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3月21日 防衛研究所 戦史史料室2008年03月26日 09時39分55秒

21日は朝から念願だった戦史室に行ってきました。

事前に、戦史研究家のJさんに「あれと、これと・・・・」と見たい分を書いて送ったら、「あるけど、一日じゃ無理でしょう」と言われてしまいました。

なので、調査対象を絞り込むか、そっちはもう適当に見て深井さんのお手伝いをするかと思っていたのですが、実際に行って見始めるとやっぱり「あれも、これも・・・・」となり、しかもテキトーどころか、見入ってしまい・・・・。

戦記物などでみた搭乗員の名前が上から下までズラズラッと並んでいるんですよ。
「ああっ、○○兵曹!」
「おおっ! ××大尉!」
喜んでないでさっさと書き写せ、って話なんですけど。

横で作業されていた深井さんがときどき、
「これ、見てください」
と深井中尉や第9銀河隊関係の資料を差し出してきはるんですよ。そっちも見たい!
戦死直後の名簿だと思うのですが、現在遺族なし、という情報の俵一上飛曹の遺族欄に母親の名前だけが記載されていました。
母ひとり子ひとりでも特攻出撃させていたのか・・・・。
どういうルートでその人の手に渡ったのかわからないけど、個人収集家のコレクション(?)に深井中尉の遺稿(写し)があったり・・・・。
現物はどこにあるのでしょう?

おっと、目の前に広げた史料のほうを先に片付けねば。
申し訳ないですが、深井さん、それはあとで見せてください、ということで、戦闘機関係の行動調書をせっせと書き写していたのですが、午後に入り、2時になり、3時になり・・・・
とうとう写すのはあきらめて「見るだけ」になってしまいました。

西澤飛曹長が搭乗員生活のうち唯一不時着水して海を漂流(泳いだ?)したときの行動調書は記念にコピーを頼みました。
(「そんな不名誉なもん、記念にするな!」と西澤飛曹長に怒られちゃうかもしれませんが)

応援に駆けつけてくださった二人の手慣れた戦史研究家・Jさん、Kさんのおかげで、目的のものはかなり見れたのですが、それでも251空の行動調書はカウンターに待機状態になってはいたのですが、見れませんでした。残念でした。

前日、寒くてほとんど眠ってなかったんですが、「うとっ・・・・」とくる暇もないほど集中してやりました。(学生時代は居眠り女王だったのに!)
あんなに文字を書いたのは何年ぶりだというぐらい書きました。
お昼も抜きでした。
なのに、全然追っつかなかったんです。

帰ってきてから、
「あれもコピー頼めばよかった」
「あっちを先に見ればよかった」
とかいろいろ悔やむことが・・・・。
また行かないといけませんね。

堀光雄二飛曹2008年03月26日 20時31分33秒

堀さんが戦後書かれた「若き日の思い出」という手記があります。文春ネスコの零戦搭乗員会編『零戦、かく戦えり!』という本に収録されています。

この中に昭和18年1月8日、ラバウル沖で輸送船団直掩中にB‐24やP‐40と遭遇して空戦になり、被弾、機体発火、落下傘降下、海上を19時間漂流し、磯風に救われた話が出ています。

海上を漂流中、波の間を浮き沈みしながら、堀さんはふとその数日前にベテランの輪島由雄少尉(操練18期)に言われたことを思い出したそうです。
「貴様は最近出撃するたびに被弾してくるが、あまり無茶をするなよ、よく敵を見るんだ」

堀さんは17年11月に台南空が内地に引き揚げた後、そのままラバウルに残り582空に転勤になりました。
ですから、582空へ来て正味2か月と一週間で落下傘降下、内地へ後送(右腕骨折)となってしまったわけです。

ある本に堀さんは台南空時代ほとんど出撃の機会はなかったようなことが書いてありました。

どれどれ、と先日戦史室へ行った折、これを確かめたのですが、たしかに堀さんは台南空時代はラバウルの上空哨戒ばかりです。

582空に移り、12月になってからは中攻隊の直掩任務などにもついているようです。
で、輪島少尉の言ったという「貴様は最近出撃するたびに被弾してくるが」ですが、ウラが取れました。
12月13日、12月14日、12月26日と被弾しています。
26日の相手はB‐17とメモしているのですが、13、14日は書き洩らしています(情けない! もう一度行かなければ!)。

輪島少尉が心配されていたのはこれですね。
行動調書を見ていても、この堀さんの立て続けの被弾は目につきました。
そして、とうとう年が明けて18年の1月、行動調書では7日、堀さんの手記では8日の落下傘降下になるわけです。

当日、出撃前に一人落下傘バンドをしていないのを山本栄司令に見とがめられ、「今日は味方船団上空だからつけるように」と諭され急いでつけに走ったとか。
おかげで命拾いをしたわけですね。

このとき負傷して病院船で内地に戻った堀さんは練習航空隊を渡り歩き、最後は343空で終戦を迎え生き残ったわけですが、そのままラバウルに残った同期生、同僚たちは次々とソロモンの空に消えていったのでした・・・・。