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今日のおやつ2020年03月26日 21時41分22秒

生協で見つけました。

長崎のネオクラシッククローバーってお店の雲仙ふわふわロール

スポンジはスフレで、中の生クリームはあっさり。
フルーツ入りです。

半解凍状態で食べました。

おいしかったです。

春海が全部食べてしまわないか心配(笑)



春海は外出自粛を順守して一日家でゴロゴロしています。

折れた肋骨にとってはいいかもしれませんが、そろそろ運動しないとヤバイと思うんだけど。

ストレッチでもすればいいのにと思います。

乙9期 大畠久利さん2020年03月26日 22時01分10秒

お名前の読みは「おおはた ひさとし」さんかなと思います。

九期生名簿では和歌山出身、ご本人の寄せ書きも「紀州」になっているのですが、わたしが把握しているところでは広島出身です。
『予科練外史』の名簿でも広島出身です。ただ、倉町先生は「和歌山の産」と書いています。
本籍と実際の住所の違いかな? 


偵察、艦上機。

入隊時の氏名入り班写真、14班。




以下、ラグビーの試合を観戦中の大畠さんですが、上の2枚と下の1枚は別の試合かも。



↓大畠さん部分拡大




操偵検査。


予科練卒業直前。


おもいで
同県同市の出身で、入隊のときも汽車で一緒に行ったね。重厚そのものの人格、いつも敬服していた。戦死の公報が入ったとき、君の実家のお兄さんが俺の家に知らせてくれたとか。あとで聞いて感無量だった。

入隊時隣班の伍長だった君。優秀だった。君の人格にはいつも頭が下がったものだ。

分隊でも兄貴の風格があった。「キューリキューリ」と皆から言われても笑って黙認する君だったね。
普通学は非常に優秀だった。

国語の岡教官「九期にはなかなか良い名前があるな。コメモリのボクだとか、オオハタケのキウリなんか誠に秀逸だ」彼は大人の風格があって靴下の穴など、てんで問題外。









飛練鈴鹿。
奈良行軍。

運動会。

倶楽部かな?

博多飛練。
卒業集合写真より。

本間猛さん(旧姓石塚)の『予科練の空』に大畠さんのことが書かれています。

「9期には、なかなかよい名前の持ち主がいるね、ことに大畠久利とか、米盛朴なんてのは秀逸だし、また、大石芳男とか加藤勝正なども、歴史的なよい名である」と、国語の岡教官から褒められたが、これらの人々は、名前もよかったが、みんな、その人となりも個性が強く、怜悧な頭脳を持っており、その働きも立派であった。
 大畠久利は痩身長躯で和歌山の産、世俗に超然としたところがあって、みんなに、キュウリ、キュウリと呼ばれても、笑って対応している。トン・ツーの無線通信には特異な才があったとみえて、いつも満点だし、それでいて服装などにはとんと無頓着、背が高いのでズボンはツンツルテン、靴から約十七センチもあがっていても、沓下に大きな穴があいていても平気であった。授業中に居眠りもよくしたが、それでいて頭は犀利で、普通学はいつもトップ・クラスであった。級友は、彼が居眠りしながらも、教官から指名されると、的確な答弁をする才能に驚いていた。
彼は昭和十七年八月二十四日、航空母艦「龍驤」で第二次ソロモン海戦に参加し、ついに帰らなかった。「龍驤」も、この海戦で、ガダルカナル北方海域で沈んだ。

ズボンがツンツルテン・・・・という逸話を実証しようと足元が写っている写真を探してみたのですが、特にズボンの丈に違和感はありませんでした。
どこかの時点で急に身長が伸びてサイズが合わなくなっていた時期があったのかもしれませんね。写真には残っていませんでした。




予科練卒業時の寄せ書き。
お名前はないんですが、たぶん「久利」(音でキュウリ)と「胡瓜」を掛けているのだと思います。






17年8月24日  龍驤  ソロモン

と、わたしはブログの戦没者名簿に書いています。


九期生名簿にもそう書いてあります。(場所は「ソロモン群島」)


けっこう確度の高い資料には、
「ガダルカナル基地を強襲 敵戦闘機と交戦中被弾自爆戦死」と書かれています。



龍驤は17年8月24日の戦闘行動調書が残っています。
そこにはガ島に出撃した艦攻6機の搭乗員の氏名が出ていますが、そこには大畠さんのお名前はありません。

「どうなっているんですかね?」
といつものようにKさんに尋ねてみたところ、『予科練外史』にこんな記載があるとご教示いただきました。

第二次攻撃隊員の大畠久利二飛曹(実際は3飛曹)(乙九)は「龍驤」が攻撃を受けた時、甲板で待機していた。上空直衛の戦闘機に、敵機の方向を知らせるために、発着甲板上で布片を持って合図をしている作業中に爆弾を受けたのであった。遺体の顔面は識別困難なほどに負傷していたという。

『予科練外史』の9期関連箇所は全部チェックしているつもりだったのですが、ここは見落としていました。
あらためて衝撃を受けています。

「空だ!!男の散るところ」

予科練卒業の寄せ書きにそう記した大畠さんの最期が、艦上で爆撃を受けて・・・・だったとは。


倉町先生がこの話をどうして知っているのか、つらつら考えたのですが。
もしかしたら山内敏昭さんが一緒にいたのかな?
とも思いました。
6月の龍驤の行動調書に、山内さん、大畠さんのお名前も見えます。
山内さんは10月26日の南太平洋海戦で瑞鶴艦攻隊から出撃して戦死されているのですが、いつ瑞鶴に転勤したのかは、わたしはつかんでいません。
もしかしたら、8月24日、第二次ソロモン海戦、龍驤沈没時は山内さんは大畠さんと一緒に龍驤で待機をしていた(ガ島攻撃6機の編制には入っていない)のかな、という気もしています。
山内さんが大畠さんの最期を目撃し、直接か間接か、倉町先生に伝わったのかな?
それとも他の予科練出身者が先生に伝えたのかな。


※画像は9期生ご遺族、ご家族ご提供