遠藤秋章飛曹長 ― 2025年08月15日 20時25分03秒
毎年8月15日は遠藤さんのことを偲んでいます。
80年前の今日、玉音放送の後、大分基地から沖縄に向け出撃していった701空攻撃103飛行隊の彗星艦爆11機、いわゆる「宇垣特攻」と言われる攻撃隊の一人です。

本来、彗星は操偵の二人乗りです。
宇垣長官は、指揮官である中津留大尉操縦の彗星の偵察席に乗って出撃するつもりで、本来の中津留機の偵察員である遠藤さんに降りるよう指示したようですが、遠藤さんはそれを拒否、宇垣長官が陣取る偵察席の中に一斗缶を持ち込み、そこに座って出撃していったようです(そのときの画像が残されています)。
降りろと言われたのであれば降りればよかったのに――
そう思わないでもないのですが、遠藤さんとしては、中津留大尉の偵察席は自分の配置という矜持もあったでしょう。中津留さんが行くのであれば自分が偵察員としてついていくのは当然という気持ちもあったでしょう。また、当時遠藤さんは飛曹長という立場でもあり、部下の下士官兵搭乗員たちがついていくと言っている以上、自分が行かない選択肢はなかったでしょう。
遠藤さんのことは何度かここに書いているし、ご遺族の方からご提供いただいた写真も出しているのですが、検索で出なくなっているので改めて出します。

予科練時代

下士官の遠藤さん

時期、場所不明だけれど、飛行眼鏡の形状から古そうな雰囲気

18年の夏かな?

後ろの零戦から鈴鹿の可能性が高いらしい
同期生のアルバムにあった遠藤さんの写真

同郷・羽藤一志さんのアルバムに貼ってあった遠藤さん
病衣のようです。

同郷・松本勝正さんのアルバムに貼ってあった遠藤さん
上の病衣と関係あるのかどうか。
遠藤さんが花束を抱えていますね。退院祝い?と思ってしまったのですが。ちょっとわからないですが。
戦後の同期生会誌『九期生名簿』に寄せられた生存同期の遠藤さんの思い出。
「どこかにどっしりしたものを感じさせる人柄、努力型だったのか、それにしても君の武勲、その最期は大東亜戦史に不滅の金字塔をたて、わが九期の名を高らしめた。おれはいち早くそれを知ってこの戦後を誇りを持って生きることができた。君はおれの心に糧を与えて呉れた恩人だ」
「時に利あらず終戦の詔勅下る。その日八月十五日、戦争の善悪勝敗を語る要なし、敢えて君は行く、宇垣長官と同乗沖縄に突入せりと聞く、その心境は如何ばかりか、パイロットの本懐ここに極まる、見よ護国の鬼、君が心はとはに輝く、日本国健在なり」
「時に利あらず終戦の詔勅下る。その日八月十五日、戦争の善悪勝敗を語る要なし、敢えて君は行く、宇垣長官と同乗沖縄に突入せりと聞く、その心境は如何ばかりか、パイロットの本懐ここに極まる、見よ護国の鬼、君が心はとはに輝く、日本国健在なり」
本心は「生きていてほしかった」ではないのかと思います。
同期生会誌は昭和40年に編集されたものなのですが、当時でも軍国主義みたいなものが残っていた――というよりは、玉音放送後に出撃していった同期生の死を、こうして無理矢理納得させていたのではないか、と、わたしはそう解釈しています。
また、同郷・松本勝正さんが家族に宛てた書簡(武田信行編『ジュンちゃんへ・・・戦争に行った兄さんより』)には遠藤さんの予科練入隊直後の様子が書かれています。
『松山の遠藤君も松山へやめて帰りたい、五年すむともうやめるとか云ってゐた』
これだけ読むと何のことかわからないと思いますが、15の少年が家郷を離れて予科練に入隊し、その生活のあまりのつらさについこぼしてしまった弱音です。
この前段では松本さん本人が、えんえんとつらさを述べています。
(が、自分は決してやめないとも言っています)
この、”「松山へ帰りたい」と言っていた遠藤君”がのちの遠藤飛曹長なのです。
予科練入隊当時の遠藤さんのこの発言を知った上で、20年8月15日の遠藤さんの振る舞いを見ると、あたらめて悲しみがこみ上げてきます。
※画像は遠藤さんご遺族、9期生ご遺族、9期生ご家族ご提供

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