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操練15期 佐藤清さん2026年05月17日 00時34分32秒

鶉野飛行場のシアターで見た姫路海軍航空隊の第一護皇白鷺隊(昭和20年4月6日、串良基地発進)の指揮官・佐藤清大尉。

大正15年に海軍に入って操練15期を出た大大大ベテランの分隊長。
艦攻操縦員です。

妻子を残して特攻出撃されました。



soraかさいのエントランスに、飛翔状態で展示されていた97式1号艦攻は佐藤大尉の搭乗機らしいです(ヒメ‐305号機)。



ヒメ‐305号機の風防内には搭乗員が乗っています。
佐藤大尉(操)、伊藤直誉中尉(偵、予学13)、松木源之進2飛曹(電、乙18)でしょうか。
(自分でも「ヒメ‐305号機」のソースを探してみたのですが、いまだ見つけられていません)



佐藤大尉が奥さまに宛てられた遺書は書籍などにも引用されている有名なものです。
わたしは編集されたものしか見たことがないので原文は知りません。
引用されている書籍やサイトによって細かいところに差異があり、どれが正しいのかも判断ができません。
今回は兵庫懸姫路護國神社社報『安寧』第8号(2013年4月)に掲載されていた遺書を。
(こちらには年齢が37歳と書かれています。わたしが得た情報では1907年3月生まれということなので満で38歳になったばかりということでしょうか  )


『姫路空宛御手紙、基地にて四月一日拝受、感激深く読みました。今更何を申す事がありませう。
只管天壌無窮神州不滅を確認し、必死必中誓って、皇恩に報い郷恩に応じ、家名の全からんを欲し、驕敵撃滅の神機に投ずるのみ。
後事は只貴女様を信じ、何の言ふべき辞もありません。
御言葉の生まれ出る赤ちゃんの名前は如何。
男なら 佐藤 勝利(カツトシ)
女なら 佐藤 征子(セイコ)
昌志や優子殿元気で、素直な立派な日本人に育っておくれ。
ご一同様の御長久と御隆昌を祈って居ります。
では左様なら』

幼いお子さんもいて、さらに奥さまのお腹にまだ見ぬ我が子がいる状態で出撃されたのでした。



帰宅後、佐藤大尉のことを調べていたら、加賀にいたことがあると書かれた記事がありました。
そこで、アジ歴で検索してみたところ、昭和11年7月に整備終わりの89艦攻で試飛行のため発艦、不時着水した(搭乗員全員無事)という事故調書が出てきました。当時一等航空兵曹。
その事故調書に佐藤さんのいろいろな情報が書かれていました。操練15期ということも、第2期特練卒業ということも書かれていました。
事故時点での総飛行時間が「一六二六―(ハイフン)一〇」。縦書ですので、1,620時間と10分ということでしょうか。昭和11年時点ですよ? その時点ですでにベテランです。
加賀には昭和10年11月からいらっしゃることもわかりました。


お顔がわかれば、手元の写真に写っていないか探せるのになあ。
と思って、ネットでいろいろ検索したのですが出てきませんでした。


先に手元の写真の中で、可能性がありそうなところを探してみたところ、
加賀の昭和12年夏ごろの写真の中に「佐藤」と書かれた写真がありました。
分隊も、艦攻分隊の分隊番号がついていました。階級章などから、
「この人かも」
と思ったのですが、決定打がなく保留。

知人何人かに「佐藤清さんのお顔、ご存じないですか?」と聞いてみましたが、「わからない」という返事。



「10~11年頃加賀なら、浅川さん1回目の加賀勤務と時期がかぶっているのでは?」
と思ったので、浅川さんの写真を探してみましたが、分隊が違っていたのか、浅川さんの写真には写っているものはありませんでした。
「なら、住友清眞さん(操23、艦攻操)は?」
と、そちらも探してみましたが、この方が写っている写真はありませんでした。
残念ながら写真はありませんでしたが、住友さんはおそらく一緒にお勤めされているんですよね、加賀。絶対に知り合いだったろうと思います。同じ艦攻操縦員ですし。







わたしの勘的には、これぐらいのベテランの人はたいがい内地の練習航空隊で教員・教官を経験されているはず。

と思って、手元の練習航空隊の集合写真を探してみましたが、いかんせん、元のお顔を存じ上げないのだから見つかるはずもない。







ところが、見つけたんですよ。

操練43期・大澤昇次さんのアルバムにこんなページが。
写真の上に薄紙がついていて、そこに「(右)分隊士 海軍航空兵曹長 安藤正夫」「(左)海軍航空兵曹長 佐藤清」と印刷してあるじゃないですか。

