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乙5大林行雄さんのこと2022年07月27日 10時11分04秒

6月19・20日に書いた乙5の大林行雄さんのこと()で追記です。


15空時代(昭和13年)


ご遺族の方がご命日のミッドウェー海戦の日を機に検索されたとかで、この記事を見つけて連絡をくださいました。
大林さんの妹さんの家系の方です。

ブログに出していた浅川さん所有の写真は初めてご覧になる写真だったようで。
いただけませんか、ということでした。

書いた直後にこういうことがあると、
「お導きに違いない!」
と思います。


写真を所有されている浅川さんの息子さんにもお知らせしたところ、たいへん喜ばれていました。
息子さんもつねづね「希望される遺族の方がいれば、ぜひ写真を渡してあげたい」というお考えなので。



『空母飛龍の追憶』には妹さんの寄稿文、大林さんの遺影、手紙、墓碑銘が掲載されています。

墓碑銘によると大正7(1918)年5月生まれということなので、ミッドウェー海戦で戦死されたときは満25歳ということですかね。
15空に配属されたのは昭和13年の8月だそうです。
その後ちょっと飛んで、布哇攻撃の記載になっています(その間は練習航空隊の教員か?)。


ご実家に伝わる話としては、飛龍時代の話だと思うのですが、山口司令官か加来艦長かをどこかに飛行機で送り届けたあと郷土訪問飛行の許可を得たのか、ご実家付近の上空を低空で飛びまわって去って行かれたことがあったそうです。
ただ残念なことに、当の大林家の方々はどなたもそれをご覧になれなかったそうです(ご不在)。あとでご近所の方々から聞かれたのだとか。
小学生は校庭に出て手を振ったそうですよ。当時は飛行機はめずしいでしょうからね。いまのわたしたちがブルーインパルスを見るような感じでわーっと手を振ったのでしょう。





あと、ご遺族の方、妹さんから冠谷さんのお名前を聞いたことがあるとのことでした。
大林さんがご存命の折に戦友として冠谷さんのことを話していたのか、あるいは妹さんが戦後の戦友会などに招かれた際にご存命だった冠谷さんと大林さんのお話をされる機会があったのか?

おふたりは相当縁深いですからね。
9年に予科練に入隊してから、飛練、延長教育、15空、霞空(筑波)・・・・とおそらく5、6年ずっと同じ航空隊だったのでは?(おふたりの履歴を把握していないので想像込み)
お互い、一番よく知っている間柄、といっても過言ではないでしょう。




ご実家に飾られている遺影の写真も送っていただきました。
『空母飛龍の追憶』に掲載されている飛曹長の写真です。
『空母飛龍の追憶』では胸から上のアップ写真ですが、ご実家の遺影は腿のあたりまで写っています。短剣を吊っていてかっこいいですよ。
印度洋作戦後、4月末に帰省したときに撮影されたものだそうです。
残念なことに、そのときも妹さんは会えなかったそうです・・・・。




無関係のわたしがいうのもおこがましいのですが、ご遺族の方がいまも故人のことを大事に思いつづけているって、とてもうれしいものです。
そして、そういうご家族のもとに1枚でも多くの写真が戻っていく――本当によかったなと思います。
今回のようなことがあったときには写真の所有者の方にもお伝えして喜びをわかちあっています。
みなさん、本当に喜んで下さいます。


※画像は浅川さんご家族ご提供

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