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操練49期 御手洗六夫さん2022年02月23日 17時04分16秒

飛練10期(予科練乙9期主体)の実用機・攻撃機教程の大分での修業記念集合写真。
ここに9期以外の練習生が3人写っています。

3人は下士官です。
どうしてその人たちが練習生であるとわかったかというと、大分から移動した先の木更津(大型機講習)の集合写真にも写っていたからです。教員ではなく練習生であると判断しました。



最初にわかったのは8期の岡宮祐さん
2列目左から2人目。
岡宮さんは9期の予科練時代操縦分隊集合写真にも写っているので、予科練時代に合流したものと思われます。
飛練10期谷田部(中練)の集合写真にも写っています。


8期卒業アルバムの個人写真を見せていただき最近になって判明したのが本村静夫さん
2列目右端。
本村さんはおそらく飛練のどこかの時点で飛練10期に合流したのではと思っています。
中練は筑波。




もうおひとり。
8期卒アル個人写真にいないように思い、もうあきらめていました。
この人。
2列目右から2人目。




大分から移動した木更津大型機講習の集合写真。

3列目左から2人目。

袖(階級章や善行章)、大分写真はまったく写っておらず、木更津写真の方はかすかに端っこが写っているのですが、ちゃんと見えず判別不能。



12日の夜遅くに、判明しました。


きっかけは町元さんのご遺族の方が、「あの人、○○さん(8期生)では?」と連絡をくださったことでした。
結論から言うと、その人ではなかったのですが(いくつか理由がある)、この検証過程でまたまたいつものKさんに頼ってしまい、Kさんとやり取りしている間に判明してしまった―――という次第です。
ふたりで会議して判明したのではなく、Kさんご指摘で判明したってのがホントのところです。




わかってみると。
この人の練習生時代の写真が、わたしのフォルダに入っていました。
この人。

操練49期の御手洗六夫さん。
大分県出身。


操練49期。
そーなんです、乙2浅川三雄さんの受け持ちクラスです(百里原)。
これも浅川さんの写真。浅川さんはこの時飛曹長に任官後で”浅川教官”になっています。

この中にいたんですよ。
飛練10期操縦・攻撃機、大型機講習最後の不明者(中攻操縦)。

なんだろう・・・・出会っていたのに、いままで気づいていなかったというのが、何ともことばで言い表せられない感情です。




17年4月18日  4空  土浦附近  不時着








17年4月18日、この日はドーリットル空襲があった日で、B25が発艦した敵空母を求めて、木更津基地から木更津空(17機)、4空(5機)、三沢空(8機)の一式陸攻が雷装で出撃。
また、直掩隊として6空の零戦12機、館山から加賀の零戦12機も出撃しました。

しかし、零戦の方が航続距離が短いわけで、零戦隊は途中で引き返し(誘導隊として三沢空の3小隊2機も引き返し)

残りの攻撃隊は1630ごろまで敵空母を求めて進撃しましたが結局見つからずに木更津に引き返しました。

夜になり攻撃隊は木更津に到着、着陸を開始したところ、木更津空1中隊3小隊1番機の向笠進一1飛曹機が事故を起こし滑走路上で火災発生。
木更津に降りることができなくなった残りの機は霞ヶ浦の飛行場に行くように指示され、そちらにまりました。

御手洗さんが副操をしていた4空機(以下、機長のお名前(河野貞吉1飛曹:主操)を取って「河野機」と表現)は霞ヶ浦航空隊に着陸しようとして霞ヶ浦湖畔(土浦海軍航空隊付近?)に不時着(墜落?)。
御手洗さんを含む搭乗員4名が戦死。





おおまかな流れだけを書きました。

これ、ちょっと引っかかった部分があって10日以上調べているのですが、調べれば調べるほど混乱してしまい、結局、よくわからないまま書いています。
最後まで読んでもらっても結論はありません。



河野機が不時着するにいたった遠因は、木更津基地で起こった着陸時の事故です。
この最初の事故(向笠機)が起こった時間と、河野機が霞ヶ浦で事故を起こした時間・場所がわからないのです。
御手洗さんの最期に関わることなのでできたら突き止めたかったのですが・・・・。




