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乙8期 艦務実習 霧島2022年10月07日 09時46分08秒

8期、操縦専修生の半分の艦務実習記念写真のようです。

裏書『実習航空兵記念写真』。



この写真に写っている人たちの氏名を書き込んだ紙がついていて、「実習航空兵」が8期の操縦専修生半分だとわかります。

椅子列は記名がないですが、たぶんこの艦の幹部の人たちじゃないかな?と想像しています。

ジョンベラが8期生で、左の方にいる下士官(3名)が予科練からの引率教員かな? 下士官3名は名前が書いてありましたが、8期の教員氏名を知らないので、「予科練からの引率教員かな?」というのはわたしの想像です。

写っている8期生は操縦専修生で、以前町元善春さんのご遺族の方に見せていただいた卒アル個人写真コーナーから推測するに、操縦分隊全8班あってそのうちの卒アルページ順の後半半分の4班が写っているようだと。
だとしたら教員がひとり足りないのですが(^^;)


練習生のペンネントは「霞ヶ浦海軍航空隊」です。
なのでこれだけでは実習した艦名がわからないのです。
が、写っている練習生の一人、本村静夫さんがどこで艦務実習したかわかっているので、そこから「霧島」。

8期生が艦務実習をしたのは14年6~7月。
このころ霧島艦長は多田武雄大佐みたいですが(wiki)、写っている最高位の人は中佐の階級章みたいだしお顔も多田さんではなさそう。なので、写っているのは副長でしょうか? 当時の霧島の副長は調べていないのでどなたかわかりません。

わたしは軍艦にはまったく詳しくないので、写真からこの艦が霧島かどうかの判別はまったくできません。
ネットでいろいろ画像を検索して見たんですが、そもそも霧島の特徴を知らないんで判断しようもないという(^^;)






この写真で個人的注目は、甲斐巧さんが写っているってところですかね。
真珠湾時、加賀戦闘機隊のあの甲斐さんです。
戦後の同期生会誌の甲斐さんに対する寄せ書きに「2学年の時神経痛で半年働けなくて」みたいなことが書いてあったので、「そんな状態でよく卒業も進級も影響なかったな」と思ったものです。
卒業間際には艦務実習もきっちり参加できるぐらい回復していたんだなと安心しました。








ちなみに艦務実習は学年によって派遣先が違います。

全部把握しているのは9期だけです。
9期は偵察専修生が山城、伊勢、陸奥。操縦専修生が金剛、榛名です。
山城。

島田さんの日記があるので艦務実習中の日程もおおよそ把握できています。島田さんは陸奥です。




8期は操縦専修生の半分が今回の霧島ですね。あと残りの前半分の班は金剛かな。
偵察で扶桑に派遣されている人がいます。





7期の操縦班の一部は伊勢に派遣されていました。
これは艦長の山口多聞さんが写っています。





『予科練外史』では、5期で長門ってのもあったみたいです。





もっと古い人だと、たとえば乙2ですが。
艦務実習は予科練期間中ではなく卒業後、つまり予科練と飛練のあいだに艦務実習期間が設定されているみたいなんです(浅川さん履歴より)。しかも長期間。

浅川さんは愛宕です。





※画像は9期生ご遺族、浅川さんご家族、Mさんご提供。いろいろご教示はKさん。

台南空17年8月4日集合写真 2022年2022年08月06日 13時08分49秒

※訂正しています、赤字。  20220809

台南空の17年8月4日撮影と言われている戦闘機隊集合写真。
4日でなかったとしても3~7日の間に撮られたことは間違いないんだろうと思います。
(編制表とにらめっこした結果)

ということは、撮影されてちょうど80年ということですね。


※今回は丙3本田秀正さんご遺族所有写真


何度か、この写真に誰が写っているのか追及にチャレンジしていて、全体としては2014年6月19日が最新版で、その後、2020年6月4日、7月11日に台南空の丙3期に関してちょっと書いています。
たぶん、この写真に関してはこれ以降書いていないんじゃないかと。


今日は現時点での認識を書いておこうかと思います。
いままで不明だった方々↓。
もとにした画像は、※以外は知人Mさん、Oさんご提供写真など(直接ではなくネットにアップしていた写真を参考にした方もいます)

松木進2飛曹(甲4)
松木さんはわたしがお顔を把握しています。



山下貞雄1飛曹(操34)
※『日本海軍戦闘機隊』【戦歴と航空隊史話】の22航戦司令部付戦闘機隊の集合写真の山下さんを参考にしました。
22航戦司写真の山下さんがご本人なら、台南空写真でいままで「山下貞雄1飛曹」と言われていた人は違うのではと思います。

前にKさんからご教示いただいたんですが、7月に鹿屋空から台南空に転勤になった人が複数いて、山下さんはそのうちの一人です。Kさんがいろいろ調べてくださった結果、着任日が全員一緒ではないのではないかという話もあり、転勤者の中で誰が写っていて誰が写っていないのか。





鈴木正之助2飛曹(操39)
知人がお顔を知っていました。
『写真・大空のサムライ』などではこの人が山下さんとなっているのですが、鈴木さんでは?





