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偵27 藤波貫二さん2023年08月04日 17時27分17秒

東京都出身。
海軍に入る前は学校の先生を目ざされていたのだとか。





昭和11年5月10日に発生した龍驤の艦爆の事故調書。
上の調書の藤波さんの前歴欄に「館空艦攻偵察員」と書かれています。
で、「昭和十年十月十八日以降仝(龍驤九四式艦爆第四小隊三番機)右偵察員」と。

なので、藤波さんは昭和10年10月に館空から龍驤に転勤したのだろう、と。





推測込みですが、残っている写真を年代順にならべてみました。

昭和7年 横須賀海兵団入団。

藤波さんの袖は見えないのですが、写っている兵の人たち全員が「横須賀海兵団」のペンネント、さらに袖が見えている人は階級章ナシ(4等兵)なので、たぶん海兵団入団からそう遠くない日の撮影と思われます。入団直後ぐらい?




「横須賀海兵団」。
藤波さんの袖に3等機関兵の階級章がついているので、上の集合写真よりは新しいです。
上の写真にも写っている人もいるし、見当たらない人もいるし・・・・。



「海軍工機学校」。

階級章は見えません。


「海軍工機学校」。

こちらでは藤波さんは3等機関兵の階級章をつけているように見えます。でも判然としません。
工機学校の2枚の写真はどちらが先か後か、これだけではわかりません。




長門。
2等機関兵。左袖には特技章も。
このあと偵練に進まれたようです。



写真がないけれど、偵練27期(横須賀海軍航空隊)。
昭和9年ごろ。



卒業後、延長教育が館山海軍航空隊。艦攻偵察員。
袖の階級章は1等航空兵。左袖には操(偵)練出身者の特技章。
善行章はないように見えるので、~10年前半ぐらいの撮影でしょうか。

こちらは善行章がついているので10年夏ごろでしょうか。




そして昭和10年10月から龍驤、艦爆偵察員。



次なのか、次の次なのかわかりませんが、12~13年ごろ多摩で水偵偵察員。
斉藤さんと。



ヒゲの藤波さん。
すでにベテランの風格を漂わせていますが、よく見ると善行章が1線しかついていないので昭和10年頃から13年ごろの写真のようです。
龍驤か多摩か。
後ろの壁から「龍驤だ」「多摩だ」ってわかる方がいらしたらご一報ください。



先日紹介した家族写真。
お孫さんのお話だと16年撮影ということでした。
奥様が抱っこしている次女さんの生年月日を教えていただいたので、そこから16年のいつごろかわかるとよいのですが、戦前戦中の子どもさんはいまの子どもと発育が違っていたりして、見た目で「何ヶ月ぐらい」とか「何歳ぐらい」って難しいですよね。
わたしは別方面から撮影時期が絞れないか検討中です。





真珠湾攻撃時は蒼龍。水平爆撃隊嚮導機偵察員。(鹿熊粂吉さんご遺族所有)
16年後半。
9月18日~11月の撮影だと思います。
前列右端の田中敬介さん(甲2、17年6月5日 ミッドウェー)は9月17日まで佐藤治尾飛曹長―金井昇1飛曹機(1中隊嚮導機)の電信員でした。18日に「待望の偵察員」になれたとかでペアを離れた旨、金井さんの日記(金井昇さんご遺族所有、Oさんご教示)に記されています。
田中さんが偵察配置集合写真に写っているということはその日以降の撮影ということ。





家族写真。
藤波さんの階級章がよく見えないんですよね。飛曹長かな。
袖に桜がついているので17年の春か秋ぐらいかなあ?
お嬢さんたちが半袖なので、海軍的には1種だけど気候的には半袖で過ごせる時期、ってことでしょうか。




階級章がはっきり見えないですが、飛曹長か少尉でしょう。
詳しい人に見てもらったところ、
「トラックの竹島かなあ?」
と言われたので竹島飛行場の写真を探してみたのですが、こんな風景が見える場所じゃないような気もしました(後ろの山)。
どこでしょうね? 山からわかりそうな気もしますが。
「この山、見たことがある」って方はぜひご一報ください。
ネットで楓島というのも見たのですが、飛行場と山が写っている写真を見つけられませんでした。
後ろに写っている飛行機ははっきり見えないけれど全体の感じから天山っぽいとのこと。




この三種軍装の藤波さんは少尉の階級章をつけていますので、見せていただいた中ではこれが一番新しい写真なのかなと思います。




19年6月29日  攻撃251飛行隊  サイパン

※以前書いたときは「マリアナ」にしていましたが、ご遺族の方と戦史研究家の方の話を聞いて「サイパン」にしました。




※画像は( )以外は藤波さんご遺族ご提供。
金井さん・鹿熊さん遺品に関してはOさんご協力。