兵61期 小川正一大尉のこと ― 2026年06月05日 21時51分05秒
今日はミッドウェー海戦の日、小川大尉のご命日なので2025年7月17日にアップした『南昌飛行場の件』という記事を再掲しようとしたのですが、何度やってもうまくいかず、どうやら前半(南昌飛行場の話)に何か問題があって投稿ができないと気づいたので、後半の小川大尉の部分だけ再掲します。
前半は『南昌飛行場の件』こちらをお願いします。
じつはですね・・・・。
少し前に、小川正一さんのお孫さんからコメントをいただいたんですよ。
「ふぁっ!?(;゚Д゚)」
ってなりましたよ。
なぜにこのタイミングっ!?
そりゃあビックリしました。
小川さんの写真は上に出した15空時代のヒゲの写真と、『真珠湾攻撃隊 隊員列伝』(大日本絵画 吉良敢/吉野泰貴)に出ている飛行機をバックに写った飛行服姿のものしか知らなかったので、
「お顔がはっきりわかる写真を見せていただけないでしょうか」
とおねだりしてみたところ、

「おおおおおおおっ!」
大尉時代の小川さん。
15空時代とずいぶん雰囲気違うぞー!
よく見ると同じ人とわかるのですが。
「ふだんは物静かな小川中尉」っての、わかる気がします。
今回のことがあるまで知らなかったのですが、小川さん、宮崎県出身らしいですよ!
同郷人だ!
小川さん、のちの真珠湾攻撃時は加賀艦爆隊の分隊長です。
『真珠湾攻撃隊 隊員列伝』に小川さんのページがありますので転載させていただきます(了解いただいています)。
加賀2中隊長
小川正一大尉
海兵61期/中佐
第27期飛行学生 艦爆
加賀艦爆分隊長
日中戦争中の昭和13年7月18日、南昌攻撃時に「九六艦爆」4機でもって敵飛行場に強行着陸し、爆撃後に残存していた在地の5機に火を放ったいわゆる“焼き討ち”を実施して生還したことで一躍有名となったのが小川正一大尉。
15空附で前記作戦に従事したのちは練習航空隊の教官配置を長く勤めていたが、昭和16年5月に「加賀」艦爆隊に分隊長として発令、ハワイ作戦へは第2次攻撃隊急降下爆撃隊に加賀2中隊を率いて参加している。
本作戦後、一時内地へ帰還した第1航空戦隊は翌17年1月にラバウル攻略に出動、同月21日には加賀艦爆隊16機を率いてカビエン攻撃を実施、ついで2月19日のポートダーウィン攻撃では九九艦爆18機の指揮官として攻撃に参加した。
その後、加賀はひと足先に内地に帰還し、艦底の修理を実施したのちミッドウェー作戦に出動、小川大尉は6月5日の海戦当日、ミッドウェー第1次攻撃隊に赤城・加賀の両艦爆隊を率いて参加、攻撃を実施したのち無事加賀へ帰着したが、その後、敵艦爆の奇襲により加賀が被弾炎上した際に行方不明となり(艦橋附近全滅)、戦死と認定された。
その戦死は2階級進級の対象となり、海軍中佐に任ぜられた。
略歴
明治45年3月10日 生まれ
昭和8年11月18日 海軍兵学校(第61期)
昭和10年4月1日 海軍少尉
昭和10年11月15日 練空飛行学生(第27期)
昭和11年11月20日 大村空附
唱和11年12月1日 海軍中尉
昭和12年4月20日 佐伯空附
昭和12年7月11日 12空附
昭和12年12月1日 龍驤乗組
昭和13年3月22日 霞ヶ浦空附兼教官
昭和13年6月25日 15空附
昭和13年11月15日 海軍大尉
昭和13年12月1日 霞ヶ浦空附兼教官
昭和13年12月15日 筑波空教官兼分隊長
昭和14年12月1日 岩国空分隊長兼分隊長
昭和15年1月15日 兼兵学校教官
昭和15年12月10日 臨時横須賀空附(~昭和15年12月28日)
昭和16年5月22日 加賀分隊長
昭和17年6月5日 海軍中佐/戦死(2階級特進)
小川正一大尉
海兵61期/中佐
第27期飛行学生 艦爆
加賀艦爆分隊長
日中戦争中の昭和13年7月18日、南昌攻撃時に「九六艦爆」4機でもって敵飛行場に強行着陸し、爆撃後に残存していた在地の5機に火を放ったいわゆる“焼き討ち”を実施して生還したことで一躍有名となったのが小川正一大尉。
15空附で前記作戦に従事したのちは練習航空隊の教官配置を長く勤めていたが、昭和16年5月に「加賀」艦爆隊に分隊長として発令、ハワイ作戦へは第2次攻撃隊急降下爆撃隊に加賀2中隊を率いて参加している。
本作戦後、一時内地へ帰還した第1航空戦隊は翌17年1月にラバウル攻略に出動、同月21日には加賀艦爆隊16機を率いてカビエン攻撃を実施、ついで2月19日のポートダーウィン攻撃では九九艦爆18機の指揮官として攻撃に参加した。
その後、加賀はひと足先に内地に帰還し、艦底の修理を実施したのちミッドウェー作戦に出動、小川大尉は6月5日の海戦当日、ミッドウェー第1次攻撃隊に赤城・加賀の両艦爆隊を率いて参加、攻撃を実施したのち無事加賀へ帰着したが、その後、敵艦爆の奇襲により加賀が被弾炎上した際に行方不明となり(艦橋附近全滅)、戦死と認定された。
その戦死は2階級進級の対象となり、海軍中佐に任ぜられた。
略歴
明治45年3月10日 生まれ
昭和8年11月18日 海軍兵学校(第61期)
昭和10年4月1日 海軍少尉
昭和10年11月15日 練空飛行学生(第27期)
昭和11年11月20日 大村空附
唱和11年12月1日 海軍中尉
昭和12年4月20日 佐伯空附
昭和12年7月11日 12空附
昭和12年12月1日 龍驤乗組
昭和13年3月22日 霞ヶ浦空附兼教官
昭和13年6月25日 15空附
昭和13年11月15日 海軍大尉
昭和13年12月1日 霞ヶ浦空附兼教官
昭和13年12月15日 筑波空教官兼分隊長
昭和14年12月1日 岩国空分隊長兼分隊長
昭和15年1月15日 兼兵学校教官
昭和15年12月10日 臨時横須賀空附(~昭和15年12月28日)
昭和16年5月22日 加賀分隊長
昭和17年6月5日 海軍中佐/戦死(2階級特進)
「練習航空隊の教官配置を長く勤め」ってところに引っかかりました。
前も読んでいるはずなのに、いま、あらためて。
しかも13年12月から1年間、筑波空の教官兼分隊長ですよ。
「どこかに写っているんじゃないか?」
写っていましたー!
筑波空の乙8期飛練初練の分隊長だったー!(;゚Д゚)

