乙2期 浦田豊四さん 追記 ― 2022年09月06日 13時46分06秒
さっそく浦田さんに関して知人から情報提供いただきました。
操練42期(霞空友部)の教員だそうです。
13年の初めごろでしょうか。でも、そんなに寒そうでもないですね。
浦田教員!
前列左から2人目。
他にも見知った方が写っていました。
乙2同期生の岡本正人さん。
艦爆の操縦員。
霞ヶ浦飛練時代の岡本さん。
岡本さんも浅川さんと親しかったようでオフショットあります。
いずれご紹介しようかと思います。
操練23期の住友清真さん。
真珠湾時飛龍艦攻隊。
浦田さん、16年6月には加賀で分隊士をされていたみたいです。
※画像はMさんご提供、ご教示感謝です。
飛練の七つボタン ― 2022年09月08日 16時28分03秒
↑最近、気になって気になってしかたがなかったこと。
わたしは「予科練の乙9期生のことを調べている」とヒトには言っているんですが。
乙9期というのは昭和13年6月に予科練に入隊、15年11月末で予科練を卒業、飛練に進み、16年10月末で飛練を巣立って一人前の搭乗員になったクラスです。
なので、17年11月に予科練に導入されたという予科練の代名詞「七つボタン」にはまったく縁のないクラスです。
なので、七つボタンの軍服に関してはほぼ無知です。
ちょっと前に、
「予科練にふたごの搭乗員がいる」
という話を書いたことがあるんですが、おぼえていますか?
かれら、お顔がそっくりでわたしは見分けがつきません(^^;)
で、何とか階級章や軍服などから見分けがつかないだろうかといろいろ見て行くうちに、七つボタンの軍服の知識ナシではダメだ、ということに気づきました。
双子の兄弟は、乙15期の加藤海造(かいぞう)さんと、丙4期の加藤陸造さんです。
海造さんがお兄さんで、陸造さんが弟さんです。
大正13年6月生まれ。
見せてもらったアルバムは兄の海造さんの記名があるのですが、貼ってある写真の中には明らかに弟・陸造さんと思われる写真もありました。
たとえばこれなんですけどね。
整備の階級章(3等整備兵)をつけています。
乙飛の海造さんはこの階級章をつけることはないので(乙飛・甲飛は最初から航空(飛行)兵)、これは丙飛の陸造さんと。
アルバムには七つボタン姿の写真もありました。
たとえばこれですが。
予科練に七つボタンが導入されたのは昭和17年11月1日ということのようですが。
乙15は15年12月1日に予科練に入隊しています。ということはその時点では従来のジョンベラということです。
予科練卒業が17年12月1日。
海造さんは予科練の最後の一ヶ月が七つボタンだったことになります。
じゃあ、陸造さんは?
陸造さんは丙4予科練時代(16年5月1日~9月30日)は七つボタンの軍服はまだ導入されていません。
七つボタンって予科練の代名詞なので、わたしはてっきり予科練だけかと思っていたのですが。
他の人の写真も色々と見ていたら、
「いや待て、飛練も七つボタンで写っているぞ」
ホントにそうなのか?
いろいろ探して、これを見つけました!
K上飛曹にいただいた冊子。
辛子明太子伍長さんが書いた予科練・海軍航空隊に関する簡単なイラスト説明パンフです。
K上飛曹も協力されたとかで、出版直後にいただきました。
この冊子の中に七つボタンの説明ページがあり、そこに、
『この制服は予科練と、本科にあたる飛行練習生の両方が着用しました』
と書いてありました。
「これこれ! この情報が欲しかった!!」
そういう目で見たら、なるほどすっきりしました。
これは藤本速雄さん(丙13)の写真。
第二十九期飛行練習生修業記念。
わたし、この写真、ずっと大村での戦闘機の修業記念かと思っていました。
大村時代の教官・教員だった坂井三郎さんやホリブンが見当たらないので、おかしいなとは思っていたんですよ(^^;)
昨日、七つボタンの件で見返していて、
「これ、百里原やん」
って気づきました。背景が浅川さんの百里原写真と同じ建物でした(窓の形状、換気口の位置、配管の位置など)。
知人Hさん情報によると17年11月から18年4月まで百里原で中練やっているみたいです。
練習生は七つボタン。
これは久保さん(乙10)の大村教員時代の飛練29期(乙15)修業記念写真(たぶん攻撃機)。
こちらは海造さんの飛練29期大分戦闘機の修業記念写真。
ジョンベラやんな(^^;)
ここで引っかかっていたのですが、昨日の夜、やっと理解できました。
「飛練も七つボタン」、これが基本でしょう。
じゃあ、なぜ久保さんと海造さんの写真の練習生たちはジョンベラなのか。
これは海造さんです。
ジョンベラの理由はたぶんこれ、特技章。