まさか!と思いました。

何度も見ているアルバムです。


薄紙の下に貼られていたのはこの写真です。

「あ、加賀12年の写真の人と同じ人だ!」
加賀写真では下士官でしたが、昭和13年の操練43期時代は空曹長に進級して分隊士をされていました。
霞ヶ浦海軍航空隊。


さらに探したら、集合写真にも写っていました。
しかも、大澤さんが線をひっぱって「佐藤清」と書いてくださっていました。









まだありました。
こちらの写真にはお名前は入っていませんでしたが、この方(黄色い矢印)ですね。





操練43期修業記念集合写真。

佐藤空曹長。
前列左端です。



他にも何枚か写っていました。
行軍の集合写真とか。
水戸の常盤神社。

前列の中央。
この行軍には士官は佐藤さんしか同行していないようにあります。
薄紙に名前のあったもうひとりの分隊士・安藤正夫空曹長、お顔がわからないんですが、上の修業記念集合写真(一種軍装)の右端に空曹長らしき人が座っているので、その方なのかなと思っていますが・・・・。
水戸行軍の写真には写っていません。




同じく水戸、偕楽園。

佐藤さんは立っている右端の方にいらっしゃいます。

ここで触れることではないので改めて書くかもしれませんが、この2枚の集合写真には下士官のような軍帽(帽章が違う)をかぶって、スーツみたいなものを着てネクタイをしている人たちが一緒に写っています。だいぶ前にKさんからうかがったのですが、予備練の人じゃないかとのこと。


練習生時代の分隊士だったのなら、手記に何か書かれているのでは?と思い大澤さんの『最後の雷撃隊』の操練時代の箇所を改めて見てみたのですが、佐藤さんのことは書かれていませんでした。





お顔がはっきりわかったので、他のクラスの集合写真も探してみたところ、操練24期(霞空)、操練46期(谷田部空)にも写っていました。知人の情報提供では乙5(霞空)にも写っているとのこと。





この写真を見つけてからしばらくして、まったく別件で大澤さんの『最後の雷撃機』の攻撃256時代の箇所を見ていて、そちらに佐藤さんのことが書かれていることに気づきました。
何度も同じことを書いていますが、ここ、以前にちゃんと読んでいるんですよ。そのときは気づいていないんですよね、佐藤さんのことが書かれていたことに。つくづく思いますが写真も手記も何度も見直さないとダメですね。


親友だった田邊武雄飛曹長(偵40)の特攻出撃(昭和20年4月12日 常盤忠華隊 沖縄)について触れた箇所です。
田邊飛曹長

当時、大澤さんは攻撃256飛行隊の天山操縦員として串良基地から複数回の雷装出撃をしています。

『田邊飛曹長と会う数日前に、私が操縦練習生の時の操縦教官だった佐藤清大尉(操練十五期)が第一護皇白鷺隊長として兵庫県の姫路基地からこの串良基地へ飛んで来られ、
「永い間お世話になりました」
と、いつものにこにこ顔で挨拶されて沖縄に飛んで行かれたが、戦後頂いた資料によれば、佐藤大尉が奥さまにあてた最後の手紙には、
「特攻に行く若い神鷲の先頭に立って、敵撃滅の矢面に立ち得た感激を貴女様も感じ取ってください」
と書いておられ、武将をしのばせるような遺書であった。
佐藤大尉も人間だ。奥様や二人のお子様がおられるのに生きたいという人間の本能を殺し、自ら特攻を志願した理由は・・・・。
人の心は単純なものではない。時により環境により千々に変わるものであろう。戦況を思い、国を思い、軍人の本分を考えた時、その時は死を決しても、時が過ぎ一人静かに親子のことを考えた時には、きっと心が乱れたものと思う。苦しかったことだろう。』



この文章を読む限りでは、大澤さんは出撃前の佐藤大尉と直接会われたのでしょうかねえ・・・・。
「いつものにこにこ顔で」と言われているので。


佐藤大尉の出撃を目にして、いろんなことに思いをめぐらされたのだろうと思います。
ご本人を知っている大澤さんのことばだからこその重みがあります。




第一護皇白鷺隊   昭和20年4月6日  編制表
※押尾一彦『特別攻撃隊の記録<海軍編>』光人社より作成





※画像は知人ご提供(加賀写真)、他は大澤昇次さんアルバムより
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