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乙9期 関川文雄さん2023年04月13日 15時25分18秒

生存者の方です。

新潟県出身。
艦上機偵察。

入隊時の氏名入り班写真。7班。




入隊直後に撮ったと思われる新潟県出身者集合写真
関川さんは左から4人目。
他の例から、地元の新聞に掲載される用の写真じゃないかなと思います。
まだ何の”指導”もされていない少年たちの集団って感じでかわいいですね。



8期と9期。
関川さんは最前列地面に座っている一番左。





関川さんは前列左から2人目。

ここらへんまで来ると、ただリラックスして並んでいるだけのように見えても全然違いますね、入隊直後とは。



15年3~4月の艦務実習、山城。
関川さんは後ろから2列目の左の方。下士官のすぐ右です。


予科練卒業後は鈴鹿→博多空。


16年10月、博多飛練卒業時の関川さん。





17年初めごろ。

関川さんは後列右。
前列左が岡吉郎さん、右が佐々木隆寿さん。
後ろ左が島田清守さん。

何回見てもいい写真です。
瑞鳳に乗り込む前に同期4人で撮りに行ったのでしょう。佐伯の宇和写真館。





関川さんは17年6月ごろに戦傷を受けたようで、それが原因で兵役免除になっています。
戦争中はどうされていたのかわからないのですが生きのこり、戦後の戦友会にも積極的に参加されていたようで、9期同期会の写真にいっぱい写っています。
本間猛さんの『予科練の空』(光人社NF文庫)にも、戦後、本間さんと一緒に岸川正人さんの墓参に行かれた際の、岸川弟さんとの3人での写真が掲載されています。

隅倉さんが残していた戦後の同期会写真をつらつら眺めていて、関川さんが兵役免除になった事情はわかりました。どこをどんなふうに怪我したのか。

ただ、いつどこで何があったのかよくわからないんですよね。
機銃での怪我みたいですが、戦闘中の話なのかな。
だとしたら6月上旬のアリューシャンかな?
瑞鳳の行動を見ながらいろいろ探しているんですが現時点で見つけられていません。
(瑞鳳の飛行機隊戦闘行動調書は17年6月分が見当たらない)


※画像は9期生ご遺族ご提供

乙9期 藤谷周覚さんの写真2023年04月04日 19時49分43秒

とてもうれしいことがありました。

9期の藤谷周覚さんのご親族の方から連絡をいただき、その方のおばあさまのアルバムに貼られていたという藤谷さんの写真を送っていただきました。

藤谷さんは三重県出身の中攻操縦員。
18年9月30日、単機哨戒中に東部ニューギニア方面で敵機と遭遇、未帰還になりました(自爆戦死)。



快諾いただいたので紹介します。
古い順に。
13年夏。
横須賀海軍航空隊時代。
正確な日付はわかりませんが、階級章がついていないようにあるので、4等航空兵時代(13年6月~9月1日)で二種軍装の時期かなと思います。



14年6月中頃。
霞ヶ浦海軍航空隊時代。
百里原海軍航空隊における操偵適性検査時の記念写真です。



14年夏ごろ。
霞ヶ浦海軍航空隊時代。
時期・場所共に不明ですが、2等航空兵の階級章をつけているので14年8月1日以降です。二種なのでそれからひと月半とかふた月ぐらいの間でしょうかね(いつまで二種着用なのか知りません)。
写真館は小船井ではなそうな雰囲気です。飛行手袋に文字が書いてあるようですが、何と書いているのかわかりません。写真館名でも書いてあるとよいのですが。
撮影可能な期間には夏期休暇も含んでいるので、もしかしたら帰省した折に撮られたものかもしれません。


16年夏。
15年6月に1等航空兵に進級、軍帽のペンネントが「大日本帝国海軍」なので16年6月以降と判断しました(それ以前のペンネントには航空隊名が入っている)。
よく見たら16年6月1日に付与されている善行章1線もついていますね(階級章の上の山形)。
藤谷さんは16年8月末に大村空所属のまま木更津空に派遣されています(大型機講習のため)。
なので撮影場所は大村か木更津のどちらかかなと思いますが、どちらかはわからないです。

同じ大村で訓練を受けていた松本勝正さんの書簡集を見たら、7月16日~23日の間、夏季休暇がもらえると実家に書き送っています。もし、予定通り休暇をもらえていたら、藤谷さんの写真は帰省して地元で撮った可能性もあるのかな?