つまり、この修業写真は飛練の最後の最後の日であり、一人前の搭乗員(特技章持ち)のスタートの日でもあるわけです。
この撮影直前までは七つボタンだったのでしょう。
特技章のついたジョンベラを着て、無事飛練を巣立っていく、その記念写真です。
久保さんの方の練習生たちも特技章をつけています。
藤本速雄さんの方は中練の修業記念写真なので、まだまだ飛練の中ほどです。
このあと各実用機に分かれて仕上げの訓練が待っています。
なので七つボタンのまま、特技章はまだもらっていません。
ということがやっと昨日の夜理解できました。
遅いっちゅーの(+o+)
これは藤本久夫さん(乙10)が教員をしていた時の飛練修業写真。
どこで何期かは不明です。
1枚物で裏書もなかったです。
これも藤本久夫さん。
どこで何期かは不明。
藤本さんの経歴的には大井空か出水空じゃないかと思うんですが・・・・。
これらは七つボタンなので中練の修業記念写真なのでしょうね。
上に出した久保さんの飛練29期(乙15)と一緒に貼られていた練習生とのペア写真。
修業の日に撮られたんですね。
練習生たちは特技章をつけています。昨日気づきました。
この日で教員、練習生はおわかれです。
久保さんの大村・飛練30期。
「丙」の書き込みがあります。
実用機なので、このあとはもう実施部隊です。みんな特技章のついたジョンベラ。
久保さん、大村・飛練31期。
乙16って書き込みがあります。これは練習生たち、下士官に任官しています。
乙15・飛練29期の海造さんは大分を卒業して1ヶ月ぐらいはまだ兵階級でジョンベラだったんですけど、乙16のこの人たちは飛練中に下士官に任官しているってことですかね。
飛練中に下士官に任官した場合はどうなるんでしょうね?
七つボタンに下士官の階級章をつけるんでしょうか。それとも七つボタンはやめて下士官の軍服になるんでしょうか。また新たな課題ができたぞー( ;∀;)
せっかく予科練・飛練は七つボタンのかっこいい軍服をゲットしたのに、飛練卒業時に兵階級だったら結局ジョンベラは着用しないといけないってことですね。
なんかややこしいですね。
9期(飛練10期)の頃と全然違うから。 ←言い訳
9期の頃ってまだ兵階級は航空隊名が入ったペンネントをつけていました。
たとえば「横須賀海軍航空隊」とか「霞ヶ浦海軍航空隊」といったものです。
これがあるおかげである程度の撮影時期の絞り込みができます。
さらにそこに階級章や善行章などを加えてけっこうな狭い期間に絞れるんです。
しかし、乙15ぐらいの時期になるとペンネントが途中から「大日本帝国海軍」に統一され、どこの航空隊所属かわからなくなるし、さらに途中から軍服が七つボタンになるので、予科練と飛練の見分けすらつかなくなります。
七つボタンの、予科練と飛練の見分け方とかあるんだろうか?
上にちょっと書いているのですが、陸造さんは予科練時代は七つボタンの着用はありません。
が、飛練卒業が遅れたのか、飛練の最後の方は七つボタン導入後の時期にかぶっているんですよ。
ということは「七つボタン=海造さん」とも言えないわけで。
陸造さんは飛練卒業までは整備科の階級章をつけているはずです。
しかし、古い丸形の階級章だったら整備科の階級章は一目瞭然なのですが(上の二種ジョンベラの写真)、17年11月に導入された盾形の階級章だと白黒写真では飛行科なのか整備科なのかよくわからないんですよね・・・・。
※階級章の桜の部分の色で科の区別(↓わたし加工)
飛行科
整備科
仕事が雑でスイマセン(汗)
ふたりの所属航空隊、進級状況の一覧表を作ってそれとにらめっこしながら、どの写真がどちらなのか鋭意検討中です。
なんかもろもろややこしいことがあって道のりは困難です。
ところで。
ふつうふたごって、一卵性でいくら似ていると言っても周りの人は見分けがつきますよね。
前にも書きましたが、高校時代、同じクラスに一卵性のふたご男子がいましたが、似ているけど見分けはつきました。
加藤兄弟も、実際周辺にいた人たちは見分けがついたんだろうな、とは思うんです。
が、写真を見る限りでは、わたしは見分けがつきません。
が、じつはこのふたり、一緒にいたら見分けがつくんです!
ということが最近になってわかりました。
ちょっと前に、海原会のフェイスブックに、ホームページにスマホ版ができました、みたいなお知らせが出ていました。
で、ちょうどそのときスマホで見ていたので、どれどれ、とクリックしてみたのです。
そしたらこの画面が出てきてビックリ仰天!
※「お知らせ・更新情報」の「双子の予科練さん」をクリックしてください
今年の4月におふたりの遺品展をしていたらしいのです。
ここに出ている画像の右下におふたりが並んだ写真が出ているでしょう?
