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松田憲雄『雷撃機電信員の死闘』光人社NF文庫2020年01月14日 10時40分54秒

森史郎さんの瑞鶴、読んでいます。
17年10月26日です。瑞鶴の艦爆隊と翔鶴の艦攻隊がホーネットを攻撃中です。
出てくる攻撃隊の人たちがどうなるかわかっていながら読むのはつらい・・・・。



読んでいたら、翔鶴艦攻隊の登場人物に聞き覚えのある人が出てきました。
電信員の松田憲雄3飛曹です。
本棚を探したら手記がありました。
南太平洋海戦時の記述をご本人はどう書いているのかな・・・・と思ってパラパラめくっていたら、9期生のお名前が。

翔鶴艦攻隊時代で、覚えている下士官の人・・・・と名前を挙げている中に村上守司さんのお名前がありました。
松田さんは13年6月に海軍に入ったそうで、13年6月入隊の9期とは「海軍歴同期」ですからね。←※Kさんからの指摘で訂正しました
階級も一緒だし。
村上守司さん。予科練時代。
南太平洋海戦で戦死。



松田さんは南太平洋海戦を生き延び、教員配置に。
大井空上海分遣隊に勤務します。
「上海時代の同年兵教員で、遠藤秋章一等飛行兵曹(乙九期出身)という人がいた。同じ教員同士で気があってよくお喋りをしたのだが、この人は、中肉中背、色白の坊ちゃん風で、おとなしいが一度やりかけたことはやり抜く責任感の強い男だった。
彼は、十九年十一月、海軍飛行兵曹長に任官、終戦時には、第七〇一海軍航空隊「彗星」艦爆隊隊長機の偵察員配置だった。
八月十五日正午すぎ、第五航空艦隊長官宇垣纒海軍中将は、部下特別攻撃隊員の後を追って沖縄の米軍艦船に特別攻撃をかけることを決心して、「彗星」艦爆隊中津留大尉に出撃を命じた。
「彗星」は二座機、操縦は中津留大尉、後席は遠藤だから、長官の乗る席がない。長官は遠藤に、
「自分が乗るから降りるように」と命じた。
しかし、遠藤はこの命令を拒否して譲らない。押し問答の挙句、狭い後席に太った長官と遠藤が同席で出撃、敵艦に突入して戦死したという。戦後、中島、猪口両氏共著の『神風特別攻撃隊』を読んで、このことを知った。
すでに戦いは終わっていた。彼はこれを知りながら、若い情熱の赴くままに長官と行動を共にして散っていったのである。上海時代を知っている私は、
「遠藤、よくやったと言ってやるのが本当だろうが、惜しいやつを死なした、生きていて欲しかった」と語りかけた。」

松田さんは「十九年十一月、海軍飛行兵曹長に任官」と書いていますが、これは間違いだと思います。
遠藤さんは戦死時飛曹長ですが、いつ飛曹長に進級したのかはわたしは把握していません。が、何もなければ9期は20年5月1日に飛曹長進級なので、遠藤さんひとりが19年11月に飛曹長に進級したというのは考えづらいです。
遠藤秋章さん。3飛曹時代。

先日もテレビに8月15日の出撃時の写真が出ていて、遠藤さんの姿がそこにありました。
わたしは松田さんが言われるように「若い情熱の赴くまま」征ったとは思っていません。




それから762空攻撃708時代の記述。
台湾沖航空戦の際、
「攻撃七○八飛行隊でも、藤原などの同年兵や先輩、後輩の多くが自爆した」
と書かれていました。
松田さんの同年兵の「藤原」、フルネームは書かれていませんが、おそらく9期の藤原国雄さんのことと思います。

藤原国雄さん。飛練時代。


9期のことを調べ始める前に読んだ手記はもう一度見直す必要があるかも。
9期生が登場していることを見落としていました。




瑞鶴、南太平洋海戦に戻ります。



※画像は9期生ご遺族ご提供

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