書かれているので、肱岡さんが操縦員。
⑤和田さんが操縦、小松さんが偵察員でしょうか。
⑥河合さんは整備員なので、操縦はできないでしょう。永満さんが操縦員で、偵察員なし状態で飛んでいたと思われます。
難を逃れた2機のうち1機は清水潔美飛曹長が操縦していたと思われます。
もう1機、誰が操縦していたかわかりません。池田さんだったか田中さんだったか、あるいはこの二人は別便で戦地に向っていて、まったく別の人が操縦していたのか。
小山1整という整備の人が2機のうちどちらかの機に便乗されていて助かったようです。
この手記を書かれた十河さんは事故後間もない現場に入ってらっしゃるんですよね・・・・。
現場の状況が生々しく書かれています。
また、現場に行った軍医官が飛行機の状態を見て、中には事故後1時間ぐらい生きていた搭乗員がいたんじゃないか、と話したことまで書かれていて何とも言えない気持ちになります・・・・。
カテゴリ、[乙6期]も入れています。
国井大尉機の偵察員の佐々木孝1飛曹が6期生です。
あるとき、山岸昌司さんの姪御さんからメールが来て、そこに佐々木さんのことが書かれていました。
姪御さんは「山岸さんの同期生」ということで話題にされたようですが、メールに書かれていた戦没状況を見て、もしかして35空の事故で亡くなったお一人じゃないかと思い手記を見返したらやはりそうでした。
思わぬところでつながることがあるんだなあ・・・・と不思議な気持ちになりました。
あ・・・・
このとき事故に遭った99艦爆の機体の一部、残っているみたいですね・・・・。
いまもあるのかな?
※村田耕一さんのことを調べられている方、お伝えしたいことがあります。ご連絡いただけないでしょうか。
hinemos.mama@gmail.com
※画像は池田さんご遺族ご提供