あと、幼少時に地元の写真館で撮られたらしい写真もありました。
見たら「藤谷さんだ~」ってわかるかわいらしい写真です。



ご親族の方のおばあさまがアルバム台紙に「藤谷周覚」とフルネームで書いていてくださったおかげで検索してくださったようで、わたしのところに連絡が来ました。
自慢の親戚のお兄さんだったのでしょう。
無関係のわたしまでうれしくなりました。ありがとうございます。


※画像は藤谷さんご親族ご提供

予科練生と桜2023年04月01日 09時39分17秒

毎年恒例にしようかしら、予科練生と桜。
※追加あり


予科練生のアルバムにあった桜の写真です。
白黒なのでちょっとわかりにくいかと思いますが、カラーで見たらさぞかし美しい春の景色だと思います。










霞ヶ浦海軍航空隊。
(4枚目は不明。アルバムの貼り位置からおそらく霞空)



亀城公園。





桜川。



これは乙2浅川三雄さんのアルバムにあった写真です。これも桜ですかねえ。
場所や時期は不明です。



神雷部隊の片桐清美さん(丙15)と宮崎泰弘さん(丙17)のようです。



※画像は甲4福谷知康さんご遺族、9期生ご遺族、浅川さんご家族ご提供

蒼龍艦攻隊 12分隊宴会写真と偵察配置集合写真2022年11月26日 12時03分31秒

乙9期島田清守さんの遺品の中にあった蒼龍12分隊(艦攻隊2分隊のうちの1つ)の鹿屋翠光園での宴会写真。
島田さんの日記から、開催されたのは真珠湾に出撃する直前の16年11月12日であるとこともわかっています。



去年末の真珠湾80年の折、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で憎々しい演技で視聴者をイライラさせた比企能員こと佐藤二朗さんがMCを務める『歴史探偵』でカラー化されてとりあげられた宴会写真です。




今年の夏ごろですかね。
蒼龍艦攻隊に関してさらに新しい発見があり、この写真についても若干の追加事項があります。
その件に関しては知人Oさんが調べられていたことで、さらにそれをベースに本を書かれるということだったのでわたしはその本の刊行までここに書くのを控えていました。

刊行されたので、わたしもブログに書くことにします。

新しい発見というのは、この宴会写真にも写っている甲3期の鹿熊粂吉さん(17年10月17日 隼鷹 ソロモン)の遺品の写真の数々です。

島田さんのものと同じ宴会写真が、鹿熊さんの遺品の中にもありました。

そして、写真の中に鹿熊さんの書き込みがあったのです。

書き込みと言っても文字ではなく記号です。
〇がついている人が1人。
×がついている人が6人。


鹿熊さんの遺品現物です。

黒地に黒マジック?で書かれているところもあるのでちょっとわかりにくいですかね。

島田さんの写真の同じ場所に赤で印を入れてみました↓


まず、〇がついている人。
わたしはこれは乙8期の根食貞憲さんではないかと思っていたのですが、他の写真等も検討した結果、鹿熊さん本人だろうということになりました。


そして、×がついている6人。
まず氏名が判明している3人。
金井昇1飛曹

花田芳一2飛曹

小紙彰正1飛



そして氏名不詳3人。






金井1飛曹、花田2飛曹、小紙1飛ときてすぐに思い浮かぶのは真珠湾攻撃の帰途行ったウェーク島攻撃での戦死者です。
97艦攻2機。2ペア、6名の搭乗員です。
1機は爆撃嚮導機の佐藤治尾飛曹長(操)、金井昇1飛曹(偵)、花田芳一2飛曹(電)。
もう1機は栗田照秋1飛(操)、大谷末吉3飛曹(偵)、小紙彰正1飛(電)。

・・・・ということは、氏名がわからない3人は、佐藤治尾飛曹長、大谷末吉3飛曹、栗田照秋1飛ということなのか?