徳重宣男2飛曹(操42)
この方も知人がお顔を知っていました。





氏名不詳
この人の候補なんですが、わたしが写っていてもおかしくないと考えているのは「山河登特務少尉」(乙1)、「柿本円次2飛曹(操47)」、「松田武雄3飛曹(操56)」なんですが、特に松田さんは「写っているはず」ぐらいの思いでいます。
が、松田さんのお顔がわからない(T_T)
山河さんと柿本さんはお顔、把握しています。この人ではないですよね。
山河さんはいるとしたらイス列ですね(いない)。
柿本さんは時期が微妙。




一木利之2飛曹
※一木さんはわたしの手元にある写真(複数)を参考にしました。
台南空時代

飛曹長時代

わたし、一木さんにお話聞いているんですよねえ。
なんでこの写真に写っているかいないか、写っているとしたらどこか聞かなかったんだろう?orz





西浦国松2飛曹
西浦さん、わたしはお顔を把握しているのですが・・・・。
お顔全体はこの人が西浦さんに似ていると思うのですが、目がね(^^;)
西浦さん、目は細めで、どっちかというと、上に挙げた「氏名不詳」という方の目元の方が似ています。ただ、氏名不詳さんは顔の形、下半分のパーツが西浦さんとは違うような? 耳あてのせいかな?
ちなみに西浦さん、体格は「長身」の部類と思います。

西浦さんに関しては、今後、認識が変わる可能性はあります。

西浦さんは急病でもないかぎり写っていると思うんですけどね。








山下さんはわからないのですが、上に挙げた残りの人たちは前後の編制表から「写っているはず」とわたしが思っている人たちです。





あと柿本円次さん(操47)と伊藤勲さん(乙10)が写っているのかいないのかビミョーなところかな。
台南空の乙10期を書いたときに、集合写真のこの人↓が伊藤さんでは?と書いているんですが。
鹿屋空からの転勤日によっては写っていないのかなあ????

伊藤さんはこの人↓
飛練16期の集合写真から








現時点での見解を出しておきます。※転載禁止でお願いします

黄色で氏名を書き込んでいる人たちはわたしの中ではほぼ確定です。
緑文字の人が「?」かもです。上にも書きましたが西浦さんと伊藤さんはお顔がわかっているけれど判断しきれない。本多さん、若杉さん、長尾さんはお顔がはっきり把握できておらずいろんな状況からの推定です。
山の中腹の2名は写っていてもおかしくないけれど、よくわからない2名です。松田(写真中には「武男」と書いていますが「武雄」)さんは「写っている」寄り、柿本さんは「いない」寄り。




中途半端な状態で出してしまっていますが、巷に出回っている同じ写真の氏名付けの中では一番近づけているんじゃないでしょうか。
少なくとも『写真 大空のサムライ』のキャプションよりは正確だと思います(^^;) 
あつかましくてスイマセン


とにかく全員ちゃんとしたい、という気持ちがあるので、「この人、違うよ」、「〇〇さん、お顔を知っているよ」という方がいたらぜひご一報ください。



※画像は本田秀正さんご遺族、久保さん、一木さん、武田さんご提供。
※Kさん、Mさん、Oさん、いろいろとご教示感謝

三菱の庭ニテ2022年05月24日 15時58分53秒

甲1豊田一義さんのアルバムに
『三菱の庭ニテ』
と書かれた写真が2枚貼ってありました。
そのうちの1枚。

ぱっと見て、豊田さんはすぐわかりました。
左の後方の人。


あと、これ、長浜芳和さん(甲2)ですよね。




真ん中の人、これ、甲斐巧さん(乙8)ですかね?

甲斐さん、わかりにくいんですよね(^^;)

貼ってあった場所が富高時代のコーナーだったので漠然とこれも富高時代かなあと思っていました。


もう1枚の三菱の庭。
こちらには長浜さんは写っていません。

豊田さん

甲斐さん?