これは修業記念集合写真。

みな角力の格好をしています。
8期飛練生だけでなく教員も教官もまわし姿。
小川さん、よく見たらまわしに「小」という文字が見えています。隠れているけど「小川」って書いてあるんだろうな。いままでまったく気づいていませんでした。

以前一度出したことがある大洗の磯前神社の行軍時の集合写真。
ちょっとぼんやりしているけれど、これ、小川大尉だと思います。
ここまで操32期中島義喜教員の写真。

これも小川さんかな。
乙2松永喜三男教員の写真の中にあった、大洗の明治記念館前の8期飛練集合写真。
いやー、びっくりしました。
8期生(操縦)たちの飛練時代の分隊長だったのですか。
あの”南昌飛行場・・・・”の小川さんが、8期生たちの分隊長。
おもしろいな、と思ったのは、これは初練で、次、中練に進むわけですが、百里原の中練に進んだ8期生操縦の一部は今度はそこで徳永有先輩(乙3)が待ち構えていたというね(^_^;)
筑波空のあと、岩国空に転勤されたようですが、そこの操練51期の集合写真に写っているこの方も小川さんではないかなと思います。


乙6期中西義男教員の遺品の中にあったもので、わたしが弟さんから写真をお借りしてスキャンしたのですが、なんかピントがちゃんと合っていないんですよね。申し訳ないです。
下の飛行服の方はちょっと自信がありません。
7月18日を前に、桑島さんのお顔がはっきりわかったような気がしたので「お写真紹介しよう」と思っていたところに小川さんのお孫さんから連絡をいただき本当に驚きました。
これも何かのご縁でしょうか。
(桑島さんのお写真はもう少し探してみます、まだありそうな気がする・・・・)
※画像は小川さんご遺族、中西さんご遺族、操練出身艦攻操縦員のご遺族、浅川さんご家族、松永さんご家族ご提供
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