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法華寺・海龍王寺2023年01月07日 22時03分34秒

昨日、急に思い立って法華寺にお参りに行きました。


新大宮の方が近いかなー?
とも思ったのですが、平城宮跡沿いにぶらぶら歩いて行ったらあったまるだろうと思って、大和西大寺から歩きました。



こんな感じで歩いてきました。
12000歩ぐらい。



法華寺。
正式名称・法華滅罪之寺。
総国分尼寺です。
総国分寺の東大寺の尼寺版といったところでしょうか。
聖武天皇の后・光明皇后発願。


南門から本堂が見えますが、ここからは入れません。





こちらが入口。赤門。
拝観料700円。


いまは境内はこじんまりしていますが、創建当時は広大な寺域をほこっていたようですよ。





本堂。


ご本尊は十一面観音像。
厨子の中にいらしたようですが、扉が閉じられていて見ることは出来ませんでした。

横に、分身の白檀で作られた十一面観音像がありました(見れます)。


本堂内には他にも仏様や聖徳太子像、絵図などありました。
今回は、文殊菩薩騎獅像(獅子像の上に乗った文殊菩薩像)が、格子越しでなく直接見ることができるということでお参りに行きました(1月15日まで)。


境内をうろうろしてきました。
からぶろ




御朱印もいただきました。
お守り犬の朱印入りご本尊の御朱印。


それと、いま使用している御朱印帳(興福寺)がもうすぐなくなりそうなので、新しい御朱印帳を授けてもらいました。
ここに描かれているお守り犬の親子は樋口教香門主が描かれたものだそうです。





法華寺駐車場の横の生け垣が。

「侵入禁止」って札が下がっていたのですが、とても侵入しようとは思わない植物が巡らされていました。
なんですかね、これ。
検索してみたら「からたち」っていうんですかね。
見るからにおそろし気なトゲでした。





法華寺のおとなりさん。
海龍王寺。
ここ、とても行ってみたかったんです。
30年ぐらい前、わたしはこの前の道をバイク飛ばしてバイトに通っていました。
そのころから、「海龍王寺は無人の廃寺」みたいに思っていて(とんでもない誤解!)、行ったことがなかったんですよ。なんでそんなふうに思っていたのか?

昨日行ってみたら門は立派だし、門の横に立派な案内板も立っていました。
案内板は当時はなかったと思うけど、門はどう見ても当時もありましたよね(^^;)





この門から先が拝観料が必要。
拝観料500円。
こちらの御朱印は書き置きで300円。
日付が入らないけど大丈夫かと聞いてくださったのですが、
「法華寺さんで御朱印に日付を入れてもらったので大丈夫です(たぶん同じ日にお参りしたことは忘れない)」
と、そのままいただいてきました。


本堂。

こんな立派な本堂があるのにどうして廃寺だと思っていたのか?




ご本尊は十一面観音像。




西金堂。
この中にミニチュアの五重塔が。

国宝・五重小塔。
天平時代の唯一の五重塔だそうです。
ふつう屋外の大きな五重塔や三重塔って細かい意匠はよく見えないじゃないですか。
これ、けっこう近くから屋根の内側の意匠などが見えます。圧巻の細工です。

この屋根瓦、一枚一枚ミニチュア瓦を焼いて乗せてあるのかと思って調べたら、「本瓦形板葺」だそうです。
(国指定文化財等データベース)





法華寺も海龍王寺も時代が「奈良時代」と書かれたものがいくつもあってすごいです。
「鎌倉時代」と書かれていると、
「ああ、新しいな」
と思っちゃって、感覚がおかしくなります。


ヒトが多いんじゃないかと心配しながら行ったのですが、平日だったおかげか、ほとんどひとり占め状態でした(^^;)
(短時間、ヒトと一緒になる時間帯もあった)





海龍王寺を出て、てくてくと北へ歩いて行ったら突き当りが航空自衛隊幹部候補生学校です。
門衛さんがいたので、
「写真撮ってもいいですか?」
と尋ねたら、
「どーぞ」
とフレンドリーな感じで答えてくれました。


門脇の案内板。
写真を撮ったときは気づかなったのですが、帰って来て見返したら最後に法華寺門主の樋口教香さんのサインが。
樋口門主の手書き看板なんですかね?