ちなみに16年春ごろの加賀戦闘機隊の写真にも3人が写っています。


豊田さん

長浜さん

甲斐さん



上にも書きましたが、貼ってあった場所から富高時代だろうと思っていたのですが、最近は、

もしかしたら加賀かもな――

という気になっています。




三菱の庭写真のこの人(いずれも左端の方)、




加賀の稲永富雄さん(乙7、真珠湾湾攻撃で戦死)じゃないかなという気がしてきました。

加賀の集合写真では後列右端です。

卒アル写真(Oさん撮影)。

稲永さんだと富高ってことはありえないんで。

他にも、
「これ、加賀戦闘機隊の人かな?」
って人がいるんですよね(上の加賀戦闘機隊集合写真には写っていない)。
ちょっと自信がないんで出しませんが。

いま、9割ぐらい「加賀時代」に傾いています。



※画像は愛媛零戦搭乗員会、7期生ご遺族ご提供

たぶん瑞鶴派遣艦攻隊2022年04月13日 14時54分08秒

いつもお世話になっている知人の方から、乙15、飛練29期(筑波空)の搭乗員の写真を見せていただきました。

いまから思うとすごい不思議な話なのですが、最初聞いたときは、
「乙15は知っている搭乗員さんはいないけど、もしかしたら飛練の教員に9期生がいるかもしれないので見せていただきたいです」
という感じで返事をしました。

その後で、写真の主の名前を教えてもらいました。
その名前を見たとき、我が目を疑いました。
「あっ!?(;゚Д゚)」
マジで声出ました。

ウソやろ、と思ったんです。

数ヶ月前に、いつものKさんとメールをしていました。
話題は9期生のことです。そのとき、どういうわけかKさんが、
「海軍の搭乗員でふたごがいる」
みたいな話題を出して、おふたりのことを教えてくださったんです。
9期生とはまったく無関係の人たち。

今回の写真の主・乙15出身の搭乗員の方がまさにそのふたごのお兄さんの方だったんです。


いやあ、もうびっくりしたのなんのって。

こんなことある!?って思いました。

Kさん情報ではお二人とも戦死されているとかで。

今日はとりあえず名前は出しません。
(出すかどうかは今後考えます)
「お兄さん」「弟さん」で説明しますね。

知人の方が写真を送ってきてくださいました。
お兄さんのお名前のあるアルバムです。
ふたごのツーショットはあるかなと思って探しましたが、見当たりませんでした。
本人のお顔はほぼつかめました。

9期生も写っていました。
お兄さんは戦闘機なのですが、大分空の飛練修業記念写真らしき集合写真の教員列に川崎助男さんが写っていました。
「助さん!( ;∀;)」
9期生を見つけるとうれしいです。知っている人と再会したみたいで。
今日はそれが本題ではないので、川崎さんはまた今度。


今日の本題はこれです↓。
実施部隊らしき集合写真。

本人は?
わたしの認識が間違っていなければたぶん、これ。

前に藤本速雄さんの写真で、マリアナ沖海戦前の訓練地での集合写真を見たのですが、同じような雰囲気でした。
「601空か!?」
と思って、戦闘機搭乗員に詳しい知人に見てもらいました。具体的には、
「これ、〇〇さんじゃないですか?」
と601空のベテラン搭乗員を名指しで聞いたのですが、
「違うようにある」
との返事。
「(仕事なので)夜ゆっくり見ますね」
みたいな感じで今日の日中に突入。

「そうだ。Yさんにも聞いてみよう」
こういうのにめちゃ詳しいと思われるYさんにも写真を見てもらおうと送ってみました。

「この写真、見たことないですか?」


送った後で、弟さんの方も気になり始めて、弟さんが所属していた18年11月ごろの瑞鶴の行動調書を見始めました。

「あれ?」

18年末から19年初の瑞鶴って、先日ブログに書いたばかりの8期の根食貞憲さんや偵練38期の森本敬司さんがいらしたみたいなんですよね。
もっというと、7期の大迫留彦さんや大江道大さんのお名前もありました。
「みんないるやん」
と思い、集合写真を見返してみたところ・・・・。

いらっしゃるんですがっ!?(;゚Д゚)




偵練38期 森本敬司さん


7期 大迫留彦さん

大迫さん飛練時代


7期 大江道大さん

大江さん予科練時代



「待て待てー! 瑞鶴の艦攻隊ということは写っているのは兄じゃなく弟の方か!」
どうやら艦攻操縦員の弟さんの方らしい。

で、アルバムを見返してみたんですが。どうも、兄と弟の写真が書き込みなしでバラバラに貼られているっぽい(^^;)
しかも、激似。
わたしはよく「他人の空似」をやらかしてしまうのですが、これは他人ではなくふたご。
空似ではなく、本当に瓜二つなんですよ。

わたし、高校のときに同じクラスに一卵性のふたごの男子がいましたが、ちゃんと区別はついていました。どっちかに好意を持っていて特別じろじろ見ていたとか、そういうわけじゃありません。
ふたごといっても何となく違うもの。
しかしね。今回のふたごさんたち、めっちゃ似ているんですよ。
どこで見分ければいいのっ!?