佐藤暢彦さんの『一式陸攻戦史』(潮書房光人社)。
(零戦隊が引き返し)その後も陸攻部隊は進撃を続けたが、途中天候不良となり、中隊ごとに分離、約七〇〇カイリまで進出した時点で索敵攻撃を断念、午後四時半前後に反転、帰投コースに入り、各部隊はバラバラに午後十時過ぎ頃、木更津上空に到達した。
この日は晴天の暗夜で月もなく、灯火管制もあって真っ暗だ。偵練三十五期出身というベテランの向笠一飛曹は、T式無線帰投装置でJOAKが流す軍艦マーチを受信しながら木更津上空に辿り着いた。しかし主操の尾崎二飛曹が夜間の着陸に自信がないという。基地からは魚雷を積んだまま着陸せよと言ってきており、過荷重での着陸に向笠一飛曹も一抹の不安を感じた。
着陸誘導コースに入って一回目はやり直し、二回目はエンジンを絞るのが早すぎ、落下着陸となってしまった。一飛曹が「あっ」と思った瞬間、接地と同時に両方の主脚が破断、そのまま滑るように滑走路の中央付近で停止した。エンジンのスイッチはオフにしたものの、魚雷の頭部が衝撃で割れ、摩擦熱で火薬に引火して飛行機はたちまち火を噴いた。火達磨の機から搭乗員はかくも飛び出した。しかしこの事故の炎によって、機位を確認して基地に戻ることができた機体もあり、何が幸いするかわからない』

佐藤さんの著書には、当日の陸攻隊の行動はここまでしか書かれていません。
このあと、降りられなくなった残りの機が霞ヶ浦にまわって、河野機が事故を起こすのです。


当日、河野機の偵察員で事故の生き残りである網谷英二1飛曹(甲1)の回想(『甲飛の黎明』)。
(引き返しが決まり)思わずほっとして機内では出発時の緊張も忘れて、一時は私語も出て、ひたすら夜間の洋上飛行を続けた。反転してから約二時間飛行したころにわれわれは、黒く横たわる房総半島に出合い、更に管制下の木更津空の発光信号が、我が機に向けて連続してあり、私は主操縦のK飛曹長に知らすと同時に、再び機首を持ち上げ大きく飛行場上空を旋回しつつ、次の地上の信号を待った。地上から『直ちに霞ヶ浦空に向かえ、事故発生着陸不能』との信号を受け、再び我が機は、闇夜の霞ヶ浦空に向けて飛行した。
当日、米軍機による本土初空襲があったため、地上の灯火管制は厳しく、時たま、地上より警備隊の信号灯か、上空防衛機の接近する灯火が夜空に散見する程度だった。
やがて眼下に、霞ヶ浦湖畔が見え出したが、霞空上は暗く、我が機は湖上より湖周をまわりつつ、着陸地の指示信号をさがし、待ち続けた。灯火管制下の地上は、数条の光が忙しそうに走りまわっていたが、飛行場の誘導灯は見られず、わが機は尚も、湖上をまわりつづけていた。そろそろ誘導灯もつくころと思った時、とつぜん前面計器盤に『赤灯』がつき、燃料欠乏を知らせていた。後席の搭整員からも、着陸まではもつが、注意せよといってきた。操縦席は再び緊張した。その時やっと霞空の誘導灯が点灯した。すかさずベテランの主操縦K飛曹長は、湖周より進入コースに向けて機首を下げつつ、一、二回左右に方向修正を行い誘導コースに乗ったと思われた時、とつぜんバリバリと、物凄い大木を切り裂くような音がしたと思った瞬間、我が機は地上に激突したのか、私は、前後不覚になったのだ。魚雷を抱いたまま、闇夜の湖畔に、思わぬ不時着事故となったのだ。後日病室で聞かされた話では、
一、不時着時間と場所は、当日二二〇〇ごろ、霞ヶ浦湖畔の「阿見浜辺」近辺。二、救護班の話では、即死者三名、重傷者二名、軽傷者一名。重傷者二名中一名は、入院後死亡し、他の一名は私にて、軽傷者一名の搭整員は帰隊後戦死す。』
※「K飛曹長」は河野1飛曹のこと
※即死―河野貞吉1飛曹、秋山謙吾1整曹、御手洗六夫2飛曹
翌日死亡―入江一安2飛曹
重傷―網谷英二1飛曹、鳥越八郎1飛
軽傷―奥貫高重3整曹
(Kさんご教示)



当日、三沢空1小隊2番機の偵察員だった天野環さん(丙5)もこの日のことを手記に残されています(Tさんご教示)。
それによると二十一時頃木更津上空で旋回待機中に滑走路で爆発火柱を見て霞ヶ浦にまわったとのこと。
河野機の事故のことは触れられていません。