この3名に関してはわたしのもとにお顔がわかる写真がありません。

氏名不詳3名のうち上から2番目の人は長髪で、准士官以上の方だろうとは思っていました。
が、わたしは中島巽大尉では?と思っていたんですよね(中島大尉の写真は書籍で見ました)。
いまだにこの人が佐藤飛曹長なのかどうか、わたしには判断がつきません。

残りのおふたりですが、上の方(下士官の軍帽をかぶっている人)は大谷さんだろうと思っています。
鹿熊さんの遺品の中に、もう1枚、蒼龍関係の集合写真がありました。
艦攻隊(11・12分隊)の偵察配置だけで撮ったと思われる14名の集合写真です。

最初見たときは何の集合写真かわかりませんでした。
ご当人の鹿熊さんは写っている(後列右端)。
さらに前列(イス列)の中央あたり(左から3人目)に金井昇さんがいる、足元に〇つきで。
あ、石井利一さん(乙7)もいるな(前列右から3人目)。
これぐらいはパッと見てわかりました。
「なんか見たことあるんだよなあ」
って人がちらほらいるので本格的に照合を始めて、杉山弘興さん(甲1 後列左から2人目)や吉岡政光さん(偵43 前列左から2人目)、紺野喜悦さん(乙8 後列左から3人目)も写っていることに気づきました。
「もしかして蒼龍艦攻隊偵察員?」

そういう仮定の下で写真を探し照合した結果、写っている14名は下の表の太字の人たちではないかという結論に達しました。偵察配置の下士官兵のみ。
ベースは真珠湾攻撃時の編制表です。3人1ペアで上から操・偵・電の順です。
色分けは気にしないでください。出身別(操練・偵練、乙飛、甲飛)になっています、今回の件とは無関係です。
鶴見さん以下は真珠湾予備員ですが、ウェーク島攻撃時は太字の方は偵察配置。

甲4と乙9を除く、蒼龍艦攻隊偵察配置の下士官搭乗員の集合写真、ということですね。
(甲4・乙9の着任前だったのか、あるいは着任していたけど配置が決まっていなかったのか、写っていません)

ただ、藤波貫二さんと宗形龍恵さん、大谷末吉さんはお顔がわかる写真が見つけられず(宗形さんは書籍の集合写真のみ。お顔小さい)、あくまで他メンバーからの推定です。
藤波さんでは?という方は金井さんの右隣(イス列の中央)に座っています。



で、本題に戻ります。
この偵察配置集合写真の中で「この人が大谷末吉さんでは?」と思われる人が、宴会写真で×がついている人(下士官軍帽の人)によく似ているんです。
この人。

そういう理由で、わたしはこの人が大谷末吉さんなのだろうと思っています。


となると、残る×印おひとりは栗田1飛の可能性が高いということになりますが。
一つ引っかかっている点があります。
ふつうの白シャツを着ていますよね。
この場にいる兵の方々はジョンベラだと思うんです。
ジョンベラを脱いでも中は首元に縁取りがあるTシャツですからね。
「この人は兵階級なのか?」
という疑問が残るのです。
コスプレ(軍服・軍帽取りかえっこ)している人がいるので、「Tシャツまで先輩に脱がされて、かわりにその人のシャツを着せられた可能性」は0ではないですが・・・・。そこまでするかなあ????