とりあえず、見分けるポイントを見つけたので(顔ではない)、それが写っているものに関しては「これはお兄さん」「これは弟さん」とフォルダーにわけています。別々にじっくり見て顔で見分けれられるようにします。




そうこうしているうちにYさんから返事がきました。

「拙著(『流星戦記』)の42ページに掲載している写真です」

「あああっー!?(;゚Д゚)」ですよ、ホントにもう。
その本、持っています。
すぐに見ました。ありました。穴があったら入りたいですorz
よりによってYさんに聞いてしまうなんて。
いや、Yさんに聞いてよかったです。

Yさん(イニシャルの必要はあるのか?)は、写真提供者の方から二航戦の集合写真と聞かれていたみたいですが、Yさん的には再考の必要ありと思われていたようで。
「ママさんの見解は?」
と聞かれたので、じつは瑞鶴の行動調書に・・・・という話をしたところ、今日のタイトルの返事が来た、と(^^;)
「たぶん瑞鶴派遣艦攻隊」
Yさん曰く、”謎の組織”らしいですよ(; ・`д・´)

わたしが「謎の組織だったらブログに書けない」って言ったら、ちゃんと考えてくださいました。

「ろ号作戦後、第1航空戦隊飛行機隊が第601海軍航空隊の編成準備に入った際に、選抜されてラバウルへ進出した兵力」

らしいです(Yさんご教示)。


Yさんの本にお名前があった搭乗員の方。
普電練55期 村上則明さん

普電練55期 橋本真二さん


場所はどこでしょうね?
ラバウルかブーゲンビルかも、という話でしたが。
行動調書を見たらブナカナウと書かれているものもあったので、まあ、あの周辺なのでしょう。



搭乗員さんの写真などを見ていると、本当に不思議なことがたびたび起こります。
写真を見せてくださった知人の方も、KさんもMさんもYさんも、ありがとうございます。
そしていつも頼ってばかりでスイマセン(汗)



※画像は7期生ご遺族、浅川さんご家族、知人ご提供

乙8期 渡辺禎夫さん2022年02月01日 21時53分18秒

真珠湾攻撃時、加賀艦攻隊の電信員をしていた乙8期の渡辺貞夫さん。

真珠湾直前の加賀艦攻隊集合写真より。


以前、『予科練外史』(倉町秋次)で紹介されていた真珠湾前夜の渡辺さんの所感を紹介しました。
『前夜は眠れた
同期生と特別糧食の葡萄酒を呑み、(「加賀」の八期同期生は渡辺、町元、田中、甲斐の四名)予科練、飛練の思い出を語り合った。
夢も見なかった。誰のことも思い出さなかった。
遺書は二日前に書いておいた。戦死しても力を落とさないように、父母の御恩を感謝する、ということを書いた』
※実際の加賀8期生はあと久恒吾市さんと西森俊雄さんがいる




この渡辺さんの個人写真が、知人Mさんに見せてもらった7期生のアルバムに貼られていました。

柔道着姿で何か持っています。


「渡辺禎夫
日本傳講道館柔道ノ修行ニ精力ヲ盡シ大ニ其ノ進歩ヲ見タリ依テ貳段ニ列ス向後益々研磨可有之者也
昭和十三年三月廿四日
講道館師範嘉納治五郎」


講道館のサイトによると、13年3月12日に嘉納治五郎さん、「国際オリンピック委員会にて第12回オリンピック大会の東京招致に成功する」、13年5月4日「氷川丸船上にて肺炎により御逝去」とのことなので、渡辺さんの段証書(段位状?)の日付の日はオリンピック委員会出席のため、日本にはおられなかったようです。
5月4日に亡くなられているので最晩年の嘉納治五郎さんからの証書ということになるのでしょうか。


わたしは柔道のことはまったく無知で、柔道二段がどういう段なのかよくわかりません。
(いちおう講道館のサイトを見ましたが、渡辺さんの「二段」は戦前の話ですしねえ・・・・(^^;))

なので人間関係の面から話をしたいのですが、どうしてこの7期生が渡辺さんの写真を貼っていたのかもよくわかりません。

同郷というわけでもないし。

7期生も柔道着を着ている自分の写真を貼っていました。
写真には手書きで「初段」と書かれていました。予科練で柔道部に入り、熱心に取り組んでいたのかもしれません。

もしかしたら渡辺さんも柔道部で、部の先輩後輩だったのかなと想像しています(一緒に写っている写真はなかったけれど)。
二段というのは先輩の7期生から見ても「すげえじゃん!」って段で、この写真を自分のアルバムに貼っていたのかな?


8期生同期生会誌にも、
「貴様は柔道ではクラス一だったな」
「十九年夏雁之巣飛行場待合室で柔道三段の堂々たる体躯に短剣姿も凛々しく・・・・」
という思い出が寄せられています。



20年2月28日  931空  東シナ海


※画像は9期生ご遺族、Mさんご提供