木更津で事故が起こった時間は、
『一式陸攻戦史』―――午後十時過ぎ頃
天野さん手記―――二十一時ごろ
さらに、下に挙げている3隊の行動調書を検討した結果―――2100ごろ(検討過程は省略、時系列まとめを参照してください)


霞ヶ浦で事故が起こった時間は、
網谷さん手記―――二二〇〇ごろ
4空の行動調書―――2200
木更津空の行動調書―――2300
『予科練外史』4(Tさんご教示)―――2300


というわけで、いったい事実はどうだったのか、よくわかりません。



河野機が不時着した場所に関しても、正確な場所はわかりませんでした。
網谷さんは回想に「阿見浜辺」と書いています。

当時、土浦海軍航空隊で教育中だった予科練生2人が事故翌日の日記に不時着機のことを書き残しています。乙15期・木村孝正さん(予科練平和記念館収蔵の日記)と乙16期・鷲一郎さん(倉町秋次『予科練外史』4)。
ふたりとも内容は同じような感じです。
加賀の戦闘機は木村さんは「練兵場」(伝聞)、鷲さんは「練兵場の病室の横」に不時着。「病室」というのは現在の武器学校に残っている医務科棟のことでしょうかね。

あと、木村さんは「湖畔に残骸」、鷲さんは「中攻も一機燃料不足のため昨夜二三〇〇、湖岸に不時着」(伝聞)。おそらくこちらが河野機のこと。鷲さんの方は不時着理由を「燃料不足のため」とまで書いています。そして時間の記載も。「二三〇〇」。

正確な場所はわかりませんが、土浦海軍航空隊付近の湖岸――といったところでしょうか。





この日の作戦はたんに「空振り」で済ませられるものではなく、損失は中攻3機(木更津空2機・金華山沖不時着、木更津基地着陸時火災  4空1機・霞ヶ浦湖畔不時着)、零戦1機大破(加賀1機、土浦航空隊不時着)、搭乗員9名戦死(金華山沖5名、霞ヶ浦湖畔4名)。

そもそも、夜間に魚雷を抱いたまま着陸させるというのはどうなのか。
そのことが発端になり夜間着陸の準備ができていなかった他基地にまわった中攻1機と零戦1機までも事故を起こす結果に。


このとき加賀戦闘機隊の一員として出撃していた甲1豊田一義1飛曹の回想も参考までに。
『情報により加賀の戦闘機隊も敵空母を攻撃する掩護をして太平洋を東に飛んだがとうとう敵を発見することが出来ず引返したときは日没後で館山飛行場の発見どころか着陸をする飛行場は灯火管制の為見当もつかなく暫く関東周辺の海軍飛行場とおぼしき地点の上空を飛んでいたところ飛行場らしき地点に点灯されたので高度を下げてその上空を通過して確認し燃料も少ないので飛行場の場周灯を頼りに着陸したのであるがまかり間違えば命はなかった事と今もって思って居る。大体夜間の着陸には指導灯といって飛行機を着陸角度に乗せるための設備が必要なのであるが緊急な着陸であったので間にあわなかったのであろう』


中攻隊は木更津出発から魚雷を抱いたまま8~9時間飛び続けての夜間の帰着。
みな、燃料ギリギリの中、真っ暗な中を上空で旋回待機させられ、どんな心持ちだったろうと、想像するだけで胸がキリキリします。














検討するために参考にしたものを以下に挙げておきます。
行動調書はアジア歴史資料センター。
※木更津空と三沢空索敵隊の編制表は氏名が間違っていたため訂正して差し替えました。
20220224 2244


【木更津空の行動調書より】
※アジ歴の木更津空の行動調書には、一緒に出撃した4空の編制も書かれています。
ここの編制表は分けています。

行動経過概要
1230 基地発進22機
1245 六空戦闘機隊ト合同上空■■(発進?)勝浦ニ向フ
1300 勝浦上空ニテ加賀戦闘機隊十二機と合同予想戦場ニ向フ
1530 陸攻二機誘導ノモトニ戦闘機隊引返ス(六空12機、加賀6機)
1535 木空ノ八七度四八○浬ニテ各中隊散開視界内ニ保チツツ索敵
1538 二中隊三小隊三番機左発動機不調ノタメ引返ス
1545 視界不良ノタメ各中隊分離シ中隊毎ニ索敵進撃
1633 一中隊ハ1200ノ敵母艦ノ推定位置ニ向ヒ附近海面ヲ捜索セシモ敵ヲ見ズ帰途ニ就ク
1628 二中隊木空ノ81度600浬ニテ反転帰途ニ就ク
2015 ニ、三中隊帰着
2100 一中隊帰着 敵ヲ見ズ
2100 戦闘機隊全機帰着但加賀零戦六機ハ霞ヶ浦方面ニ不時着内一機大破搭乗員軽傷
2300 中攻隊四空中攻一機土浦航空隊付近ニ不時着内一機大破搭乗員四名戦死三名重傷 木空中攻一機発動機不調引返シタル後行方不明(木空中攻一機着陸ノ際脚折損炎上) 戦死5名



