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島田直さん(乙9)と長井泉さん(甲4)2026年06月07日 23時27分07秒

乙飛と甲飛が犬猿の仲であったことは、海軍航空隊に関心がある人であれば一度は小耳にはさんだことがある話ではないでしょうか。

かくいうわたしも搭乗員さんご本人から直接軋轢についてうかがったこともありますし、当然、活字ではいくらでも読んでいます。

さらに、島田清守さんの予科練時代の日記(昭和14年・15年)には、うんざりするほどその件に関して上から注意を受けていることがリアルタイムで記されています。
ということは、こっそり仲違いしてたというわけでなく、公然と、指導層の眼にとまる形で諍いがあったということです。

乙飛と甲飛の諍いというのは、相手かまわず対抗心を燃やしていたわけではなく、同じ時期に訓練を受けていたクラスに対しての対抗心だったように思います。
例えば乙9期であれば、あとから入ってきて新幹線、いやリニア並みのスピードで階級を抜かしていった甲3期と甲4期に対して、メラメラと燃えるものがあったようです。

ちなみに乙飛と甲飛の進級速度の違いが分かるように以前作った表を貼っておきますね。




『九期生名簿』のおもいで、森浦東洋男さんのところには、
ラグビー部でしかも暴れん坊の異名があったと思う。霞空に移転してすぐバットを持って甲飛に殴り込みをかけたのでみな覚えていると思う
と書かれています。

この話、「霞空に移転してすぐ」と書かれているだけで、正確にいつの話かわからないのですが、3月だとしたらまだ甲4期生は入隊していないので、甲3期生に対して殴り込みをかけたのではないかと思います。
もし甲4期が相手だったとしたら、4月に入隊して右も左もわからないときに森浦さんがバットを持って殴りこんできたということで、「たいへんなところに来てしまった(゚Д゚;)」と震えあがったことでしょう。

この対立問題は海軍が悪いんだと思います。
制度からして対立を煽るような制度だし、指導層も甲乙を比較して競争心を煽るような指導をしています(島田日記より)。そりゃ、感情的に大嫌いになって当たり前です。
そのくせ、上は「仲良くせよ」と何度も注意をしているのです。ちょっと矛盾しています。仲良くしろと言う方がムリです。
乙飛生にも甲飛生にも責任があることではありません。



乙飛と甲飛は仲が悪かった――これはまあ事実なんですが、かといって個人間で見るとそうでもなくて、乙9期の藤原国雄さんが甲3期の木下広吉さんと一緒に撮った写真が存在していたりします(おふたりは同郷)。
集団としては仲が悪くても、個人間は意外と仲良くやっていたということですね。


わたしは乙9と甲4は予科練中はずっと仲が悪いままだったと思い込んでいたのですが、実はそうでなかったことが島田清守さんの日記に書かれていました。

昭和15年9月30日(甲4卒業式)

『精神教育「禍転為福(わざわいてんじてふくとなす)」について。終って卒業も近くなった(甲飛)四期の茶話会に出席したらどうも元気がある。九期生には此の元気があるかと心配になる。もう少し卒業迠元気を出せ。
甲種四期卒業・・・・〇時半退隊。総員見送り。元気で「飛練で待っている」と九期九期と言って行った。「九期もすぐに行くから」と元気をつけてやった・・・・。』

これを読んだときは「え? マジ!?」って声が出ましたよね(^_^;)
お互い激励し合って甲4を飛練に送り出したシーンが描かれていて。
ちょっとビックリしました。あんなに仲が悪かったのに。


スイマセン、ここまで前置きです。
今日書きたいのは、乙9の島田直(すなお)さんと甲4の長井泉さんのことです。

島田直さん

長井泉さん(卒アルから)


お二人に関してはどこから書いていいか・・・・。
わたしも長くこのお二人には関わってきた(つもり)のですが、お二人の関係については深く考えたことがなく、最近、いろいろ気づいてあらためて涙を誘われた――というようなことがありました。



お二人とも真珠湾攻撃時、加賀の艦攻隊です。

昭和16年12月5日撮影と思われる加賀艦攻隊総員集合写真。
そもそもこの写真、直さんの遺品です。
2015年に熊本に墓参に行った折にご遺族の方から見せていただいたものです。