ふだんは自衛隊は見学できません。
何しにここに来たかというと・・・・

古墳を見に来ました♪
基地の東にウワナベ古墳。
デカい!(゚Д゚;)
墳丘280メートルほど。

基地の西側にはコナベ古墳。
「コナベ」と言いながら200メートル級(^^;)
ウワナベに比べるとコナベ。


ここのお堀の水、白く濁っていました。
ツムラ日本の名湯みたいな。 乳緑色っていうんですか?


撮り直しました、こんなんですよ。


濁っていたからわからなかったんですが、でっかい鯉がたくさんいました。

1匹見つけたんで、カメラ(スマホ)を構えたらたくさん集まってきてくれました。
いや、別に撮影のために集まってくれたんじゃなくて、たぶんおエサをもらえると思って寄って来たんでしょうけど。
ん? ということは、ふだん、ヒトの手からおエサをもらっているんだろうか?



さーて、古墳も見たし、帰ろう。


と思って、駅の方に向かって歩いていたら集落の中に天皇陵。
平城天皇楊梅陵。

伝、ですね。

ここは市庭古墳とも呼ばれていて、元来250メートル級の前方後円墳です。古墳時代中期前半。
平城宮建設時に前方部(南半分)は消滅してしまったようです(発掘調査で確認)。
現在は円墳のような状態になっていて、平城天皇陵に治定されています。






復元大極殿の裏を通って駅に向かいました。

ランチ時に水を飲んでからずっと水分をとっていなかったので喉が渇いてきました。

「近鉄百貨店で買い物して帰ろう。フレッシュジュース飲んで帰ろう♪」

あまおうジュースで渇きを癒して、本年の初詣終了です。



発掘された日本列島展20222023年01月08日 22時49分40秒

今年天理にオープンした、なら歴史芸術文化村で昨日から展示が始まりました。
巡回展示です。
奈良に来るのはめずらしいです。わたしは初めて。

図録はだいたい毎年のように見ているのですが、実際に展示を見に行ったのは2018年の江戸東京博物館のみです。

今回2回目。
地元開催だ、わーい(*´▽`*)
昨日の初日にさっそく行ってきました。

なんと!
無料です!(゚Д゚;)




巡回している発掘速報展だけでなく、地元の「石上・豊田古墳群と別所古墳群」という企画展示も無料で見学できます。




さらにですよ!!

アンケートに答えると、↓こんな図録がただでもらえます!(゚Д゚;)
この図録、かなり充実していますよ。
ただで配っていいんですか!?ってぐらい。

ほとんどカラーページで、図や写真が豊富。見るだけで楽しい図録です。

アンケートに答える前にもらえていたらべた褒めしておいたのに。

※もしかしたら部数限定品かも知れないので必ずもらえるかどうかはわかりません

大神神社 初詣2023年01月09日 14時01分06秒

昨日の話です。
大神神社、今年の初詣。

いつもこの時期に行っていたと思って、家族を誘って行ってみたら激混みでビックリしました。
ふだんは2、3分もかからない箸墓―大神神社の間が、30分ぐらい、いやもっと?かかりました。
着いたら着いたで、参道は人がいっぱい。
出店が出ていたので食べながら歩いている人たちもいっぱいいて。この時期に行ったのはよくなかったです(´・ω・`)
まだ早かったみたい。




人が多すぎて、使える写真があまりありません。



拝殿でお参りし、兎年限定御朱印をいただきました。


狭井神社、久延彦神社、若宮社とお参りして終了。









そしていつもの酒アイス@今西酒造

参道の今西酒造では冬季はアイスをやっていないそうです。
「三輪駅前の店舗では一年中やっています」
とのことだったので、三輪駅前店へわざわざ立ち寄って食べました。

うまうま(*´ω`*)

今日の朝ごはん2023年01月12日 14時42分04秒

健診が終わったので、今日の朝ごはんはスコーンにしました。
クロテッドクリーム、これこれ(笑)