金華山沖不時着機の生存者は久保雄一1飛曹、島田忠幸2飛曹
戦死者は浜田勇雄3飛曹、森本五郎2飛、細川正己3飛曹、三輪道夫1飛 (Kさんご教示)
戦死者5名ならもうおひとり戦死されているということになりますが、瀬野辰正1整は同年4月25日以降の木空の編制表にお前があります






【4空行動調書より】
同日の4空の行動調書の方は、木更津空の編制は書かれておらず、自隊5機の編制のみ書かれています。

行動経過概要
1230 flo×5木更津空基地発進
1520 2/2D発動機故障引返ス
1630 帰途ニ就ク
2000 木空上空着、着陸不能ノタメ霞空ニ向フ 3/1D木空着陸
2200 1/2D墜落(霞空ノ40度10浬)
2230 一小隊二機霞空着

大破1、戦死4、重傷3









【三沢空の行動調書より】

行動経過概要
1245 木空発進
1300 六空加賀fc隊と合同進撃
1530 fc隊誘導機二機反転セシム予定地点ニ至ルモ敵ヲ見ズ
1630 帰途ニ就ク
2100 木空上空着着陸地点飛行機火災ノ為霞空ニ向フ
2225 霞空着 19日0530木空帰着

1255 木空発進攻撃隊ニ合同スベク八五度六五〇浬迄進出ス
1525 味方潜水艦ヲ認ム粟田丸ラシキモノヲ認ム砲撃ヲ受ク
1644 攻撃隊引返スノ電報ヲ■ケ■(索?)敵ノ要領ニテ第■コースニ入ル
2225 木空上空着
2255 霞空着

1245 木空発進
1535 攻撃隊ト分離戦闘機誘導隊トナリ帰途ニ就ク
1930 木空帰着

3小隊分、1小隊、2小隊、3小隊の分が順番に書かれていると判断したので、間に空白行を入れて見やすくしてみました。
(1小隊2番機の偵察員・天野環さん手記参照、Tさんご教示)





時間が前後しますが、三沢空は午前中から飯塚豊中尉指揮の3機の索敵隊も出しています。
木更津基地で最初の事故が起こった時間推定の参考になるかと思うので挙げておきます。
※木更津空も午前中の早い時間に索敵機を出しているが、今回の検討には関係ないように思うので挙げていない


1135 木空発進 第一索敵機
1519 第二[コース]ニ入ル
1531 第三[コース]ニ入ル
1545 木空ノ八〇度六六〇浬ニテ成田丸ノ炎上中ナルヲ発見
1620 味方攻撃隊六機ト遭遇
2020 木空帰着

1142 木空発進 第二索敵機
1430 木空ノ八八度六四八浬ニテ粟田丸ラシキモノヨリ砲撃ヲ受ク
1545 第二[コース]ニ入ル
1600 第三[コース]ニ入ル
2110 木空上空着
2240 霞空帰着

1139 木空発進 第三索敵機
1405 味方潜水艦一隻ヲ認ム
1443 更ニ同上
1450 同上
1513 第二[コース]ニ入ル
1525 第三[コース]ニ入ル
1900 木空基地帰着












3隊の行動と、三沢空索敵隊の行動を時系列でまとめてみました。
わたしの疑問点など加えています(考えをまとめるために作ったものです)。




回想や行動調書によって食い違いが見られたため、反転地から推定できる帰着時間や、当日の天候状態(周辺の明るさ)などを検討するために作ったのですが、下書き段階で文章量が膨大になりすぎたので今回はばっさりカットしました。作った図だけ載せておきます。

当日の関係地

霞ヶ浦航空隊付近地図。

17年4月18日の月は月齢2.5(絵は特別計算して描いたものではありません、イメージです)。
木更津基地のある千葉の月の入は2035→満月カレンダー




※画像は9期生ご遺族、浅川さんご家族ご提供
※ご教示いただいた、Yさん、Kさん、Tさん、予科練平和記念館・豊崎尚也さん、ありがとうございました。