ご本人は自分に〇印をつけています。
最前列、風向標識の交点のあたりに座っています。

これ、長井さんだと思うのですが、この人を長井さんだと判断した過程については記事1本分ぐらいゆうに書けるぐらいあります。なんか卒アルの写真と印象が違うでしょう?
今日はそれが本題ではないので、「わたしはこの人が長井さんだと思っている」ということで勘弁してください。
最後列、プロペラの右下の小柄な人です。



お二人の予科練卒業後の足跡を書いておくと、昭和15年9月30日に予科練をひと足先に卒業した長井さん(操縦)は飛練9期生として初練・中練をやり(航空隊は把握していません)、16年4月から艦上攻撃機実用機訓練を大村空にて。

16年9月12日、大村空の卒業記念集合写真より。
そのまま加賀に配属されたものと思います。


一方直さんは、15年11月30日に予科練を卒業、同日、飛練10期、偵察員訓練のため鈴鹿空へ。
ここで16年7月30日まで基礎訓練をしてから博多空へ。

16年10月31日 博多空卒業集合写真より。
そのまま加賀へ着任。

甲4が予科練を卒業で去ってから、1年2ヶ月ぶりの再会になったのではないでしょうか。



お二人とも熊本県出身、同郷で親友だったみたいなんですよ。
そのことにずっと気づいていませんでした。
少し前に『若鷲のふる里』という真珠湾攻撃戦死者の甲4期生を取り上げた戦時中の書籍を読み、長井さんのところにそのことが書かれてあり気づきました。

じつはその数年前に読んだ『空母飛龍の追憶』の直さんの項にも、お二人が親友である旨が書かれていたんですよね。たぶん読んだときはまだ甲4の長井さんと結びついていなかったんだと思います。

『若鷲のふる里』から引用
泉君が最後の手紙を寄越したのは祖母あてのものでした、島田という自分によく似た友人に託して届けるから、島田を自分と思ってよく見てくれと書いてあって、中に六十円の金が同封してありました。
そしてそのあとに長井さんの遺書が転載されています。
直さんが届けた遺書なのでしょう。わたしは現物は見ていないのですが、可能なら見てみたいですけどね・・・・。
『若鷲のふる里』転載分、それは最後に。



『空母飛龍の追憶』の関連箇所引用
昭和十六年九月一日、博多海軍航空隊配属
同年十月一日、加賀乗組。同郷出身の長井泉君と雷撃機に同乗して猛訓練、互いに遺言状を取交して居る、との便りあり。
同年十二月三十一日、休暇で帰郷。私は病気のため帰郷療養中であったが、直は「只今」の挨拶もそこそこに、靴も脱がず長井君宅へ。長井君は真珠湾で雷撃機に搭乗、名誉の戦死を遂げたので、約束の遺言状を持って遺族に弔問し、戦功報告をした。
直は長井君と雷撃機同乗を懇願したが叶わず、爆撃隊に編入され、真珠湾在泊中の戦艦八隻中のカリフォルニヤ型(前より二番目のフォード島側)を爆撃し、同艦火薬庫に命中轟沈せしめた、と語る。
昭和十七年一月八日、帰還(七日出郷)

これは川越さんという方が寄せられたものです。
川越さんは血縁上は直さんのいとこ。さらに、直さんのお姉さんと結婚されたそうで、義理の兄という関係でもあります。

この年譜はわたしの知識と多少の齟齬がありますのでその部分を説明しておきます。
博多空配属は昭和16年7月30日です。
加賀配属は昭和16年10月31日です。
あと直さんが真珠湾後に帰郷して語ったという箇所ですが、直さんは長井さん(雷撃隊)と一緒に出撃出来ず、爆撃隊(おそらく水平爆撃隊を指すと思われる)に編制されてそちらで活躍したというくだりがありますが、これは誤認です。直さんは真珠湾攻撃では出撃していません。
なので、この下りは直さんが親族に対して”盛った”のか、川越さんが興奮のあまり何か勘違いしたのか、(『飛龍の追憶』寄稿時点において)年数が経ってからの記憶の混濁だったのか、そのあたりはわたしにはわかりません。