わたしの手元にはない写真で、初めて見ました。貴重なツーショット。
おふたり、体格に違いがありました。
海原会の人に詳細を尋ねてみたところ、この画像は陸造さんの海軍入団の際の記念写真ということでした。
左の人物の方が、右の人物より7、8センチほどは背が高いように見えます。
肝心の、どちらが海造さんでどちらが陸造さんかはわからんのですが(^^;)
なので、ふたり一緒にいれば、背が高い方が〇造さん、みたいな感じで見分けはつくんでしょう。
もしかしたら、声でわかるかもしれないですしね。
あと、歯並びでもわかるかも。わたしの手元に笑っている写真があるのですが、歯並びがちょっと特徴的かも。ふたりとも同じ歯並びの可能性もありますけどね(^^;)
動いている状態で見たら見分けはつくのかもなあとは思うのですが、写真しかないのでそれで見分けないとしかたがないのですが、うーん、わからん(T_T)
でも、何とか軍服・階級章からアプローチしてみたいと思っています。
※画像は乙10期生ご遺族、久保さん、藤本さん、知人ご提供
寺社に関するお尋ね2 ― 2022年09月09日 14時28分13秒
今年の7月18日に「寺社に関するお尋ね」という記事を投稿したの、おぼえていますか?
浅川三雄さんの飛練時代のアルバムに貼られていた写真です。
写っているメンバーから霞ヶ浦飛練時代の行軍写真ではないかと思っています。
いくら探してもどこかわからず、こことツイッターに、
「この寺社、どこかわかりませんか?」
って出したんですけど、まったく無反応でした(^^;)
同じ寺社の写真が乙15加藤海造さんのアルバムに貼ってありました。
練習生は七つボタン、階級章は飛長かなあ???? ちょっとぼやけていて見にくいんですが。
海造さんの筑波飛練時代ではないかと思います。
浅川さん写真の鳳凰。
海造さん写真の鳳凰。
同じ建物ですよね。
海造さんの方には、浅川さん写真に写っていないものも写っていました。
唐破風部分の上の瓦?。
これ、浅川さんの写真には写っていません。
真ん中を拡大します。
桜の中に「宗」って字が書いてあるように見えます。
ちなみに「宗」は他の鬼瓦にも書いてあります。
これは浅川さん写真から。
桜の中に「宗」の字、これ、すごいヒントだと思うんですよね。
でも、検索しても出てきません。
かなり立派な寺社だと思いますよ。
もしかして戦災で焼失してしまったんだろうか?
それとも戦後に建て替えしたのか?
霞ヶ浦や筑波(友部)から行軍で行くような範囲の寺社だと思うんですけどね。
他の期の練習生たちも行っている可能性大だと思います。
もし、何かお気づきの方いたらぜひご一報いただきたく。
※画像は浅川さんご家族、知人ご提供
解決しました―寺社に関するお尋ね― ― 2022年09月09日 19時38分38秒
さきほどアップした寺社に関するお尋ねですが。
知人からの情報提供で解決しました。
千葉県成田市の東勝寺宗吾霊堂でした。
現存します→検索してみてください
江戸時代の義民・佐倉惣五郎(木内惣五郎、宗吾、惣吾※Wikipedia)を祀っているお堂だそうです。
めっちゃ腑に落ちましたよ!
桜に「宗」の文字。
佐倉→桜
宗吾→宗
だったんですね! たぶん。
屋根には他にも「宗」。
操練や普整の人たちも行軍で訪れているそうです。
浅川さんのアルバムでは香取神宮の写真と同じページに貼られていたので、その周辺じゃないかと思って探したのですが、自力では見つけられませんでした。
いやいやいや、うれしいです!(・∀・)
ありがとうございました!
まるかつ天理店 ― 2022年09月10日 23時42分28秒
今日のお昼は久しぶりにまるかつ天理店(なら歴史芸術文化村)に行ってきました。
2時ぐらいだったかな。
お昼の混雑時間帯は過ぎているだろうと思ったのですがずいぶん長く待ちました。
前に行ったときに、
「コロッケ&ミンチカツ定食作ってほしい(・∀・)」
とリクエストしておいたのですが却下されたようなので(笑)、今日も単品組み合わせ。
今日は、ミンチカツ、ちょっとカレー、ごま豆腐(これは外せない)、キャベツ、ごはんで注文しました。
カレーもうまうまです!(^o^)
やっぱカツの衣がさっくさくなのがいいですね!
いいや、もちろん中のミンチもおいしいんですよ。
ごま豆腐が絶品でね。
わたしがうまいうまい食べていたら、春海とパパが自分の分(定食の中の一品)をくれました(*´▽`*)
春海とパパはサーモンカツとふつうのとんかつの定食みたいなのを食べていました。
サーモンカツがめっちゃおいしかったって。
おいしすぎて春海はごはん二杯、パパは三杯もおかわりしていました。
ソフトクリームもやろうと思っていたのですが、入らなくなってしまいました。
今日は文化財修復棟の方も見学しました。ふたりは初めて。
春海は相変わらずこういうのは興味ないんですが、パパはなんか熱心に見ていました。
今日も帰り時間に雲行きが怪しくなり。
天理から西の方角を見ているところです。中央右にうっすら見えているのは生駒山。
左半分の真っ白になっているところは雨雲レーダーで見たら真赤になっていました。法隆寺の辺り。
雨の境目ぐらいのところに何度か雷が落ちるのが見えました。
家に帰り着くぐらいにはやんでいましたけど。