わたしね、この人、甲1の杉山弘興さんだと思っていたんですよ。
偵察配置写真のこの人です。


そういうわけで、残る×印のおふたりが佐藤飛曹長と栗田1飛かどうかに関しては、ご本人と確認できる写真が出てくるまで保留にしておきたいです。



鹿熊さんがウェーク島で亡くなった6人に印をつけようという意図があったことは確実だと思うんです。

○×つきの宴会写真と同じページに添え書きがありました。


思い出深い最后の宴會だった。
何時散るか知れぬは兵の常だ。
この和かな顔ぶれも
悲しい哉 今は見え出せない顔もある。
よい人だった。元気な人だった。仲のよい人だった。
今それを思い、亦語る時、
そぞろ涙に暮れるのである。
でも笑ってやらう、それは彼等に対する、せめても
の力づけであろうから。



長くなりそうなので、今回はここまで。
写真の詳細は次回。



※画像は9期生ご遺族、鹿熊さんご遺族、Oさんご提供
大島隆之『真珠湾攻撃隊 隊員と家族の八〇年』講談社現代新書

乙8期 艦務実習 霧島2022年10月07日 09時46分08秒

8期、操縦専修生の半分の艦務実習記念写真のようです。

裏書『実習航空兵記念写真』。



この写真に写っている人たちの氏名を書き込んだ紙がついていて、「実習航空兵」が8期の操縦専修生半分だとわかります。

椅子列は記名がないですが、たぶんこの艦の幹部の人たちじゃないかな?と想像しています。

ジョンベラが8期生で、左の方にいる下士官(3名)が予科練からの引率教員かな? 下士官3名は名前が書いてありましたが、8期の教員氏名を知らないので、「予科練からの引率教員かな?」というのはわたしの想像です。

写っている8期生は操縦専修生で、以前町元善春さんのご遺族の方に見せていただいた卒アル個人写真コーナーから推測するに、操縦分隊全8班あってそのうちの卒アルページ順の後半半分の4班が写っているようだと。
だとしたら教員がひとり足りないのですが(^^;)


練習生のペンネントは「霞ヶ浦海軍航空隊」です。
なのでこれだけでは実習した艦名がわからないのです。
が、写っている練習生の一人、本村静夫さんがどこで艦務実習したかわかっているので、そこから「霧島」。

8期生が艦務実習をしたのは14年6~7月。
このころ霧島艦長は多田武雄大佐みたいですが(wiki)、写っている最高位の人は中佐の階級章みたいだしお顔も多田さんではなさそう。なので、写っているのは副長でしょうか? 当時の霧島の副長は調べていないのでどなたかわかりません。

わたしは軍艦にはまったく詳しくないので、写真からこの艦が霧島かどうかの判別はまったくできません。
ネットでいろいろ画像を検索して見たんですが、そもそも霧島の特徴を知らないんで判断しようもないという(^^;)






この写真で個人的注目は、甲斐巧さんが写っているってところですかね。
真珠湾時、加賀戦闘機隊のあの甲斐さんです。
戦後の同期生会誌の甲斐さんに対する寄せ書きに「2学年の時神経痛で半年働けなくて」みたいなことが書いてあったので、「そんな状態でよく卒業も進級も影響なかったな」と思ったものです。
卒業間際には艦務実習もきっちり参加できるぐらい回復していたんだなと安心しました。








ちなみに艦務実習は学年によって派遣先が違います。

全部把握しているのは9期だけです。
9期は偵察専修生が山城、伊勢、陸奥。操縦専修生が金剛、榛名です。
山城。

島田さんの日記があるので艦務実習中の日程もおおよそ把握できています。島田さんは陸奥です。




8期は操縦専修生の半分が今回の霧島ですね。あと残りの前半分の班は金剛かな。
偵察で扶桑に派遣されている人がいます。





7期の操縦班の一部は伊勢に派遣されていました。
これは艦長の山口多聞さんが写っています。





『予科練外史』では、5期で長門ってのもあったみたいです。





もっと古い人だと、たとえば乙2ですが。
艦務実習は予科練期間中ではなく卒業後、つまり予科練と飛練のあいだに艦務実習期間が設定されているみたいなんです(浅川さん履歴より)。しかも長期間。

浅川さんは愛宕です。





※画像は9期生ご遺族、浅川さんご家族、Mさんご提供。いろいろご教示はKさん。