グッデイフォーユーというお店の出店があったので買ってみました。

甘さ控えめです。

加賀艦攻隊艦内3分隊2023年01月13日 14時37分29秒

※毎度毎度申し訳ありませんが、間違いを見つけたので編制表を差し替えました。
202301152113


真珠湾攻撃時の加賀艦攻隊の分隊に関してちょっと考えてみました。

ベースはこの総員集合写真なのですが、相変わらず下士官兵搭乗員不明者数名が判明しておらず、中途半端なものになってしまっています。




こういう方面に詳しいYさんによると、加賀の艦内編制は3分隊から成っているとのこと。
図入りで説明してくれました。


いままで北島一良大尉の分隊だけは上の写真と同じときに撮られた集合写真あったおかげで、分隊員が判明していました。

昨年終わり頃に、同じときに撮られた鈴木三守大尉の分隊写真も存在することがわかり(町元善春さんご遺族ご提供)、2分隊分が揃いました。

となると、この2分隊に所属していない人が残りのもう1つの分隊、牧秀雄大尉分隊ではないのか。


Yさんの図には個人名は入っていなかったため、わたしの方で個人名を入れたものを作り直しました。
こんな感じ。
たぶんここまでは間違っていないはず。

分隊員ですが、ほぼわかっているのですが、あと数名、これはどなた?という方や予備員らしき方がいて判然としないので「分隊員」とひとくくりにしてしまっています。

総員集合写真から判断すると、総勢93名で、北島分隊が33名、鈴木分隊が29名写っているので、残り牧分隊は31名ではないかと想像できます。



ただ、問題がありまして。

もしかしたら、加賀艦攻隊に所属しているのに、あの総員集合写真に写っていない人がいるのではないか?

武田友治さんがね・・・・。
お顔がわかっているのにどこに写っているのかわからないんです・・・・。
もしかしたら、何か事情があって写っていないのか?
それとも、霞がかったようになっていてちょっと見にくい最後列の中にいらっしゃるのか?

ここら辺の問題が解決しておらず、いったんひっこめた総員集合写真の記事が再アップできていません。申し訳ないです。

まったく進展していないわけでもなく。
多少の進展はありました。
いままでお顔がわからないと思っていた搭乗員の写真を何年も前から見ていたことに数日前に気づきました(^^;)
わたしのパソコンのフォルダに入っていたんです。戦没者の方のアルバムなんですが、別件で見返していて、その人と同僚のツーショット写真の台紙に加賀艦攻隊の搭乗員のお名前が書かれているのに気づきました。
「あっ!(゚Д゚;)」
ってなりました。
めっちゃはっきりお顔がわかったのですが、「集合写真のこの人????」みたいな、はてながたくさんついている状態です。ちょっと自信がないので保留。
もし、「集合写真のこの人?」が間違っていたら、その人も写っていないことになります。

これらの件、もう少し何か探してみたいです。






話をもとに戻します。
この艦内編制3分隊を基本にして、それをばらし、真珠湾攻撃時の攻撃隊編制(水平爆撃隊3中隊、雷撃隊2中隊)を作っている、ということでした(Yさんご教示)。

分隊集合写真から推定した艦内3分隊を、真珠湾時の編制表に反映させたものが下の表です。





やっぱりこれも問題があって(^^;)

長井泉さんです。
たぶん鈴木分隊集合写真に写っている人が長井さんだと思っているのですが、そうなると、長井さんは牧分隊の植田米太郎1飛曹と武田友治1飛とペアを組んで出撃したことになります。
ふつうのことなんですかね?

植田さんと武田友さんのお顔はわかっています。
おふたりとも北島分隊集合写真にも鈴木分隊集合写真にも写っていません。
となると、牧分隊だと思うんですよね。



以前、蒼龍の艦内2分隊(11分隊、12分隊)について考えたときに、やはり同じようにそれを真珠湾の編制表に反映させたものを作りました→ここ
今回の表と形式が違うので見にくいですが、言いたいことは「ペアは同じ分隊内で組んでいる」ということです。
他の隊――たとえば赤城艦攻隊とか加賀艦爆隊などもそうなのかと聞かれると、そもそもの艦内分隊の顔ぶれがわかっていないので何とも言えないです。
わたしが把握している(と思っている)蒼龍艦攻隊に関しては、同じ分隊内のペアで出撃している、ということ。
もちろん、真珠湾後は戦死や転勤などで入れ替えがあったためか、別の理由かわかりませんが、分隊をまたいだペアが見られます。


長井さん(鈴木分隊)、植田さん(牧分隊)、武田友さん(牧分隊)のペアは不自然なペアではないのかな?

そういうわけで、わたしが「長井泉さん」と思っている人が本当に長井泉さんなのか、編制表的に引っかかっています。

今日、出しましたが、もしかしたら長井さん部分は後から訂正するかもしれません。




※画像は9期生ご遺族ご提供
吉良敢・吉野泰貴『真珠湾攻撃隊 隊員列伝』大日本絵画