正しいのか正しくないのわからない部分もあります。
同郷出身の長井泉君と雷撃機に同乗して猛訓練
この部分ですね。けっこう重要なことが語られていると思うんですよ、これ。

他の部分に間違いが多いから、これも間違いだろう、ということにはなりません。
というか、わたしからしたら「え!? ホントに!?」な情報です。

可能性としては大いにあると思うんです。



真珠湾攻撃前の鈴木三守大尉の分隊集合写真。※所有者の方のご意向でお顔をぼかしています

おそらく艦攻隊総員集合写真と同じ時に撮られています。
直さんも長井さんもここに写っています。
艦攻隊のペアは基本同じ分隊で編制されていると思っているのですが、鈴木分隊の中でなぜか長井さんだけが牧分隊の偵察員(植田米太郎1飛曹)と電信員(武田友治1飛)と組んで出撃しているんですよね。


これ、ずっと謎でした。
もしかして、わたしが鈴木中隊写真で「長井さん」と思っている人が長井さんではないのではないかと疑ったこともありました。

その後、いろんな情報を得るにしたがって、長井さんが一人だけ同分隊員とペアを組んでいないのは、
「三上大尉が内地出発時に着艦事故を起こして艦攻を1機壊したことと関係があるのではないか」
と思うようになりました。
三上大尉の着艦事故の件に関してはここの最後の方に書いています。





そして、ここで川越さんの『空母飛龍の追憶』への寄稿です。
話がつながりませんか?
もともと訓練時は長井さんは直さん(おそらく電信配置)とペアを組んで雷撃訓練をしていた可能性が(と言っても半月ほどか)。
ところが内地を離れるときの飛行機隊収容時の三上大尉着艦事故が原因で長井さんは訓練時に乗っていた愛機を手放すことになり、ペアもいじられ、牧分隊の植田さんと武田友治さんと組んで出撃することになった――と想像できないですかね。
想像の域を出ないんですが。




お互い遺書を交換していたというエピソードが長井さん側からも直さん側からも語られているわけですが。
もし、訓練時に長井さんと直さんがペアで、真珠湾に出撃予定だったとしたら、ペアの二人が遺書を交換したところで「ペアは生きるも死ぬも一緒」――なのだから、遺書を遺族に届けることは不可能です。長井さんにもしものことがあるときは直さんにも同じことが起こっているのです。
なので遺書を交換したとしたら、内地出港後、着艦事故のためにペアを解かれてしまった後でなら遺書を交換した可能性があるな、と思います。



鈴木分隊集合写真の直さん(左)と長井さん(右)
※所有者の方に特別にお許しをいただいて出しています
今回はトリミングしてしまいましたが、長井さんの右には乙8期の田中一則さんが座っていて、この三人は同郷、実家は結構近いように思います(わたしの感覚)。
三人ともクラスは違いますが、出身地で結ばれ、隊内で親しくしていたのかもしれないなと想像したりしています。

偶然この並びになったのかもしれませんが、遺書を交換していたぐらいの二人が隣り合って座っているのを見て、悲しみを新たにしました。


『若鷲のふる里』より

布哇作戦の首途に当り一筆書遺し候
我れ国家の為に死す。
男子と生れ皇国に生を承け然も軍人として屍を戦場に曝す此れに勝る名誉あらん。
希くは我なき後は弟■(※)を以て立派な帝国軍人となし国家の守りに立たせ給はらん事を。此の度の戦一挙にして終るべくにあらずして東洋平和確立迄には幾星霜かかるや測り知れず、この覚悟決してお忘れあるまじく、此の世に生を受けしより二十幾年慈愛の胸に抱かれ何一つとして不自由な思ひをした事とてなく我儘ばかりを申し今日まで心配をかけまいり今日まで一度の親孝行のまね事さえ出来ず、老後の面倒さえも見る事あはわずして先立つ事は何よりも心残に存じ居りま
す。然れども国家存亡の秋に当り私情を云々する事あたわず。
皇国君恩の万一に報ぜん時かねて父上よりの教訓国の為に死す事こそ最大の親孝行なりと之を明記し、必ずや之という勲功は立てずとも決して他人におくれとらぬ様最後の御奉公を致す覚悟です。されば何卒先立つ罪はお赦し下され度。
御両親様におかれても既に私なき時の覚悟は充分あられる事と信じますけれど、決してお嘆きあるまじく、もし報入りなば先づ伜よくやったとおほめ下され度、特に母上には身体も御病弱故お嘆きのあまり寿命を短められる様な事あらば尚一層の事私重ねて親不孝の罪をなす事になり世間の人に物笑いの種ともなりますれば、決してお嘆きあるまじく重ねてお願い致します。
私長男の事故家督の件も色々ありましょうが弟は国家の為に出れば結局は妹に養子を迎えられし方がよいかと存じます。然し御両親様にて考えられし方がよいかと存じます。然し御両親にて考えられし事あらばその様になされ度何事によらず独断にて決行さるるは如何と思いますれば親類初め天草の兄ともよくよく御相談の上御取はからい下され度。
弟は我が最愛にして最後迄面倒見てやれぬ事残念に思いますが、彼頭脳よく身体健全にて申分なけれど内気にて柔弱の風あり。これにては立派な軍人となる事六ケ敷く思われますけれど、彼の心底に流るる一脈の気概は之をのばせば必ずや立派な提督司令官となる素質と信じています。大いに鍛錬して長所を延ばして下さい。我旅立てば何物をものこさず、神体としてはこの遺書のみと思い申しますればこれにて我慢致され度。
身はたとへ太平洋に水漬くとも
  留めおかまし大和魂
今更に驚くべくもあらぬなり
  かねて待ちゐしこの度の旗
我死すと聞き村人一同航空兵にはなさるまじき等と噂せし時は何卒この戦果を例して将来航空兵力の如何に重大なるかをとき続々と後輩の出でん事を草葉の蔭より祈って居ります。
祖母様へは幼き時より非常に可愛がって戴き随分困らせた事もあり腕白小僧をよく今日まで可愛がり中学時代は特に御世話になりました。海軍に入籍してもより一層の御慈愛の心を垂れ休暇帰省を誰よりも喜んで下さいました。全く我身の果報が身にしみてうれしく思って居ります。逼迫した今日の時局存分の孝行も出来ませんでした。あの世とやらでは幾倍も御恩返し致す事も出来ようと思います。
今後十年内には皇威宇内に輝く世紀の曙が来るものと信じます。この時こそ私の一片の力が加っているものと思召されます様、そして天寿を完うされます様御祈り致します。
親思ふ心に勝る親心
  今日の訪れ何と聞くらむ
金銭貸借無し
婦女子関係無し
  十二月五日                長井 泉
 父上様 母上様 祖母様



※弟さんの実名が書かれてあるためわたしの判断で伏字にしました
その他、遺書本文の仮名遣いや旧字体漢字は現代のものに直しています。遺詠のみそのまま記載。


遺書に記されている12月5日は、わたしが上の加賀艦攻隊総員集合写真と鈴木分隊集合写真が撮られたと考えている日でもあります。
5日の時点でペアをいじられることが確定していて、書いた遺書を交換したのかもしれないな・・・・などと想像したりもしています。





長井泉さん
昭和16年12月8日 加賀 真珠湾攻撃 

島田直さん
昭和17年6月5日 飛龍 ミッドウェー海戦



長井さんが遺書の中で「身体も御病弱故お嘆きのあまり寿命を短められる様な事あらば尚一層の事私重ねて親不孝の罪をなす事になり世間の人に物笑いの種ともなりますれば、決してお嘆きあるまじく」と書いていたお母様が詠まれた一首


 遺品のシャツを抱きしめて
うつり香の消えざるやうと心する
     はだ身につけし吾子のかたみを



※画像は8期生ご遺族、9期生ご遺族・ご家族、操練出身艦攻操縦員ご遺族、Оさんご提供
大戸喜一郎1944『若鷲のふる里』輝文堂書房、『空母飛龍の追憶』より引用